一生一度の出会い
わたしたちは、人と出会うとき、
仕事であれ、遊びであれ、
これが最後の出会いと思って、
心して、語り、触れ合っている
だろうか。
だいたい、忙しいとか、他に
用事があるとか、また会える
と思って、その出会いを
“ゾンザイ”にしていないだ
ろうか。
ソンザイは存在とも書く。
つまり人との出会いをなんと
なく、あるいは自分の都合で
いい加減に会っているのなら、
相手の存在、人格を軽んじて
いる。
さらに言えば人という存在は
限られた生命を生きているの
だから、
相手の生命さえ軽視している
ことにほかならない。
幸せは、誰にも奪えない。
幸せを失うのは、
君が、幸せの重みに
耐えきれなくなった時だ。
君は、
今、肩に重みを感じている。
その重みは、
不幸の重みじゃなくて、
幸せの重みだ。
重い不幸を背負っている人
と、交換した時、
はじめて今まで背負っていた
ものが、幸せの重みだったと
気づくのだ。
幸せって、
重たいものと気がつけば、
筋力トレーニングにも、
ダイエットにもなり、
いつのまにか、
健康な心身を手に入れる。
君の笑顔が見れるなら
いつでも喜んで・・・・。
今日は、ムっとしたこと。
悪口を、言われたこと。
今日は、ハッピーだった
こと。
悪口を、言わなかったこと。
悪口を言うと、
チャンスをなくす。
悪口を言われると、
チャンスがつかめる。
今日は、2つのチャンスを
つかんだ。
【占いは、恋に似ている】
と、いうよりも、
恋愛は占いに似ている。
恋愛そのものが、おみく
じなのだ。
恋そのものが、占いなのだ。
やってみないとわからない。
行動してみることで自分の
人生が開けてくる。
うまくいかなかったことが
自分自身の責任ではなく、
ただ星回りが悪かったんだ
と思えばいい。
そうすれば自分を自分で
いじめることがないはずだ。
占いは、勇気を援護しても
らうために使う。
会社と教習所は、
運転技術ではなく、
忍耐力を学ぶところ。
忍耐力は、
最大の運転技術。
カッとしない忍耐力こそ、
最大の運転テクニック。
会社という教習所もまた
同じなのです。
昔、ある村に山賊が襲って
くるとのうわさで、
村の若い娘を穴倉にかくし
た。
娘たちはふるえながらあたり
を見まわすと、
なんと老婆が一人まじって化粧
を直しているではないか。
一人の娘がいった。
「おばあさん、あなたまで、逃げ
かくれしなくてもいいじゃないの」
老婆は釈然として、答えた。
女は70歳から、
「今は熟女の時代、キャイーンの
ウド鈴木さんを見なさい」
出会ったときは、誰でも
挨拶ができます。
そつのない人は
「別れ際のあいさつ」がいい。
挨拶は、声でするものでは
なく目でするのです。
目が合わないのは、挨拶で
はないのです。
最後のあいさつは、相手の
名前を呼ぶこと、または、
その日の天候に合わせ、
相手を思いやり、”雪で足もと
がすべきやすいからお気を
つけて”とひと言添えて、
「別れ際の挨拶」は、テレ
パシーなのです。
男がもっとも幸福なときは、
なにか目的を定めて
追い求めてるとき
女の幸福は
自分が求められ、愛され
誉められてるとき
―――こんにちは。
わたしの背中に、伸びやかな
声が届いた。
――― はい。
と答えてふりむくと、そこに、
あのひとが立っていた。
それからゆっくりと、言葉が
やってくる。
――― 絵本をさがしています。
十二年という時間と距離が、一瞬
にして、埋まってしまう。
あのひとは、微笑んでいる。微笑み
の中から、たった今生まれたばかり
のような、言葉の花が開く。
―――もしかして、誰かと待ち合
わせ?
あのひとは、黒い、マントみたい
なコートを着ている。遊牧民のコ
ート。季節はずれ、ではない。
今は冬だから。外は比叡おろし
の吹き荒れる、冷たい季節だか
ら。
わたしは驚きのあまり、言葉を
失い、その場に立ち尽くしてい
る。
柔らかく、あのひとは言う。
―――― また、会えたね。