楢篠賢司の『人間とは』

人間とは何かを研究しています。現在は経済学を自分のものにしたいと目下勉強中です。

お金を簡単に理解する方法 (AEの関係)

2012-09-25 11:01:03 | Weblog

  新しい民主党の幹事長に再選された輿石 東(こしいし あずま)さんは私より一つ上の76歳という年齢で大変な重責を担っている。私が年齢的にもう書けないというのは私の単なる我がままでしかないようだ

 そこで本当に経済を解り易く理解する方法として一番最適な、今まで書いてきた文章として「AEの関係」という文章が私のお気に入りなっているので再度書き直してみたい。

 なぜAEの関係と書いたのかは思い付きで書いてしまったとしか言いようがない。むしろ「お金を簡単に理解する方法」と書けばよかったのではないかと今では考える。

 そこでよく小学生がお店屋さんごっこをするように書いてみたい。まずそのお店屋さんはパンやさんがあり肉屋さん八百屋さん、お米屋さん魚屋さんがある。これで簡単な五つの店があることになる。この五店がAからEまでの食べ物においては日常生活の必要店となりAEの関係という言葉で表してしまった。

 この五店ある店に最初にお金、例えば千円なりを渡す。これは今の世界で言えば中央銀行。日本では日銀がお札を刷って公共事業という政府の施策で最初に社会にお金を投下するのと同じと考えてほしい。

 ここではパン屋さん(A)の手元に最初千円なりが入ってきたとしよう、そこでパンやさんが肉を食べたいということで肉屋さん(B)に行き千円札を出し肉屋さんからトンカツを買う。千円の販売ができた肉屋さんは魚が食べたいということから魚屋さん(C)に行き。そこで千円を渡しおいしそうな刺身を買ってきた。魚屋さんはその売り上げ千円でお米屋さん(D)にいき店先でおいしそうな湯気を出し販売していた肉まんを買ってきた。お米屋さんはその売り上げの千円札で八百屋さん(E)に行きおいしそうなスイカを買ってきた。

 ここで私が書いたAEの関係という文章になる。最初に投下された一枚のお金、千円札が時間差があるがAからEまでの生産者兼消費者の間で手渡され生活が成り立っている。

 また再度千円札を最後に手にした八百屋さんがそのお金を使い、今度はコロッケが食べたいということで肉屋さんに行きコロッケを買う、そこには肉屋さんの手元に千円が回ってくる、そこからAからEの生産者兼消費者の関係が何度か繰り返されれば1枚の千円札によって食という生活が充分に成り立っていく。このことが『経済の基本』だといえる。

 そこでもし千円札が何回か回ってくるうちにAEの中で少し利益として残していこうと二割に当たる二百円を誰かが手元に置いたとしよう。そこからこの先へ回っていくお金は八百円ということになっていく。一人の人間が自分の利益だけを考え二百円を手元に置いたことによりこの先、生産者兼消費者の関係者が全て八百円の生産しかできないし、八百円の消費しかできないことになる、このときこの関係の経済は二割低下したことになる。

 仮にもしAからEの関係者の中で誰か、それはお米屋かも知れないが買うことを止め千円札を手元に置いたままにしたら、この先の生産者兼消費者の関係は全て止まってしまう。社会で言えば相当な経済恐慌ということになるのかもしれない。

 ここで書いたことは貨幣の持つ機能の中で交換機能という一つの機能を土台にしたに過ぎない。この機能自体は人間が貨幣(お金)を考え出す以前の物々交換から引き継がれたものであり、何千年前から理論化されること無く現在まで先祖が訳もわからぬまま引き継いでしまった。

 それが現在の人々が何気なくお金を使う、お金を払い商品を受け取るという行為の根底に流れていることであり、お金を使ったからお金が消えてしまうことではなく、自分が商品を自分の物にするべく払ったお金は、やがて自分の手元に戻ってくるという前提が交換機能にあってお金を使う。それが全ての人に理解されたときが未来社会の姿なのかもしれない。

このブログを使って今まで書いてきた貨幣論を易しく書き名をしていきたい

2012-09-12 12:51:24 | Weblog

 最近経済の勉強不足のせいか「楢篠賢司の人間とは」で続けてきた貨幣論を年のせいか書けなくなってしまった。またはただ年のせいにしているだけかもしれない。そこでこの暫く休止していたブログを使い今まで書いてきた文章を誰でも理解しやすいように書き直していきたい。
 
 手始めは貨幣(お金)とは何かというところから始めてみたい。その前によく現代または過去にも言われているように人はお金の奴隷に成り下がってしまったと言われることがある。

 かっての奴隷は人間そのものの売り買いであり、その奴隷が持つ労働を買ってはいるが、奴隷主がその奴隷が不必要となればいつでも手放すことができた。奴隷主に労働で返すことができないときはじめてその奴隷は自由の身となることができた。だがその自由とは衣食住を断ち切られた自由であり、生きることにおいては不自由そのものでしかない。奴隷が労働価値が無くなった時それは死を意味した。

 現在の人間は労働をするにもしないにも自由であるが、しなかったとき、またはすることができなかったときかっての奴隷と同じような宿命が待ち構えているのではないだろうか。それはお金を得ることができなかったとき、何としても生きていくためにお金を得なくてはならない。若い女性であればいくらでも体を売ってお金を得ることができる。しかし男性の場合生きるためのお金を得るために長時間働くこともあれば、人が嫌がる仕事でもしなくてはならない。つまりお金を得る、それは人に使えるのではなくお金に仕えているという錯覚からきた言葉であろう。人はお金の奴隷になっている。