オヤジのひとり言

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醍醐の藤戸石

2013年03月16日 | オヤジのひとり言

       

醍醐寺の藤戸石

権力象徴から仏に
醍醐寺三宝院庭園に据えられた藤戸石。
阿弥陀(あみだ)三尊像になぞらえた三尊石組み

                      

うめぇ~わぁ~♪・さぁいぃ~たぁ~♪かぁ~♪・?

・さぁ~くぅらぁ~♪は・まぁ~だぁ~かぁいなぁ~♪?  

さくらの開花をを待ち焦がれている俺・   

 

近所の醍醐寺の桜

かの秀吉が「大花見会」を開いた桜の名所・醍醐寺にも

こんな言い伝えがあります。

 

時は平安末期、源平の合戦のさなか。

備前国藤戸(現・岡山県倉敷市藤戸)、

児島(現在の児島半島)に陣を張る平氏の軍勢を、

源範頼勢が攻め寄せた。

波が高くて渡れず困惑していると、

御家人の一人佐々木盛綱が手勢を率い、

馬に乗ったまま浅瀬を渡った。

それに続いた源氏勢は一気に平氏を追い落とした
 
このとき盛綱は浅瀬の場所を地元の漁夫から聞き出した。

しかし情報が漏れるのを恐れた盛綱は、

その場で漁夫を切り殺した。

平家物語が伝えるこの話を題材にした謡曲「藤戸」は、

漁夫の母親に非道を責められた盛綱が漁夫の魂を弔い、

漁夫の亡霊が現れ、恨み言を繰り返しつつ成仏する。
 
戦乱の時代、武士に蹂躙(じゅうりん)され、

涙をのまされた庶民の悲しみを伝える話だが、

武家社会ではなぜか、

一番乗りを果たした盛綱の栄光を伝える話となる。

そして漁夫の殺害現場にあったとされる石が、

「天下の名石」として語り継がれる。
 
その石は、室町後期に実権を握っていた細川管領邸に現れ、

京に上ったばかりの織田信長が奪う。

当時の公家、山科言継(ときつぐ)の日記には、

三千人の人夫を使い、笛や太鼓ではやし立て、

足利義昭のために造営した二条邸に運び込む様子が描かれている。
 
次なる天下人、豊臣秀吉は、その石を聚楽第の庭に移した。

1598(慶長3)年、醍醐の花見を催した秀吉は、

造営中だった醍醐寺三宝院庭園の主人石とした。

現在、表書院から眺める庭園の正面で、

ひときわ存在感をアピールしている石が、その藤戸石

天下人の自負を体現したような堂々たる石です。
 
藤戸石の由来に詳しい同寺の室長は

「寺にとっては、権力の象徴というより、

大恩ある太閤さんのモニュメント」と話す。
 
応仁の乱で荒廃した醍醐寺下寺は五重塔を残すのみだった。

大伽藍(がらん)を再興した秀吉は、

藤戸石背後の築山に「豊国稲荷大明神」として祭られ、

毎朝三宝院本堂に出入りする僧侶は、

大明神ならびに藤戸石への合掌拝礼を欠かさないという。

権力者に翻弄(ほんろう)された藤戸石は、

安住の地を見いだし、三尊石組みの仏となった。
 
「太閤さん、そして戦乱の犠牲になった人々への鎮魂が込められている」という。

傲然と肩を怒らせた石は、

一方で深い悲しみをたたえているようにも見えるから不思議です。

【メモ】
醍醐寺は京都市伏見区醍醐東大路町地下鉄東西線醍醐駅から徒歩約10分。

国の特別史跡・特別名勝の三宝院庭園は

秀吉が1598(慶長3)年の醍醐の花見に際して、

自ら設計、庭奉行竹田梅松軒に命じて造園。

1626(寛永3)年に完成した。

 

今回はここまで・・    

続きは次回に・・ 

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