江戸魚市場めぐり、続いては新肴場。
そもそも新肴場って何だ?という疑問からはじまった魚市場めぐり。その原点です。
新肴場が成立したのは1670年代のこと。
既に日本橋に魚河岸が出来て活況を呈していました。その魚河岸に、距離が遠く鮮度が落ちることを理由に安く魚を買いたたかれていた武州や相模の漁民。彼らが魚河岸のやり方に対して異議を唱えたのがきっかけ。
勘定奉行に陳情し、そこから裁定は評定所に持ち込まれるなどした結果、彼らは日本橋とは別に、楓川沿いの本材木町に魚市場を開く許可を勝ち取りました。日本橋の発展ぶりを見た本材木町の家主たちの後押し(新しい魚市場の誘致や資金援助)も大きかったようです。
こうして開かれた魚市場を「新肴場」、略して「新場」と称しました。新肴場の者たちは日本橋の魚河岸を「古場」と呼んで対抗意識を持ったとか。
それでは現在の新肴場の様子はどうかというと…。
【新肴場1】
かつて新肴場だった本材木町の通りは、現在、「江戸・もみじ通り」の名称となっています。やはり四日市と同様にオフィスビルが立ち並ぶビジネス街となっていました。
【新肴場2】
日曜日ということで人通りもほとんどなく閑散としています。東京のど真ん中でも休日ともなれば、ちょっと路地に入るだけで、ここが本当に東京か?といった静けさ。なんだか不思議な感じです。
【新肴場3】
そんなかつての新肴場で、魚市場だったころの面影をさがしてみましたが、やはりここも皆無。居酒屋の看板にその名を見出すくらいです。居酒屋だって軒を連ねているというわけではなく、やはりここは今やオフィス街に飲み込まれてしまったようです。
ちなみにこの居酒屋さん、看板通り魚が売りでなかなかの評価のようです(グル●ビによる)。私は残念ながらまだ未体験。オフィス街らしく土日はお休みです。
【新場橋】
ただ、新肴場を略した新場という名称は残っていました。
まずは楓川に架かる新場橋。この橋は関東大震災後に架け替えられたそうで、江戸時代にはもう少し北寄りだったとか。
【新場橋の橋柱】
【中央区立新場橋区民館】
新場橋を渡り、すぐ左手に折れて歩くと、かつての楓川沿いに新場橋区民館があります。上の江戸時代の地図だと「坂モト丁」あたりです。区民館の名は橋からとられた名称ですが、ここにもかつての新肴場が地名として記憶をとどめていました。
【旧楓川跡-新場橋より-】
新肴場に魚を運び込む船で賑わったであろう楓川。現在はどうなっているかというと…
はい、この通り。
埋め立てられて高速道路になっています。
川が埋め立てられたのは1960年代。戦後の復興を大急ぎで進めていた時代。江戸を偲ぶには少々残念ですが、当時としては最善・最良の策だったのだと思います。日本橋の上の高速道路も…。
ということで、新肴場も日本橋の魚河岸や四日市と同様に、かつての魚市場としての名残は見当たりませんでした。それでも橋や区民館にその名が残っていたことで、多少なりとも江戸の賑わいに想いを馳せることができるのが救いでしょうか。