青い空 銀の星から手紙が
届く
それは知らずに心に届き
明日への栞となるのだろう
てのひらに受けた銀粉が
はかなく溶けて 消えたと
しても
『冬の青空に舞う純白の
花びら』
風のない晴れ上がった空から、
突然花びらのように雪が舞い
落ちてくる。そんな経験はあ
りませんか。
「風花」というのは、遠くの
山で降っている雪が風に運ば
れてきて、晴天なのに舞い散る
さまが、まるで花びらのように
見えることをいいます。
風下の山麓などでよく見られる
現象で、気象的には雪の日に
数えられます。
はらはらと舞い、降りかかると
もなく消えるはかなさと、美し
い五感から、昔から俳句や和歌、
詩、歌などにもよく使われてき
ました。
王朝時代の歌人はこんなふうに
詠んで、まだ遠い春に思いを馳
せたようです。
冬ながら空より花の散りくるは
雲のあなたは春にやあるらん
清原深養父
つきよのうみに
いちまいの
てがみをながして
やりました
つきのひかりに
てらされて
てがみはあおく
なるでしょう
ひとがさかなと
よぶものは
みんなだれかの
てがみです
日本の女には、二通りしかない
ような気がする。ギャルかおば
さんか。あるいはミスかお母ちゃんか。
結婚する前は確かにお嬢さんだった
のに、二、三年もすると名実ともに
お母ちゃんになってしまっている
女性があまりに多い。
「女」がいないのだ。
コケティッシュな女はうんざりする
ほどいる。しかし媚びとセクシーさ
とは雲泥の差だ。
媚びというのは、表面にとってつけた
ひだひだ飾りだ。セクシーさは、内側
から匂いたつものだ。媚びはベトベト
していて不潔だが、セクシーさは、
軽やかで清潔だ。
媚びようと思えば媚びれるが、セクシ
ーにしようとしてもそうはいかない。
それはとってつけたように身につくも
のでも、テクニックでもないからだ。
仕事をしている女の人たちが、男たち
に混じってきちんとやっていこうと
したら、媚びは厳禁だ。「女を売らない
こと」だ。
「女」だということで世間が許して
しまうことに対して、甘えないこと
だ。
「女」を武器にせず、「仕事」の内容
を武器にするべきだ。
けれども「女」を捨ててしまっても
いけない。「女を捨てず」にがんばる
べきだ。
「女」を放棄したおばさんたちは、も
うおばさんですらない。おじさんだ。
男のおじさんたちより更に恥を知らな
い最悪のおじさんになり下がる。
なんでそう簡単に「女」を捨ててしま
えるのだろう?「女」で居続けること
は、こんなに素敵なのに。こんなに
ドキドキすることなのに。
鏡に映る自分の姿を眺めて、これは
もう男に見せられない躰だと「女」
を捨ててしまった例を知っているが、
なんてもったいない。
肉体が恥ずかしかったらダイエット
でも運動でもすれば良いのだ。あっさ
りとあきらめるのは、きっと怠慢で
ある証拠だ。
「女」を売らず「女」を捨てず、女で
あり続けることを楽しんでもらいたい。
幾千の電球が 通りを照らす
午前二時
その街には影がない
あるのは ただ
ネオンという名の 巨大な闇
―闇の色をした草の実―
「ぬばたま」は「闇」「夜」「黒」
などの言葉にかかる枕詞の一つ。
あやめの一種の檜扇(ひおうぎ)という
植物がつける果実のことで、その黒い色
から、夜や闇を連想させるようになり
ました。
ぬばたまの この夜な明けそ
赤らひく朝行く君を待たば苦しいも
/ 柿本人麻呂
この歌は、人麻呂が女性の立場で
朝の別れを歌ったものです。
夜が明けたらあなたは行ってしまう。
どうか朝よ、明けないで。
「ぬばたま」という闇と「赤らひく」
という暁とが美しい対照をなしています。
両手で顔を覆ったまま、あのひと
に呼びかけた。
日本にいるあのひとに?いいえ、
わたしを取り囲むこの暗闇と、肩
や膝に舞い降りてくる雪の、その
結晶の、すべての粒子の中に
棲んでいる、
今、ここにいるあのひとに。
ずっと、好きだった。
今までずっと、好きだった。
あなたに別の人との暮らしがあり、
あなたに別の人生があったとし
ても、わたしは、あなたがくれた
言葉を、想いを、決して忘れは
しない。
わたしたちは、ここではないど
こかで、別の惑星で、深くつな
がり、愛し合っていたのだと。
そんなおとぎ話を信じていたい。
今はそう信じさせて。
好きでいさせて。
お願いだから。
これからも、ずっと。
「若葉」 愛よりも優しく ―最終章―
あれから―――
男と女が出逢う。恋が芽生える。
けれども、どんなに相思相愛に
見える関係でも、ひとは同じ量
で愛し合うことは絶対にないの
だという。
どちらかがより多く愛し、どち
らかはより少なく愛するのだ。
別の言い方をすると、愛する役割
のほうと、愛される役割に、ほと
んど出逢いの最初の瞬間にわかれ
てしまう。
より多く相手を思っているほうが
愛する役割となるわけだ。
役割の傾向はつねに決まっている
のかと思うと、そうでもない。
自分自信の過去の恋愛を振り返っ
てみて、あのとき愛されるほうだ
った、しかし次のときには完全に
私がより多く愛する役割を演じて
いたと、思いあたる。
相手によってちがうわけだった。
私はどちらかというと、愛する
役割のほうをよけいに体験した
と思う。かぞえきれないほどの
片思いをのぞいての話。
相手はひたすら愛されて、いい
気持ちで、少し重荷で、安心しき
っていて、だんだん傲慢度をくわえて
いき、いよいよ冷淡になる。
相手のなかに理不尽な冷淡さがチラ
チラみえだすと、恋愛―――
少なくとも私自信の―――は、急速
に終わりに向かう。
あなたの愛の天秤は・・・!?