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宇治川の堤防から見ると、木々がうっそうと茂り、森のように見える宮内庁管理の墓 (宇治市莵道)
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時々ジョギングで通るコースの横に大きな森の墓がある。
宇治市莵道の宇治川河畔の墓、
これにもう一つ宇治の朝日山山上にも同じような墓があると言う。
地元の人によると
宇治の地名の由来ともいわれる皇族、
莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)の墓だという。 1899(明治22)年、当時の宮内省が定め、
堀をこしらえ、長さ80メートルの前方後円墳に仕立てた。
茶畑が広がる宇治川右岸にこんもりと巨大な丘陵をつくる。
現在は宮内庁の管理。
約一キロ南の距離にある墓は、
1メートルほどの墓碑で朝日山の山上の道脇にひっそりと立つ。
こちらは、その150年前の江戸時代にできた。 しかし、両者とも莵道稚郎子の時代とされる四世紀よりはるかに新しい。
詳しい背景は不明で、悲劇の皇子の謎を一層深めている。
「日本書記」や「古事記」は
莵道稚郎子の生涯をこんなふうに記している。 莵道稚郎子は、
応神天皇の子として生まれた。
非の打ち所のない賢者で同天皇の寵愛(ちょうあい)を受け、
後の仁徳天皇となる大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)と
大山守命(おおやまもりのみこと)を差し置いて皇太子になった。
これが悲劇の始まりだった。 天皇の死後、大山守命は皇位を得るため、
莵道稚郎子を討とうとするが、逆に敗れて命を落とす。
三年間の皇位空白期間が生じ、
莵道稚郎子は大鷦鷯尊に位を譲るため自ら命を絶ってしまった。
のちに大鷦鷯尊が即位し仁徳天皇となった。 大鷦鷯尊がその死に驚き「莵道の山の上」に莵道稚郎子を葬ったという。
その記述が二つの墓をめぐる謎につながる。 「宇治川畔は山ではないし、朝日山には古墳があるわけではなく、
考古学的な痕跡は見つかっていない。
なぜそこに墓をつくったのかわからない」と首をかしげる。 莵道稚郎子に魅せられ、
その謎を探る小説「風はささやき地は叫ぶ」を著した、
筑紫さんは「ミステリーだからこそ、先人たちも強くひかれ、
千五百年以上たった今にまで、伝承が残っているのでは」と推測する。 戦禍が絶えない動乱の時代にあって、
自ら命を絶ち、兄に位を譲ったという美談。
筑紫さんは「莵道稚郎子は権力に固執せず、
自己規制した、人間としての魅力がある。
今の時代だからこそ、
もう一度、よみがえってほしい」。 とも・・・
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