「時間と空間」この文章は4、50年前に書いた文章ですが、前々回の文章で宇宙空間云々を書きましたが物足りなさを感じましたので古いパソコンにまだ残っていましたのを何回かに分けて投稿させていただきます。
理解しがたい事がある。考え方の違いと言うことになるのであろうが、それは、時間と空間に対しての考え方である。私の考え方を述べる前に次の文を引用させてもらおう。
ホーキング宇宙を語る。
2,時間と空間より。
1915年以前には、空間と時間は固定された競技場のようなものと考えられていた。その中では事象は起こっているが、競技場はその内部で起きている事に影響されることはない。このことは特殊相対論についても言える。物体は動き、力は引き付けたり反発したりする。だが空間と時間はひたすら持続し影響されない。空間と時間は永遠に続くと考えるのが当然だった。
しかしながら、一般相対性理論では状況はがらりと変わる。空間と時間はいまや動的な量である。物体が動くか、あるいは力が働くかすれば、空間と時間の湾曲にその効果が及ぶ、そして逆に、今度は時空の構造が物体の動き方と力の働き方に影響を与える。空間と時間は宇宙の中で起こるすべてのことに影響するだけでなく、それから影響も受ける。空間と時間という観念をもたずに宇宙の中の出来事について語る事が出来ないのと同じように、一般相対論では宇宙の限界の外にある、空間と時間について語ることは無意味になった。
ここで簡単にこの文を説明させてもらおう。一般相対性理論が出る前の1915年以前には哲学的解釈として時間と空間は固定されており、物質的にどのような変化が起きたとしても時間と空間には何の変化も起きないと考えられていた、ということであり。一般相対論が出た段階では宇宙空間の外にある空間に対しては(当然そこに時間もあるのであるが)時間と空間を問題にすることはないと言い切っているのである。しかしそこでは宇宙の限界の外と言っているように宇宙空間と限界の外にある空間を意識しているのであり宇宙空間の外にある空間、そこには時間もあるのであるが、「空間と時間」と言いながら問題にしないということの方が私には理解しがたいことなのである。ここで言えることは物理では物を対象として考えることを出発点としているということであり、哲学、それも形而上のであるが、物を通り越し、本質を知ろうとする点からの出発であり、出発点での相違があるといえるのではないかと思われる。古来、時間と空間という概念が出た時それは物理的なものではなかったはずであり、そこでは同じように神、たましい魂、死、等というような概念と同時に発生してきたものと言える。そして、あえてまた取り上げさせてもらえるならばホーキング博士の言うように宇宙の限界の外にある空間と時間について考えることは無意味になった。というように言うことは、❋半径150億光年という宇宙空間、その後ろにある無限の空間の中では、この我々がいる宇宙空間でさえ無限の空間の中においては野球のボール、はたまた小さな砂の一粒にも満たないのだということを理解していないのではないかとも考えられる。
宇宙というものをもう一度定義しながら文を進めたい。
広辞苑によれば「宇宙とは」時間、空間内に存在する事物の全体ということであり、簡単に言えば物質が存在している空間と言うことになる。または空間内に物質が存在している範囲ということでもある。
ビックバンという火の玉から生まれた宇宙は、150億光年たった現在10億光年ごとに5%乃至10%の割合で膨張しているという。そして現在まだ発見されていない何等かの物質が発見されない限り膨張を止めるに必要な物質の10分の1しかないのである。つまり我々が見ている星々はやがて暗黒の空間に消え去っていくようだ。それは今から100億年後1,000億年後であるかもしれない。そして現在我々が存在しているこの空間は暗黒の空間として残るはずであるが、ここで私が何を言おうとしているかもうお解りかと思う。暗黒の空間、そこでは物質はいっさい存在していないかも知れないのだが空間はあるのである。はたまた5,000億年後、一兆年後といったとしても、その時間は確実に来るのであり。これらのことも時間と空間の問題である。
物理と哲学、それも形而上と書いたが、哲学的な時間と空間とは何かということを私なりに書いて見たい。
まず時間とは、空間とは何かという問いの出発点として「私とは何か」という疑問から入っていくと言える。現在という時間空間内に存在している「私」そして過去と未来という時間内で自己の存在を考えたとき、神及び魂としての存在を信じられなければ、未来に於ける私の時間は「死」と共に消滅してしまう、この私の周りから出発している無限の空間で時間が永遠に続いたとしても、私にとっての時間は無いのである。なぜなら死によって私は永遠に消滅してしまうからである。では現在「存在」している「私」にとっての過去とは何か、私がこの地上に生を受けた時、それは私を生んだ母であり、またその母を産んだ女性と遡って行ったとき、私がこの地上、または現在という時間空間内に存在しているという感覚としての意識が何千年何万年…はたまた何億年と遡り(さかのぼり)生命の発生地球の誕生、宇宙空間の出現(物質が存在しだした)へと私の意識を遡らせていく。そしてそのことはもしそれ等が無かったならば、否、その内の一つでも欠けていたならば確実に「私」は存在していないからである。そこでは「神とは」「魂とは」「生命とは」「死とは」そして「人間とは何か」ということが日常の生活の中で、電車や船に乗り旅をしているのと同じ感覚で「人生」という旅をしているのだという思いを味わいながら日々の生活を送っているのである、そこで確実に言えることは、ありふれた言い方をすれば1秒1秒が死に向かっているということであり、カミユの言葉を借りれば、「本当に重大な哲学の問題は自殺である、人生が生きるに値するか否かを判断すること」と言うように、そこに哲学の出発点があると考えられる。またベルグソンという哲学者の言葉を借りれば「哲学的直感」という書の中で《より深く潜れば潜るほどより多くの物を引き出してくる》それは20代の時の多感な青年時代の悩みであったかも知れない、神に近づけなかった為に、それは神が作り話の世界に過ぎないと言う自らが下した回答の中で、人生が生きるに値するかを真剣に考えた時期があった。 次回に続く