木津川市加茂町岡崎というところの、
木津川に架かる恭仁大橋北東のたもとにある流岡山。
丘のようにも見えるこの小さな山の成り立ちにまつわる伝説がある。
物語は奈良時代(八世紀)、
聖武天皇による東大寺の大仏建立時にさかのぼる。
当時、物資輸送の動脈をなしていたのは木津川だった。
大仏建立のための木材を、
上流に位置する伊賀の山々から切り出し、
下流の奈良方面に運ぼうとした際、
笠置山のふもとにあった巨岩がいかだの行く手をはばみ、
木材を運べなくなった。
そこで、聖武天皇は東大寺開山の高僧、良弁僧正に
「千手の秘法で岩を取り除くように」との命令を下した。
良弁僧正は笠置山の岩穴にこもり、
朝も夜もなく祈願し続けた。
するとある日、
空一面を暗雲が覆った。
雷がひらめき、地面を激しくたたきつける大雨が降り出した。
川は瞬く間に大洪水になった。
雷が巨岩に落ち、岩は大小二つに割れた。
洪水は岩を流し、
一方は当時の都、恭仁京があった瓶原(みかのはら)(同町)まで、
もう一方はさらに下流の田辺(現在の京田辺市)
まで流され、木材を運ぶことができた。
二つに分かれてしまった岩は互いに恋しがり、
風が吹くと瓶原の岩からは「流れようか」、
田辺の岩からは「いのうか=帰ろうか=」と
呼び合う声が聞こえてきた。
人々は岩の叫びを聞き、
慰めようと「流れようか」と叫んだ岩を流岡、
「いのうか」と叫んだ岩を飯岡と呼ぶようになったという。 地元の人に聞くと・
良弁の法力を伝える話は
流岡山にも近い海住山寺(同町例幣)縁起や
東大寺縁起にも登場するという。
「この形態の話が成立したのは鎌倉時代ごろだという。
もともとは良弁の持つ力のすごさを伝える物語で、
後から山の創成伝説が付け加わっていったと思われる」と話す。 川筋にそびえる二つの山を眺めて、
人間的な感情を込めて物語に仕立てた当時の人々の想像力がたくましかったのか、
この物語に仮託されるような
、離れ離れにならざるを得ない人々の歴史が実際にあったのか。
いずれにしろ、おおらかなユーモアとペーソスを感じさせる。
それは、とりもなおさず、
往時の人々の優しい心根とのどかな暮らしぶりを映しているのでは
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