楢篠賢司の『人間とは』

人間とは何かを研究しています。現在は経済学を自分のものにしたいと目下勉強中です。

貨幣社会における貧富の差 Ⅹ 

2016-04-18 04:36:24 | Weblog
 では何ゆえに蓄蔵が悪いということになるのか、稼いで資産を増やしていくのが全てに悪つまり通貨が紙幣に代わったとき、いくらでも貯めることができる,ある者は際限なく貯める。それは交換材としての貨幣と保存蓄蔵できる貨幣が分離されていないことが問題であると言える。今の状態では保存蓄蔵された貨幣は何時でも必要な時交換材として利用できる。例えば豪勢な邸宅を立てたとしても、不動産はそれを担保に金融機関から貸し出しを受けることができ、いつでも紙幣に替えることができる。持てる者は資産を再投資したり、結果として紙幣の蓄蔵へと走ることになる。その分市中の貨幣量が偏り全体として不足する結果となる。

 昔と違って今の時代は紙幣を増刷し市中に金をだぶつかせてもインフレにはならない。その安易な気持ちが政策者にあるのではないか。その結果貨幣所持が少数の者へと偏っていく。だぶつかせたにも関わらず経済は好転しない。それは交換材としての貨幣を少数の者が市中から奪ってしまうことにほかならない。今の社会では合法化されたことであるからだが、ただ前の文章「A・Eの関係」で書いたようにその社会を構成している一人の人間が蓄蔵してしまうことによりその後の生産・消費がストップしてしまう、つまり経済がある意味崩壊してしまうことになる。
 そこに利息を付け借り入れを起こす、次回はその利息分をその社会が払うことになる。単なる貨幣の保存ではなく、交換材としての貨幣をその社会から奪ってしまうことが問題だと言える。前にも書いたが貨幣は物(商品)と物(商品)の交換材であると同時に人々の労働を促すものでもある。その社会において交換材の不足は人々の労働を奪うことになる。

 これらのことを現代に当てはめたとき貨幣を蓄えたことが罪になるのではなく(現在は財産権として合法化されている)、交換材としての貨幣を蓄えたことによってその社会の経済が回転しなくなってしまうことが問題となる。これは一つの罪だともいえる。

 今の状態は一部の者が貯めこみ市中に交換材としての貨幣不足を引き起こす、経済がデフレから不況になると、その経済を立て直すべく国債という場合によってはいくらでも印刷できる債権を発行し、貨幣を貯めこんだ人から利息を付け銀行を通し借り入れる。その金を市中に還元させる。ケインズ経済がそのようにさせたからだといえる。一時は沈下した経済を立て直すことができるが、いくら社会に貨幣をつぎ込んでもその金が一般庶民に回らなくては元の木阿弥で国債残高を増やすことに貢献しただけといえる。
 なぜ国債を発行して市中に金を入れたにも関わらず経済は好転しないのかを考えてみたい。

1として紙幣だからといえる。これが金属貨幣であれば蓄蔵されたとき発行するのに限界が来てしまう。当然市中の交換材不足からデフレを経て、景気減速から不況へと突入し社会に不満が満ち溢れ政権の危機を迎える。

2として紙幣はいくらでも印刷できることから社会に紙幣不足は起きない、最近の話でもタンス預金に人々が走っているということから高額紙幣を増刷したと言われている。この場合物に替えようということではないことから、貨幣を印刷しすぎたとして、預金を引き出しタンス(金庫)にしまうだけのことでインフレにはならない。今の時代インフレにもっていくのには市中にお金をジャブジャブさせても魅力ある商品が無いことと、ロボット化した機械が大量生産をして商品が行渡り過ぎている。また庶民にお金がないことは分かっているが、銀行が貸すには返済能力という問題からいくら政府が銀行をつついたとしても庶民の懐には金が回らない。つまり買いたいものがあっても買えない時代でもある。


貨幣社会における貧富の差 Ⅸ

2016-04-15 05:00:36 | Weblog
  今の社会は自分で稼ぎ自分で儲けた分、何億何十億という資産を持っていたとしてもそれを悪とは見ない風潮がある。むしろアメリカンドリームのようにより富を多く持ったものがその富の多さを自慢してみせる。今回のアメリカの大統領選挙の候補者選びのトランプ氏のように、より多くの資産を持ったものが大統領にもなれる、そして彼は本気で大統領になってみせるぞとその資産を動かし、大統領になった暁にはより多くの資産をさらに増やしていくはずだと思える。

 それは狩猟採集社会の時代に食料となるものを保存してきた名残を今も抱えていることからの出発点からきている。保存するという行為自体は原始の時代からあった。そして狩猟採集の時代では保存するものは限られた物だけだったが、その精神と行為は現在でも連綿と続き、貨幣を保存(貯蓄)するという現代ではむしろより蓄えることができる蓄蔵という行為に代わってきてしまっている。しかもそれは保存すれば時間の経過とともに腐敗してしまう食べ物としてではなく、金融機関に預けられる紙幣として、さらに利息を付け管理さえしてもらえる。出発点としての狩猟採集時代の限られた保存から、現代のように蓄えるという方法に対してどのような手段を取ったとしてもそこには何の問題点もない合法的ものとして扱われてきてしまった。

 今まで、経済学者といえる人たちが逆に問題にするのはおかしいと、人々にある意味説いてきたことと関係があるのではないか。

 私が何を言おうとしているのか。初期の保存機能といえるもの、他の動物例えばリスなどが冬を越すためにドングリなどを巣穴で保存したように、人間も食べ物に困らない時のために保存するという道を歩んできた、が、そこに歴史的時間を経てやがて貨幣経済に入った段階から徐々に、保存から蓄蔵機能といえるようないくらでも蓄えることができる時代であり、そしていくらでも発行し印刷できる紙幣に代わってきてしまった時代では、ある者はこれを我が家の春と言わんばかりにいくらでもかき集めてしまう、もし通貨が金貨であればこのようにはいかない、ある少数の者が儲かり稼いだということで保存したとする、その時市中から交換材である通貨(金)が消えていき、たちまちデフレに陥り経済がダウンしてしまう。紙幣であるからこそ蓄え蓄蔵することができる、この先今の状態を放置していくならさらに激しい紙幣経済下における貧富の差がより拡大していくとみるからだ。

 通貨・貨幣それらは本来蓄えるものではなく物(商品)と物(商品)の交換材でありそして労働と労働の交換材でもある。それらを少数の者が蓄えてしまうと商品が売れない、商品も作れないつまり労働によって物を作ることもできないということになる。

 私が書いたこの文章に異を唱える人はいないのではないか。

 貨幣社会における貧富の差 Ⅷ 

2016-04-09 04:03:20 | Weblog

 今まで書いてきた文章それは交換機能だけに光を当ててきたが、では私が考える人間社会にとって『悪』となる現象、現代流に言えば蓄蔵機能だが。物々交換の時代から徐々に交換を仲介する物質を間に入れ(例えばタカラガイ等)余剰生産物を交易等を通じてその当時の社会に貢献してきた。やがて単なる物の余剰分を通した交易から幾多の時代を経た中で、交易にとって質・量とも安定してきた金属貨幣へと進んできた。だが金銀等の高価な貨幣は保存されてしまう。その結果流通される貨幣量の不足から、経済が不安定化し、やがていくらでも印刷すれば流通量を増やすことができる、紙幣社会へと進化してきた。しかし人は紙幣には十全の信頼感を持ってはいない、そこから持てる者は金等の希少金属に替え保存してしまう。その一方で紙幣を金融機関に預金してしまいいつでも物(商品)に回せる準備をしている。通貨が金本位制の方法から脱却し法の裏づけを持った紙幣が金融という社会に君臨しているのが現代の姿だ。

 例えば余談としてだが、絶対にあり得ない政策として現代の社会に紙幣の裏づけとして金との兌換ができる金本位制という金融政策を取ったらどうなるのか、①に金価格を固定価格にしなくてはならない。②に今までの紙幣を大量に発行しすぎていることから蓄蔵し交換に使うことのない預金された紙幣を、価格が固定された金に変えてしまう。金融政策の最終局面にきたゼロ金利から、持てる者は身を守る方向へと入り価格が固定化された金に変えてしまう。その結果兌換が可能な金本位制は時間を待たず崩壊してしまうだろう。

 それ等のことを考えると100パーセントといって良いほど金が流通通貨の代わりとなる時代は過去の遺物になってしまった。それだけ現代は紙幣を大量に印刷されてしまったということだろう。 金本位制の停止参照

 またまた余談だが最近のニュースとしてゼロ金利政策の落とし子というべき現象から一般家庭に金庫が売れているという。金融機関に預けていても利息も付かない。やがてこれから進んでいく段階で手数料という方法で金融機関に預けたお宝(紙幣)が目減りしてしまうという恐れがある。そこから家でタンス預金という方法で蓄蔵しておこうという現象が起こっている。しかし今の世の中、世界を見渡したとき紙幣を刷り過ぎてしまっている。いつの日か何らかのはずみで大量に蓄蔵された紙幣を物に変えてしまおうという考えが大衆の心理状態を呼び起こしてしまうとき、需要と供給の関係からインフレという状態に突き進んでしまうのではないかという怖れの一方。自動化が進み大量生産で商品が作れる時代ではインフレになるほど商品は不足しないということも考えられる。ただある国の通貨に対し別の国の通貨が安くなるという変動相場制の下ではインフレは避けられない。原因は紙幣を増刷した結果あまりにも貨幣の蓄蔵量が増大しすぎたためだとみている。 

 余談はさておきA・Eという関係を進めていきたい。簡単なことだがA・Eという社会の中のある人物が、例えばBという生産者であり消費者が自分の所に回ってきた紙幣を次の消費に使わず蓄蔵してしまったら、たった1枚しかない紙幣はBで止まってしまい以後の人には回らなくなりそれ以降の消費はストップしてしまう。当然売れない以上生産もできなくなってしまう。

 このとき貨幣の蓄蔵がこの小さなA・Eという社会の中での生産と消費をストップさせてしまうことになる。

 これが我々の生活している現代という社会に当てはめたとき、貨幣の交換機能と蓄蔵機能が分離されることなく両立しているとき、一部の人間が回ってきた貨幣を蓄蔵に回せばその分社会は交換機能としての貨幣不足を起こし経済が停滞してしまう。

 A・Eの関係に戻してみるとBが蓄蔵してしまった一枚の貨幣を他の4人がBに頭を下げ、幾ばくかの利息を付け借り入れを起こし前の通りA・Eの関係を復活させることができた。だがBを除いたA・Eの人達はBが自分の金を貯めたということに何の不自然さも感じずやむおえないことと感じていた。そしてBから借りたことを忘れ以前のように生産と消費を繰り返していく。それどころかお金を貸してくれたBに対し借金をしているということで頭が上がらなくなってしまう。さらにその後またA.Eの中の別の者が蓄蔵してしまったことにより経済が回転しなくなった時、やはり金利を付け蓄蔵した貨幣を借りることになる。このとき蓄蔵が原因で経済が回転しなくなるということに気が付かず利息分を入れた借金を重ねていくことになる。


貨幣社会における貧富の差 Ⅶ

2016-04-06 03:47:06 | Weblog
  拙い私の思考の中から導き出した一つの方策、貨幣の交換機能を重視した社会が貧富の差のない人間社会の在り方だと感じています。その方法というのは前に書いた。
 2010年5月に書いた文章でだいぶ古くなってしまいましたが、前提としては生産者であり消費者であるABCDE、5人が仮にいるとします。彼らが貨幣を通して日々の生活をすることになり、最初にAが1枚の紙幣を手にするところから始まります。そしてここでは商品を作るという行為は労働をするという行為に他なりません。

『AEの関係』を参照2010-05-28 13:59:57 | Weblog 


 Aが自己の労働を1枚の貨幣(カネ)に換え、Bが作り出した商品と交換します。そこにはAが持っていたカネがBに渡ります。BはそのカネでCの持っている商品と交換します(つまりCの商品を買うという行為です)Aの所有していたカネがBを通してCに渡ったわけです。CはDの持っている商品を買います。DはEの持っている商品を買います。そしてEはAが持っている商品を買います。  つまりここでは簡単な例ですが最初にAが持っていた1枚のカネがB、C、D、Eを通してAに戻ってきて一巡したわけです。そしてお互いに作り出した商品が売れたということになります。

 さらにまたAがBの商品を買い、その関係がEまで続きAの元へ戻ってきたとします。そこにはAからEまで2回商品を製造しなくてはなりません。たった1枚の貨幣が2回の商品製造をさせたことになります。この関係がさらにAからEを通してAまで戻ってきたとき1枚の金が3回の商品を各自に作り出させたわけです。 

 このことが貨幣と労働との関係だと捉えています。ただし、そこには現実の経済社会では簡単なA・Eの関係ではなく複雑な貨幣と労働との関係が行われているということです。つまり1000万の購買があれば1000万通りの貨幣と労働との交換があるということです(そのことが今まで経済をわかりにくくしてきた原因です)働くことのない子供は物を買うために親から小遣いを貰うとか、老人では現在の社会では年金というかたちで貨幣を手に入れ貨幣と他者の労働で作られた商品と交換し手に入れます。


上記書いた文章をあえて手を入れずそのまま載せました。人の社会の始まりは貨幣を通した交換ではなく物と物との交換、物々交換でした。ただし物と物との交換では欲望の二重の一致という壁に阻まれてしまいます、それらを解消させる方策として前々からあった物々交換を進化させた特定の物を交換の対象としたのが貨幣の祖先と言える物を仲介させた交換です。それが貨幣の始まりとなります。物々交換ではAの欲しがっている物をBが持っていたとしてもBの欲しがっている物をAが持っていなければ一致しないわけですから交換は成り立たないわけです。ここで私が以前書いた文を再度転載致します。


                 欲求の二重の一致
 2009-01-06 14:59:19 | Weblog
 昨日の文章で欲求の二重の一致と言う言葉を何度か使ったが、文末に注釈を入れるつもりで用語を調べたが、無いかもしくは説明不足であったため私なりの説明をしてみたい。

 欲求の二重の一致とは、貨幣において商品と交換(購入)する場合と、物々交換時において交換する場合との比較である。

 貨幣において商品を購入するときは、その商品を買いたい者がなんの躊躇い、または問題も無く商品を持っているものに貨幣を渡し、商品を持ち帰ることができる。だが物々交換においては交換する相手が自分が持っている物を欲しがっているかどうか、他の物との交換を望んでいれば交換するのは至難の業になる。

 例を挙げてみよう。
  仮にAさんが鶏肉を持っておりBさんがリンゴを持っていたとしよう。Bさんは鶏肉が欲しいがAさんは魚が欲しい。この状態では欲求が二重の一致に到達できないことになる。ここに物々交換の市場が大きくなればBさんのリンゴと交換してくれるという、探した結果のZさんが鶏肉を持っていたので交換ができた。何とか二人の欲求の一致が充足され両者が満足したことになる。ただここには大きな市場と探し回る時間が必要になるが。

 では貨幣を仲介とする交換(販売・購入)の場合はどうであろうか。Bさんが鶏肉を欲しかった場合、Aさんのところに行きお金を出し鶏肉を購入する。Aさんはそのお金を持って魚を買いに行く。やがてBさんのリンゴも他の人が買いに来るはずである。貨幣を介した交換は即「欲求の二重の一致」が叶うことになる。
        貨幣を介した交換は爆発的な分業を作り出すことになります。


貨幣社会における貧富の差 Ⅵ

2016-04-04 05:29:33 | Weblog
 
 現在「新年度4月1日」の状況では」経済を立ち上がらせようとした政策が逆の現象となっている。これ以上マイナス金利が積みあがれば人々の不安を増幅させるだけでしかないように思えるが。
そこでこのような状態から脱却する方法はないものだろうかと多くの経済学者は考えていることだと思う。考えなかったらおかしいと言える。

 最近の科学は宇宙の謎に迫ろうとし高額な研究費を使い小さな質量を持つ物質を追っている。その一方で人工頭脳が人間の領域に迫っている。このように最新の科学は目覚ましいスピードで未来に向かっている中で、地球上の万人が影響を受ける、最も身近な経済学では何らかの研究が進んでいるのだろうか。
今こそ本来考えなくてはならない経済としての国債発行のルーズさをこの先どうなって行くのかを考えるべきではないだろうか。なぜ国債をここまで発行し積み上げてしまったのか。

 その結果これ以上発行しても経済は好転しないというところまで追い込まれてしまった。そこで打たれた手は市中にお金は有り余っている、当然個人がその金を持っているはずだと考え、それを使わせればよいという、この社会を守ることを優先し最も簡単な発想に行きついてしまった。しかしそのことは根本的な解決策という理論もないまま突き進んでしまった結果だと言える。これが現在金融政策を任されている高給取りの方々の発想といえるのか。何も知らない無名の私ごときものに言われても腹も立たないのか。

 政策者はとくで考えてほしい先の文で私が引用した。

世界人口の1%にあたる富裕層が持つ富は、2016年には残りの人口の99%が持つ富の合計を上回り、世界全体の富の半分を上回るとする報告を19日、国際NGOオックスファム(Oxfam)が発表した。

本来は富裕層からとらなくてはならないのではないか。どこか間違っている。

 しかし経済がうまくいかなくなれば宇宙を知ること・海底を知ること・人間の脳(人工知能)を知ること全てがダメになってしまう。本来は全てに優先して経済を研究しなくてはならないはずだ。地球上のすべての人間の生活そして未来がかかっているからだ。それを一時のごまかし金融政策でいいものだろうか。

 ではなぜ貨幣、つまりお金の蓄蔵が今の経済をここまで追い込んでしまったのかということになる。方や輸出で稼いでいる自動車関係、他の企業に働いている従業員または公務員の人達は現在の日本の状況に満足しているのか、しかしそのような方々も日銀が採った金融政策としてのマイナス金利政策にはこの先の不安を抱いているのではないだろうか。ベースアップを勝ち取り、ボーナスとして手に入る金額もアップし、そしてマイナス金利政策、その本来としての意図は貯蓄に回してもお金は増えないですよ、安心してお金を消費に回してくださいという金融政策者の心根があるはずであったことだろう。

 最近の私の文章、自分で読み返しても点数を付けられるところまで来ていないと自分なりに判断している。来年は80歳という年齢がそうさせるのか、書くことがつらくなってきている。この先書くことの『種明かし』を先にすれば『貨幣の蓄蔵機能が悪であり』交換機能を重視した金融政策をとることが貧富の差を無くし住よい人間社会になる。そのように信念はもっているのだが、どのように書けばいいのか情けない話だが迷っている。

貨幣社会における貧富の差 Ⅴ

2016-04-02 04:31:21 | Weblog
 

 最近の金融政策を見てみるとマイナス金利という前例のないことが行われた、このような政策がなぜ出てきてしまったのかは別の問題として。現在取りざたされているのは結果論として、経済が好転しなければまず銀行が一番追い込まれた状態になるという。そこから銀行自身が銀行を守るという形で上部(中央銀行)に払う分を預金者から手数料という形で預金をマイナスにもっていく。やがて各預金者は金融機関に預けた預金が目減りしていくのでは堪らないということからタンス預金という形で預金を下ろしていく。このような状態になってしまったら金融機関がやっていけるのかということになっている。

 また違う見方としては、預金をしたお金がマイナスになる前に、物を買っていこうという心理状態をうまく利用すれば、人々はお金が減る前に物に変えようということから消費に回していくかもしれない。そのとき商品が売れ、それが持続すれば経済が好転して、やがてマイナス金利政策として行き過ぎとならないうちに、つまりインフレ状態になる前にマイナス金利を解除し徐々に金利を戻していく、そういう状態になれば設備投資が動き出し金融機関が貸し出しを増やし経済が好転していく、今の日銀はこのようなストーリーを描いているのか。

 この二種類のうちのどちらかだろう、後者はバブルを創り出しインフレにもっていく筋といえる、その結果バブル後の経済不況、日本はかつて苦い経験をした。一時的に経済が回復し国民が喜んでいるうちにその付けを国民に負わされてしまう。このような政策を繰り返していいのだろうか、金融政策としてどこかが間違っているという感覚を人々は持っているはずだが。そこには不信感が心の隅にあり、やがてその不信感は拡大していく。

 これまでの状態、景気が落ち込んできたと判断された時頼れるのは国債そのものであった、結果日本の国の借金は国債地方債等合わせて誰でもが知っている金額として1,037兆円あり、一人当たり800万円になると言われている。このようになるまで放任してきた責任者はだれなのか、経済学者なのか。それとも学者が唱えたとしても自己の貨幣の蓄蔵の妨害になることには耳を貸さなかった一部の富者なのか。何せ一部の富者の1パーセントが世界の大半の富を握っていると言われている。私が書くよりも正確な資料を引用してみよう。


     世界の富の半分以上、占めるのは1%の富裕層
        2015年01月19日 17:13 AFP BB NEWS 発信地:パリ/フランス

【1月19日 AFP】世界人口の1%にあたる富裕層が持つ富は、2016年には残りの人口の99%が持つ富の合計を上回り、世界全体の富の半分を上回るとする報告を19日、国際NGOオックスファム(Oxfam)が発表した。
 世界の政財界の有力者が一堂に会する世界経済フォーラム(WEF)の年次総会(ダボス会議)が21日から開幕するのを前に、共同議長を務めるオックスファムのウィニー・ビヤニマ(Winnie Byanyima)氏は「世界的な不均衡の規模は極めて衝撃的としか言えず、世界的議題として持ち上がっているにもかかわらず、富裕層とそれ以外の格差は急速に広がっている」と語った。ビヤニマ氏は、世界の指導者たちに「もっと公平でもっと繁栄した世界への妨げになっている既得権益に挑戦する」ことを呼び掛けている。
 世界人口の1%にあたる富裕層が持つ富は、09年には世界全体の富の44%だったが、14年には48%となり、16年には50%を超えるようになると、オックスファムは報告している。金額換算した富裕層の成人1人当たりの平均資産は270万ドル(約3億1600万円)だという。
 また14年時点で世界の富全体のうち、富裕層が持つ48%を除いた52%の中で、46%までを占めているのは、富裕層以外の人口の中でも比較的裕福な5分の1だという。つまり残り5.5%の富を、富裕層でも比較的裕福な層でもないそれ以外の5分の4で分かち合っており、この層の資産は金額換算で成人1人当たり平均3851ドル(約45万円)でしかない。