日日の幻燈

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【note】甲州街道・駒木野宿から小原宿まで歩いてみた(5)-小原宿を往く(前編)-

2016-12-08 | 旧甲州街道を往く

小仏峠を無事に越えて、相模最初の宿場町・小原宿へと入ります。
小原宿は規模は小さいながらも、小仏峠を控えた重要な宿場でした。
峠を越えたてきた旅人は、ホッとしてひと休みでもしたのでしょうか。また、これから峠へ向かう者は、宿場の東にそびえる峠を見上げて、気を引き締めたことでしょう。

天保14(1843)年の「甲州道中宿村大概帳」による小原宿の概略は次の通りです。

・本陣…1軒
・脇本陣…1軒
・問屋場…1ヶ所
・旅籠…7軒
・宿場の家数…61軒
・宿場の人口…275人

西に連なる与瀬宿と合宿で、小原宿からは与瀬宿を通り越し吉野宿まで継ぎ立て、与瀬宿は小原宿を越えて小仏宿まで継ぎ立てる、いわゆる片継ぎの宿場でした。
「与瀬村の内、小原村」と江戸時代の記録にあるように、西隣の与瀬宿とは「同じ村の内」的な扱いだったのでしょうか。距離的にも17町(1.9キロ)程でした。
最寄りの駅、JR相模湖駅辺りはまさに与瀬宿です。
残念ながら明治28(1895)年の大火で、宿場の家並みは灰燼に帰してしまったとのこと。それでもその後再建された家屋が、宿場町の雰囲気を今に伝えています。

【小原宿・底沢】


小仏峠を下った辺りは底沢という地名のようです。江戸時代の地誌、「新編相模国風土記稿」にも底澤の名が記録されているので、古い地名なのでしょうね。小仏峠から降りてくると、底沢というネーミングに思わず納得してしまいます。

【小原宿・底沢辺り】


まだしばらくは山間といった感じの道が続きます。

【JR小仏トンネル出口付近】


底沢を歩いていると、小仏トンネルを抜けてすぐのJRの線路を真下に見下ろすことができます。鉄道の開通は、それまでの峠越えから旅を一変させたんだろうなぁ…という思いに浸れるスポットです。この区間(八王子-上野原間)に鉄道が開通したのは明治34(1901)年のことです。

【小原宿・底沢付近の眺望】


写真の左側にはJRの線路、右上の高架は中央道。
徒歩→鉄道→自動車と、旅の形はどんどん変わっていきます。

【小原宿・美女谷】


中央道の下を潜ってしばらく歩くと、道が左右に分岐しています。
この一帯が
「昔から美女が多いことから、遂に地名にまでなった」
と記されている、美女谷です。
甲州街道は左へ。右に進むと明治時代に開かれた美女谷温泉です。

【美女谷と照手姫】


ここ美女谷は、歌舞伎や浄瑠璃で有名な(…私はよく知りませんが…)、照手姫の生まれた場所と伝わります。
絶世の美女と言われる照手姫は、小栗判官という武士と恋仲になりますが、いろいろあって判官は毒殺されます。判官は照手姫の必死の祈りが通じたのか、遊行上人によって蘇生し、ふたりは仲良く暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。
こんな感じらしいです。

そう言えば東海道を歩いた時、藤沢宿かどこかで、この話にまつわるものを見かけたよね…なんて話にもなりました。

【美女谷橋】


美女谷橋を渡って甲州街道を進みます。
照手姫の他に、この地出身の美女と言えば紺屋高尾がいます。吉原で5代目高尾太夫を襲名した花魁で、江戸の紺屋に身請けされたため紺屋高尾と呼ばれます。のち、彼女が作る手ぬぐいは、江戸の遊び人たちの間で大流行した…ということです。

【馬頭観音】


中央道の高架下、側壁の上にあります。明治16(1883)年に建立されました。うっかりしていると見落としてしまいそうです。

【小原宿・板橋の碑】


馬頭観音に向かって左側に建っている碑。
江戸時代に編纂された「新編相模国風土記稿」の小原宿の稿に、宿内の橋の記述として、長さ7間、幅2間の板橋が紹介されています。東の千木良(ちぎら)村との境の渓流に架かっていたとありますので、この板橋の碑は、その橋(の跡)を示したものなのでしょうか?

【小原の一里塚跡】


日本橋から15番目の一里塚です。この辺りの甲州街道は、中央道の開通により随分と破壊され消滅していて、一里塚も今は痕跡などは残っていないとのことです。

【底沢橋】


底沢橋に出ます。ここで駒木野宿の入口で分かれた国道20号線と合流します。
左へ行けば、江戸時代の千良木村。小原宿へは右折して西へ進みます。

【底沢橋から西へ】


底沢橋から西へ向かいます。まだ山間といった景色が続きます。相模湖はすぐそこのようです。

【小原宿中心付近】


山間の景色が一変して、突然、周囲が開けて町に出たような感じを受けるのがこの辺り。底沢橋から5、6分のところです。いよいよ、小原宿の中心に入るようです。


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