遅ればせながら、評判を聞いて『ユーリ!!! on ICE』某配信で12話を一気見しましたー!
うん、とても面白かったです。
一気見した後、もう一度12話見返してしまったー!
と、興奮はさておき感想をば。
さて、思ってたよりも正統派なスポーツ物だなぁ、というのが第一印象でした。
ライバルの存在や、努力・友情という基本ラインがきちんとしてる。
それから、周りの才能豊かな人々に比べて冴えない(と自分では思っている)主人公がカリスマ的な指導者に見出され、深い絆に結ばれ(恋愛に至る場合あり)才能を開花させる、というのは少女漫画のスポ根物(バレエや演劇含む)の王道だなぁ、と最初思ったんですよね。
でも、話が進むにつれて「あれ、ちょっと違うかな」と。
これ、主人公が優れた指導者の力で成長するって話じゃなくて、勇利とヴィクトル、二人の人間的な成長を描いた話なんだなって。
ヴィクトルは世界選手権5連覇もするようなとんでもねぇスケーターですけれど、コーチとしては勇利が言うようにまだ未熟なんですよ。
彼は、いまひとつ力を発揮できずにいた勇利の殻を破るために色々と働きかけるんですが、どうしても勇利のメンタル面の弱さはヴィクトルには理解しがたい。どうしていいかわからないといった感じなんです。
しかし、ヴィクトルは未熟さを自覚しつつ、勇利を丸ごと受け入れていくんですね。
それより方法がなかったというのもあるかもしれませんが。
そして、勇利を誰よりも信じることを選択した彼は指導者ではなくパートナーになってしまいます。
勇利の成長は、もちろんスケートの演技でも表現されていますが、「ヴィクトルはヴィクトルであって欲しい」というセリフに感じました。
この言葉は前半と後半で、ニュアンスが変わっていると思います。
前半は、”父親や友人や恋人という役割を演じるのでなく昔から憧れの人だったヴィクトルであって欲しい”というニュアンスが強いです。あくまでも憧れの人。
まだ自分というものを信じることができない勇利にとって、憧れの人が自分のそばにいることが彼のモチベーションになっている。他律的なんですね。
だから、憧れの人に見放されてしまうかもしれない、という不安も絶えず抱えている。
それが後半ではヴィクトルに丸ごと受け入れられることで、勇利は自分自身の強さを自覚していくんですな。
そしてヴィクトルは勇利にとってかけがえのない人になる。誰よりも大切な人。
だから、ヴィクトルの未来も考えてしまう。自分のコーチのままでいて欲しくない、ヴィクトルはヴィクトルであって欲しい、ということになるのでしょう。
ここで勇利は、ヴィクトルと同じ地点に自分の足で立っている感じがします。
二人の年齢の近さや、もともと勇利もトップスケーターの一人で同じステージに立てる力を持っているというのはあるんですが、指導者と競技者という関係を超えて共に成長し対等なパートナーに至る流れは、この時、この二人でしかありえない奇跡のようなものなんじゃないか、と感じました。
最終話のフリースケーティングシーンには、不覚にも涙ぐんでしまいましたよ。
しかし、これが女性スケーターと男性コーチの話だったら、古臭い印象を与えてしまったかもしれないなぁ。
インパクトのある「愛の力で強くなった自分を見て!」というセリフも、女性には言わせられないでしょう。
愛が女性のモチベーションの源泉であるかのような物語は繰り返し描かれてきましたからね〜。むしろ、恋愛”だけ”が女性の行動目的であると言わんばかりに。
また、二人の成長の物語ではなく、弱い女性を男性が導くといったステレオタイプな文脈で読み取られる可能性もある。
そういうわけで、男性/女性ではかなり描写に気を配らないと、対等なパートナーとしての関係が立ち上がってこないような気がします。
「ユーリ!!!」に登場する女性達が、愛を押し付ける男性達にことごとく「NO」を突きつけ、愛に自分を左右されることがない描写だったのは、そういう点で中々興味深かったです。
青春群像劇としても面白く、他のライバル達も、自分の信念や夢に従って競技に打ち込む姿がとても魅力的でした。
フィギュアスケートのスポーツとしての過酷さもよく表現されていたと思います。
それだけに若い選手達が、こんな風に余計なものを背負わされることなく、自分の望むように、自分のために力を発揮できる世界が本当に素敵。
でも、現実にこういう選手とコーチがいたら、面白おかしく消費されて潰されるんじゃないかと思えてしまうんですよね…。某女子選手が出産したときも、本当に嫌な取り上げ方をされていたのを思い出すと、ね…。
うん、とても面白かったです。
一気見した後、もう一度12話見返してしまったー!
と、興奮はさておき感想をば。
さて、思ってたよりも正統派なスポーツ物だなぁ、というのが第一印象でした。
ライバルの存在や、努力・友情という基本ラインがきちんとしてる。
それから、周りの才能豊かな人々に比べて冴えない(と自分では思っている)主人公がカリスマ的な指導者に見出され、深い絆に結ばれ(恋愛に至る場合あり)才能を開花させる、というのは少女漫画のスポ根物(バレエや演劇含む)の王道だなぁ、と最初思ったんですよね。
でも、話が進むにつれて「あれ、ちょっと違うかな」と。
これ、主人公が優れた指導者の力で成長するって話じゃなくて、勇利とヴィクトル、二人の人間的な成長を描いた話なんだなって。
ヴィクトルは世界選手権5連覇もするようなとんでもねぇスケーターですけれど、コーチとしては勇利が言うようにまだ未熟なんですよ。
彼は、いまひとつ力を発揮できずにいた勇利の殻を破るために色々と働きかけるんですが、どうしても勇利のメンタル面の弱さはヴィクトルには理解しがたい。どうしていいかわからないといった感じなんです。
しかし、ヴィクトルは未熟さを自覚しつつ、勇利を丸ごと受け入れていくんですね。
それより方法がなかったというのもあるかもしれませんが。
そして、勇利を誰よりも信じることを選択した彼は指導者ではなくパートナーになってしまいます。
勇利の成長は、もちろんスケートの演技でも表現されていますが、「ヴィクトルはヴィクトルであって欲しい」というセリフに感じました。
この言葉は前半と後半で、ニュアンスが変わっていると思います。
前半は、”父親や友人や恋人という役割を演じるのでなく昔から憧れの人だったヴィクトルであって欲しい”というニュアンスが強いです。あくまでも憧れの人。
まだ自分というものを信じることができない勇利にとって、憧れの人が自分のそばにいることが彼のモチベーションになっている。他律的なんですね。
だから、憧れの人に見放されてしまうかもしれない、という不安も絶えず抱えている。
それが後半ではヴィクトルに丸ごと受け入れられることで、勇利は自分自身の強さを自覚していくんですな。
そしてヴィクトルは勇利にとってかけがえのない人になる。誰よりも大切な人。
だから、ヴィクトルの未来も考えてしまう。自分のコーチのままでいて欲しくない、ヴィクトルはヴィクトルであって欲しい、ということになるのでしょう。
ここで勇利は、ヴィクトルと同じ地点に自分の足で立っている感じがします。
二人の年齢の近さや、もともと勇利もトップスケーターの一人で同じステージに立てる力を持っているというのはあるんですが、指導者と競技者という関係を超えて共に成長し対等なパートナーに至る流れは、この時、この二人でしかありえない奇跡のようなものなんじゃないか、と感じました。
最終話のフリースケーティングシーンには、不覚にも涙ぐんでしまいましたよ。
しかし、これが女性スケーターと男性コーチの話だったら、古臭い印象を与えてしまったかもしれないなぁ。
インパクトのある「愛の力で強くなった自分を見て!」というセリフも、女性には言わせられないでしょう。
愛が女性のモチベーションの源泉であるかのような物語は繰り返し描かれてきましたからね〜。むしろ、恋愛”だけ”が女性の行動目的であると言わんばかりに。
また、二人の成長の物語ではなく、弱い女性を男性が導くといったステレオタイプな文脈で読み取られる可能性もある。
そういうわけで、男性/女性ではかなり描写に気を配らないと、対等なパートナーとしての関係が立ち上がってこないような気がします。
「ユーリ!!!」に登場する女性達が、愛を押し付ける男性達にことごとく「NO」を突きつけ、愛に自分を左右されることがない描写だったのは、そういう点で中々興味深かったです。
青春群像劇としても面白く、他のライバル達も、自分の信念や夢に従って競技に打ち込む姿がとても魅力的でした。
フィギュアスケートのスポーツとしての過酷さもよく表現されていたと思います。
それだけに若い選手達が、こんな風に余計なものを背負わされることなく、自分の望むように、自分のために力を発揮できる世界が本当に素敵。
でも、現実にこういう選手とコーチがいたら、面白おかしく消費されて潰されるんじゃないかと思えてしまうんですよね…。某女子選手が出産したときも、本当に嫌な取り上げ方をされていたのを思い出すと、ね…。