最近経済を書こうにも世界の経済自体が日々悪化するだけで良くなる兆しは見当たらない。アメリカが莫大な公的資金を注入したとしても、リストラ旋風が吹き荒れた中で個人消費が伸びず、銀行がローン目的で貸し付けようとしても申込者の返済を疑いこれも貸付に回らない。
アメリカが今まで内需拡大というスローガンの下、国民をローン付けにしてきた政策が裏目に出ている感じになっている。この結果更なる消費不足を起こし、作っても売れない状態から工場閉鎖リストラという逆スパイルに陥っている。この状態がいつまで続くのか、いつこの逆スパイルを断ち切れるのか。
これが現在世界的に起きている事柄だ。
良くメディアが伝えるニュースがないと、動物を取り上げると言う。そこで動物というわけにはいかないので昨年ホームページを終了するということで、二十代のとき、ある大企業の機関紙(その当時大企業に勤めていた)の文芸欄に載せた文章 をこのブログに移し変えた。それを一つずつ当時を振り返って解説をつけていってみよう。今回は下記の文章になる。
歴史
君たちは罪を犯している
人間の歴史を逆に進ませようとする大きな罪を…
何百年、何千年後かには罪を犯していたことにより罰に処せられるだろう
二千年、三千年前、そして一万年以上前の人間が
自然に対し、人間に対し無知であった時代ならともかく
人間が、自然が解りかけてきたこの時代に
君たちの行いは、また盲目の中へと人間を進ませていく
君たちの犯した罪は大きい
人間が自由というものに向かって進んでいくなかで
また過去の暗い無の中に人間を連れて行く
君たちが持っている偶像
人間が何であるかを理解できる者たちにとっては
そこに何もないということを解る者たちにとっては
そのことに盲目となっている君たちがあまりにも哀しい
そして無いということには、無いという証明はいらない
もし君たちが、そこに何か在るというなら
現在の生物学、現在の考古学、心理学を越えてでも
在るということを証明しなければならない
そして歴史を見、人間が自由と平等という目的に向かい進んできた歴史を
もう一度目を大きく見開き理解して欲しい
生命の起源、そこから人間の歴史が始まっていたのだということを
観念を捏ね回さずに、純粋に受け取って欲しい
1968年3月
この詩は私が二十歳後半になった当時書いた詩である、創価学会の信者が四人ほど折伏のため来ていた。こちらの都合には関係なく夜中の二時三時まで、何とか入会させようと変わりばんこに私をせめて来た。だが私は学会が発行していた本を「確か折伏経典」「科学と宗教」とか何冊か読んでいたのでそれを話題に上げようとしたが。彼らは読んでいなかったため話を逸らそうとする。
その中に「生命は宇宙と共に存在し(?)後でもなければ先でもない」と言う一文を取り上げ、この文章「生命論」が学会を支えている。と言っても彼らには解らなかった。「生命論」はかってヨーロッパで何度が取り上げられてきたが、キリスト教の「魂論」に対し異端として退けられてきた歴史がある。
私は無神論者(神の存在も信じないし、死後魂となって存在するはずもない)であり死は脳の破壊によって「我思うゆえにわれ存在す」と言うことを掴みきれないもの。それが死である。
現代では政治に宗教をいれないということが政教分離というかたちで推し進められている。自民党と同じことを公明党がやっていたのでは今度の衆院選では浮動票(多分民社に入れる)の前に議席を減らすのではないだろうか。そのとき国民は政教分離を選んだことになる。
説明が長くなったが、詩はこのようなことから書いていた。
アメリカが今まで内需拡大というスローガンの下、国民をローン付けにしてきた政策が裏目に出ている感じになっている。この結果更なる消費不足を起こし、作っても売れない状態から工場閉鎖リストラという逆スパイルに陥っている。この状態がいつまで続くのか、いつこの逆スパイルを断ち切れるのか。
これが現在世界的に起きている事柄だ。
良くメディアが伝えるニュースがないと、動物を取り上げると言う。そこで動物というわけにはいかないので昨年ホームページを終了するということで、二十代のとき、ある大企業の機関紙(その当時大企業に勤めていた)の文芸欄に載せた文章 をこのブログに移し変えた。それを一つずつ当時を振り返って解説をつけていってみよう。今回は下記の文章になる。
歴史
君たちは罪を犯している
人間の歴史を逆に進ませようとする大きな罪を…
何百年、何千年後かには罪を犯していたことにより罰に処せられるだろう
二千年、三千年前、そして一万年以上前の人間が
自然に対し、人間に対し無知であった時代ならともかく
人間が、自然が解りかけてきたこの時代に
君たちの行いは、また盲目の中へと人間を進ませていく
君たちの犯した罪は大きい
人間が自由というものに向かって進んでいくなかで
また過去の暗い無の中に人間を連れて行く
君たちが持っている偶像
人間が何であるかを理解できる者たちにとっては
そこに何もないということを解る者たちにとっては
そのことに盲目となっている君たちがあまりにも哀しい
そして無いということには、無いという証明はいらない
もし君たちが、そこに何か在るというなら
現在の生物学、現在の考古学、心理学を越えてでも
在るということを証明しなければならない
そして歴史を見、人間が自由と平等という目的に向かい進んできた歴史を
もう一度目を大きく見開き理解して欲しい
生命の起源、そこから人間の歴史が始まっていたのだということを
観念を捏ね回さずに、純粋に受け取って欲しい
1968年3月
この詩は私が二十歳後半になった当時書いた詩である、創価学会の信者が四人ほど折伏のため来ていた。こちらの都合には関係なく夜中の二時三時まで、何とか入会させようと変わりばんこに私をせめて来た。だが私は学会が発行していた本を「確か折伏経典」「科学と宗教」とか何冊か読んでいたのでそれを話題に上げようとしたが。彼らは読んでいなかったため話を逸らそうとする。
その中に「生命は宇宙と共に存在し(?)後でもなければ先でもない」と言う一文を取り上げ、この文章「生命論」が学会を支えている。と言っても彼らには解らなかった。「生命論」はかってヨーロッパで何度が取り上げられてきたが、キリスト教の「魂論」に対し異端として退けられてきた歴史がある。
私は無神論者(神の存在も信じないし、死後魂となって存在するはずもない)であり死は脳の破壊によって「我思うゆえにわれ存在す」と言うことを掴みきれないもの。それが死である。
現代では政治に宗教をいれないということが政教分離というかたちで推し進められている。自民党と同じことを公明党がやっていたのでは今度の衆院選では浮動票(多分民社に入れる)の前に議席を減らすのではないだろうか。そのとき国民は政教分離を選んだことになる。
説明が長くなったが、詩はこのようなことから書いていた。