歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと
日日の幻燈



八王子と縁が深い大久保長安とは言いながら、では彼に関する遺物・遺構・伝承はどれだけ残っているのだろうか?
…という素朴な疑問に端を発し、では辿ってみようと思い立ちました。まずはネットで下調べしてみたところ、「大久保長安マップ」なるものがヒット。地元の出版社が作成したようです。マップそのものは未入手ですが、まずは、そこに記されている13か所をターゲットにしてみようかと。

そんなわけで、いざ、大久保長安の聖地巡礼の旅に出発!ただし、出不精の私のこと、どれだけの期間を費やすことになるのか、ちょっと不安…。気長にお付き合いいただければ幸いです。

さて、記念すべき1回目は「開運灯篭」。
JR八王子駅の南口から徒歩10分弱の興林寺にあります。

【興林寺】


江戸時代後期の「新編武蔵風土記稿」の興林寺の項に、次のような記述があります。
「本堂の後に旧き宝塔に似たるもの破壊してあり。これは昔大久保石見守が、越後の上杉謙信が建置しと云う石灯篭をこの地に持ち来れるなりと。其後大久保が家断絶せしゆえ、彼の石灯篭も取捨となりしかば、ここの境内に移せしなりと寺伝に残りおれり」
要するに、長安が越後(今の新潟県)から上杉謙信の石灯篭を持ち帰ってきたけど、お家が断絶したのちは打ち捨てられ興林寺の境内に移した、ということのようです。長安は佐渡の金山・銀山を統括する代官に任じられているので、佐渡へ赴いた際、越後にも立ち寄り持ち帰ったのでしょう。
案内していただいたお寺の方に、興林寺に移されたいわれをお伺いしましたが、戦災で古い記録などは焼失してしまい、そのあたりのことはわからないそうです。

【開運灯篭1】


さて、こちらがその石灯篭です。
境内に案内板は出ていません。場所が分かりにくいので、お寺の方に尋ねてみましょう。親切に案内していただきました。
「新編武蔵風土記稿」にあるとおり、「破壊」されています。基礎と笠の部分だけが今に残されているとのこと。

で、なぜこの壊れた灯篭が「開運灯篭」と呼ばれているのか?

お寺の方いわく、江戸時代、ある商人がこの灯篭に触れたところ、幸運が続いた(商売繁盛した、ということでしょうかね)ので「開運灯篭」と呼ばれるようになったそうです。

【開運灯篭2】


「どうぞ、撫でていってください」
とのことでしたので、私も今以上に幸運が舞い込みますように、と触らせていただきました。

今は一部しか残っていませんが、完全な形なら、さぞ見栄えのする灯篭だったことでしょう。長安の権力が絶大だったころ、陣屋を訪れる客人に
「これが、あの上杉謙信公の石灯篭でござる」
なんて、長安も鼻高々にお披露目していたかもしれませんね。



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