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千年の古都のタイムトンネル
京都の歴史 その404
鷹が峰光悦の屋敷は、光悦町のほぼ中心にあったが、
これとは別に現在光悦寺のある場所に、
先祖の位牌所とともに「 太虚庵 」という庵を結んだという。
彼はこの鷹ヶ峰で書を認めたり、茶を嗜んだり、
或は土地の土を捏ねて楽焼を楽しんだり、
と悠々自適の生活を送っていたようで、
寛永7年 ( 1630 ) 板倉勝重と林羅山がこの地に光悦を訪ね、
羅山は「 鷹峰記 」を書いてその景勝を愛でている。
そして、
寛永14年2月、光悦は80歳の生涯をこの地で終えているのです。
光悦は、徳川家康から裁判権や年貢徴収の権利まで与えられたが、
領主としての支配権には余り関心を持たなかったようで、
そのため光悦の死後、
領地を接する鹿苑寺 ( 金閣寺 )との間で境界紛争が起こったり、
百姓との間に領有権争いを引き起こすことになる。
その結果、
天和元年 ( 1681 )、光悦町は幕府の直轄領に収公され、
鷹ヶ峯村の一部となってしまった。
現在の鷹ヶ峰は、
かっての本阿弥家の位牌所のあった光悦寺、
岩戸妙見と呼ばれる円成寺、
六条三筋町の花魁吉野太夫の墓がある常照寺など、
かっての法華宗寺院が残るばかりで、
芸術村の面影はない。
しかし、
かってと同じ町筋が残されていて、
街道筋らしい風情を漂わせています。
今回はここまで・・
続きは次回に・・
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