日日の幻燈

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【note】内藤新宿を往く(8) 内藤新宿開発人・高松喜六の墓

2015-06-03 | 旧甲州街道を往く

内藤新宿めぐりの最後は、四谷の愛染院。
ここに内藤新宿を開いた高松喜六の墓があります。四谷大木戸跡から15分くらい歩きますが足をのばしてみました。

【愛染院本堂】

愛染院は真言宗のお寺ですが、創建時代は不明とのこと。言い伝えによれば、平安時代にまでさかのぼるようですが…。旧甲州街道(現在の新宿通り)から須賀神社へ向かう参道の坂道(東福院坂)をくだっていく途中にあります。かなり急な坂道です。

【高松喜六の墓】

高松喜六は、もともと浅草の名主(町人)で、仲間5人とともに幕府に内藤新宿の宿駅開設を願い出て許可されたのは1698年のこと。5600両を上納することが条件に含まれていました。現在の金額にすると6億7200万円(1両=12万円で計算)。それだけの大金を出してまでこの地に新しく宿場を作ろうとしたのは、けして江戸から最初の宿場町の高井戸まで遠すぎるから…という、単純な理由ではないことは明白かと。

宿駅が開かれる前から、すでにこの地には休憩施設的なものがあったようですが、それでも葭や萱が茂る荒地だったそうです。しかし喜六は、甲州街道と青梅街道が分岐するこの地は、これから間違いなく発展すると先読みしたのでしょうね。
喜六らは、率先して内藤新宿に移り住み、幅5間半の道路を造り、その両側に宅地を造成しました。彼の墓の側面には「内藤新宿開発人高松金八友常」と刻まれていますが、まさに彼の矜持そのものですね。

【高松喜六の墓・側面】


その後、宿駅の廃止、明和の立返りによる宿駅復活と、山あり谷ありの内藤新宿ですが、高松家は常に中心的立場にありました。「開発人」の血が子孫にも脈々と受け継がれ流れていたのでしょう。


【塙保己一の墓所】

高松喜六の墓のさらに奥に、「群書類従」の編集で有名な国学者・塙保己一の墓があります。もともとは他の寺院にあったものが、明治に廃寺となり愛染院に移されたそうです。

【塙保己一の墓】



境内の奥に墓地の入口がありますが、私が訪れたときは、門扉が閉まっていました。鍵がかかっているわけではないので、開けて入れるようですが、一応、お寺の方にお断りしてからのほうが無難かと。私も声をかけてから入りました。
その際、お寺の方に墓の場所を確認しておけば、そんなに探さずにすみますしね。





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