本日は、滑川町にある城原城跡を再訪記録について書きたいと思います。
調査日は2019.01.23です。
わたしが熊谷市外の城館跡で、初めて訪ねたのが城原城跡でした。
時は、1984年でした。
当時はフィルムカメラの時代で、丘城、山城を見るポイントもわからなかったので、
酷い写真でした。
さて、城原城は森林公園南口近くの山田地区にあります。
近くに、山田下集会場というのがあるので、そこに車を止めさせていただきます。
山田下集会場は小さな山の脇にありますが、その山が城原城跡です。
問題は登る場所なのですが、通りがかりの燃料屋さんに尋ねたとこと、表通り沿いに行って尋ねた方がよいとのこと
だったので、山の裏側に回り込んでしまいたい誘惑を抑えつつ表通りを歩きます。
立派な屋敷神の祠をお祀りしているお宅の方が、庭木の枝打ちをしていたので、思い切って城原城について尋ねました。
城原城は、地元でも知られていない謎の城として有名です。
84年の時と同じように、「城ならば森林公園内の山田城跡のことではないか?」とのことでした。
一応手持ちの地図で所番地を示して尋ねますと、「この裏山に相違ないだろうが、城があったなんて聞いたこともない」
とのことです。
「申し訳ないが、山に登らせていただけないか」とお願いすると、快く、OKしてくれました。
「うちの隣のうちが、裏山の半分をもっている大地主だから、隣のうちにも話を聞いてみるとよい」と
アドバイスもいただきました。
わたしは、祠の後ろにある道を通らせていただきました。
84年時は初夏だったせいで、やぶだった印象しかありませんが、改めてきてみると、よく利用されているようで綺麗です。
念のため中腹で遺構を探します。堀のような痕跡もありますが、どうなのかぁ・・・という感じで弱いですね。
登り坂がたて堀にも見えてきますが、断定するには弱いですね。
小さな山なので楽です。
丸太の置いてあるこの場所は、削平された平場に見えます。
ここが84年に撮影した場所ですね。
さて、今回の調査はここから始まります。
山道の先には、平場があります。
山頂は広く削平されており、近隣の家の墓地があります。
これが、主郭でしょう。写真右側の盛り上がりは土塁と推定できます。
この主郭はかなり広いもので、小規模ながら城跡には申し分のないものだと思います。
稜線は南北に延びています。南に歩いていくと、ふもとに降りる坂道があります。
これは下から撮影したものですが、これは、はっきり虎口遺構とみてよいと思います。
この坂道には、途中に腰郭と思われる平場がついています。
このあたりを中心に、見てみましょう。
坂道を登ります。
虎口遺構と思われる場所を通過すると、主郭前に、一段低く削平された平場があります。
ここにも、土盛りのような、虎口とも思われる遺構が確認されます。
ここには、祭神不明のブロック製の祠があります。相当古いものだったのでしょう。
ブロック製なのは、祠の損壊を急ごしらえで対応したからでしょう。
主郭の東側は緩やかな傾斜ですが、この先は崖に近い急傾斜です。
どうも、最初に登ってきた小道によって、南北二つに分断されているように感じられます。
山上は複郭式になっていたのかもしれません。
主郭、南側の区画です。
また、南側には竹林があります。
竹林は広く、足元には大穴が開いていますが、これは遺構とは関係なく、タケノコを掘った後でしょう。
このあと、ふもとに降りて、南区画下にある旧家を訪ね、お話を伺いましたが、城原城のことについては
分りませんでした。
ちなみに、この裏山は入会地として馬が放牧されていたのだそうです。
城跡の平場が馬つなぎ場などに利用されていた例は、皆野町の設楽城跡と同じですね。
城原城の口碑については、もっときめ細かく行う必要があると思いますが、個人の力では
なかなか難しいでしょうね。
調査日は2019.01.23です。
わたしが熊谷市外の城館跡で、初めて訪ねたのが城原城跡でした。
時は、1984年でした。
当時はフィルムカメラの時代で、丘城、山城を見るポイントもわからなかったので、
酷い写真でした。
さて、城原城は森林公園南口近くの山田地区にあります。
近くに、山田下集会場というのがあるので、そこに車を止めさせていただきます。
山田下集会場は小さな山の脇にありますが、その山が城原城跡です。
問題は登る場所なのですが、通りがかりの燃料屋さんに尋ねたとこと、表通り沿いに行って尋ねた方がよいとのこと
だったので、山の裏側に回り込んでしまいたい誘惑を抑えつつ表通りを歩きます。
立派な屋敷神の祠をお祀りしているお宅の方が、庭木の枝打ちをしていたので、思い切って城原城について尋ねました。
城原城は、地元でも知られていない謎の城として有名です。
84年の時と同じように、「城ならば森林公園内の山田城跡のことではないか?」とのことでした。
一応手持ちの地図で所番地を示して尋ねますと、「この裏山に相違ないだろうが、城があったなんて聞いたこともない」
とのことです。
「申し訳ないが、山に登らせていただけないか」とお願いすると、快く、OKしてくれました。
「うちの隣のうちが、裏山の半分をもっている大地主だから、隣のうちにも話を聞いてみるとよい」と
アドバイスもいただきました。
わたしは、祠の後ろにある道を通らせていただきました。
84年時は初夏だったせいで、やぶだった印象しかありませんが、改めてきてみると、よく利用されているようで綺麗です。
念のため中腹で遺構を探します。堀のような痕跡もありますが、どうなのかぁ・・・という感じで弱いですね。
登り坂がたて堀にも見えてきますが、断定するには弱いですね。
小さな山なので楽です。
丸太の置いてあるこの場所は、削平された平場に見えます。
ここが84年に撮影した場所ですね。
さて、今回の調査はここから始まります。
山道の先には、平場があります。
山頂は広く削平されており、近隣の家の墓地があります。
これが、主郭でしょう。写真右側の盛り上がりは土塁と推定できます。
この主郭はかなり広いもので、小規模ながら城跡には申し分のないものだと思います。
稜線は南北に延びています。南に歩いていくと、ふもとに降りる坂道があります。
これは下から撮影したものですが、これは、はっきり虎口遺構とみてよいと思います。
この坂道には、途中に腰郭と思われる平場がついています。
このあたりを中心に、見てみましょう。
坂道を登ります。
虎口遺構と思われる場所を通過すると、主郭前に、一段低く削平された平場があります。
ここにも、土盛りのような、虎口とも思われる遺構が確認されます。
ここには、祭神不明のブロック製の祠があります。相当古いものだったのでしょう。
ブロック製なのは、祠の損壊を急ごしらえで対応したからでしょう。
主郭の東側は緩やかな傾斜ですが、この先は崖に近い急傾斜です。
どうも、最初に登ってきた小道によって、南北二つに分断されているように感じられます。
山上は複郭式になっていたのかもしれません。
主郭、南側の区画です。
また、南側には竹林があります。
竹林は広く、足元には大穴が開いていますが、これは遺構とは関係なく、タケノコを掘った後でしょう。
このあと、ふもとに降りて、南区画下にある旧家を訪ね、お話を伺いましたが、城原城のことについては
分りませんでした。
ちなみに、この裏山は入会地として馬が放牧されていたのだそうです。
城跡の平場が馬つなぎ場などに利用されていた例は、皆野町の設楽城跡と同じですね。
城原城の口碑については、もっときめ細かく行う必要があると思いますが、個人の力では
なかなか難しいでしょうね。
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