この人生、なかなか大変だぁ

日々の人生雑感をつれづれに綴り、時に、人生を哲学していきます。

トウショウボーイとテンポイント

2021-06-13 15:37:00 | たかが競馬、されど競馬
3冠馬ミスターシービーとシンボリルドルフの初対決を語ろうとしたが、ことの順序としてミスターシービーの父トウショウボーイのことに触れておかないといけないだろうと思いなおした。

トウショウボーイは父テスコボーイ、母ソシアルバタフライ(輸入繁殖牝馬)である。
父のテスコボーイはプリンスリーギフトの仔で1967年12月に種牡馬として輸入された。
昭和49(1974)年のキタノカチドキ(皐月賞・菊花賞)が産駒の第一世代で、その年のリーディングサイアーとなるなど一気に種牡馬として大成功している。
わたしの知っている範囲で言うとまずパーソロンが人気だった。パーソロンにあらずして競走馬ではないと言わしめた記憶がある。(記憶違いでなければ)そしてその後テスコボーイが席巻した。

どこかで書いたことがあるが、トウショウボーイの新馬戦(1400m芝)の初勝利を見てきた師匠から「凄い馬がいる」と報告を受けた。3馬身の楽勝で1着になったにもかかわらず1番先に戻ってきたらしい。目一杯走っていなかったから向こう流しに行く必要がなかったというのが彼の言。
続くつくし賞(1400mダート)を4馬身の楽勝。次のれんげ賞(1800m芝)は2着に5馬身差。だんだん着差が開いていくという快足ぶり。惚れてしまった。

いよいよ皐月賞で関西の怪物と呼ばれたテンポイントとの初対決が実現することになった。
テンポイントは関西で新馬戦(1000m芝)をレコード勝ちで10馬身差。2戦目もみじ賞(1400m芝)は2着に9馬身差。3戦目の阪神3(現2)歳S(1600m芝)の不良馬場7馬身差の楽勝で勝って関東に乗り込んできた。
東京4(現3)歳S(1800m芝)は2着のクライムカイザーに1/2馬身。スプリングS(1800m芝)で2着メグロモガミにクビ差であった。
その時は気づかなかったが、5連勝中も着差が段々縮まってきていたのである。

当時は関東・関西のライバル意識が強く、関東にいたわたしたちは「テンポイント何するものぞ!」と闘争心剥きだしになっていた。(自分たちが走るわけじゃないのに)
テンポイントが1番人気になったのは成績だけではなかっただろう。
テンポイントは父コントライト、母クモワカ(桜花賞)の仔で、このクモワカの母親がワカクモであった。

昭和27(1952)年京都競馬場で馬伝染性貧血(伝貧)集団感染が起こり、家畜伝染病予防法17条により殺処分命令が出されワカクモもその対象となった。
ところが関係者はワカクモの状態から診断を疑い密かに北海道へ連れ帰っていたのである。
その後裁判を経て昭和38(1963)年に復活登録を果たせたという。
その5番仔がクモワカだったのである。この秘話がテンポイントの人気を高めたのだ。

数年前に競馬記録を処分してしまったし、日記もこの時期1年ほど書いてなかったので詳細はわからないが、競馬場の記憶がないので皐月賞当日わたしは競馬場に行ってなかったと思う。
トウショウボーイがテンポイントに5馬身差をつけて圧勝した。
テレビ観戦で狂喜した記憶もない。ただ単勝270円と枠連450円を大きく張って大勝したことは憶えている。それで家賃や借金の精算をした記憶があるのだ。その頃火の車だったのかな?

ダービーではトウショウボーイ(池上昌弘)が直線先頭に立ったが、外からクライムカイザー(加賀武見)が忍び寄ってカットイン。トウショウボーイの前に入り込んでそのままゴールした。
トウショウボーイは外に体制を立て直して追ったが0.2秒差の2着。確かクビ差ぐらいではなかったのではないか?
加賀の強引な騎乗に、進路妨害だとか勝負ならこの程度は許されるなど賛否両論があった。
わたしはその後ずっと加賀を恨み続けた。(きっと単勝馬券を持っていたのだと思う)
主戦の鹿戸明が落馬負傷のためテンポイントは名手武邦彦に乗り替わっていたが、調子を落としていたのだろう7着に惨敗している。

秋には両馬は順調に駒を進めてきた。
テンポイントは京都大賞典(3着)をひと叩きしてきた。
一方トウショウボーイは夏場札幌記念(2着)。そして神戸新聞杯(1着)から天才福永洋一に乗り替わって、京都新聞杯(1着)を経て菊花賞に臨んできていた。
トウショウボーイもテンポイントも相手は1頭と考えていたのだ。お互いに先行しながら先に立ったり後になったりしながら、4コーナーからトウショウボーイ(福永)が仕掛け先頭に並びかける。直線に入って満を持してテンポイント(鹿戸明)が先頭に躍り出た。
雪辱を晴らしたかと思ったら、何と!インをついてグリーングラス(安田富男)が伸びてきて優勝を飾った。テンポイントはトウショウボーイ(3着)を制するものの無念の2着。クライムカイザー(加賀武見)は5着タイだった。
12番人気の伏兵グリーングラスは遅咲きの長距離馬(父インターメゾ)でようやく菊花賞に間に合ったのである。

その後のTT対決は、有馬記念トウショウボーイ(武邦彦)、2着テンポイント(鹿戸明)。
翌年の宝塚記念1着トウショウボーイ(武邦彦)、2着テンポイント(鹿戸明)と勝負付けは終わった感があった。
いよいよトウショウボーイの引退レース昭和52(1977)年の有馬記念にテンポイントも参戦することになった。
わたしは沖縄に戻っていたので馬券は買えなかった。

レースは2頭のマッチレースの様相だった。トウショウボーイ(武邦彦)が先頭に立ち、ぴったりテンポイント(鹿戸明)がその後につける。3コーナー辺りからテンポイント(鹿戸明)が外から並びかけて、4コーナーからゴールまで2頭が抜きつ、抜かれつのマッチレース。後ろからグリーングラス(島田功)が忍び寄ってきたが脇役に過ぎず3着だった。
テンポイント(鹿戸明)は最後の最後にトウショウボーイ(武邦彦)に雪辱を果たしたのである。

わたしには実害がなかったので、敵に塩を送るのも悪くないと思った。
テンポイントにはその後悲しい未来が待っていたのだから、それはまた別の話である。

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