あと半月で私のホームページは消えてしまいます。残せるものだけでも残しておきたいとの願いからこのブログの場をお借りします。
『歴史とは』
日本の文明が原始から抜け出して約二千年、その二千年を振り返ってみると現代ほど人々が過去に興味を持った時代があったであろうか。つまり、あちらでもこちらでも、小は趣味的な文化財調査というかたちから、大は縄文、弥生、古墳時代の遺跡の発掘調査に至るまで、過去において時間の違いはあったが、我々と同じ空間に生まれ生きた人々の,生活痕を日々追い求めている。
これから後、何百年、何千年後かに生きる我々の子孫が歴史という流れの中で、この西暦2千年前後の時代を見たとき、果たしてどのような判断をするであろうか。多分この時代、つまりわれわれ我々が生きている今の時代を「出口の無い時代」「確実というものが無い不確実の時代」その中で人々は過去を調べることによって未来への出口を探そうとした時代と見るのではないだろうか。
資本主義がより個人に信用を持たせたという形の中で、現実のわれわれの労働の保証書である貨幣から、この者は未来にも働くという保証の中で、もし親が労働から離れ返せなかったなら子は生まれたときからローンを背負っていく時代に入ってきたのである。
現在の経済の中からローンというものを取り除いたとき、巷には製品が溢れ、かって経験したことも無い大不況に遭遇するのは確実である。
そして資本主義が悪いと言いながらも、マルクスが描いた共産主義社会に、現在の社会主義国の姿を見てとると、そこに我々の未来を託すという気持ちに素直になれないのである。
このような状況の中で右を見ても左を見ても、人間とはこう生きるべきだという指針が無い中で、つまり出口のはっきりしない時代の中で、入ってきた入り口を振り返ることによって、まだ発見されていない出口があるのではないだろうかと、かすかな希望を見ようとしているのである。
それが私たちが碑を捜しながら炎天下を歩くという行為となっているのである。
文化財研究同好会 板碑調査に参加して 1979年11月
『宇宙船「地球号」』
現代の一つの気運、これは日本だけではなく世界的とも言えることであるが、単に現状に甘んじることなく、未来に対し先手を取って行こうとしている事だと言える。その極端な移行の時期は第一回の石油危機(昭和四十八年)後からだと思われる。
資源の枯渇、それまでふんだんに有ると思われた石油が有限であると教えられた時点、薔薇色であった未来が灰色になったときでもあった。また今夏の冷夏、世界的な異常気象にもいえることであるが、原因はセント・へレンズの火山が原因だ。はたまたエネルギー源を燃焼させることによる炭酸ガスの温室効果等々、自然に対する理解不足から、いや人間自身の置かれている状況の認識不足から来るところの、未来に対する手探り、そこから新しい動きとしての未来学が幕を開けようとしている。
その端的な表れが最近言われるところの宇宙船「地球号」という発想であろう。我々が住んでいるこの地球が宇宙に漂う一つの宇宙船、それはこの地球という乗り物に乗って、全ての生物が生きそして死んでいく。どこから来てどこに行こうとしているのかということでもある。
これは我々人間が今まで長い間を生きてきて、またこれからも未来に向かって生きていくという人間の歴史の中に不確かな面が多分にあるということでもある。我々はいつになったら完全な形で生きられるようになるのか、現在の人間はもっとも進歩した姿で生きていると思い、江戸時代の人々をチョンマゲと二本差しという野蛮と印象付けているが、後世の人々が現在の私達の生き方を歴史という長い物差しを通してみたとき、やはりそれと同じ印象を受けるのではないだろうか。当然そうならなければならない。なぜならいつまでも戦争の時代が続くわけがないと考えるからである。
文化財研究同好会 板碑調査に参加して 1980年11月
『 時 間 と 空 間』
理解しがたい事がある。考え方の違いと言うことになるのであろうが、それは、時間と空間に対しての考え方である。私の考え方を述べる前に次の文を引用させてもらおう。
ホーキング宇宙を語る。
2,時間と空間より引用
1915年以前には、空間と時間は固定された競技場のようなものと考えられていた。その中では事象は起こっているが、競技場はその内部で起きている事に影響されることはない。このことは特殊相対論についても言える。物体は動き、力は引き付けたり反発したりする。だが空間と時間はひたすら持続し影響されない。空間と時間は永遠に続くと考えるのが当然だった。
しかしながら、一般相対性理論では状況はがらりと変わる。空間と時間はいまや動的な量である。物体が動くか、あるいは力が働けば、空間と時間の湾曲にその効果が及ぶ、そして逆に、今度は時空の構造が物体の動き方と力の働き方に影響を与える
空間と時間は宇宙の中で起こるすべてのことに影響するだけでなく、それから影響も受ける。空間と時間という観念をもたずに宇宙の中の出来事について語る事が出来ないのと同じように、一般相対論では宇宙の限界の外にある、空間と時間について語ることは無意味になった。
ここで簡単にこの文を説明させてもらおう。
一般相対性理論が出る前の1915年以前には哲学的解釈として時間と空間は固定されており、物質的にどのような変化が起きたとしても時間と空間には何の変化も起きないと考えられていた、ということである。
一般相対論が出た段階では宇宙空間の外にある空間に対しては(当然そこに時間もあるのであるが)時間と空間を問題にすることはないと言い切っているのである。
しかしそこでは宇宙の限界の外と言っているように宇宙空間と限界の外にある空間を意識しているのであり、宇宙空間の外にある空間、そこには時間もあるのであるが、「空間と時間」と言いながら問題にしないということの方が私には理解しがたいことなのである。
ここで言えることは物理では物を対象として考えることを出発点としているということであり、哲学、それも形而上のであるが、物を通り越し、本質を知ろうとする点からの出発であり、出発点での相違があるといえるのではないかと思われる。
古来、時間と空間という概念が出た時それは物理的なものではなかったはずであり、そこでは同じように神・たましい魂・死、等というような概念と同時に発生してきたものと言える。
そして、あえてまた取り上げさせてもらえるならば、ホーキング博士の言うように「宇宙の限界の外にある空間と時間について考えることは無意味になった」ということは、?半径150億光年という宇宙空間、その後ろにある無限の空間の中では、この我々がいる宇宙空間でさえ無限の空間の中においては野球のボール、はたまた小さな砂の一粒にも満たないのだということを理解していないのではないかとも考えられる
宇宙というものをもう一度定義しながら文を進めたい。
広辞苑によれば「宇宙とは」時間、空間内に存在する事物の全体ということであり、簡単に言えば物質が存在している空間と言うことになる。または空間内に物質が存在している範囲ということでもある。
ビックバンという火の玉から生まれた宇宙は、150億光年たった現在、10億光年ごとに5%乃至10%の割合で膨張しているという。そして現在まだ発見されていない何等かの物質が発見されない限り膨張を止めるに必要な物質の10分の1しかないというのである。
つまり我々が見ている星々はやがて暗黒の空間に消え去っていくようだ。それは今から100億年後1,000億年後であるかもしれない。そして現在我々が存在しているこの空間は暗黒の空間として残るはずであるが、ここで私が何を言おうとしているか、もうお解りかと思う。暗黒の空間、そこでは物質はいっさい存在していないかも知れないのだが、空間はあるのである。
はたまた5,000億年後、一兆年後といったとしても、その時間は確実に来るのであり。これらのことも時間と空間の問題である。
物理と哲学、それも形而上と書いたが、哲学的な時間と空間とは何かということを私なりに書いて見たい。
まず時間とは。空間とは何かという問いの出発点として「私とは何か」という疑問から入っていこう。
現在という時間空間内に存在している「私」そして過去と未来という時間内で自己の存在を考えたとき、神及び魂としての存在を信じられなければ、未来に於ける私の時間は「死」と共に消滅してしまう、この私の周りから出発している無限の空間で時間が永遠に続いたとしても、私にとっての時間は無いのである。なぜなら死によって私は永遠に消滅してしまうからである。
では現在「存在」している「私」にとっての過去とは何か、私がこの地上に生を受けた時、それは私を生んだ母であり、またその母を産んだ女性と遡って行ったとき、私がこの地上、または現在という時間空間内に存在しているという感覚としての意識が何千年何万年…はたまた何億年と遡り(さかのぼり)生命の発生、地球の誕生、宇宙空間の出現(物質が存在しだした)へと私の意識を遡らせていく。
そしてそのことはもしそれ等が無かったならば、否、その内の一つでも欠けていたならば確実に「私」は存在していないからである。そこでは「神とは」「魂とは」「生命とは」「死とは」そして「人間とは何か」ということが日常の生活の中で、電車や船に乗り、旅をしているのと同じ感覚で「人生」という旅をしているのだという思いを味わいながら日々の生活を送っているのである。
そこで確実に言えることは、ありふれた言い方をすれば1秒1秒が死に向かっているということであり、カミユの言葉を借りれば、「本当に重大な哲学の問題は自殺である、人生が生きるに値するか否かを判断すること」と言うように、そこに哲学の出発点があると考えられる。
またベルグソンという哲学者の言葉を借りれば「哲学的直感」という書の中で《より深く潜れば潜るほどより多くの物を引き出してくる》
それは20代の時の多感な青年時代の悩みであったかも知れない、神に近づけなかった為に、それは神が作り話の世界に過ぎないと言う自らが下した回答の中で、人生が生きるに値するか否かを真剣に考えた時…、
そこに、やはりいい言葉があった「ていかん諦観」という言葉である、永遠という時間の中であまりにも短い《生》それは生きるに値する価値も無い人生、もし明日をも生きようとするならば、そこには「諦観」つまり人生を諦めの中で生きて行くという捨て鉢的な感覚しかない。
ただその中で真理を知ったという気持ちだけは残っていた。全てに価値を失った中では真理を知ったとしても何の慰めにもならなかったが、旺盛な知識欲だけが、誰も入り込めなかった世界を知ろうと、読書だけが唯一の慰めとなった。
大分横道にそれてしまったが、本来の目的である「時間と空間」に話を戻そう。
それはあくまでも私なりの時間と空間のとらえ方であり。結論から先に言えば時間は永遠であり、空間は無限ということになる。
その前に有限という意味を考えて見たい。
有限とは何か、ただ単に限りがあると言うだけでは無限に対比させる説明にはならない。限りがあるもの、単刀直入に言えばそれは数えられるという一語に尽きる。例えば片手で掴(つか)めるだけの小石を掴んだとする、そしてそれを数えたとき、ある数で数え終わる、つまり掴める小石に限りがあったという事、有限だと言うことである。
例えそれをバケツ一杯の砂をコップで量ったとしても何十何杯かで数え終わる。より小さなコップだとしても何百何十何杯かで数え終わる。そこで二桁目以上の数を無視し一桁目の数を重視したとき、数え終わった数量は一から0と言う数の一つになる。
つまり12345678910と言う数字の一つで止まる。1になるか、3になるか、7になるか、又は数十としての0になるかは計り終わった時、解ることであるが、1から0という数字の中のある数で計り終わることは確かだ。
今度は砂を一粒一粒数えたとする、やはり数多くの数字が並ぶが二桁目以上の数を無視し一桁目だけの数を見たとき、やはり一から0という数字のどこかに当てはまる。
このように考えると仮に地球全体の水、つまり海の水、河川の水、そして雲が持つ水分、動植物が持つ水分、地球が持つ全ての水分を水としてコップで量ったとしても最後の一桁目に来る数字は1から0迄の数字の中の一つに当てはまる。
つまり限りがあり有限だという事である。そして宇宙全体の物質をコブシ状の塊(かたまり)として数えたとしても、時間と空間の中で絶えず物質が生成されない限り、二桁目以上の数字がどのように並んだとしても最後に来る一桁目の数字は必ず1から数十としての0という数字の中のある数字で止まる。つまり物質は宇宙(空間)の中で現在も生成されていない限り有限であるという事だ。
では、時間に関してはどうであろうか、時間が有限だとしたならば時間の最後に来る数字の一桁目が1から0という数字の一つで止まらなくてはならない、しかし時間は流れて行き、その数を飛び越えてしまう。
二桁目以上の数字がたとえ地球の表面を覆い尽くす程並んだとしても然りである。
そう、時間には最後の一桁目で止まる数字が無い、ゆえに空間と共に唯一永遠性を持ったものといえる。時間の流れは何時から始まったということもなく、最後があるということもない、永遠に流れて行くものとしか考えられない。
では空間はなぜ無限なのだろうか。
それを書く前に存在とは何かという事を考えてみたい。
また結論から先に言えば時間、空間は存在でもなければ、非存在でもなく存在以前のものと言える。なぜならば、ある物が存在すると言う時、必ずその物が存在しない状態を考えることが出来るからだ。つまり私の前に何も無いということだ。存在すると言う言葉を使う時には、逆に存在しないという状態が考えられる時にしか使えないようである。
幽霊が存在する、幽霊は存在しない、そこに微生物が存在する、そこには微生物は存在しない、私の死後、私は魂となって存在する。
私の死、私の脳が破壊されたことによって脳の停止と共にもはや私は存在しない。存在とは、存在しない状態を理解できる時にしか使えない言葉である。
では時間、空間はどうであろうか、時間空間に関して言えば唯一存在するという言葉が使えないようである。それは時間が存在しない、空間が存在しないと言うことを考えることは不可能だからだ。
空間が存在しないと言う時には、その空間を埋めている物、つまり物質をそこに置き換えなければならない、物質が無いというとき、そこは空間であり、空間が無いという時、そこに物質があるという式しか成り立たないからである。
時間に関して言えば、空想的には時間の停止は考えられるが、理論としては時間が停止した状態を考えることは不可能だといえる。今、私が時間は停止したと言ったとしよう、しかしその言葉の一語一語に時間の流れがあるのであり、現在、つまり今を中心として言葉の一語一語に現在がありそして過去として消えて行く。それが時間の流れなのである。そして無限の空間、果てし無き空間の全域に我々が感じる同一の時間が同一のものとして流れているのであり。宇宙空間の小さな領域の中での時間を問題にし、そのことにより無限の空間の時間を語ることは、それこそ無意味に等しい事なのである。むしろ時間という意味を理解していないと言っても過言ではない。
ある物理的な見方として時間が停止し逆戻りするという考え方もある。しかし無限の空間に無限という領域で広がる時間に、ほんの小さな領域の時間が切り離され、停止もしくは逆戻りするとでもいうのであろうか。
または全体的な時間を停止させたり逆戻りさせたりということがあり得るとでも言うのだろうか、神の力を持ってしてもそれは不可能かと思える、また神が行う事としてはあまり意味のないことのように考えられる。
空間の無限という問題に戻してみよう。空間がなぜ無限なのか、その前に空間が有限だと考えたとしよう、そのとき宇宙の果て、いやそれ以上先の、空間を取り囲むような物質を考えなくてはならない、ゴム毬で例えるならばゴムの部分、空間を丸く囲っている物質としてのゴムの部分にあたる物をこの広大な空間に当てはめなくてはならない、仮に広大な空間に、それを取り囲むような物質を想定したとしてもその向こう側が何なのかと言ったとき、空間か物質の継続を考えなくてはならない。つまりそんな物質があるわけもないし考えることもでき得ない、その事ゆえ古来より空間は無限だと言ってきたものと考えられる。そして我々が住む地球、宇宙、そこから広がる広大な領域、それらは時間、空間、そして物質の三つの要素で成り立っている。
時間、空間は存在でもなければ非存在でもない、存在以前のものと前に書いたが、物質が在るということは物質の元となる物が最初から在ったという事になる。この広大な空間に物質の元となるものが時間、空間と共にありビックバンが始まる以前の、収縮が起きた時点から宇宙の創造が始まったものと考えられる。そしてそれは我々が住む地球を取り囲む宇宙空間以外の無限空間の中にあっても、どこで起きたとしても何ら不思議は無いのである。
つまり無限空間の中においては我々の存在している宇宙と同じ物が複数個あったとしても不思議は無いのであり、そしてそれが自然だと言える。
無限とは何なのかという事に戻してみよう、今、地球上にいる私から空間に向けて空間の果て迄の距離を測ったとしよう、そしてその単位を光年としたとしても無限ということは二桁目以上の数字が無限大に並べられたとしても一桁目の数字が1から0という数字の中のある数で止まらないという事である。空間を取り囲む物質が無い限り…。
この文章は数年前ホーキング博士が来日した当時書いた文章を、今改めて加筆したものです。本来、私が書きたい文章は「人間とは何か」ということです、20代の時から思い続けていますが、まだ実現させていません。
『人間とは何か』それは釈迦、キリスト、マホメット、等の宗教的聖人とそれ以前の宗教者。または思想家としてのマルクス等が理解し『人間はいかに生きるべきか』という形で、我々の前に数種類の思想として提示され、それが現代と言う時代に混乱を引き起こしているものと考えられます。本来「人間は如何に生きるべきか」ということは各個人が決めるべきことであり(真理は一つしかない)哲学者、宗教者はまず「人間とは何か」という事を人々の前に提示し、生き方を押し付けるべきではないものと私なりに思っております。
私が書きたいもの、それは『人間とは何か』という部分だけであり、如何に生きるかということは書くつもりはありません…。
参考文献
?ホーキング宇宙を語る‥ビックバンからブラックホールまで
ステイーブン・W・ホーキング、林 一 訳 早川書房
?宇宙の果て・激突する宇宙論
チモシイ・フエリス 斎山 博 訳 地人書館
? 宇宙の運命・新しい宇宙論
リチャード・モリス 湯浅 学 訳 BLUE BACKS
他
文章中?印 現在では130億光年~180億光年といわれていますが、150億光年としておきます。
現在「人間とは何?」と言う作文を執筆しています。その中で「人は人を使って利潤を得ても良いという権利、人はそれを誰に貰ったのか?」 という疑問、それを解いていくつもりです。
この文を読み何かご意見ご感想が御座いましたら何なりとお聞かせ下さい。