歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪【新刊紹介】榧野尚先生の『反り棟屋根』≫

2021-05-03 19:14:19 | 私のブック・レポート
≪【新刊紹介】榧野尚先生の『反り棟屋根』≫
(2021年5月3日投稿)



【はじめに】


この度、榧野尚先生から『反り棟屋根』という御高著をご恵贈いただいた。ここに記して深く感謝申し上げます。
先生とお知り合いになったのは、私が1994年から約6年間、短大の非常勤講師を勤めていた時に遡る。だから、かれこれ四半世紀をこえることになる。
 当時1990年代には、榧野尚(かやのたかし)先生は島根大学理学部助教授で、専門は数学で、極大フロー、調和境界、ロイデン境界などを研究しておられた。短大には、コンピューターのプログラミング関係の講義をなさっておられたように記憶している。
 学問分野は異なったが、先生のお人柄の温かさと教養の広さにより、話を合わせていただき、懇意にさせていただいている。
榧野先生には、専門の数学の分野以外にも、次のような出版物もある。
〇榧野尚、阿比留美帆『みなしごの白い子ラクダ』古今社、2005年
(モンゴルの民話にもとづいた絵本。母親を金持ちの商人に捕まえられ、王さまのところにつれていかれ、ひとりぼっちになった白い子どものラクダの悲しみを描いたもの)

 今回のブログでは、榧野尚先生の『反り棟屋根』(高浜印刷、2021年1月25日発行、190頁、定価2750円)を紹介してみたい。

巻末には、本書は「公益財団法人いづも財団」の助成を受けて出版しました、とある。
先生のお手紙には、「いづも財団の選定意見」が添付されており、次のようにある。
「これまで45年間にわたる調査研究に敬意を表します。まとめられた冊子を拝見いたしますと、写真撮影の年月日がきちんと表記され、出雲地方のみならず全国、海外の反り棟屋根の写真が掲載されています。これは文化財の保存継承の観点からみても、大変貴重な資料です。
 今回の申請内容は、「文化の探求」分野の趣旨に合致していますので、採択いたします」

この選定意見にあるように、次の点が注目される。
・45年間にわたる反り棟屋根に関する調査研究
・写真撮影の年月日が表記されている
・出雲地方のみならず全国、海外の反り棟屋根の写真が掲載されている
⇒これは文化財の保存継承の観点からも貴重な資料

 ご高著の問い合わせは、高浜印刷(〒690-0133松江市東長江町902-57 TEL.0852-36-9100)
にしていただければよいのではないかと思う。
 ISBN 978-4-925122-69-6である。





榧野尚先生の『反り棟屋根』の目次は次のようになっている。
【目次】
はじめに
民家の屋根について
第1部 出雲地方の反り棟屋根
第1章 出雲市の反り棟屋根
     第1節 出雲市 大社町、日下町、平田町
第2節 出雲市 西林木町、口宇賀町、三津町
     第3節 出雲市 万田町、灘分町
     第4節 出雲市 鹿園寺町、島村町
     第5節 出雲市 斐川町
     第6節 出雲市 馬木町、稗原町、乙立町、西谷町、久多見町
第2章 松江市の反り棟屋根
     第7節 松江市 大野町、大垣町、西長江町、東長江町
     第8節 松江市 鹿島町、島根町
     第9節 松江市 法吉町
     第10節 松江市 西川津町、西持田町
     第11節 松江市 朝酌町、本庄町、上宇部尾町、八束町、手角町
第12節 松江市 玉湯町
     第13節 松江市 西忌部町、東忌部町、八雲町
     第14節 松江市 大庭町、東出雲町
第3章 安来市の反り棟屋根
     第15節 安来市 荒島町、利弘町、安来町
     第16節 安来市 広瀬町
     第17節 安来市 門生町、清瀬町
第4章 雲南市、奥出雲町の反り棟屋根
     第18節 雲南市、奥出雲町
第5章 隠岐郡の反り棟屋根
     第19節 隠岐郡 隠岐の島町

第2部 その他の地方の反り棟屋根
第6章 山陰地方、近畿地方、北陸地方
     第20節 鳥取県
第21節 兵庫県、京都府、滋賀県、福井県
第22節 石川県
     第23節 富山県
第7章 中部地方、関東地方、東北地方県
     第24節 長野県、東京都、埼玉県、山梨県、岩手県
第8章 九州地方
     第25節 福岡県、佐賀県
     第26節 沖縄県

第3部 反り棟寺院
第9章 近畿地方、その他の地方の反り棟寺院
     第27節 奈良県の反り棟寺院
     第28節 京都府、滋賀県、兵庫県の反り棟寺院
     第29節 富山県、東京都、大分県、反り棟寺院

第4部 反り棟屋根の旅
第10章 反り棟屋根の誕生
     第30節 反り棟屋根は中国雲南省で誕生
第31節 哈尼族のマッシュルームハウス
第11章 貴州省福建省から山東省までの旅
     第32節 貴州省、福建省
     第33節 金門島、台湾、ベトナム
     第34節 浙江省、江蘇省、上海市
     第35節 河南省、山東省
第12章 韓国、朝鮮、中国東北地方、モンゴル
     第36節 韓国
     第37節 朝鮮、中国東北地方、モンゴル
第13章 再び出雲地方へ
お礼の言葉




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・榧野先生が反り棟屋根に興味を持たれたきっかけ
・本書の構成 と先生の関心事
・出雲地方の民家の屋根と棟の作り方の分類
・反り棟屋根について
・第1部 出雲地方の反り棟屋根 第1章~第5章
・第2部第6章 山陰地方、近畿地方、北陸地方
・第8章第25節 福岡県、佐賀県
・第10章 反り棟屋根の誕生 第30節 反り棟屋根は中国雲南省で誕生
・第10章第31節 哈尼族のマッシュルームハウス
・第11章第32節 貴州省、福建省
・第11章第33節 金門島、台湾、ベトナム
・第11章第35節 河南省、山東省
・第13章 再び出雲地方へ
・出版の動機 と今後の構想
・読後の感想とコメント




榧野先生が反り棟屋根に興味を持たれたきっかけ


数学者として高名な榧野先生が、なぜ反り棟屋根にご興味を抱かれたのか?
「はじめに」によれば、先生が反り棟屋根の記録写真を撮り始めるようになられたのには、あるきっかけがあった。それは、1975年8月、先生のご子息(当時小6)の夏休みの自由研究のテーマとして、東は米子市から西は大田市まで走り回り、約100枚の反り棟屋根の記録写真を撮られたことであるようだ。
それ以後、最近まで、出雲地方は勿論、東北地方から九州、沖縄まで、更に中国雲南から中国各地、台湾、ベトナム、韓国など、反り棟民家を訪ねて走り回られたそうだ。

反り棟民家のみならず、世界中の民家に興味を持たれた。
例えば、
・イランのカスピ海沿岸の稲作地帯の校倉[高床式米倉](1999/12/21、先生が撮影された年月日を示す)
・ネパールの草葺の屋根の農家(1998/12/22)
・ガーナの土壁丸い家(1997/7/21)
・モンゴル草原のゲル(2006/9/11)
 ※モンゴル語のゲルは建物を意味するだけでなく、家族、家庭も意味する。日本語の“家”が家族や家庭を意味するのと同じである。
・インドネシアの船型民家(1980)
その他には、次のものがある。
・イングランドのthatched house(写真未掲載)
・ジャバのロングハウス(写真未掲載)
・アメリカンネイティブのテント住居ティピ(写真未掲載)

このように、1975年から出雲地方の反り棟屋根の写真を撮り始められ、世界を股にかけて、民家の写真を撮り続けられた。先生の探求心の深さと視野の広さとフットワークの良さには、ただただ敬服するばかりである。(榧野、2021年、4~5頁)

本書の構成 と先生の関心事


さて、目次をみてもわかるように、「第1部 出雲地方の反り棟屋根」では、出雲地方の反り棟屋根を写真とともに解説しておられる。
ここでいう「出雲地方」とは、出雲市から松江市、安来市、雲南市、奥出雲町、飯南町をさす。この地方には、棟が反っている独特の反り棟茅葺き民家が残る。出雲地方の農家は、そのほとんどがこの反り棟茅葺き民家であった。

茅葺きのお家では、竈(かまど)で薪を燃やしてご飯を炊き、囲炉裏で暖を取り、お茶を沸かした。囲炉裏の煙が屋根の萱を乾かし、萱の中の虫を殺し、屋根を持たせていた。10年か20年に萱の傷んだ所を差し萱すると、300年は持つと言われた。

しかし、生活様式が変わった。
炊飯器でご飯を炊き、ガラス戸で家を締め切り、エアコン暖房するようになった。その結果、茅葺き家屋がもたなくなった。さらに、稲作のための“結い”組織がなくなり、“結い”が守ってきた大切な萱を取る萱場もなくなった。こうして、茅葺民家が無くなっていったそうだ。
残念ながら、今や現存するほとんどの茅葺家屋は特別に保存された家屋だけになってしまった。
伝統的な民家が無くなっていくのは、全世界的な現象である。(4~5頁)

出雲地方の民家の屋根と棟の作り方の分類


出雲地方の民家は、入母屋、寄棟、切妻に分かれるようだ。
屋根の斜面を“ひら”と言う。
メインの大きい斜面を“おおひら”、煙出しのある部分を“つま”、つま部分のひらを“こひら”と言う。
入母屋、寄棟、切妻は次のようになる。
①入母屋~煙出しがあり、おおひらとこひらがある屋根
②寄棟 ~煙出しがなく、おおひらとこひらが棟に直接つながっている屋根
③切妻(あるいは合掌造)~こひらがない屋根

棟の作り方は、A型、B型、C型、箱棟と分類できる。
①A型~横に細い竹で棟を抑えている
②B型~太めの木または竹で棟を抑えている
③C型~縦、横に木または竹で棟を抑えている。中には縦横の間に竹や木で文様が入っているものもある。家の紋の場合もある。
④箱棟~瓦葺も萱葺もある。瓦の下の竹細工を袴(はかま)と言う。(7頁)

反り棟屋根について


出雲地方には反り棟屋根の伝統があったが、何時頃からこうした反り棟家屋が作られたかは不詳とのことである。
この冊子では、島根県出雲地方を中心に、1975年以来撮り貯めた反り棟屋根の記録を残しておきたいとのことである。
ところで、中国雲南省の昆明、麗江、大理付近には数多くの瓦であるが、反り棟がある。
鳥越憲三郎氏の『古代中国と倭族』(中公新書)には、祭祀場面桶形貯貝器(晋寧石塞山遺跡、前漢時代晩期)、人物屋宇銅飾り(同、前漢時代中期)の中にある家屋は反り棟で、鳥越氏はこの家屋は茅葺きであると断定している。当時この地方には、倭族の一王国滇(てん)国があった。BC100年頃のことである。

反り棟屋根は、中国雲南省東部の滇池周辺にあった滇王国あるいは滇王国以前その地に住んでいた人々の家屋が元であったと、榧野先生は推定しておられる。
それが付近の少数民族等を経由して、閩の国(福建省)へ、さらに、河南、安徽、江蘇経由し、山東半島から朝鮮・韓国へ、新羅あるいは伽耶をたどり、出雲地方に伝わったと考えておられる。
(それは、鳥越憲三郎氏が“古代朝鮮族と倭族”などで主張している“稲の伝播経路”と同様な道筋ではないかとする)(6頁)

第1部 出雲地方の反り棟屋根 第1章~第5章


第1章 出雲市の反り棟屋根


出雲地方の屋根は反り棟で特徴づけられていた。出雲地方のほとんどの農家は反り棟であった。
出雲大社近く、出雲市遙堪(ようかん)から始まって平田地方、平田から松江をつなぐ湖北道路(国道431号)の沿線、松江市内の各地、宍道湖の南側、39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡や358本の銅剣や銅鐸、銅矛が出土した荒神谷遺跡のある斐川町から玉造、忌部を通り、奥出雲、安来市の各地に、反り棟茅葺の農家が連なっていた。
しかし、出雲地方の西、浜田市、益田市、大田市、山口県には、反り棟屋根を全く見ることが出来なかったそうだ。
そして東は鳥取県、兵庫県、京都府、滋賀県、石川県、富山県と反り棟屋根(もしくはその痕跡)が続いた。(12頁)

第1節 出雲市 大社町、日下町、平田町


〇【写真】出雲市大社町遙堪 入母屋 A型(1978/5/8)
〇【写真】出雲市大社町菱根 入母屋 C型(2015/8/16)
・2019年3月29日 国の登録有形文化財に登録された。反り棟の茅葺き屋根も評価の一つである。(13頁)

第2節 出雲市 西林木町、口宇賀町、三津町


〇【写真】出雲市西林木町 鳶ケ巣城の近く 入母屋 C型(1999/11/25)
・実に素晴らしかったが、現在は無い。
・一度、広島の屋根職人が葺き直したことがあったが、屋根の感じが変わったようだ。
・鳶ケ巣城を越えた鰐淵寺の門前街に、この建築に似た荘重な反り棟屋根があったそうだが、今はない。(15頁)

〇【写真】出雲市口宇賀町 稲はぜ置き場 切妻 A型(1979/5/18)
・農機具あるいは収穫物置き場納屋が反り棟の切妻であった。(16頁)

第3節 出雲市 万田町、灘分町


〇【写真】出雲市万田町 瓦屋根(2018/2/24)
・出雲地方にはこのような反り棟瓦屋根があちらこちらに存在している。かつての反り棟茅葺き屋根の名残りである。(18頁)

〇【写真】出雲市灘分町 寄棟 箱棟 C型(1978/6/19)
・出雲市の斐川町、灘分町、島村町、出島町、平田町、岡田町、多久町、鹿園寺町にかけて、築地松に囲まれた箱棟反り棟の家が並んでいた。(19頁)
    

第5節 出雲市 斐川町


〇【写真】出雲市斐川町 前方切妻、後方入母屋 千木を置く棟、雪割あり(2014/11/21)
・湯の川温泉「松園」の宿泊棟。千木のある棟飾りは出雲地方では特例であるようだ。千木の上、棟をとおして連なっている一本の木を雪割と言う。(28頁)

〇【写真】出雲市斐川町 常松家 国登録有形文化財 1874年(明治7年)建築 瓦棟入母屋(31頁)

〇【写真】出雲弥生の森博物館 出雲市大津町 出雲地方の反り棟屋根を模して作られた。
★向井潤吉画伯の“斐川平野の家”(島根県出雲市郊外)の中に反りのある箱棟寄棟が描かれているそうだ。(31頁)

第2章 松江市の反り棟屋根


第8節 松江市 鹿島町、島根町


〇【写真】松江市島根町 寄棟(1980/6/1)
・この1980年時点でかなりの解体中の家屋を見かけられたそうだ。(46頁)

〇【写真】松江市島根町 入母屋 C型(1980/6/1)
・木の枠の間に模様(家の紋だそうだ)がある。(48頁)

第10節 松江市 西川津町、西持田町


〇【写真】松江市西川津町 入母屋 A型(1975/8/13)(51頁)
(※先生がご子息と夏休みの自由研究のテーマとして反り棟屋根の記録写真を撮られた時の1975年8月の写真である。カラー写真でなく、白黒写真であることも歴史を感じさせる)

第11節 松江市 朝酌町、本庄町、上宇部尾町、八束町、手角町


〇【写真】松江市手角町 切妻 B型(1979/6/1)
・中海に面した船小屋、かすかに反りがある。(59頁)

第13節 松江市 西忌部町、東忌部町、八雲町


〇【写真】松江市八雲町 熊野大社鑚火殿 切妻 C型(熊野大社提供)
・正月古式に則って火をおこし、その火を出雲大社に奉納する。火をおこすことを火を鑚(き)ると言う。寄棟である。(68頁)

第3章 安来市の反り棟屋根


第15節 安来市 荒島町、利弘町、安来町


〇【写真】安来市荒島町 入母屋(2軒はC型、1軒はB型)(1975/8/29)(72頁)
(※これも1975年8月の撮影で、白黒写真である)

第17節 安来市 門生町、清瀬町


〇【写真】安来市清瀬町天の前橋 入母屋 C型(1996/4/28)
・島根県の東端、ここまで反り棟屋根が見られるが、鳥取県西部に入ると反り棟屋根が見られなくなる。(78頁)

第4章 雲南市、奥出雲町の反り棟屋根


第18節 雲南市、奥出雲町


〇【写真】雲南市大東町須賀 入母屋 C型(2015/10/25)
・神楽の宿、神楽の上演。古来神楽の舞われていた茅葺屋根の民家を再現したもの。(85頁)

〇【写真】奥出雲町亀嵩 入母屋 A型(2015/10/25)
★映画“砂の器(松竹、1974年)”には、奥出雲町亀嵩の反り棟茅葺屋根が出てくる。(86頁)

第5章 隠岐郡の反り棟屋根


第19節 隠岐郡 隠岐の島町


〇【写真】隠岐郡隠岐の島町 入母屋 C型(2015/8/9)
・千木を置く棟 国の重要文化財億岐家住宅 享和元年(1801)の建築 隠岐の島に残存している反り棟茅葺き屋根はこれだけであるそうだ。(87頁)

〇【写真】広瀬貫川画伯「後醍醐天皇行在所」島根県隠岐郡西ノ島町観光協会蔵 入母屋 C型(2015/8/7)
・次のような注釈がある。
「この歴史絵は増鏡、太平記を資料として、広瀬貫川画伯によって画かれた。「黒木御所」は急造の粗末なものであったとおもわれます。寄贈者 五条覚 澄」(88頁)

第2部第6章 山陰地方、近畿地方、北陸地方


「第2部第6章 山陰地方、近畿地方、北陸地方」では、出雲地方から離れて、“反り棟屋根”の旅をしておられる。まずは、伯耆の国(鳥取県西部)、因幡の国(鳥取県東部)、兵庫県、京都府、滋賀県、福井県、石川県、富山県へと旅を続けておられる。(90頁)

第20節 鳥取県


伯耆の国(鳥取県西部)には、大国主命が兄弟に忌み嫌われ、赤猪(焼けた石)で怪我させられた伝説のある手間の山本(現手間町)がある。
20世紀梨の産地である。20世紀梨の貯蔵倉庫に反り棟屋根があったそうだ(現在はなし)。

反り棟が現れるのは、鳥取県の中ほどにある東郷池付近からと鳥取市にかけて点々とある瓦葺の反り棟屋根である。
(かつては、茅葺きの反り棟屋根であったであろう)(90頁)

鳥取市は、大国主命と白兎の伝説の地である。
〇【写真】鳥取市千代川東詰 入母屋(2016/6/21)
鳥取県中部の東郷池から鳥取市まで反り棟屋根が点々とある。
(茅葺き反り棟から瓦屋根に改築するとき、かつての反り棟への思いから、瓦屋根になっても反り棟屋根にするのであろう)(90頁)

〇【写真】鳥取市八東町用呂 矢部家住宅 国指定重要文化財 千木を置く棟、雪割あり(2015/11/8)
鳥取市から少し山手に入った八東町用呂の矢部家住宅がある(91頁)

第21節 兵庫県、京都府、滋賀県、福井県


山陰に続いて、兵庫、京都、滋賀、福井を回っておられる。
この地方では、屋根の棟に千木を並べ一本の柱をのせている。この柱を雪割りと呼ぶ。雪国だから、反り棟で雪割りのある萱葺き屋根が多くあるそうだ。
萱葺き屋根を瓦屋根にしても、雪割りが忘れられないためか、瓦で作った変わった形の雪割りもある。

〇【写真】兵庫県篠山市 入母屋 C型 千木を置く棟、雪割あり(2015/9/23)(91頁)

第22節 石川県


・石川県や次節の富山県には、たくさんの反り棟の家屋が存在していたそうだ。
・神代の時代、大国主命が高志の国へ行き、沼河比賣(ぬなかわひめ)に求婚された。その時、多くの供を引き連れ、その供のために反り棟の家を運ばれたと推測されている。
(この地方にたくさんの反り棟家屋が存在しているのは事実である)(98頁)

〇【写真】石川県能登町 入母屋 C型(1977/3/11)(101頁)
〇【写真】石川県輪島市町野町 上時国家 国指定重要文化財(建物) 入母屋 瓦棟(2016/8/6)(99頁)

第8章第25節 福岡県、佐賀県


〇【写真】福岡県柳川市龍神社 入母屋 C型 千木を置く棟、雪割あり(1980/6/6)
・神社で萱葺き反り棟は、非常に珍しい例である
・しかし、2015年4月15日に先生が再訪された時には、建て替えられ、瓦屋根になっていたそうだ。(107頁)

〇【写真】佐賀県小城市 増田羊羹本舗 くど造り 丸瓦棟(2015/4/15)
・台所の“かまど”を“くど”と呼んでいた。棟が“コ”の字形なので、くど造りと称していた。佐賀県では一般的な屋根型であった。(109頁)
〇【写真】佐賀県多久市 川打家 くど造り 丸瓦棟(2015/4/14)(109頁)

〇【写真】佐賀県川副町大詫間 じょうご谷屋根 丸瓦棟(2015/10/19)(112頁)
・「じょうご谷」とか「四方谷」とか言われている。上から見ると“口”の形をしている。
・肥後川と早津江川に挟まれた中島で、よく洪水にあったらしい。洪水の時、じょうご谷家屋はバランスよく浮き上がるようにできているらしい。佐賀県川副町には今でも、じょうご谷家屋が存在している。(112頁)

第10章 反り棟屋根の誕生 第30節 反り棟屋根は中国雲南省で誕生


中国・雲南省近辺には、瓦屋根ではあるが、数多くの反り棟屋根がある。
また、雲南省博物館には、反り棟屋根の資料が保存されている。中でも銅製貯貝器の蓋の反り棟屋根に、榧野先生は注目しておられる。(128頁)

〇【写真】中国雲南省博物館戦国時代室 銅製貯貝器の蓋の反り棟屋根(2016/7/6)
・これは昆明市近く滇池(てんち)のほとりに在った滇王国(BC400~AD100くらい)の地から出土した貯貝器の蓋の文様である。
貯貝器の蓋には、家畜、馬に乗っている騎士、家畜を食べる猛獣、奴隷を生贄として斬殺している像、そして反り棟の家といった文様が載っている。(128頁)

・鳥越憲三郎「古代中国と倭国 黄河・長江文明を検証する」(中公新書)に“屋根の茅”という記述がある。
・さらに中国雲南省博物館戦国時代室には、藁で葺かれた反り棟の民家が復元展示されている。
〇【写真】中国雲南省博物館戦国時代室 復元稲葺き反り棟家屋と後方の反り棟家屋の絵(2016/7/6)
・なお、滇からは伊都国の金印と同様な金印が出土していることで有名である。滇王国はBC400年頃、国が出来た。人々はそれ以前から生活し、家を建てていた。
(現在、昆明、大理、麗江等々に瓦葺反り棟民居が密集している)
⇒榧野先生は、雲南が反り棟屋根の誕生の地と考えておられる。(128~129頁)



「反り棟屋根 流布経路 ※著者推定」(126~127頁)という地図には、反り棟屋根の誕生の地である雲南から、日本にいたる流布経路が示されている。
●:著者の榧野尚先生が現地で反り棟屋根を確認された場所は次のものである。
・雲南省の昆明、元陽、大理、麗江、曲靖
・貴州省の凱里
・福建省の泉州、漳州、金門島
・台湾の斗六、草屯
・浙江省の嘉興
・上海市
・江蘇省の蘇州
・河南省の平頂山
・山東省の威海
・吉林省の図們
・黒龍江省の寧安
・韓国の龍仁、安東、全州、蔚山、梁山、釜山
・日本の出雲地方、隠岐諸島、佐賀地方、その他

■:毎日グラフの写真(157~186頁)あるいは現地の方が撮影した写真で反り棟屋根を確認された場所は、次のものである。
・山東省の煙台
・遼寧省の瀋陽
・北朝鮮の平壌、開城、会寧
・韓国のソウル、仁川、水原、論山、慶州、済州島

≪毎日グラフの引用書名≫
〇毎日グラフ『一億人の昭和史 日本の戦史1 日清・日露戦争』毎日新聞社、1979/2/25
〇毎日グラフ『別冊一億人の昭和史 日本植民地史1 朝鮮』毎日新聞社、1978/7/1
〇毎日グラフ『別冊一億人の昭和史 日本植民地史2 満州』毎日新聞社、1978/8/1
〇毎日グラフ『別冊一億人の昭和史 日本植民地史4 満州』毎日新聞社、1978/8/1
(157頁)




第10章第31節 哈尼族のマッシュルームハウス


雲南には、26の少数民族が住み分けている。
反り棟ではないが、哈尼(はに)族の草葺丸屋根(マッシュルームハウス)に注目しておられる。
哈尼族の人は草葺(主に稲葺)屋根にしか住むことができなかった。しかし、差別はいけないこととして、マッシュルームハウスを改装したという。
(現在では稲藁葺のマッシュルームハウスをほとんど見ることができない)(134頁)

〇【写真】中国雲南省羅平市哈尼族のマッシュルームハウス(2015/2/23)
〇【写真】中国雲南省元陽市 改造された哈尼族の住(2016/3/19)
1年の間に稲藁葺のマッシュルームハウスは改造されて、昔の面影はなかったそうだ
(134頁)

第11章第32節 貴州省、福建省


〇【写真】中国貴州省黔東南苗族侗族自治州丹寨県楊武郷苗族村寨(2017/4/24)
・なお、この写真は浜田憲さんの提供されたものとの注記がある。浜田憲さんは中国民居の研究家で、いろいろ中国民居の資料を提供されたとのこと。また浜田さんは山東省に行って資料収集にあたられたそうだ(135頁、189頁)

〇【写真】中国福建省 承啓楼(土楼の内部)(2015/11/26)
・祖先を祭る祖堂とその門の屋根が反り棟になっている
・“福建の土塁”は世界遺産に登録されている。この土楼の中にも反り棟を持つ建物がある。福建省には、厚い土壁の円形あるいは方形の集合住宅“土楼”が数多く分布している。
・古代中国の時代、戦乱を逃れるため南へ移動した客家(はっか)と呼ばれる人たちが住んでいる。大きな土楼になると、200を超える部屋がある。この承啓楼の中に反り棟を持つ建物・祖堂がある。(141頁)

第11章第33節 金門島、台湾、ベトナム


〇【写真】金門島 三合院(2015/8/24)
金門島、台湾には三合院と言われる“コ”の字型をした反り棟屋根がある。(143頁)

〇【写真】ベトナム中部の街ホイアン市 福建會館(2016/2/15)
ホイアンは交易で栄えた町である。中国の各地から華僑がやってきて、それぞれの出身地の會館をたてた。
例えば、①福建會館、②瓊府(けいふ)會館(中国海南島出身者の會館)、③潮州會館(中国広西チワン自治区桂林市出身者の會館)(147~149頁)

第11章第35節 河南省、山東省


★河南省に開封市と言う町がある。北宋(960年-1127年)の首都であった。
北宋末期にこの街を描いた『清明上河図』と言う絵が残っている。この『清明上河図』中に描かれた街の中に、反り棟瓦屋根民居が点在している。(157頁)

“反り棟の旅”は開封市から東へ山東省に向かう。
★中国山東省徳州市魯北平原にも土坏屋反り棟がある(“山東伝統民居村落”による)

〇【写真】中国山東省烟台(えんたい)市龍口(1905/9/2)
烟台市は山東半島のつけ根・渤海湾に臨む町である。
(出典:毎日グラフ『一億人の昭和史 日本の戦史1 日清・日露戦争』毎日新聞社、1979/2/25より引用)(157頁)

〇【写真】中国山東省威海市栄成市寧津所 アマモ(海草)葺き反り棟屋根の家
(アマモは藻ではなくて草の一種であるという)
・栄成市の道路は、基本的に縦方向と横方向の道路が交差する整然とした村落構成となっている。縦横の道路で区切られた区画は、横長の長方形となる。
・民居(中国では民家を民居と呼ぶ)の平面構成は、北の正房・東(または西)の廂房・南の門房(倒座房)で構成される“コ”字形三合院、あるいは正房・廂房・大門で構成される“L”字形両合院がほとんどである。(158頁)

第12章 韓国、朝鮮、中国東北地方、モンゴル


第36節 韓国


〇【写真】韓国京畿道竜仁市 韓国民俗村 両班の住宅および使用人の住宅(2016/3/30)(161頁)

第37節 朝鮮、中国東北地方、モンゴル


〇【写真】朝鮮平壌市宣化堂 入母屋瓦葺(1894当時)
(出典:毎日グラフ『別冊一億人の昭和史 日本植民地史1 朝鮮』毎日新聞社、1978/7/1より引用)(180頁)

〇【写真】モンゴル ジンギスカンの宮殿のカラコルム Golden Stupa付属の建物 瓦切妻(2016/9/4)
モンゴルで見つけた唯一の反り棟屋根だそうだ(186頁)

第13章 再び出雲地方へ


反り棟が誕生したと思われる中国雲南地方には、“倭人”という言葉が数多く残されているそうだ。この倭人が反り棟を運んだのではないかと推定されている。つまり雲南から北上し、山東半島にたどり着き、更に黄海を越え、韓国・朝鮮へやって来た。

・韓国の新羅本記(ママ)の冒頭部分に、BC50年に倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があると聞き、すぐに帰ってしまった。その後、倭人が何回となく新羅の辺境を侵しては、引き返すという記述がある。
倭人たちが新羅の周辺にやって来たのは、縄文時代晩期(およそBC1400年~BC700年)ではないかとされる。そして、倭人たちは再び海を越えて、出雲に来たのであろう。それまで住んでいた茅葺きの反り棟屋根の民家とともに。

ところで不思議な事実がある。福岡県から山口県、島根県益田市~大田市まで、反り棟屋根がないという事実である。
この点、反り棟屋根の民家は慶州、蔚山、釜山あたりから、直接島根半島にやって来たのではないかと、榧野先生はみておられる。
つまり、河下(旧平田市)から出雲へ、あるいは恵曇(島根町)付近から西川津や法吉に来たのではないかといわれる。
(宍道湖畔でも旧平田市、西川津、法吉は反りの度合いが大変強いが、中間地点では反りは若干緩やかになるようだ)
ともあれ、出雲地方の人々は、長い間、茅葺き反り棟屋根の家に住んできたのである。
(187頁)

出版の動機 と今後の構想


出雲地方の茅葺き反り棟屋根の家に入ると、まず土間があり、家の中心には大きな大黒柱がある。そして、真ん中に囲炉裏(いろり)があり、天井から茶瓶がつるされている。
(正月15日のとんどさん[氏神さんで正月飾を焼く行事]の火を正月飾りの松の枝に移し、家に持ち帰り、囲炉裏にその火を入れ、その火は次の正月まで絶やすことがない)
囲炉裏の煙は天井を回り、天井の茅を乾燥させ、天井にいる虫を殺し、それで屋根をもたせたとされる。

・こうした茅葺き反り棟屋根の家が人の心から心へ愛着をもって伝わっていた。だからこそ、反り棟屋根が長い間保ち続けてきた。
このことを榧野先生は「心の化石」と呼んでおられる。
残念ながら、この化石が無くなり、人々の暮らしの息吹を伝える茅葺き反り棟屋根の家も無くなってきた。
⇒だからこそ、茅葺き反り棟屋根の、このような写真集で人々の生活の息吹を残したいと思いたったと、出版の動機をしるしておられる。(187頁)

ところで、榧野先生が、日本各地および世界を股にかけて旅をされて、反り棟屋根の研究を成し遂げられたのは、多くの人々の協力の賜物でもあった。
このことは、「お礼の言葉」(189頁)からもわかる。
中国民居の研究家である浜田憲さんには本文にも言及されていた。今回の出版を薦めて下さり、挿入された地図を作製して下さったのは、山内靖喜さん(島根大学名誉教授)であったそうだ。また、台湾、金門島、韓国を案内されたのは井上梓さん、昆明博物館への依頼の手紙を翻訳されたのは佐藤智照さん(島根大学准教授)、雲南省博物館に折衝されたのは杜雨萌さん(中華人民共和国駐大阪領事館)だった。その他、出雲弥生の森博物館、富山県民俗民芸村民俗館などの方から、ご教示を受けられた旨が記してある。(189頁)

45年間の長きにわたり、幅広い豊かな人脈を活かされて、日本各地および世界を飛び回られた研究の集大成が、先生のご高著となったことがわかるのである。

そして、先生のお手紙には、次のような構想が記してあった(身体的に叶うかどうかとも)。
①出雲地方の反り棟屋根の写真はまだ残っているそうで、第2号“反り棟屋根 出雲地方特集篇”を作りたいとのこと。
②日本の都道府県中、北海道と高知県へは行っていないので、コロナが収まったら行ってみたいそうだ。
③モンゴル草原にも長い間行っておられないようで、モンゴルの孤児院の子供たち、ボランティアのバーターに再会したいとのこと。

是非ともこうした構想を実現していただきたいと、心から思います。

読後の感想とコメント


私の個人的感想


茅葺き反り棟屋根の民家には、郷愁を感じる。先生の写真集を拝見して真っ先に抱いた私の感想であった。実は昭和47年(1972)に祖父と父が瓦葺屋根の家を新築するまでは、私も茅葺き家屋に住んでいたからである。
さすがに囲炉裏はもうなかったが、幼少の頃、母が土間の竈で薪を燃やして、ご飯を炊いていた記憶はある。だから、「松江市玉湯町 入母屋 C型」(62頁)の写真を見た時など、まるで昔の我が家が写っているのではないかと錯覚したほどである。

今回、榧野先生の写真集を拝見して、いろいろなことを学ばせていただいた。例えば、次のような点が印象に深く残った。
〇茅葺きの家では、囲炉裏の煙が屋根の萱を乾かし、萱の中の虫を殺し、屋根を持たせていたこと(5頁、187頁)
〇10年か20年に萱の傷んだ所を差し萱すると、300年は持つと言われたこと(5頁)
〇茅葺き民家がなくなっていった理由の一つに、生活様式が変わり、稲作のための“結い”組織がなくなり、“結い”が守ってきた大切な萱を取る萱場もなくなったことが挙げられること(5頁)
〇映画“砂の器(松竹、1974年)”には、奥出雲町亀嵩の反り棟茅葺屋根が出てくること!(86頁)
〇映画“用心棒(東宝、1961年)”の甲斐の国(山梨県)に反り棟の民家が出てくること(106頁)
〇映画“嵐に咲く花(東宝、1940年)”のワンカットに瓦屋根の反り棟水車小屋切妻(岩手県)が出てくること。福島県二本松市の戊辰戦争がその舞台であるそうだ(106頁)
〇北宋(960年-1127年)の末期に開封という街を描いた『清明上河図』と言う絵には、反り棟瓦屋根民居が点在していること(157頁)
〇出雲地方の人々は長い間、茅葺き反り棟屋根の民家に住んできたこと。
・不思議なことには、福岡県から山口県、島根県益田市~大田市まで反り棟屋根がないこと(187頁)
・島根県の東端(安来市清瀬町天の前橋)、ここまで反り棟屋根が見られるが、鳥取県西部に入ると反り棟屋根が見られなくなること(78頁)
・反り棟屋根の民家は慶州、蔚山、釜山あたりから、直接島根半島にやって来たのではないかと推測されること(187頁)
〇何よりも、反り棟屋根は中国雲南地方(滇池)で誕生したと考えられる点には、大変に興味を覚えた。
・その経路は、雲南から北上し、山東半島にたどり着き、更に黄海を越え、韓国・朝鮮へ、それから日本へ広がったのではないかと想定できること(6頁、126~133頁、187頁)

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照葉樹林文化論に関連して


榧野先生は、雲南が反り棟屋根の誕生の地と考えておられる点について、私は照葉樹林文化論を想起した(榧野、2021年、128~129頁)。

例えば、佐々木高明氏は、『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』(NHKブックス、1982年[1991年版])において、照葉樹林文化について、次のように述べている。

照葉樹林文化は、日本を含めた東アジアの暖温帯地域の生活文化の共通のルーツをなすという立場に立ち、日本をとりまく西南中国から東南アジア北部、それにアッサムやブータンなどの照葉樹林地域で得られた多くの事例をとりあげて論じられた。
それは、稲作以前にまで視野をひろげて、日本文化のルーツを探究することでもあった。つまり、比較民族学、文化生態学、民俗学をとりこんで、日本文化起源論に新しい視点を提示した。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、16頁)

【佐々木高明『照葉樹林文化の道』NHKブックスはこちらから】

照葉樹林文化の道―ブータン・雲南から日本へ (NHKブックス (422))

≪照葉樹林文化論の特色≫
〇中尾佐助氏が、『栽培植物と農耕の起源』(岩波書店、1966年)のなかではじめて「照葉樹林文化論」を提唱した。それは、植物生態学や作物学と民族学の成果を総合した新しい学説である。弥生時代=稲作文化の枠にこだわらないユニークな日本文化起源論として位置づけられた。

〇ヒマラヤ山脈の南麓部(高度1500~2500メートル)に日本のそれとよく似た常緑のカシ類を主体とした森林がある。そこからこの森林は、アッサム、東南アジア北部の山地、雲南高地、さらに揚子江の南側(江南地方)の山地をへて日本の西南部に至る、東アジアの暖温帯の地帯にひろがっている。
⇒この森林を構成する樹種は、カシやシイ、クスやツバキなどを主としたものである。
いずれも常緑で樹葉の表面がツバキの葉のように光っているので、「照葉樹林」とよばれる。

〇この照葉樹林帯の生活文化のなかには、共通の文化要素が存在する。
・ワラビ、クズなどの野生のイモ類やカシなどの堅果類の水さらしによるアク抜き技法
・茶の葉を加工して飲用する慣行
・マユから糸をひいて絹をつくる
・ウルシノキやその近縁種の樹液を用いて、漆器をつくる方法
・柑橘とシソ類の栽培とその利用
・麹(コウジ)を用いて酒を醸造すること
(中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波書店、1966年。上山春平編『照葉樹林文化 日本文化の深層』中公新書、1969年)
・サトイモ、ナガイモなどのイモ類のほか、アワ、ヒエ、シコクビエ、モロコシ、オカボなどの雑穀類を栽培する焼畑農耕によって、その生活が支えられてきたこと
・これらの雑穀類やイネのなかからモチ性の品種を開発したこと。そしてモチという粘性に富む特殊な食品を、この地帯にひろく流布させたこと。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年)

※このような物質文化、食事文化のレベルにおける共通性が、文化生態学的な視点から追究されてきた

【中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』岩波書店はこちらから】

栽培植物と農耕の起源 (岩波新書 青版 G-103)

【上山春平編『照葉樹林文化』中公新書はこちらから】

照葉樹林文化―日本文化の深層 (中公新書 (201))

〇この地帯には、比較民族学の立場から、神話や儀礼の面においても、共通の文化要素が存在していることが知られている。
・『記紀』の神話のなかにある、オオゲツヒメやウケモチガミの死体からアワをはじめとする五穀が生れたとする、いわゆる死体化生神話
・イザナキ、イザナミ両神の神婚神話のなかにその残片がみとめられる洪水神話
・春秋の月の夜に若い男女が山や丘の上にのぼり、歌を唱い交わして求婚する、いわゆる歌垣の慣行
・人生は山に由来し、死者の魂は死後再び山に帰っていくという山上他界の観念
(大林太良『稲作の神話』弘文堂、1973年)

このように、中国西南部から東南アジア北部をへてヒマラヤ南麓に至る東アジアの照葉樹林地帯にみられる民族文化の特色と、日本の伝統的文化の間には、強い文化の共通性と類似性が見出せる。
日本の古い民俗慣行のなかに深くその痕跡を刻み込んでいるような伝統的な文化要素の多くが、この地域にルーツをもつことがわかってきた。

こうして「照葉樹林文化論」は、有力な日本文化起源論の一つとみなされた。
東アジアの照葉樹林帯の文化を特色づける特徴の一つは、雑穀やイモ類を主作物とする焼畑農耕によって、その生活が支えられてきたことである。
水田稲作は、この雑穀類を主作物とする焼畑農耕の伝統のなかから、後の時期になって生み出されたと考えられるようだ。
照葉樹林文化は水田稲作に先行する文化である。それは水田稲作を生み出し、稲作文化をつくり出す際のいわば母体になった文化であるとされる。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、13~17頁)

このような照葉樹林文化論を考慮に入れると、今回、反り棟屋根の誕生の地を中国雲南省と想定しておられる、榧野先生の仮説は大変に興味深い。
(「第10章 反り棟屋根の誕生 第30節 反り棟屋根は中国雲南省で誕生」(128~133頁)および「反り棟屋根 流布経路 ※著者推定」(126~127頁)を参照のこと)

照葉樹林文化論と東亜半月弧


上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』(中公新書、1976年[1992年版])において、照葉樹林文化のセンターとして、「東亜半月弧」という名称を提唱している。それは、南シナの雲南省あたりを中心として、西はインドのアッサムから東は中国の湖南省におよぶ半月形の地域をいう。

この名称は、西アジアの「豊かな三日月地帯」(Fertile Crescent)を意識して名づけられた。この有名な三日月地帯は、これまで世界農耕文化の一元的なセンターのように考えられがちだった。しかし、それは、ユーラシア西部の暖温帯、つまり地中海周辺を本来の分布圏とする地中海農耕文化のセンターとして相対化されるという。
(たとえば、「西亜半月弧」とでも呼びかえた方がふさわしい)

二つの半月弧の特質について、次のように要約している。
【西亜半月弧】
①沙漠地帯が森林に接するあたりの乾燥地帯のどまんなかに位置する
②地中海農耕文化のセンターをなしている
③この地中海農耕文化はムギを主穀とする
④農・牧混合の農耕方式をとる
⑤コーカソイド系の民族(白色人種)を主なる担い手としている。

【東亜半月弧】
①照葉樹林帯が熱帯林に接するあたりの湿潤地帯のどまんなかに位置する
②照葉樹林農耕文化のセンターをなしている
③この照葉樹林農耕文化は、初めはミレット(雑穀)を、後にイネ(ジャポニカ・ライス)を主穀とする
④牧畜をともなわない農耕方式をとる
⑤モンゴロイド(黄色人種)を主たる担い手としている。

農耕の成立は、人類史のプロセスを未開と文明に両分する大きなエポックを意味している。農耕の特質のうちに、農耕を基盤とする文明の特質がはらまれているにちがいない。そうだとすれば、ユーラシア大陸の西と東に展開された文明の特質を対比するためには、それぞれの文明が基盤としている農耕の特質を対比することが避けられない課題となってくるようだ。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、5~7頁)

照葉樹林文化のさまざまな要素として、日本人としても、ナットウ(納豆)、茶は身近なものである。
『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』(中公新書、1976年)の中でも紹介されている。
照葉樹林文化の農耕が、巨視的にみて、焼畑農耕の形でスタートしたことは、共通の前提とみられている。
ダイズが焼畑の重要な作物である(のちにダイズは水田にアゼマメとして植えられる)。
ナットウ(納豆)の流布経路も、仮説センターから、日本のナットウ以外にも、ジャワのテンペ、ネパールのキネマといった形で伝わったそうだ(「ナットウの大三角形」と称されている)。
塩をたくさん与えて発酵させたナットウは、製法のプロセスの類型でいくと、ミソに接近してくる。ミソがはっきり出てくるのは、華北から日本であるという。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、128~130頁)

また、お茶というのは、照葉樹林文化における固い木の葉を食べる食べ方から出てきているとされる。いわゆる中国産の茶の原産地は雲南あたりを中心とした中国南部と考えられている。
(上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]、133~141頁)

【上山春平ほか『続・照葉樹林文化』中公新書はこちらから】

照葉樹林文化 続 (中公新書 438)

なお、ミソ状やモロミ状をしたもの、その他の大豆の発酵食品は、今日でも雲南省から貴州省をへて湖南省に至るいわゆる≪東亜半月弧≫の地域には豊富に存在している。例えば、雲南省南部の西双版納(シーサンパンナ)に「豆司」という大豆の発酵食品がある。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、127~131頁)

アジアの栽培イネの起源としての場所アッサム・雲南センター


また、雲南といえば、アジアの栽培イネの起源の場所として注目されている。
アジアの栽培イネ(オリザ・サチバ)の起源の場所については、従来はインド中・東部の低湿地とされ、その際、インディカ型のイネがまず栽培され、後にそのなかからジャポニカ型のイネがつくり出されたと一般に考えられてきた。
ところが、戦後、インド亜大陸のなかでも辺境のアッサムやヒマラヤ地方、あるいは東南アジアや中国の僻地の調査が進められると、従来の「定説」とは異なる新しい説が出された。
そのなかで、渡部忠世氏は、アジアの栽培イネがアッサムから雲南に至る高地地域で起源したという学説を提唱した。

古い時代のイネを調べるのに、次のような面白い方法を用いたそうだ。
一般にインドや東南アジアでは、古建築に用いられる煉瓦は、泥にイネワラやモミを混入して焼かれることが多い。したがって、古い煉瓦のなかからイネモミを集め、その建物の年代と照合すると、そのイネモミの年代を知ることができるという。
このような方法によって、インドでは紀元前5、6世紀、東南アジアでは紀元後1、2世紀にまで遡る多量のイネモミを集め、それを計測して系統的な分類をすすめたそうだ。

すると、アジアのなかで、最も多くの種類のイネが集中しているのは、インド東北部のアッサム地方とそこから中国の雲南地方にかけての地域であることが明らかになった。
また、古代のイネの資料から古いイネの伝播経路を推定すると、その「稲の道」はいずれも、このアッサム・雲南の地域へ収斂することを見出した。
こうした事実にふまえて、「アジア栽培稲が、アッサム・雲南というひとつの地域に起源したという仮説」を提唱した。
そして渡辺忠世『稲の道』(日本放送出版協会、1977年)の「東・西“ライスロード考”」というエッセーのなかで、

「アジア大陸の稲伝播の道を追ってみると、すべての道が結局のところ、アッサム・雲南の山岳地帯へ回帰してくる。従来の常識とは異なって、インディカも、ジャポニカも、すべての稲がこの地帯に起源したという結論が導かれてくる」という。

そして「雲南もまた、アッサムと非常によく似たところが多い。複雑な地形といい、多様な種類の稲の分布といい、このふたつの丘陵地帯は古くから同質的な稲作圏を成立させてきた。両地域を結ぶきずなとなるのがブラマプトラ川である。この大河はアッサムを貫流してベンガル湾にそそぐが、その上流の一部は雲南省境に達している。
ブラマプトラ川のみでなく、メコン、イラワジの諸川、さらに紅河(ソンコイ川)や揚子江もまた、すべて雲南の山地に発している。ここに出発して、アジアの栽培稲は南へ、西へ、東へと伝播する。雲南と古くに稲作同質圏を形成していたアッサムは、西への伝播の関門であったのだ。アジアにおける稲の経路は、このようにして、大陸を縦横に走る複雑な流れであった」

【渡辺忠世『稲の道』日本放送出版協会はこちらから】

稲の道 (NHKブックス 304)

このように、渡部氏は、アッサム・雲南センターの特色を描き出している。このアッサム・雲南センターの地域は、照葉樹林文化の中心地域として設定した≪東亜半月弧≫の中核部と一致するのである。つまり、この地域は、照葉樹林文化を構成するさまざまな文化要素が起源し、それが交流した核心部に当る地域である。アジアの栽培イネも、そこに収斂する文化要素の一つであったとみることができる。
(佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]、215~217頁)

反り棟屋根も、建築分野からみた照葉樹林の文化要素の一つであろうか? 今後の検証がまたれるところである。
反り棟屋根は、中国雲南省東部の滇池周辺にあった滇王国あるいは滇王国以前その地に住んでいた人々の家屋が元であったと、榧野先生は推定しておられた。
それが付近の少数民族等を経由して、閩の国(福建省)へ、さらに、河南、安徽、江蘇経由し、山東半島から朝鮮・韓国へ、新羅あるいは伽耶をたどり、出雲地方に伝わったと考えておられる。
(それは、鳥越憲三郎氏が“古代朝鮮族と倭族”などで主張している“稲の伝播経路”と同様な道筋ではないかとする)(6頁)

また、アジアの栽培イネの起源としての場所アッサム・雲南センターの問題に関して、この稲作との関連でいえば、茅葺き民家がなくなっていった理由の一つに、生活様式が変わり、稲作のための“結い”組織がなくなり、“結い”が守ってきた大切な萱を取る萱場もなくなった点を榧野先生が挙げられること(5頁)は、大変に示唆的であった。

≪参考文献≫
〇上山春平編『照葉樹林文化 日本文化の深層』中公新書、1969年[1992年版]
〇上山春平・佐々木高明・中尾佐助『続・照葉樹林文化 東アジア文化の源流』中公新書、1976年[1992年版]
〇佐々木高明『照葉樹林文化の道 ブータン・雲南から日本へ』NHKブックス、1982年[1991年版]




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