楢篠賢司の『人間とは』

人間とは何かを研究しています。現在は経済学を自分のものにしたいと目下勉強中です。

格差はやがて経済を崩壊に導く Ⅶ

2011-12-28 06:23:40 | Weblog
 
前回からの続き
  事業を継続させたいがための資金を必要としている人、今まで何の問題もなく継続されていた仕事が円高のため海外生産に移行され、それまで雇用されてきた人達が失業に追い込まれてしまう。その人達は家のローン、車のローンに追われてしまう。そこにはマイナスの資産が残ってしまう。雇用が継続されていなければ、もしくは明日の仕事の目的がない人にはリスクを持った人と判断されてしまうため、銀行は金を貸すことはあり得ない。

 多くの資産、または銀行に多額の預金をしている人には銀行がより高い金利商品を斡旋し、それらの人は今まで持っていた資産を銀行または金融機関が手を貸し今まで以上に資産を膨らますことになっている。逆側にいるマイナス資産の人達は、今まで仕事があり安定と思われていた生活から、いくらかでも周りの人と同じような生活をしたいがため、今までの家の賃貸よりも同じ支払いならばと持ち家に替えた人、周りの人と同じように車を購入してしまった人、これらは政治的な景気浮揚策という側面から買わされたと断言できる。

 もしこれらの人達が家や車を買わなかったら経済はより停滞していたことは確かだ。国の景気浮揚に踊らされていた人々、やがて失業からローンの支払いができなくなってしまった人、そしてその責任は景気浮揚を促した人達の責任は一切問われなく、債務を抱えてしまった人の自己責任として問われてしまう。

 現在では世界的な政治経済の仕組みから職を失い、支払いができなくなったとき、残ったのはローンの返済のめどさえ立たない家と車。そしてもろもろのマイナス資産を持つようになってしまった。そこにはプラス資産家とマイナス資産家の間には相当な乖離(格差)があり、それを埋める知恵さえ今の政治は欠如している。そしてそれらのプラスとマイナスの関係はこの先どんどん膨らんでいくことは全ての政治家・経済学者が理解していることでありながら、そこには何の手も打たれない、多分現在の世界的状況から判断すると世界経済が崩壊してしまうまでなんらの手も打たれないのでは。

 現在何らかの手を打ったとしても、ただ歳入を多くしたいがため税金をあげるという構想しかないのかと考えさせられてしまう。それは可処分所得という面から消費がその分落ち込んでしまい経済が以前より停滞してしまうという面も多々あると承知していながらである。

格差はやがて経済を崩壊に導く  Ⅵ

2011-12-26 06:34:49 | Weblog
 
銀行が最終的に集まってきた金を貸す、ただそれだけではなくそこには国の指導があるわけです。市中に流れている貨幣量が減少していると判断すればその対策として何らかの手を打ちます。その対策の手とは減少した原因を是正するのではなく、上っ面だけの対策が現在のより格差を拡大する原因となります。

 それは市中に貨幣量が減少する原因が何なのかの分析とその対策ではなく。なぜこのように書くかというと、市中の貨幣量の減少とはA・Eの関係から見たときCが貨幣を保存してしまったことが原因となっている。つまり人々が生活をしている大きな社会の中でも貨幣量の減少からくる経済の停滞とは、Cのような貨幣を交換にまわさず保存してしまう人が現れた結果にすぎません。そして政府は市中の貨幣量が減少したと判断したとき、金融緩和なる方法として手を打ちますが、幾ら貨幣量をジャブジャブにさせたたとしても、お金を今現在必要として人には、銀行にとってリスクが高いと判断されてしまうため、必要としている人に金が行くわけではなく、リスクをまったく無い人に貸付を行いがちです。リスクのない人それは資産を多く持っている人でしかありません

 格差はやがて経済を崩壊に導く  Ⅴ

2011-12-23 05:31:51 | Weblog
 


話を戻しますが市中に出た貨幣はやがて銀行に戻っていきます。それは預金者が銀行に預金するだけではなく、事業ローン・住宅ローン・自動車ローン・その他の銀行から借り入れたお金を毎月のように返済していくわけですから、その返済した分の貨幣量が新たに貸し出しをしない限り市中から消えてしまいます。やがて市中の貨幣量はどんどん減少していきます。ですが現在の円高の中で国内に投資をするのは銀行にとって返済して貰えるのかというリスクが伴います。

 返済というかたちで銀行に戻っていくお金ともう一つの方法で銀行に戻っていくお金があります。上記A・Eの関係でCがDの商品を買わなかった状態、Cはある意味生活が充足したためDの商品を買わなくても生活ができるため、自分に回ってきた貨幣を保存してしまう。その方法として銀行に預けてしまう。このA・Eの関係で経済的な困窮がCを除いて他の人達に現れていきます。この状態を改善するには貨幣を欲しがっているDにお金を渡せばまたA・Eの関係が回復するわけです。銀行はCから預かったお金をDに貸し付けます、ただしそこには利息という、銀行が経営するために必要な資金となる上乗せとCの利息分が加味されます。つまりDはただ一度のCが商品を買ってくれなかったため銀行を通してCからお金を借りる羽目になってしまったわけです。ここにも小さいながら貸す側と借りる側の格差が現れることになります。
そして当然そこにはCが保存したことによって市中に貨幣が無くなった状態ではC以外の人達の経済が成り立たなくなります。 

ですが私が書こうとしていることは格差を書こうとしているわけではなく、格差が拡大していったとき経済自体が崩壊するということの説明を書こうとしているわけです。

格差はやがて経済を崩壊に導く Ⅳ

2011-12-22 06:45:31 | Weblog

本来貨幣量は交換機能を念頭に置いた場合はその社会に適した量が決まっています。ご存知のようにその量を超えた貨幣が市中に出回れば当然貨幣に対し労働の価値が上がっていきます。ここでは労働1に対し貨幣量が2であればそれに見合う貨幣価値がやはり1になっていきます。つまり持っていたお金が半分の価値しかなくなるわけです。それをインフレというのはご存知じだと思います。

 しかしまだこの段階でCと同じように保存機能を働かせて交換にまわさず手元(銀行に預金する)に置いた貨幣が社会の失業率を悪化させる手前であれば、社会に不足した貨幣量を補えばいいわけですから、今の現実社会のルールに照らせれば数パーセントの人が保存してしまった貨幣を、また社会に呼び戻せば、不足した貨幣をまた社会に戻せるわけです。そして社会には以前と同じように貨幣が充足されていくわけです。

 このような方法を取らなかったなら失業者の増大から社会不安が増大し、いわゆる金持ちという人達も安心して住むことができない社会になってしまいます。失業こそ社会の治安に対する最大の敵です。

格差はやがて経済を崩壊に導く Ⅲ

2011-12-20 06:53:31 | Weblog

 前回の文章で書いたA・Eの関係での引用文は貨幣の機能が持つ交換機能だけを抜き出して書いたものです。当然歴史を遡ったとき、この交換機能は物々交換の時代に行き着きます。もし問題が起きるとすれば、それは充足された状態のときに交換からはずれ、何時でも他のものと交換できることから自分の手元に置いておこうと交換することなく手元に留めたときです。この時貨幣が持つ機能としての保存機能を与えられたことになります。

 ここで先に引用したA・Eの関係で、例えばその中の一人が、ここではCとしておきましょう、Cが物を作り出し売ったは良いのですが、お金が手に入ったにも関わらずDの作ったものを買わなかった。つまり貨幣が持つ保存機能を働かせてしまった。ここからこの後の経済は動かなくなります。つまりCを入れて全ての人が物を作れず失業ということになります。Cがいつまでも手にしたお金を使わなかったらこの状態は永遠に続くことになります。

 ただ現実の社会はこのA・Eの人物だけで生活しているわけではありません。社会に参加しているのは数多くの人たちです。その人たちの中にも交換で回ってきた貨幣を、Cの人物と同じように保存機能を働かせ手元に留めてしまう人達が何パーセントかいるわけです。この数パーセントの人達が現在の法律の下では合法化の名で数十パーセントの貨幣量をCと同じように保存機能を働かせてしまうわけです。

 格差はやがて経済を崩壊に導く Ⅱ

2011-12-19 06:10:54 | Weblog
 
ギリシャ問題から単を発した欧州通貨危機、現在の時点ではイタリアの国債価格がが7パーセンと以上まで金利を上昇させ危険水準だと言われています。ギリシャにいたってはさらにサラ金以上の金利になっています。不思議なことに国際金融のルールとは財政危機による国債の償還ができない国には、さらに高い金利を付け金を貸すという暴挙とも取れる手を使っていますが、そのことに対しては人は何も言わない。

 国を運営させていくためには今まで借りた金を返すことからはじめなくてはならない。国債を乱発した国が債務不履行(デフォルト)になれば国家破綻ということになります。

 そこから問題となるのが現在世界のあらゆる国々が発行している国債、その支払い(償還)が問題視されているということから国債について触れてみます。
 
 なぜ国債が問題となるのか。つまり国債、国が借金をしているわけですから、そして国が誰から借りているのかでは、国民というよりも、その発行している国にとらわれず国境を越えた資金によって一部の裕福な人たち(細かく言えばこの中には子供が親にもらうお年玉等、銀行に預けられたお金を含む)のお金ということになります。つまり簡単に言えば世界中が叫んでいる現在の経済危機とは本来お金の使い方としての「交換機能」物と物との交換(厳密に言えば労働と労働の交換の仲介物)に重点を置いて使われていれば何の問題も起こらなかったということです。
 ここで貨幣の使われ方として交換機能に重点をおいた私の過去に書いた文章を引用します。「A・Eの関係」というタイトルです。貨幣を論じるにはどうしても必要となるわけです。再度ここに簡単に文章を引用します。

A・Eの関係
Aが自己の労働を1枚の貨幣(カネ)に換え、Bが作り出した商品と交換します。そこにはAが持っていたカネがBに渡ります。BはそのカネでCの持っている商品と交換します(つまりCの商品を買うという行為です)Aの所有していたカネがBを通してCに渡ったわけです。CはDの持っている商品を買います。DはEの持っている商品を買います。そしてEはAが持っている商品を買います。  つまりここでは簡単な例ですが最初にAが持っていた1枚のカネがB、C、D、Eを通してAに戻ってきて一巡したわけです。そしてお互いに作り出した商品が売れたということになります。 さらにまたAがBの商品を買い、その関係がEまで続きAの元へ戻ってきたとします。そこにはAからEまで2回商品を製造しなくてはなりません。たった1枚の貨幣が2回の商品製造をさせたことになります。この関係がさらにAからEを通してAまで戻ってきたとき1枚の金が3回の商品を各自に作り出させたわけです。

 以上が交換機能に重点を置いた貨幣の使われ方です。このような使われ方にある意味限定させていれば現在の問題は起こらなかったといえます、我々の生きた時代は過去の遺物を修正することなく引きずって問題を起こしている。

 まだ人間自体の知恵が幼い時代ということができます。今回の危機が世界的な国債発行の増大からの危機である以上原因はわかっているわけですから、次の時代には必ずこの反省から何かが学べるはずです。

格差はやがて経済を崩壊に導く

2011-12-18 06:40:13 | Weblog

また別の角度から貨幣を見てみます。貨幣に重要な機能として交換機能と保存機能があるとことは周知の事実です。またその発生は物々交換が起源であるということも周知の事実です、そこで、貨幣の交換機能は労働と労働の仲介物として重要な要素を持ちますが、保存機能はと言うとこれは人間の社会に百害あっても利益といえるものはないということがいえます(投資という面では他の方法が取れるはず)

つい最近起こった出来事として金本位制の崩壊(1971年8月15日)という金と紙幣との兌換停止というのがありました。そこから機軸通貨(ドル紙幣)としてドルを世界の輸出入のために使うということになります。それまでは金は何時でもアメリカドル35ドルを持っていけば金1トロイオンスと交換できました。つまり金との交換を禁止したということは金は保存されて市中から減少していき、本来の交換するための貨幣量が不足していき、デフレ現象となってやがて次に来るのは需要と供給のバランスが欠けた事から経済の停滞、失業者の増加ということになります。ここにも金を溜め込んだ人間と市中の金(通貨)が不足し失業という結果に導かれてしまった人。つまり格差が経済を停滞してしまったことになります。

 そこから幾らでも刷れる紙幣を金に変わって流通させるということが起きましたが、紙幣といえども幾らでも流通させるということはインフレを招くことからできません。そこで国債の登場ということになります。国債はあくまでも貨幣の機能としての保存機能が使われることであり、これも保存機能に制限を設けない限り格差の増大から来るやがては市中に流れる通貨量の減少から経済を停滞させるということになります。

 失業者が増大する。とすれば社会不安になる。その原因は市中に回る貨幣量の減少からであることは火を見るより明らかであります。そこで何とか経済を動かそうとして国債の発行を考えるというのが現在のやり方である。つまり危機を将来に先延ばしすることでしか方策を採らない。だが誰が国債を買うのかということになると、それは持てる者からという事になる。つまり持てるものと持たざるものという格差が国債を発行させる元となる。
 

格差はやがて経済を崩壊に導く 序文

2011-12-08 06:47:00 | Weblog
このタイトルで文章を書こうとしている意味は、決して反格差を煽る意図で書いているものではないと断っておきます。私としては純粋に経済を書いているつもりです。ただ人とは違う見方で書いているのかも知れません。

 哲学から入った私は時間の流れの中で事物の動きを理解できるとでも言うのでしょうか。自分が存在しているのも時間の流れの中で理解できます。つまり若いときのある日から「私はどこから来てどこへ行こうとしているのか」という問いかけを自分自身に向かってしてきました。この地上に生命体が現れ、幾多の進化を繰り返しやがて人間と呼ばれる生物になった。その中の一人として自分を捉えます。そこから神が万物を創造したのではなく自然が万物を創造したという中で、死とは全ての生命体がやがて時間の中で迎えるものであり、人間だけに特別な死があるわけではなく脳の破壊によって私自身も消えてしまう。もはや自分の存在を捉えることが不可能になるそれが死であると。もし神がいて生命の神秘に関わっていたのであれば、そして私の死後天国なり別の世界(あの世)で自分の存在を確認できれば…それは絶対にありえないことです。なぜなら脳が破壊されているからとしか言いようがないのです。

 なぜこのような経済とは関係ないことを書いたのかと言いますと、現在人々が使っている貨幣つまりお金ですが、単なる現在だけを捉えて判断しているのではなく、時間の流れの中で貨幣を捉えている訳です。そして生命体として生物、または人間を捉えているのと同じ次元で貨幣も時間の流れの中で捉えることができます。

 貨幣を時間の流れの中で捉えるということはどのようなものかと言いますと、簡単に言えばどのような状況の中で貨幣が生まれたのか(物々交換に貨幣の原型がある、すでにその時に交換機能と保存機能を持っていた))そのとき貨幣に意味づけが考えられていたのか、つまり貨幣とは何かという理解がされていたのかということになります。そして現在迄において貨幣の持つ意味が解き明かされて使用されていたのかということになります。

 そして回答としては貨幣はその発現から何の意味付けもされにまま人間の欲望に支配されたまま現在まで使われてきたということになります。この結果がもたらすもの、今のまま何の制御もないまま使われてしまえば行き着く先は経済の崩壊ということになります。つまり人間の社会では「経済イコール貨幣の使われ方」でしかないと考えるからです>