久しぶりに自分のブログに向き合いました。
仕事的に忙しかったこと、本を書き上げ校正が全部終了したことからの安心感から気が抜けた部分がありました。
本来は5月上旬には『新・貨幣論』として店頭に並ぶ予定でしたが、不完全な本は出せないという両者(出版社と私)の思惑から推敲に推敲を重ね8月上旬に本が店頭に並びます。
私(著者)には6月下旬に本は届いていましたが、逆に店頭に並ぶまでの慎重さから一切発言を控えていました。やはり自分としては途中妨害されるのは、できるだけ避けたい気持ちからでした。
私自身の考えでは事実を書いたつもりですが、それによって傷つく企業もあるという考えから慎重にならざるを得ません。
数日前に出版社に電話を入れ、本の目次だけでもブログ、掲示板等へ書き込んでも良いかという打診をしましたが、まだ少し早いのではないかということでした。
7月26日になれば紀伊国屋書店・店頭映像ニュース「K I NOビジョンで8月新刊本の一部として紹介されると同時に陳列・販売予定ということです。
その時期でしたら私もブログ・掲示板等へ書き込めるわけです。
ただこのように書いたとしても決して売らんがための、ということではなく、貨幣を知ることによって本来の人間の生き方に少しでも近づいていく事ができればという気持ちからです。
一冊目は『人が人を使って利潤を得ても良いという権利、人はそれを誰に貰ったのか』という題名の本を書きましたが、その本が社会の役に立ったのかどうかという自問をしてみましたが、残念ながら変革とは遠いものと感じています。
二冊目は「貨幣」というかかたちから、人間社会を問いかけるつもりで書きましたが、また空振りに終わってしまうかも知れません。書いたことにより少しでも変革の気配が感じられれば私の意図するところですが、反応がなければ次の作品(人間社会の問題点)を考えなければなりませんが。現在の段階ではまだ考えられません。
8月に出る本の中で意図するものを、ほんのさわりだけでも書いてみます。
まず言えることは貨幣は偶然の中で生まれたものであり、人間はその正体を理解しないままに使ってきたということです。つまり貨幣に対しての理論がないままに人間の欲望(貨幣の蓄蔵機能(保存機能ともいう)からくる偏った所有)が自由という名の下に行われている。その結果として、なぜこのような使い方をしてしまったのかという、後世の人達の批判を受けるであろう使い方が現在の金融不安となって、世界の人々を苦しめているわけです。
貨幣を理解すれば現在の金融不安がどこまで続くのかが解るかと思います。
言い換えればアメリカが現在とっている金融対策、それは何の解決策にもなっていないということが分かるわけです。
機軸通貨という名の下に世界通貨を発行してしまった考え方。貿易に必要な決済通貨ということで世界の国々にドルを持たせてしまった政策、今までの歴史から判断できることは、一国の中で紙幣を乱発すればインフレになるということが歴史的教訓であったにもかかわらず。それを基軸通貨の名の下に世界通貨として発行してしまった愚かさが現在の金融不安になっているわけです。
通貨の乱発からくるインフレ、それを抑え込むかたちで金利を上げていく、だがあまりにも紙幣を増刷しすぎたため逆に世界にばら撒いたカネが高金利を求めて集まってきてしまう。銀行は集まったカネを運用益を乗せて貸し出さなくてはならない。買出し先に信用不安があった場合でも銀行内においておくわけにはいかない。片一方では生きていくために返済とは関係なく貸し出しを求める人達が列を成している。人はこの狭間でどう生きようとするのか。
今の状態がこれに当てはまるといえます。日本は幸か不幸か金利を上げる必要がなく、世界からカネが集まってこない状態になっています。さぞや銀行家は胸をなぜ下ろしているわけでしょう。だが逆に日本の市中のカネが下手をすれば取立てができない状態を覚悟してでも、高い金利を求めて日本から逃げ出している。金融機関からも高い金利先へと資金が移動している。
これからどうなるのか。ではまた…
仕事的に忙しかったこと、本を書き上げ校正が全部終了したことからの安心感から気が抜けた部分がありました。
本来は5月上旬には『新・貨幣論』として店頭に並ぶ予定でしたが、不完全な本は出せないという両者(出版社と私)の思惑から推敲に推敲を重ね8月上旬に本が店頭に並びます。
私(著者)には6月下旬に本は届いていましたが、逆に店頭に並ぶまでの慎重さから一切発言を控えていました。やはり自分としては途中妨害されるのは、できるだけ避けたい気持ちからでした。
私自身の考えでは事実を書いたつもりですが、それによって傷つく企業もあるという考えから慎重にならざるを得ません。
数日前に出版社に電話を入れ、本の目次だけでもブログ、掲示板等へ書き込んでも良いかという打診をしましたが、まだ少し早いのではないかということでした。
7月26日になれば紀伊国屋書店・店頭映像ニュース「K I NOビジョンで8月新刊本の一部として紹介されると同時に陳列・販売予定ということです。
その時期でしたら私もブログ・掲示板等へ書き込めるわけです。
ただこのように書いたとしても決して売らんがための、ということではなく、貨幣を知ることによって本来の人間の生き方に少しでも近づいていく事ができればという気持ちからです。
一冊目は『人が人を使って利潤を得ても良いという権利、人はそれを誰に貰ったのか』という題名の本を書きましたが、その本が社会の役に立ったのかどうかという自問をしてみましたが、残念ながら変革とは遠いものと感じています。
二冊目は「貨幣」というかかたちから、人間社会を問いかけるつもりで書きましたが、また空振りに終わってしまうかも知れません。書いたことにより少しでも変革の気配が感じられれば私の意図するところですが、反応がなければ次の作品(人間社会の問題点)を考えなければなりませんが。現在の段階ではまだ考えられません。
8月に出る本の中で意図するものを、ほんのさわりだけでも書いてみます。
まず言えることは貨幣は偶然の中で生まれたものであり、人間はその正体を理解しないままに使ってきたということです。つまり貨幣に対しての理論がないままに人間の欲望(貨幣の蓄蔵機能(保存機能ともいう)からくる偏った所有)が自由という名の下に行われている。その結果として、なぜこのような使い方をしてしまったのかという、後世の人達の批判を受けるであろう使い方が現在の金融不安となって、世界の人々を苦しめているわけです。
貨幣を理解すれば現在の金融不安がどこまで続くのかが解るかと思います。
言い換えればアメリカが現在とっている金融対策、それは何の解決策にもなっていないということが分かるわけです。
機軸通貨という名の下に世界通貨を発行してしまった考え方。貿易に必要な決済通貨ということで世界の国々にドルを持たせてしまった政策、今までの歴史から判断できることは、一国の中で紙幣を乱発すればインフレになるということが歴史的教訓であったにもかかわらず。それを基軸通貨の名の下に世界通貨として発行してしまった愚かさが現在の金融不安になっているわけです。
通貨の乱発からくるインフレ、それを抑え込むかたちで金利を上げていく、だがあまりにも紙幣を増刷しすぎたため逆に世界にばら撒いたカネが高金利を求めて集まってきてしまう。銀行は集まったカネを運用益を乗せて貸し出さなくてはならない。買出し先に信用不安があった場合でも銀行内においておくわけにはいかない。片一方では生きていくために返済とは関係なく貸し出しを求める人達が列を成している。人はこの狭間でどう生きようとするのか。
今の状態がこれに当てはまるといえます。日本は幸か不幸か金利を上げる必要がなく、世界からカネが集まってこない状態になっています。さぞや銀行家は胸をなぜ下ろしているわけでしょう。だが逆に日本の市中のカネが下手をすれば取立てができない状態を覚悟してでも、高い金利を求めて日本から逃げ出している。金融機関からも高い金利先へと資金が移動している。
これからどうなるのか。ではまた…