気ままに 外歩き 町歩き 街道歩き

気ままに出かけて 写真に残る植物や風景etcを 備忘録として足跡に残しています。

旧奥州街道のデザインマンホール蓋(三戸町~青森市)その1

2018-05-14 18:02:05 | マンホール蓋
平成23年5月に日光街道を踏破し、翌6月に宇都宮宿を出発し旧奥州街道歩きを開始しました。
その後、東日本大震災の発生もあり、暫く中止し平成25年春から再開しました。
街道歩きは、春と秋のベストシーズンに各1回連続して5~6泊して歩いていますので、これまで延べ6年(実質31日間)をかけ、平成29年春に青森県三戸宿に辿り着きました。

そして今回、三戸宿(青森県三戸郡三戸町)をスタートし、5泊6日で青森宿(青森市)まで約100㎞を歩きました。
その間通過した自治体は、三戸町、南部町、五戸町、十和田市、七戸町、東北町、野辺地町、平内町、青森市の7町2市でした。
今回は、その間で撮ったマンホール蓋の内、デザインマンホール蓋に付いて整理してみます。

最初は、三戸郡三戸町です。
県立城山公園内にある天守閣風の建物「三戸城温故館」と桜がデザインされています。 ネット上には、左横にいるのは町の鳥「コノハズク」をデザイン化した町の公式マスコット「ぬかべえ」とありますが、三戸町のHPを検索しても「ぬかべえ」は表示されませんでした。
      

次は三戸郡南部町です。
青森県南部地方を中心に行われる冬の伝統行事で、田植え作業を唄と踊りで表現する「えんぶり」をデザインしています。
「えんぶり」とは、農具の「朳(えぶり)」にちなみ呼ぶようになったとか。昭和54年2月に国の重要無形民俗文化財に指定されています。
現在の南部町は、旧南部町、名川町、福地村が2006年1月1日に新設合併し出来た町ですが、街道歩きでは旧南部町しか通りませんでした。
  

次は三戸郡五戸町です。
中央に牧場を走る馬の親子、その周りを町の木「イチイ」の葉と実で囲んでいるデザインです。
現在の五戸町は、旧五戸町が平成16年7月1日に倉石村を合併編入しできた町です。
カラー版はこちらです。
         
ノンカラー版はこちらです。
  

旧三戸郡倉石村も通過しました。
中央に村の花「コブシ」、周りに村の木「アカマツ」で囲むデザインです。
こちらは、公共下水道設部ではなく、農業集落排水設備の蓋になります。
      
次は十和田町です。
現在の十和田市は、平成17年7月1日に旧十和田市と旧上北郡十和田湖町が新設合併して出来た市です。

十和田市では、二種類のカラー蓋を見付けました。
一つ目は、中央に旧十和田市章、周りに市の木「アカマツ」と市の花「ツツジ」がデザインされた蓋です。
こちらは、ノンカラー版を見つける事が出来ませんでした。
               

二つ目は、中央に馬の親子が走り、背景に市の木「アカマツ」と市の花「ツツジ」がデザインされた蓋です。
               

こちらはノンカラー版です。
  

七戸町以降は、その2.で整理します。   
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旧奥州街道歩き(小湊宿(西平内駅)~浅虫温泉駅)2018年春・5日目

2018-05-14 08:45:03 | 街道歩き
4月25日(水)街道歩き5日目、覚悟はしていましたが、やっぱり天気予報通り今日も朝から小雨模様となりました。
昨日の段階で、今回の目的地である青森宿(青森駅)まで残り23.6km程、この距離を一日で歩き最後の一日は弘前城でお花見だ!!と余裕だったのですが、雨空を見るとそうは行きそうもありません。

昨日同様、朝食を6時30分から採り、青森駅7時52分発の電車に乗り込みます。
前日打ち止めとした青い森鉄道・西平内駅に8時20分に到着、駅でポンチョを着て傘を用意します。
青森市内は雨足が強くありませんでしたが、東に向かうほど雨が強く、横殴りとなり、西平内駅を出発する時は街道歩きを中止しようかと思う状況になりました。

そんな事で、いつもスタート地点で撮る写真も忘れ、傘を両手でしっかり持ち、時に傘がおちょことになるのを元に戻しながら街道歩きスタートです。
国道4号線に出て歩きますが、車の水しぶきが飛んできて非常に歩きずらい状況です。少しの間ですが、旧道に分岐するとホッとしますが、直ぐに4号線に戻ります。
駅から3km弱歩いたところで右に分岐し県道9号線に入ります。そこから浅虫温泉駅まで4号線を通らず、車がほとんど通らない県道を4km程歩く事になります。

この間、風雨が増し、歩くには厳しい状態となって来たので、バス停の待合小屋を見付け一時避難をしました。ここで、小1時間雨宿りをし、少し風が収まって来たのを見て出発します。何と、この間1枚も写真を撮っていませんでした。
1時間程歩くと目の前が開け、陸奥湾が飛び込んで来ます。
              
手前が4号線、白根崎方向(島は「裸島」)を写しています。
「裸島」には伝説があり、
昔、里で母親が幼いわが子を木陰に寝かせ畑仕事をしていた時、一羽の大鷲が飛来、眠っているわが子をさらって裸島の頂上に下ろし羽を休めていた。気づいた母親は狂乱し、素手で岩を登ろうと必死で岩肌をひっかいた。元来滑らかな岩だった裸島もその時側面が欠き削られ、母親の血で染まり今の形になったといわれている。母の愛情の貴さを物語っている島となっている。(浅虫温泉HPより)

しばらく進むと、大きな櫓が見えてきます。櫓には「ほたて広場」と書かれています。
               
こちらの施設は、
むつ湾で水揚げされる栄養満点で旨みたっぷりのほたて貝を中心に、青森県内で捕れる魚介類、並びにその加工品を販売・宣伝する、青森県の魚介類に関する情報の発信基地とHPにあります。

1階の販売スペースでは、「ほたて」をはじめ、水産加工品、農産物、おみやげ、そしてホタテエキスが入ったソフトクリームなどが売られ、
                  
2階展示スペースでは漁業の歴史資料やホタテ養殖の模型、平内町名誉町民「高橋竹山」さんの紹介等があります。
           
1階にあった「ほたて広場食堂」は別棟に移るようで、新たに建物が作られ、今は開店していると思われます。

そして街道歩きに戻ると、ここは「土屋御番所」(このあたりは旧奥州街道の要衝にあたり、かつては黒石領と弘前藩領の境であるため、口留番所が設けられていた)が置かれていた場所で、案内板があります。また、現在の道路と旧奥州街道の案内板もあります。
           
雨が止む気配がありません。
街道歩きを再開し、1.5km程歩いたところで奥州街道の標柱と浅虫温泉の案内板が目に入ってきます。
               
このまま街道歩きを続けるか、中止するか、考えどころです。
雨さえ上がってくれたら、残り16.3km程、まだ時刻は11時30分前なので十分に青森宿にゴールできる時間です。
そこで、左手に見える「浅虫水族館」で雨宿りがてら見学し、雨が止んでいたら街道歩きを継続、雨が降っていたら浅虫温泉駅まで歩き今日の街道歩きを打ち止めとする事にしました。
               

      
1時間程見学し水族館を出ると、残念ながら(幸い?)雨は降り続いているので、街道歩きはここで打ち止めです。
駅まで歩き、駅近くにある道の駅「浅虫温泉」に入り昼食を採りました。こちらの施設には、5階に展望温泉施設もありゆっくりしたいところですが、ホテルにも温泉施設があるので14時過ぎの電車に乗って青森に戻りました。

こちらは道の駅から見える「湯ノ島」です。
               

本日の予定歩行距離23.6kmでしたが、雨のため浅虫温泉駅で打ち止めとしたため7km程になったでしょうか。
歩数計は、22,560歩を示していました。
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旧奥州街道歩き(野辺地宿~小湊宿(西平内駅)2018年春・4日目

2018-05-09 12:36:04 | ぶらり散策
4月24日(火)街道歩き4日目、今日は朝から小雨模様です。
自宅を20日に出発する時から、今日と明日の天気は雨の予報となっていましたが、晴男を自負する私でも変える事は出来ませんでした。
朝食を6時30分から採り、青森駅7時52分発の電車に乗り込みます。

街道歩きに1週間程出かけると、必ず1~2日間は雨に降られるので常に雨具は持って出かけます。
雨対策として、折りたたみ傘とポンチョを持ち、気温も下がっているので上着を一枚余分に着ます。
前日打ち止めとした青い森鉄道・野辺地駅に8時39分に到着、駅でポンチョを着て出発です。
               
駅前通りを進み、国道279号線に立ちます。野辺地川にかかる橋を渡り、野辺地町役場の方向に進むと野辺地宿に入ります。
役場近くで、奥州街道の標柱を見付け街道筋を確認、その近くで神社(野辺地神明宮)を見つけ、ルーチンとしている旅の安全祈願を行います。
こちらの鳥居の色は白色です。私は、鳥居は朱色との先入観を持っていましたが、よく考えると白木や石の鳥居(いづれも白色)は見ます。戻って調べてみると、朱色を使うのは仏教の考えから来るもので、「神仏習合」の時代からの鳥居か、仏教の考え方を融合し作られた鳥居のようです。
  
しばらく進み、左に折れて県道243号線に入ります。正面に、今度は朱色の大きな鳥居が目に入って来ます。
               
野辺地八幡宮です。御祭神は誉田別命(応神天皇)、近江出身の林善成という者が、関ヶ原の合戦に敗れたのち、修験に身をやつして当地に落ち延び、当神社を開いたと伝えられているそうです。
境内には、天満宮、金毘羅宮も祀られています。狛犬は、参道、拝殿前、天満宮、金毘羅宮の四カ所に奉納されています。
  
一番古い狛犬は、参道にあるもので昭和12年9月に奉納されています。
  
街道を進み、JR東日本の大湊線の踏切を渡ると野辺地港、常夜燈公園の案内板があるので、街道から右手に折れ向かいました。
公園の手前に、外国船の発見・監視をするため南部藩によって設けられた施設「港遠見番所跡」の案内標柱があります。
   
街道に戻り、野辺地川を渡り鳥居平地区に入ると右手に「野辺地戦争戦死者墓所」があります。
明治元年(1868年)の戊辰戦争の際、この付近で盛岡藩と官軍弘前藩との戦いがあり、その時戦死した弘前藩戦死者のうち27を祀る4基の墓石が建てられています。
  
右手に陸奥湾を見ながら進み、馬門地区に入って行きます。この地区は、ホタテの養殖が盛んのようです。
          
さらに進むと国道4号線と合流します。
               
その少し先が野辺地町と平内町との境界です。その境界の手前右側に、高札場と馬門番所が再現されていまます。
馬門番所は南部藩が津軽藩の藩境に設けた施設です。
  
しばらく進むと、4号線から左手に分岐し旧道に入りますが、狩場沢駅の少し手前で再び4号線に戻ります。
               
駅を通過した先に「ボンネット」と書かれた喫茶・レストランを見付けました。12時前でしたが「平内ホタテ活御膳」の旗が目に入り、昼食時間としました。
          
13時過ぎに昼食を終え出発、4号線を進みます。途中、「明治天皇御休跡碑」を見たり、口広地区では少し旧道に入り「諏訪神社」に参拝したりし、清水川駅でトイレ休憩をとります。
      
駅から少し進むと4号線から右に折れしばらく旧道を歩きます。左手に神社が見えたので立ち寄ると「清水川八幡宮」でした。
万治2年(1659年)の薬師堂、元禄元年(1688年)八幡宮創立、御祭神は応神天皇。嘉永元年に御堂・神楽殿を再建とありました。
こちらの神社で、私は初めて狛馬を見ました。昭和36年5月に奉納されていました。
           
4号線と合流し、清水川を渡りしばらく進むと、左側に平内町パーキングエリアがあり、その前に青森県歴史の道整備促進協議会が設置した奥州街道の標柱と案内板があります。こ小雨は降り続いています。冷えるのでトイレ休憩をとります。
           
また暫く進み、青い森鉄道の高架橋を渡ると4号線と別れ、右に延びる旧道を進みます。沼館地区から小湊地区に入ると103番目小湊宿となります。
時刻は16時前、ここで打ち止めとするか、次の駅まで歩くか思案しました。
電車の時刻を調べると、度良い電車が無いので次の西平内駅まで歩く事にしました。
その前に、駅近くにある「平内町歴史民俗資料館」に寄りました。
           
入館すると、津軽三味線を全国に広めた第一人「初代・高橋竹山」の姿が目に入ります。高橋竹山はこちら小湊の出身です。
また、敷地内には「平内代官所跡地」の標柱が立っています。

街道に戻り進むと、平内町役場の前に「竹内家跡」と「明治天皇行在所跡」の標柱があります。
竹内家跡とは、江戸時代の豪商竹内与右衛門の家があった所で、明治天皇が東北巡幸の際にその屋敷に宿泊したようでです。
               
街道を進むと4号線をぶつかりますが、旧道は4号線を渡りしばらく進んで右に折れます。平内中央病院に到着したのが16時30分前、その脇の道を進みますが、ここに奥州街道の標柱があり旧道を歩いているのを確信しました。さらに旧道を進むと、平内町藤沢地区で右に直角に折れ4号線と再び合流します。

4号線を進むと右手に西平内駅が見えてきます。
電車の時刻は17時27分、こ小雨が降るなか昨日同様にピッチを上げます。
そして今日も何とか電車に間に合い青森駅に向かいました。

本日の予定歩行距離19.7kmでしたが、一駅余分に歩いたので30km程になったでしょうか。
歩数計は、43,926歩を示していました。
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旧奥州街道歩き(藤島宿(十和田市)~野辺地宿)2018年春・3日目

2018-05-08 14:42:51 | 街道歩き
4月23日(月)街道歩き3日目、今日は薄曇り、気温も10℃台となり、さわやかな街道歩きが期待できます。
朝食を6時30分から採り、7時過ぎには街道筋となるホテル前の国道102号線に立ちます。
今日は、今回の街道歩きで最長の距離30km程を歩く予定、宿数は二つ101番目七戸宿、そして102番目野辺地宿です。

十和田市は、安政6年(1859年)に新渡戸傳翁が不毛の原野であった三本木原台地を開拓、「碁盤の目」に整然と区画された「美しいまち並み」が建設されました。
その様な事から街道筋は真っ直ぐに延びています。
               
出発して直ぐに、左手に赤色の大きな鳥居が目に入って来ます。今日は、こちらの三本木稲荷神社で旅の安全祈願をしました。
               
少し進むと稲生川にかかる稲生橋を渡ります。
稲生川は、十和田市開拓の祖新渡戸傳翁が不毛の原野であった三本木原台地に、奥入瀬川から上水した人工河川です。
また、この近くには三戸と十和田を結ぶ十和田観光電鉄の十和田市駅があったようですが、平成24年4月に廃線となったそうです。
         
さらに20分程進むと右手に大きな樹木「土手山のケヤキ」が目に入って来ます。このケヤキの大木は松前藩主が参勤交代の折りに植えたと伝えられています。相坂から洞内茶屋まで奥州街道沿いの風雪が強く当た箇所に、高さ7尺(約2.1m)ほどの土手を築き、その上に木を植え風雪を防いだとの事。その土手が最近まで残っていたことから、土手山の地名が生まれた。(案内板より)
               
洞内(ほらない)入口交差点で国道4号線と合流、少し進むと左手に「真登内(まとぢ)一里塚」が現存する。残念ながら、昭和30年代の用水路建設のため西塚を失っている。
一里塚の先には、久々に見る「奥州街道道標」が建てられ、道標には「至 江戸日本橋百九拾参里拾八町」とあり、右は「至 蝦夷地松前 只今測量中ニ付候」と刻まれている。また、その裏手は小さな日本庭園が造られている。
           
その先、洞内小学校を過ぎ大沢田地区に入ると、所々に見られる奥州街道名残りの松並木「馬洗場の松並木」が近づいてきます。
                 
この地点で、歩き始めて2時間程、時刻は9時30分になります。
暫く進むと、街道筋は4号線から左に分岐し十和田市と七戸町の境界となります。
七戸宿に入る少し手前に蒼前神社があります。御祭神は保食神、大正5年に盛田信家の先代によって建立と伝わるそうです。
高瀬川(七戸川)に架かる七戸橋を渡ると、旧奥州街道98番目の宿場・七戸宿に入ります。
                 
写真は、宿内で見かけた盛田庄兵衛㈱の酒蔵「駒泉」と大町桂月文学碑です。
           
宿内を進み七戸城跡に登城しました。七戸城は、七戸南部氏の代々の居城で、往時の曲輪、土塁、水濠、空堀などが現存しています。
城跡にある柏葉公園の桜は満開、神明神社の狛犬さんも出迎えてくれました。
          

  
七戸宿を抜け、途中の十字路を左折し、なだらかな坂道を登って行くと国道394号線、さらに進むと国道4号線と合流します。
この間、日本橋から174番目の一里塚があった「天王一里塚」の説明版を見付けました。
               
合流地点から少し進むと道の駅「しちのへ」、「七戸文化村」が左手に見えてきます。
          
東北新幹線の「七戸十和田駅」は道の駅からも見えます。
時刻は12時少し前、ここまでで約14kmを歩いた計算です。ここで、少し休み、昼食を採り後半につなげていく事にします。

後半は、計算上で16km程となります。
これまでの平均時速3km程で計算すると5時間強、出発が12時30分過ぎなので野辺地宿の到着予定時間は18時頃となってしまいます。
七戸十和田駅を左手に見ながら、新幹線の線路を高架橋で渡ります。

右手に青森県営農大学校の広い敷地が続き桜が満開です。そしてここにも奥州街道の標柱と案内板があります。しかし、4号線は猛スピードの車が絶えず通過するので横断をあきらめました。左側には七戸の松並木が続きます。
  
大学校の隣は、サラブレッド系競走馬の名門牧場として知られている諏訪牧場が続きます
途中、旧街道に分岐するところもありますが、ほぼ4号線をたどって歩きます。
1時間弱歩き、七戸町道ノ上地区に来たところで、日本橋から175番目の「道ノ上一里塚」の案内板を発見しました。
               
道ノ上地区から45分程進むと前方に坪川に架かる坪橋が見えてきます。橋を渡り、総合衣料「いいづか」さんの店で4号線から分岐し旧道に入ります。この辺りから4号線と離れて行くので、奥州街道の痕跡が無いと不安になってきます。
そんな時に、日本橋から176番目の「柳平一里塚」の案内板を発見し、ホッとする気持ちになりました。
  
県道245号線を渡り、道なりに進んで行くと千曳神社追分石(追分にある千曳神社追分道標で、中央に千曳神社、右 千曳、左 野辺地と刻まれている)を発見、進む道は良さそうです。
  
尾山頭地区で、舗装道は大きく右にカーブします。
事前の調べでは、旧街道は右にカーブする舗装道ではなく、直進する舗装していない山道となります。また心配しながら登って行くと右手に上北自動車学校が見えてきました。街道筋を進むと「尾山頭茶屋跡」の案内板があります。
  
また一安心して進むと雪山が見えてきます。これまでかと思いながら近づくと除雪した雪の置き場があったようです。脇を通り、4号線の高架下を潜り、千曳地区に入って行きます。
  
この辺りは東北町となります。千曳小学校前を通る旧街道をむと左手に「親巡蹟」があります。明治9年に明治天皇の東北巡幸の際に野立てをされた場所のようです。
石坂信号で4号線と合流します。4号線を進むと野辺地町に入ったようです。
  
下調べで旧街道は、野辺地IC.を迂回する形でIC.の手前で4号線と分かれ旧道に入ります。
写真左.が分岐点ですが、よく観察すると通れない感じがするのでそのまま4号線を直進しました。
ところが、歩道が無く信号もなく、またIC.から降りて来る車が4号線に合流するので、渡るのに大変な思いをしました。
           
4号線を進み、松ノ木平信号で右手に分岐し279号線を歩き、青い森鉄道を高架橋で渡ります。
時刻は17時過ぎ、スマホで野辺地駅の時刻表を調べると17時9分発青森駅行きがあり、それを逃すと1時間待ちとなります。
ここからは時速6kmにピッチを上げ、何とか野辺地駅に2分前に辿り着けました。
           

今日から三泊は、青森駅近くの温泉大浴場に入れる「青森センターホテル」に宿泊します。
明日からは、荷物をホテルに置き、身軽な街道歩きとなります。

本日の予定歩行距離31.0km、歩数計は53,991歩を示していました。
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旧奥州街道歩き(五戸宿~藤島宿(十和田市))2018年春・2日目

2018-05-03 13:46:41 | 街道歩き
4月22日(日)街道歩き2日目、今日も晴天に恵まれ快適な街道歩きが期待できます。
朝食を7時に採り、7時30分過ぎ前日打ち止めにした「五戸町歴史みらいパーク」に向け出発です。宿を出ると正面に満開の桜が見えるので立ち寄ってみる事にしました。

宿から5分もかからず到着しました。そこには「気比神社」があり、神社前の広場にある10本程度の桜が満開になっていました。
まだ時間が早いのか、お花見客もなく、静けさのなか二人で短いお花見を楽しみました。そして、ルーチンとなっている旅の安全をお願いしました。
           
「五戸町歴史みらいパーク」前の大通りを町役場方向に進み、大通りに面する鈴栄書店の向かいの階段を下り五戸橋を渡り五戸高校を目指して進みます。
途中、右手に「明治天皇田の草取天覧御聖蹟」と刻まれた記念碑を見付けました。明治天皇が東北巡幸の際、ここで田の草取りをご覧になったのでしょうか? さらに進むと道の両側に満開の桜が目に入って来ます。ピンクの濃い花と薄い花の中から球児の大きな声が聞こえてきます。
  
五戸高校の先に「根岸八幡宮」があり、こちらの桜も満開です。
               
脇参道を進むと立派な狛犬が出迎えてくれます。彫を見ると文久ニ戌年(1862年)7月15日、横浜で生麦事件が発生した年に奉納されたようです。
  
拝殿でお参りし振り返ると大きな狛犬が睨みを利かせています。
こちらは、昭和10年8月15日に奉納されています。
  
根岸八幡宮は、永正三年(1506年)に南部家城代 木村杢氏が武運長久、国土安全のため神社を建立、御祭神は誉田別命との事です。
前日立寄ったお寺で素晴らしい彫刻に出会いましたが、こちらの八幡宮も素晴らしい彫刻です。
           

  
暫く旧道を進むと国道4号線と合流します。
やはり国道、ダンプなどもスピードを出して走っています。歩道があれば良いのですが、所によって歩道がなく白線の内側を歩かなければいけないので熊出没以上に注意しなければいけません。
途中で五戸町から十和田市に入りました。歩き始めて2時間程、10時を過ぎたので左手の土手に植栽で「マルゼン」と書かれた大きな工場前の自販機で飲み物を購入し一休みします。
  
暫く進むと旧道への分岐、道を右手に入ると伝法寺宿となります。
               
光明寺さんを右手に見て進むと4号線にぶつかりその下を抜けます。

ここで本日の難関が待っています。
来た道を前進すれば、間違いなく次の藤島宿に向かいますが、旧道を歩こうと検討し事前に地図を作成しているので、ここは作成した地図に従い進んで行きます。
舗装は無くなり、雑木林を抜け、畑を抜け進みますが作成した地図通りの道がありません。尋ねる人もいません。さて困った!!
しかし、ここはこれまでの街道歩きの感を働かせ、前進あるのみです。20分程歩き舗装道に出ましたが、当初想定した所とは違っているようです。
  
自宅に戻り地図を調べると、交通標識にかかれたいる「十和田7km」から判断し、目標とした場所から1.5kmほど手前の伝法寺寺山地区、4号線を抜けた場所から800m位しか進んでいなかったようです。

30分程歩くと藤島宿に到着します。
ただ、五戸町市街地から旧奥州街道の標識が全く無くなってしまったので、地図から判断するしかありません。
藤島川を渡って暫く進むと、左手に「明治天皇駐蹕之跡碑」が建っている。明治9年と14年の巡幸の際にここで休憩されたようです。
           
しばらく歩くと、左手にまだ若い松並木が並ぶ御幸橋ポケットパーク、そして奥入瀬川にかかる御幸橋からは下流の土手沿いに桜並木が見えます。
  
御幸橋を渡り、直ぐに左に折れ、太子食品工業十和田工場と上北農産加工農協の間の細い道を進む道が旧街道のようです。
用水を渡り、土手を上がるとやや広い舗装道が北に延びています。
               
道なりに1km強進むと県道145号線にぶつかります。時刻は12時30分過ぎ、これまで食事を採る事が出来なかったので、近くにあるファミレスCOCO'Sで昼食としました。

ここから、宿泊施設の「スーパーホテル十和田」まで2km弱です。
ホテルに到着したのは15時前だったので、荷物だけ預かって頂き市内散策に出かける事にしました。
十和田市役所を目指し歩いて行くと、「日本の道百選」に選ばれた長さ1.1km、幅36mの官庁街通りには、156本の桜と165本の松の並木道が続き、桜は今まさに満開の状態です。この日は、「十和田市春まつり」の期間中で屋台も出展され、かなりの人出でした。また、十和田市役所の展望室も解放され上から見る桜も楽しめました。
  
両側の歩道には、「駒の里」十和田市にちなんだ馬のオブジェや十和田市現代美術館を中心とするさまざまな現代アート作品が、出迎えてくれました。
         

         
十分楽しんだ後、近くにある澄月寺に立寄りました。境内では「戊辰戦争戦死者招魂の碑」を見る事が出来ました。
           
まだ時間が有るので、新渡戸記念館に行って見ました。
この記念館には、十和田市の開拓に係る新渡戸家三代に関する史料や新渡戸稲造先生の遺品等が展示・保管されているようですが、記念館は閉じられていました。
敷地内には、明治天皇三本木行在所碑、新渡戸家三代の銅像、太素塚等があります。
  
そして花壇には、シラネアオイ、サンカヨウ、イカリソウなどが綺麗に咲いていました。
  
17時前、ホテルにチェックインし大浴場で疲れを癒しました。

本日の予定歩行距離17.1km、歩数計は30,217歩を示していました。
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