《『書道全集 中国篇』を通読して 要約篇その12中国12-a》
17中国12 元・明Ⅰ
17中国12には、元世祖中統元年(1260)から、明世宗嘉靖45年(1566)に至るまで307年間の書蹟を収めてある。
中国書道史12 神田喜一郎
13世紀の後半、すなわち1271年に、蒙古の大汗フビライは都を今の北京にあたる燕京に定め、国号を立てて元と称した。名高い元の世祖である。
この元王朝はそのはじめ漠北オノン河の上流地方に遊牧していた蒙古族から出た英雄チンギス汗の築いた大蒙古帝国の一環を成すもので、世祖は即位すると、南宋を滅ぼし、中国本土を統一した。当時の元王朝の威勢は、欧亜両大陸に光被し、隆昌を極めたが、世祖の死後は国家権力が次第に衰えていった。特に14世紀の前半からは、王位継承の問題が紛糾して、国政は乱れ、混乱を来たした。各地の群雄の中で、安徽の貧農から身をおこした朱元璋が各地を統一し、明王朝を1368年に建てた。
明王朝は元王朝と違って純粋な漢民族の建てた王朝である。この明王朝の成立によって、漢民族による中国の統一国家が久しぶりに出現した。しかし明王朝の栄えたのも15世紀の半ばまでで、それ以後は北方異民族の侵入、農民暴動により衰えてゆき、1644年、277年間で滅亡した。神田は、元王朝と明王朝の帝王の系譜と在位年代を示して解説している。
さて中国の書道は唐の中葉に顔真卿が出て王羲之の典型を破って以来、大きな旋回をとげた。宋に至って蘇東坡・黄山谷・米元章のような大天才が現われたことは、その新しい傾向に一層拍車をかけた。しかし元王朝が成立するとともに、再び王羲之の典型が復活され、ここにまた中国の書道は大きな旋回をとげることになった。
その急先鋒となったのが趙孟頫(ちょうもうふ)である。一般には字の子昻(すごう)、あるいは号の松雪をもって知られている。
趙孟頫は宋の太祖の子秦王徳芳の後裔で、もとより貴族の出身である。そういう身をもって、宋王朝の滅亡して後、元王朝に仕えて翰林院学士承旨にまで栄達した。その出処進退について後世、いろいろ批難をうけているけれども、元来まれに見る高邁な人物で、その書画における天稟はとくにすぐれたものであったと神田は評価している。
趙孟頫は王羲之の書の正統的な伝統が、唐の中葉以来とかくかき乱されて、古法の荒廃に帰しているのを嘆き、敢然と復古主義を標榜して立った。いったい、王羲之の書は貴族的で、したがって宋王朝の時代においても、宮廷では王羲之の典型が重んじられ、歴代の天子の多くは王羲之の型の書を善くした。わけても、徽宗、高宗、孝宗の3人はその達人であった。宋の貴族である趙孟頫が生まれながらにして、そうした伝統を承けていたことはいうまでもない。彼はただ書法のみならず、画においても復古主義を奉じた。復古主義は、彼の芸術の一貫した基調であったと神田はみている。
趙孟頫は常に古人の筆蹟を研究することによって天性の妙腕を磨き、見事に彼自らの書を完成したのみならず、一代の風気を転換させ、ついに書法の上に復古主義の大事業を成就するに至った。この点、中国書道史上に一時期を画した。
もっとも趙孟頫の書は一生の間に三変したといわれる。
①最初は40歳前後までの時期であって、専ら宋の高宗の書を習った。
②その次は40歳から60歳あたりまでの時期であって、もっとも熱心に王羲之の古法を追求した。ことに至大3年(1310)、独孤長老から「定武蘭亭」を獲たことは彼の書に一つの転機を与えたという。
③最後は晩年であって、この時期にはいささか古法を変じて、唐の李邕や柳公権の筆法を加味した。このようにその一生の間には、いくらか書法の変化が認められはするが、しかしその一生を通じて宗としたのは王羲之の古法であった。
ところで、王羲之の古法を宗とすると、いたずらに外形のみが整って生気もなく変化にも乏しい、いわゆる奴書に陥りやすい。その著しい例は、宋初の院体である。この点、さすがに趙孟頫の書は筆力遒勁、神彩煥発して、一代の巨匠たる貫禄をそなえているが、しかしそれでもなお古人の間に庸熟とか平板とかの譏を免れない。
明末、董其昌が口を開けば趙孟頫と董其昌の書を比較し、暗に自分の書をもって趙孟頫の上に出るもののように自負しているのは、その当否は別として、董其昌が米芾の筆法をとりいれ、もっと深味を加えようとしたことをいっている。
趙孟頫がひとたび復古主義を標榜して、王羲之の典型の復興につとめると、その書風はまたたく間に天下を風靡して、これまでの蘇・黄・米を宗とする書風を一掃してしまった。これは趙孟頫の絶大な力量を主動力となったことを否定しえないけれども、当時の士大夫の間に、こうした復古主義に共鳴しうる素地があったと神田はみている。
元王朝は蒙古族が中原に侵入し、高度な文化をもつ漢民族を征服して建てた、いわゆる征服王朝(Dynasty of Conquest)である。こうした征服王朝は、多くの場合、漢民族を武力的、政治的には征服しても、文化的には被征服者である漢民族に征服されてしまうのが、古来の例となっている。5世紀の初めに拓抜族が建てた北魏や、17世紀の初めに満洲族が建てた清王朝はその適例である。しかるに元王朝は蒙古第一主義で、漢民族の優秀な文化に対しても、冷淡な態度をとったばかりでなく、むしろ蒙古族の固有の習俗を漢民族に強いる傾向があった。そのために漢民族は生気を失った。とりわけ文化の担い手である士大夫においては、一層著しかった。だから逞しい気魄とか創造性というものはなく、あらゆる芸術において、ただ古人を臨模することのみが行われたと神田はみている。
元王朝の代表的な詩人といわれる虞集、楊載、范梈、掲傒斯の作品を読んでも、結局は古人の臨模でしかも繊弱の弊があるという。それに古人を臨模するとなると、それに向くのは形式の整った作品である。元王朝の詩人が競って、唐の李義山から出た西崑体を学んだのも、そうした理由からであると解説している。自由奔放な蘇東坡や、奇峭艱渋な黄山谷の詩は、気魄もあり、創造性にも富む詩人でなければ容易に模倣しがたい。
趙孟頫が王羲之の典型を宗としたのも、大体同じ態度から出ていると神田はいう。ただ趙孟頫の場合は、もともと宋の貴族の出身で、幼少の時代から王羲之のような中世的な典雅な書を習ったので、その点いくらか事情が異なるものがあったともいう。
いずれにしても、趙孟頫の復古主義が当時の士大夫の好尚と合致したことは確かな事実であり、それでこそ趙孟頫の宗とした王羲之の典型が天下を風靡し、中国の書法に大きな転換を来たしたと神田は理解している。
なお、そうした王羲之の典型を宗とした元王朝の書家には、鮮于枢(せんうすう)、康里巙巙(こうりきき)、鄧文原、周伯琦、楊維楨、張雨らがおり、みな有名である。それから元王朝の代表的な詩人として、先に挙げた虞集、楊載、范梈、掲傒斯の4人なども、書法にすぐれていた。しかし、それらの人々の力量は概していうと、趙孟頫に比較してかなり劣る。もっとも鮮于枢などはいくらか勁抜なところがあって、それだけ庸熟を免れ、かえってある点趙孟頫よりも面白味があるともいいうると神田は評している。
明王朝は開国の初めに国粋主義を標榜し、特に儒学を崇び学校を興し、中国古来の倫理を要約した六諭を発布し、庶民の善導教化につとめるなど、中国の伝統の復興に重点をおく政策をとった。この政策は元王朝の士大夫が奉じた復古主義と合致したものであった。元王朝と明王朝との交替は、北方民族の征服王朝から純粋な漢民族の統一国家に移った政治上の大変革であったが、文化の上にはそれ程大きな変革はなかったと神田は理解している。つまり明初の文化は元王朝の継続と考えている。
したがって明初には、元王朝の趙孟頫の優麗典雅な書風が流行し、その王羲之を宗とした。この時代の書家としては、三宋二沈が知られている。すなわち宋璲・宋克・宋広の3人と、沈度・沈粲の兄弟である。それに宋濂・解縉・陳璧を挙げることができる。三宋の中で特に有名なのは宋克で、小楷と章草とを得意とした。しかし宋璲も宋克に劣らぬ大家で、草書では趙孟頫・鮮于枢・康里巙巙の3人につぐものといわれている。そして二沈の名声は当時はすばらしいものであったらしく、明の成祖が常に「我が朝の王羲之」と称していたとの伝説もある。また宋濂は明初の大儒で、また開国の名臣でもあるが、書法を善くし、その方面でも一家をなしていた。宋璲は彼の第二子である。それから宋濂について注意すべきことは文学上に復古主義を強調したことである。これが明王朝の半ばごろまで大きな支配力をもったが、そうした文学上の主張が書法の上にも、間接的に少なからぬ影響を与えたと神田は考えている。文学といい、書法といい、これは中国においては二にして一、一にして二の芸術であるからというのである。それから解縉については、普通には縦横不羈の草書をもって知られているけれども、むしろ謹厳な楷書を得意とした。そして陳璧は宋克の弟子である。
以上が大体明初に出た書法の大家であるという。これらの諸家の書について、何となく活気に乏しく、前期の書と同じく繊弱の弊に陥っていると神田は評している。これはこの時代の文学にも認められる同じ現象であるが、元王朝以来士大夫の間に次第に馴致されてきた無気力がそうさせた結果であると解釈している。
ところで永楽の時代には、文学において台閣体という平正典雅を宗とする詩が起こった。楊士奇・楊栄・楊溥のいわゆる三楊が首唱したものであるが、その意態は少しも当時の書と異なるところがないという。無気力は当時の士大夫を深く蝕んでいたようだが、解縉の草書などはそうした無気力からきた倦怠を無意識に破ろうとした、ときどきの発作的な作品ではないかと神田はみている。
いずれにしても明初の書壇は、はなはだ低調で、それは弘治時代までも続く。そうした中で明代の書家として、最初に気を吐いた巨匠は文徴明と祝允明とである。いずれも明の中ごろ、弘治・正徳・嘉靖の三代にわたって活躍した斯道の大家である。しかもこの2人が相並んで今の江蘇の蘇州の出身であることが注意をひく。
宋・元以来、揚子江下流のデルタ地帯は、中国における主要な米産地として栄えたが、その中心をなしたのは蘇州である。ここは人口密度も高く、明王朝になると、絹織物の産地としても、また棉花や棉布の産地としても、経済的に栄えた。その結果、自ずから文化も栄え、一時の盛観を呈した。文徴明と祝允明とは、そうした隆昌の機運に乗じて蘇州に生まれ出た文人である。その頃同じく蘇州から出た唐寅、徐禎卿とともに、世に呉中の四才子と謳われた。呉中とは蘇州のことである。彼らの芸術を理解するには、その背景として、富裕な蘇州の経済力を無視できないと神田は考えている。
文徴明と祝允明とは、いずれも王羲之の典型を宗としたが、明初の諸家よりも天分に恵まれていた上に、これまでの書家のように趙孟頫を通して王羲之の書法を学ぶのではなく、直接に王羲之の書法に遡ろうとした。これがこの2人の傑出していた点である。それにこの2人は王羲之の典型を宗としたけれども、必ずしも王羲之にばかり一辺倒するのではなく、いろんな異なった書法をとりいれた。文徴明は沈周について学んだというが、その沈周は晩年になって黄山谷の書を学んでいる。こうした新しい気運の動きは、既に文徴明の以前からほの見えていたのであって、弘治の末年に「杜詩顔字金華酒、海味囲碁左伝文」という言葉が流行したという。顔字とは顔真卿の書の意味で、そうしたものが当時一種の新鮮味を帯びたものとして歓迎された。文徴明もおいおい時代の好尚に薫染されて、晩年には黄山谷の書法を多くとりいれ、その書に変化を見た。ともかく文徴明には、自分の書を変化させるだけの気力を具えていたのであって、それでこそ明一代の巨匠となりえたのであろうと神田は推測している。その上、彼は篤実の性に加えて、精力的に毎日文墨に励精して、全く倦むを知らなかったという。文徴明の蝿頭(ようとう)の細楷の遺作を今日多く見ることができるが、いかに長いものでも、いわゆる一つの懈筆(かいひつ)もなく、驚嘆するほかないと神田は賞賛している。
祝允明は李応禎の女婿で、その書は専ら家学にうけたというが、文徴明に比較すると、いくらか力量の劣るのが感じられると神田は評している。また祝允明の書は古勁であるが、文徴明の書は遒麗ともいいうる。ただ祝允明の書にはどうかすると放恣を極めた草書があって、これが彼の代表的作品であるかのように考えられているが、解縉の草書とともに、これは決して本領ではないという。
文徴明の一家には多くの文人が輩出した。長子の文彭、次子の文嘉、三子の文台など、著名な者が少なくない。それらの人々は文徴明とともにみな書画を善くし、文彭はさらに篆刻をも善くした。中国の近世の篆刻は、この文彭によって開かれたといえる。文氏一家をはじめ門下の盛んなことは前後に比なく、相競って文徴明の書を鼓吹したので、その書風は一時天下を風靡した。その余波は日本にまで及んで、北島雪山、細井広沢らを出した。なお文徴明の後継者としては、王寵、陳淳らが傑出していた。陳淳は別に画も有名である。この2人はいずれも蘇州人で、したがって文氏一派や祝允明一派を併せて、これを呉中派という。
江蘇には呉中派に対して、別に華亭と呼ばれる一派があった。華亭は江蘇の松江のことである。ここも棉布の生産地として経済的に栄えた。そうした関係から、蘇州のように、ここもまた一つの文化の中心として栄えることになった。華亭派が呉中派に対抗し得るようになるのは、もう少しあとの万暦になって、董其昌の出現を待たねばならなかった。
呉中派が覇をとなえたのは、ひとり書壇ばかりでなく画壇においてもそうであり、沈周・文徴明・唐寅・仇英の四大家が出て、その名声は天下を圧した。
ところがこの派に対して、明王朝の中葉、浙江の銭塘から出た戴進を開祖とする浙派がおこり、互いに張り合った。江蘇と浙江とは、宋元以来、いわゆる人文の淵叢として中国文化の中心となったが、互いに対抗意識が強く、特に浙江人に甚だしかった。書壇においては、呉中派に対して浙派というほどのものはなかったが、しかしそうした形迹が全くなかったとはいえないと神田はみている。例えば、明の嘉靖・万暦の交(ころ)の人である孫鉱の著した「書画跋跋」により、当時の事情を推察している。この書は名高い文豪王世貞の「書画跋」に孫鉱みずからの跋を加え、王世貞の見解に痛烈な批評を試みたものである。文徴明や祝允明の書には常に刺譏(しき)の言辞をさしはさみ、それに対して王世貞の貶している姜立綱や豊坊の書を称讃している。王世貞は江蘇太倉の人であり、文徴明や祝允明の支持者であった。一方、孫鉱は浙江餘姚の人で、その称許している姜立綱は浙江永嘉の人であり、豊坊は浙江鄞県の人である。
呉中派の栄えた頃、やはり書壇にも浙派という意識があったことは確かであると神田はみている。このことは「宝翰斎法帖」巻3におさめてある明の陳敬宗の書に、万暦年間の名士董嗣成が加えている跋などによっても傍証できるとする。そこには祝允明を東呉、豊坊を浙中の、それぞれの領袖とし、これを対立的に考えている。
書については、後世ほとんど浙派という一派を認めていないが、当時の意識においては、やはり浙派というものが存在したことはありうると神田は推定している。そしてその代表者として豊坊が挙げられるという。
それでは、この浙派が後世ほとんど認められなかったのはなぜであろうか。その理由について、神田は次のように考えている。絵画においては、浙派は呉派と全く趨向を異にした。呉派が宋の李成・董源から元末の四大家に歩趨したのに対し、浙派が宋の劉松年・李唐・夏珪・馬遠を宗としたのは、全く立場を異にしたものであった。
しかし書においては、文徴明、祝允明らも、豊坊も同じく王羲之の典型を奉じたのであって、その書風に本質的な相違がなかった。しかも呉派は多士済々として、文徴明、祝允明ともに、すぐれた後継者があったのに対し、豊坊にはそうした後継者がなかった。まして豊坊の書そのものも、董嗣成らの批評では、いわゆる浙派の粗厲(それい)の気があるとしている。この批評が呉派に好意をもつものであるにしても、ともかく浙派の書がとかく一般の士人の間に喜ばれなかったことは確からしいと神田はいう。
これらの事情を考えると、書において浙派の存在が後世認められないのは必ずしも無理とはいえないとする。しかし当時、呉中派と華亭派、それに浙派と書壇における各派の対立が激しかったことは事実で、やがて華亭派から天才董其昌が出現することによって、そうした派閥が自ら解消すると、神田は理解している。
中国の書道史は、王羲之の典型と、それに反撥する革新型とが、互いに相交替する螺旋状を描いて展開する。元王朝の初めから明王朝の中葉に至る時代は、王羲之の型が張り出した時期である。その王羲之の型というのはこの時期においては、趙孟頫の型といいかえても差支えないほど、趙孟頫の書風が天下を風靡した。その影響は禅家流にまで及んでいて、例えば元王朝の竺田悟心、明王朝の来復の書を見ても、思い半ばに過ぎるものがあり、いかにその影響力が大きかったかが察せられるという。
そしてまた、趙孟頫の書風は中国にのみとどまらず、朝鮮や日本にまで著しい影響を及ぼした。近来趙孟頫の書を一般に軽視する風があるが、その書それ自体の書法的価値はおくとしても、書道史としては趙書を理解しないでは、この時代の書を論ずることはできないと神田は主張している(神田、1頁~10頁)。
趙孟頫の研究 外山軍治
この外山の解説文は、その著『中国の書と人』(創文社、1971年、179頁~207頁)に「趙孟頫―王羲之の伝統に生きた書人」と題して再録されている。その構成は、一、その官歴、二、趙孟頫の書、三、後世への影響、四、忍従の処世、五、趙孟頫年譜となっているが、この全集の方は各節のタイトルはない。
さて、趙孟頫は元代随一というだけでなく、歴代を通じて有数の書画人であったにもかかわらず、年譜というものが作られていない。宋の皇族でありながら、元に仕えてただ順調に栄達したというその経歴がおそらく人の興味をひかないからであろうと、外山は推測している。そこで、外山は篇末に自ら作成した年譜を掲載し、それを補うつもりで解説したのが本篇「趙孟頫の研究」であるという。
趙孟頫はあざなを子昻(すごう)といい、呉興すなわち湖州(浙江)の人である。その家系は宋の太祖の第四子秦王徳芳から出ており、実に太祖第11代の孫にあたる。さらに趙孟頫の家系を貴くし、またその家に隆昌を加えたのは南宋に入ってその家から孝宗皇帝を出したことである。宋では太祖についでその弟の太宗が立ってから、引き続いてその系統から天子が出て南宋の高宗に及んだが、高宗に嗣子がえられず、また太宗の系統が絶えていたので、太祖の系統から孝宗が選ばれて帝位につくこととなった。この孝宗こそは徳芳6世の孫で、趙孟頫4代の祖、伯圭の弟にあたる。
その縁によって伯圭は孝宗から呉興に第を賜った。呉興は太湖の南に位置し、川陸交会の要地である。その風光の温和なことは、趙孟頫の「呉興賦」や「呉興山水清遠図記」(「松雪斎文集」巻1、巻7)に述べられているが、この地のもつ強味は、米産の多いことと養蚕業の隆盛なことであった。伯圭は優遇の意味をもってこの地に広大な領地を与えられた。
伯圭の曽孫にあたるのが趙孟頫の父の与訔(よぎん)である。彼は度宗時代に戸部侍郎兼知臨安府、浙西安撫使となった。趙孟頫はその第7子として生れ、父の蔭をもって官に補せられ、また吏部の試験に合格して真州司戸参軍になった。ところが間もなく宋が元に滅ぼされたので、彼は郷里に帰って閑居した。
趙孟頫の生活に一大変化をもたらしたのは、元の世祖フビライ汗の抜擢をうけたことである。武力をもって中国を統一した世祖は中国の支配には文化人の協力が必要であり、特に元朝に反感を抱いている南宋の遺民を懐柔することが必要であることに考えいたり、至元23年(1286)、江浙行省治書侍御史程鉅夫(きょふ)に命じ、江南の遺賢を捜訪させた。趙孟頫にその候補20余人の第一に推薦されて大都へ赴き、そして彼だけが世祖に謁する機会に恵まれた。趙孟頫がいかにも帝王の後裔らしいりっぱな風采、態度、文章の巧みさ、政治に関する卓識などをもっていることに、世祖は心をひかれ、至元24年(1287)、彼を奉訓大夫、兵部郎中に任じた。ときに趙孟頫、34歳であった。
もっとも趙宋の後裔である趙孟頫を皇帝に近づけることについては、元朝官僚の間にも異論があったようであるが、世祖はそれにもかかわらず、これを抜擢した。宋の皇族であることに利用価値を認めたこともあろうが、やはり趙孟頫の人物が世祖の気に入ったのであろう。
至元26年(1289)、趙孟頫は公務のため杭州(浙江)に至った機会に、夫人管道昇を同伴して大都へ帰任した。管道昇は同郷の人管伸の女であり、才色兼備で、趙孟頫の好伴侶となった。「管公楼孝思道院記」(「松雪斎文集」巻7)によると、「至元26年、われ(孟頫)に帰(とつ)ぐ」とあるから、この時結婚したようで、そうすると趙孟頫は36歳、管道昇は8歳ちがいの28歳で、どうしたものか両人とも非常に晩婚であった。
これから趙孟頫は比較的順調に官歴をつんだ。地方に出たのは至元29年(1292)以降、同知済南路摠管府事として済南に在任した2年ほどと、大徳3年(1299)以降、集賢直学士をもって行江浙等処儒学提挙となり、杭州に在任した数年間だけで、あとは集賢殿や翰林院に官職を与えられた。
世祖、成宗、武宗、仁宗、英宗の五朝に歴任したが、特に仁宗皇帝の寵任をうけ、数年間にどんどん昇進して、延祐3年(1316)7月には、翰林院学士承旨、栄禄大夫、知制誥、兼脩国史となった。
延祐6年(1319)病中の夫人を伴って帰郷の途中でその死にあった趙孟頫は、そのまま故郷に帰り、彼自身病弱のため、再び上京しなかった。そして英宗の至治2年(1322)6月15日、69歳をもって呉興で没している。
趙孟頫がこのように元朝に重く用いられたのは何故であろうかと外山は問題を提起している。諸帝の中でもっとも趙孟頫を寵任した仁宗は、左右の者と、彼が他人にすぐれている点を論じて次のように言った。
「帝王の苗裔たること一なり、状貌昳麗(てつれい)なること二なり、博学にして聞知多きこと三なり、操履絓正なること四なり、文詞高古なること五なり、書画絶倫なること六なり、旁ら仏老の旨に通じ、玄微に造詣(いた)ること七なり」(「松雪斎文集外集」趙公行状)。
要するに、教養人としてこの上なく均衡がとれていて幅が広いということがこの人の魅力であったと外山は解している。均衡がとれていて幅が広いということは、絶倫だと評されているその書画においてもあてはまり、書では真、行、草のほか篆籒をもよくしたし、画では山水、竹石、人馬、花鳥のいずれをもよくした。
趙孟頫の書風について、呉栄光は次のようにいっている。
「松雪(松雪は趙孟頫の室名)の書、凡そ三変す。元貞以前はなお宋の高宗の窠臼(かきゅう)を脱せず。大徳の間には専ら定武禊帖(けいじょう)を師とす。延祐以後は変じて李北海(李邕)、柳誠懸(柳公権)の法に入る。而して、碑版もっとも多くこれを用う」(「辛丑銷夏記」巻3杭州福神観記巻)
元貞以前といえば、趙孟頫が40歳を少しこえたころまでのことであり、大徳年間は40歳代から50歳代に至る約10年間にあたる。また延祐以後とは、60歳以後のことである。この見方は一応当たっていると外山は考え、この呉栄光説を中心に考察している。
趙孟頫がはじめ宋の高宗を学んだということは、彼の出自から考えて、きわめて自然のことである。高宗は書画ともに父の徽宗に劣らないといわれるが、晋唐の法書を数多く蔵し、非常に熱心にこれを臨した。趙孟頫が先祖にあたる、この尊敬すべき書人である高宗の書に心ひかれ、そしてこれを習ったのは、いわばそのお家芸であった。呉栄光は元貞以前と限定しているけれども、はじめに習った高宗の書の影響はずっと後年まで認められるようであると外山はみている。
大徳6年(1302)10月以降に書かれたと推定される「玄妙観重脩三門記」(図1-5)や、晩年にあたる延祐6年(1319)に書かれた「仇鍔(きゅうがく)墓碑銘稿」(図18-21、京都、陽明文庫)は、その結体においても、またその気分においても、高宗の書に似たところを残しているという。
そして見ようによっては、高宗よりも、高宗の薫陶をうけることの深かった孝宗の書に、より多く似たところが認められることは外山は興味深いという。つまり、孝宗の書からうける、非常に潤美であるが、どこかきりっとしたところの足りない感じは、これらにみられる趙孟頫の書にもつきまとっていると外山はみている。これは貴族の出身者に共通した鷹揚さがそうさせるのか、お家芸としての趙孟頫の学書のいき方から来るのかと推測している。
次に趙孟頫が大徳年間にこれを師としたといわれる「定武禊帖」に対する趙孟頫の打ち込み方は並大抵のことではなかったようだ。例えば「禊帖を臨すること無慮数百本」(「容台別集」巻4)に及んだといわれる。趙孟頫は至大3年(1310)、仁宗の命をうけて呉興から大都へ赴いたが、その途中、見送りにきた独孤長老(名は淳明)から、「定武蘭亭序」をおくられた。彼はそれが王羲之の風神を伝えていることを喜んで、身辺を離さず、運河を北上する舟の中で、十三跋を書いたことはよく知られた事実である。
これから広く王羲之の書派を懸命に学んだといわれるが、それは趙孟頫の作品に明らかに現われていると外山はみている。例えば中峯明本に与えた「尺牘」(図10-13、14-16)にみられる行草書や、「漢汲黯(かんきゅうあん)伝」(図22-25)にみられる細楷、「某院記稿」(図17)にみられる楷書などである。
趙孟頫の書は筆法妍媚(けんび)、結体淳古と評されるが、上記の書はこのような絶えざる趙孟頫の錬磨によって成し遂げられたものであると外山はいう。
次に延祐以後、変じて李北海、柳誠懸の法に入ったといっているが、この点について外山は検討している。元代、趙孟頫の書いた碑の数は圧倒的に多く、「寰宇訪碑録」に載録されているものだけでも百に近いという。そしてその大部分は彼の地位がどんどん上がった仁宗の延祐以後に書かれている。碑版の書として、彼が李邕、柳公権の書法をとり入れたことは「仇鍔墓碑銘稿」(図18-21)や今日みられる碑刻によって首肯できるとする。
元碑の書人として趙孟頫が他を圧倒しているように、彼の書は元代を風靡した。元一代にとどまらず、つづく明代においても、祝允明、文徴明らをはじめ、その影響をうけた書人は非常に多く、清に入ってもこれを学んだ人は少なくない。
趙孟頫の書の魅力は、筆法妍媚、結体淳古ということにあった。外山は趙孟頫の歴史的役割として、古人の書に出入して、古人の書を今の人にもとりつきやすいように消化再生した点にあるとみている。近づくことの困難な晋唐の書は趙孟頫という仲介者の手によって何人にも学びやすくなった。趙孟頫の書の強味は、何人をもその美しさにひきつけ、何人にもこれを学ぼうとする意欲をおこさせるところにあったと外山は考えている。
清の乾隆帝も趙孟頫の書を好んだ。それは「石渠宝笈」の著録するところによって明らかであるように、その御府に多く趙孟頫の真蹟を蔵したことや、また乾隆帝自身が趙孟頫の書画を臨してたのしんでいることによっても知りうる。
そして「石渠宝笈」巻2 御臨趙孟頫書陶潜詩帖一冊に、帝は趙孟頫の筆法を評して、「流麗中に整粛をそなう。余、何ぞ能く一辞を賛せんや」といっている。乾隆帝の書なども、どこかのんびりして鷹揚な点、その気分は趙孟頫に通うものがあると外山はみている。
その一方で、趙孟頫の書をけなした人も少なくない。その中でもっとも趙孟頫の書に痛烈な批判を下したのは、明末の董其昌であるという。その「容台集」や「画禅室随筆」には随所にこれをこきおろしている。董其昌によると、「趙孟頫の書の欠点は勢のないところにあり、王羲之を学んだといっても、それは形状の上だけで、その雄秀の気をえていない」という。
また「古人は書をかくのに、必ず正局を作らない、蓋し、奇をもって正となす、これ、趙孟頫が晋唐の室に入らざる所以である」という。
つまり古人の書はただ行儀よくまっすぐにばかり書かない、横へかたむいたような変化をもった字を書きながら、それでいて、きちんとまとまって芸術的な効果をあげているのだが、趙孟頫はそれを解しないのだということであるようだ。
また「書家は険絶をもって奇となす、この竅、ただ魯公(顔真卿)、楊少師(楊凝式)のみこれを得、趙呉興(趙孟頫)は解せざるなり、今人の眼目、呉興に遮障(さえぎ)らる」ともいっている。
董其昌は趙孟頫の書が一字一字端正で、そろっていて美しいが、ただそれだけのことで、晋唐人の精神をつかんでいないとけなしている。そして董其昌は自分の書は趙孟頫より上であるという。
趙孟頫の書に力が足りないということは、董其昌以外にも多くの人がいっている。清の馮班はその「鈍吟書要」で「趙文敏(趙孟頫)は骨力少なし、故に字に雄渾の気なし、喜(この)んで難を避く」といっている。
このような欠点はあるとしても、趙孟頫の書の形状の美しさ、行儀のよさは万人に歓迎される魅力をもっている。董其昌の攻撃しているところが、趙孟頫の魅力になっているようにも考えられると外山はいう。
董其昌はその著において、一番多く趙孟頫を論じ、真向から攻撃しているが、これは趙孟頫の書の上に占める地位の大きかったことを示すものであるというのである。同じく晋唐にせまった董其昌は、趙孟頫を貶さなければ、自分の立場がよくならないことを恐れたのであろうと外山は推測している。
また趙孟頫の元朝に対する態度については、あくまでも受身の立場を守り通したと外山はみている。大都における生活では、その地位のお蔭で、その蒐蔵欲を満足させることもできたが、彼はできるだけ呉興に帰ることを望み、度々許しをえて家郷の風物を楽しんだ。
しかし都へ召されれば、いつでもおとなしく命に従った。政治に関して諮問をうければ憚ることなく、意見を述べた。その時々の情勢に応じて、控え目にしかも忠実にその任務を果たそうと心得ていたようである。しかし機会をつかんで栄進しようとするような気持ちは少しも持たなかったようだ。
異民族の朝廷に仕えてみて、宋の文化、ひいては中国文化の伝統を守らなければならないという、強い自覚と、自分こそその責務を果たすべき人物であるという自負とを、心ひそかにもっていたように見えるという。しかし別にこれを政治的行動の上にあらわすようなことはしないで、これを自分の好む翰墨のみちにおいて、着実に実行しただけであった。それは晋唐人の書を、中国の書の正統だと考え、これをしっかりとうけついで、次代にひきわたすことであり、この点趙孟頫はその時代にもっとも適した書人であった。
また中国書道史の上に彼の占める地位が大きい所以でもあると外山は考えている。
画における彼の功績も、書におけるそれに劣らない。彼は李公麟の線描様式を祖述し、好んで李公麟風の白画を描き、当時の画壇に重きをなし、そして元の四大家への途をひらき、指導的な役割をつとめた。彼の書にあきたらない人も、その画における功績はこれを高く評価している。
趙孟頫は宋の皇族でありながら、元に仕えた節操のない人物だとして後世の悪評をまねくことを免れなかったが、その当時においても、彼に快しとしないものが少なくなかったようだ。例えば、趙孟頫の年長のいとこで、書画人として高名な趙孟堅は、宋滅びてのち元に仕えなかった。ある日、趙孟頫の訪問をうけ、いやいやながら後門より招じ入れ、ろくにうちとけた話もしないで追いかえし、趙孟頫の辞去した後で、その坐具を洗い清めさせたという挿話さえある。
また朝廷においても、彼が宋の皇族だからという理由で、これを陥れようとする動きもないではなかったようだ。この困難な公私の生活に事なきをえたのは、夫人管道昇の内助の功によることが多かったと外山はみている。夫人は聰明人に過ぎ、家事一切をきりまわし、親戚や知人の間をうまくとりなしたといわれる。愛妻家であったと思われる趙孟頫も、夫人の墓誌銘(「松雪斎文集外集」)には、「家事を処して内外整然」としかいっていないが、藤井有鄰館に蔵されている「管夫人願経」に、
「良人の仕途に荊棘の虞なく、寿算に綿長の慶あり、獲るところの福徳ことごとく願うところのごとくならん」とある。このように祈っているのは夫人の心ばせがみえて、興趣が深いと外山はいう。
管夫人は翰墨辞章、学ばずして能くし、その書は夫の趙孟頫とまがうばかりで、また好んで墨竹を描いた。夫人には兄弟がなく、そのために父母の祭祀ができないことを憂い、皇慶5年(1312)、管公楼孝思道院をたて、膄田30畝を供し、道士に亡き父母をまつらせた(「管公楼孝思道院記」)。趙孟頫の写した仏、道の経典に管公楼の朱格のある紙を用いているのは、その因縁によると外山は説明している。
管夫人は常に夫に従い、夫が大都に出ればこれに従って上京し、咸宜坊に住い、夫が呉興に帰ればまたこれに従った。延祐6年(1319)、持病の脚気に苦しむ身を夫に守られて呉興へ帰る途中、臨清(山東)の舟中でなくなった(外山、11頁~18頁)。
明代の法帖 中田勇次郎
書の鑑賞は真蹟を第一とする。模本はこれに次ぐ。真蹟や模本を木または石に刻し、その墨拓を賞玩するにふさわしく装幀したものを法帖とよぶ。
法帖には2種類ある。
・一人一帖を刻したものを単帖という。
・多人数または多種類のものを集刻したものを集帖または彙帖、叢帖という。
中田は、単帖のことはしばらくおき、明代に刻された集帖について解題している。つまり明代の集帖にその著者、成立事情、内容、出版年などについて解説している。
そもそも明代の法帖は宋代における『淳化閣帖』とその翻刻本およびその他の影響を受けて発展したもので、その種類も数も少なくない。それを大別すると、次の2つに分られる。
①『淳化閣帖』の翻刻本およびその系統に属するもの
②民間の収蔵家や好事者によって刻されたもの
そして『淳化閣帖』の翻刻本では、次の4種類がもっとも著名である。
1.泉州本~洪武4年(1371)泉州の知府常性が宋拓本によって郡学において刻したもの
2.玉泓館本~嘉靖45年(1566)、上海の顧従義が宋の賈似道旧蔵本によって刻したもの
3.五石山房本~万暦11年(1583)、上海の潘雲龍が同じく賈似道本によって刻したもの
4.肅府本(7巻図77)~万暦43年(1515)、肅王府において祖本によって刻したもの
なお顧従義は別に「法帖釈文考異」10巻を著わして、難解な閣帖の釈文を考訂したが、その成果は今日なお閣帖の主要な研究資料としてその価値を認められている。
閣帖をそのまま翻刻したのではないが、その系統に属すると考えられるものに、明の王府で刻された「東書堂帖」と「宝賢堂帖」がある。この2種が明代の前半期を代表している。
嘉靖以後になると民間の収蔵家や好事者によって刻されたものが年を追って現われてくる。これを種類によって大別すると、次の5種類になる。
1.数人または多くの人々の書を集めて刻したもの
2.一人の書を集めて刻したもの
3.一家の書を集めて刻したもの
4.一時代の書を集めて刻したもの
5.一地方の書を集めて刻したもの
この中で1.の数人または多くの人々の書を集めて刻したものに最も良いものがあり、最も著名なものがある。そして明代の法帖の代表的なものはすべてこの種類に属している。以下、その中から主要なものを選んで時代順に列挙して解明している。
①「真賞斎帖」
華夏がその所蔵していた書蹟から名品を選んで刻した法帖である。嘉靖元年(1522)の刻帖である。
清の王澍の説(「古今法帖考」)によると、この法帖を鉤摹したのは文徴明父子であるという。華夏と文徴明とは親交があり、この時文徴明の子の文彭はまだ25歳、文嘉は22歳であった点からみると、実際、鉤摹したとすれば文徴明だとみられている。
取扱い方の謹厳さ、摹刻、鐫刻(せんこく)、拓法いずれもすぐれている点において明代第一の法帖といっても過言ではないと中田は高く評価している。なお、華夏(1498年頃生)は、江蘇、無錫の名家で、若い頃には王守仁に師事した。家には金石書画の収蔵が多く、祝允明、文徴明、沈周など当時の知名の文人と交遊した。文徴明の言葉に、彼が弱冠の頃から、40年間、書画の収蔵鑑識を怠らなかったことを称讃しているのをみても、彼が早くから法帖については洗練された趣味をもっていたことが察知される。
②「停雲館帖」
文徴明の家で刻した法帖であり、明代の法帖の中では最も著名なものである。嘉靖16年(1537)正月から同39年(1560)4月に至るまでに前後24年を費やして完成した。文徴明は嘉靖38年(1559)2月20日に没しているから、12巻本の完成したのはもっとも早くみても彼の没後である。摹勒は文徴明とその子の文彭、文嘉、鐫刻は章簡父など、拓は尤敬(ゆうけい)という名工がした。
文徴明の曽孫にあたる文震亨の[長物志]には、「真賞斎帖」とともに法帖の中の名刻で、摹勒はみな精巧であるといっているのは、家刻の法帖であるから褒めた点もあろうが、「鬱岡斎帖」を刻した王肯堂が小楷は真を失し、唐の欧・虞・褚・顔の書はもとの筆意がすっかりなくなっているといい(「鬱岡斎筆塵」、清の孫承沢が真蹟と比べると遠くかけ離れていることを立証しているのは(「間者軒帖考」)、もっともなところもあるといわれる。
しかし古搨善本を鑑別して精摹して刻したところは、やはり明代の法帖の中では出色のものといってよいと中田は評価している。第1巻の小楷の部分は宋の石邦哲の刻したいわゆる越州石氏本によって刻したもので、「墨池堂帖」の小楷とともに佳拓と称せられる。
③「余清斎帖」
呉廷が晋、唐、宋の名品を所蔵の真蹟にもとづいて刻した法帖である。帖首に董其昌のかいた「余清斎」の三大字が題されている。この法帖は、諸題跋の年記から考えて、ほぼ万暦26年(1598)および37年から42年(1609-1614)までの頃に正続2回にわたって刻されたものと中田は推測している。
清の王澍はこの法帖に斧鑿(ふさく)の痕跡のあるのをまぬがれない(「古今法帖考」)といっているが、しかし明代の法帖としては「真賞斎帖」にも劣らぬ精刻であると中田はみなしている。とくに「楽毅論」や晋人の尺牘、虞世南の「積時帖」(7巻図78, 79)などはめずらしい。また帖内には宋元名家の題跋はいうまでもなく、その時代の名家の題跋および呉廷の自跋をも付刻して完全な体裁をととのえ、ひとり名蹟を刻するだけにとどまらず、それをいかに楽しんで鑑賞したかをよくうかがわれるようにしているところは、明代の法帖の特色をよく発揮していると中田はいう。例えば、王羲之の「行穣帖」は董其昌が陳継儒、呉廷とともに鑑賞し、董がみずから筆をとって美しい行書の跋をしたためているし、「思想帖」には趙子昻と文徴明の跋が付刻されている。
呉廷は安徽新安の人で、書画の収蔵家として知られていた。この法帖の摹勒はその知己の楊名時がした。この法帖の原石は乾隆、嘉慶の頃まで存していたが、翻刻本はなく、伝本はきわめて稀である。
④「墨池堂帖」
章藻が晋、唐、宋、元の名蹟を集めて刻した法帖である。万暦30年(1602)から同38年(1610)に至る9年間にわたって刻された。清の翁方綱の説(「復初斎文集」巻28)によると、翻刻本は原石本に比べると王徽之の「新月帖」と欧陽詢の「化度寺碑」など、一、二の磨泐したところは鉤模した原本に照らして審定しているから、単に原石の翻刻にとどまらず整理を加えている。
章藻は江蘇、長洲の人で、「真賞斎帖」や「停雲館帖」を刻した章簡父の子で、父の業をつぎ、鐫刻の技術にすぐれいた。
この法帖の小楷の部分は「停雲館帖」と相並んで佳刻と称せられ、晋帖にも善本によって刻したものがあり、唐代のものでは欧陽詢の「化度寺碑」、李靖の「上西嶽書」、徐浩の「宝林寺詩」がめずらしいという。
⑤「戯鴻堂帖」
董其昌が晋、唐、宋、元の名蹟を集めて刻した法帖である。はじめ木板で紙墨搨工は精妙をつくし、四方の人が争って高価をもってこれを求め、入手も困難であったが、万暦32年(1604)彼が湖広の学政になってから、監督者に適当な人がなく、成果を急いで、粗末なものをつくったので、にわかに価が低くなったという。
内容は董其昌の鑑識をへた法帖だけあってよく備わり、彼の自跋も加えられていて、書学に益するところが少なくないが、摹勒と鐫刻がよくなかったので、清の王澍によって古今第一の悪札などと呼ばれている(「古今法帖考」)。この点は中田は惜しい気がするという。
実際、董其昌がみずから摹勒したのは「汝南公主墓誌」だけであるようだ。
⑥「来禽館帖」
邢侗(けいとう)が刻した法帖である。内容は「澄清堂帖」、「蘭亭序三種」、「索靖出師表」、「唐人雙鉤十七帖」、「黄庭経」など9種を収めている。十七帖は、「余清斎帖本」や「鬱岡斎帖本」とともに佳拓であるとされている。
邢侗は山東、臨邑の人で、万暦2年(1574)の進士で、官は陝西行太僕卿に至った。書においては董其昌、米万鐘、張瑞図とならんで著名であった。東京書道博物館には残本4巻がある。
⑦「鬱岡斎帖」
王肯堂が魏、晋、唐、宋の名蹟を集めて刻した法帖である。清の王澍はこの法帖を批評して、停雲の蒼深さには及ばないが秀潤さはそれ以上である。だから遠く戯鴻の上に出ている(「古今法帖考」)といって称讃している。
王肯堂は江蘇、金壇の人で、万暦17年(1589)の進士で、官は福建参政にまでなった。とくに医学において名を知られ、その方面の著述が多い。
書をよくし、その収蔵も少なくなかった。彼の鑑識は董其昌ほど詳審ではなかったといわれるが、この法帖は摹勒と鐫刻とがよくできているので、明代のものの中では精刻されている。
⑧「玉煙堂帖」
陳瓛が漢、魏、六朝、唐、宋、金、元の書蹟を刻した法帖である。陳瓛は浙江、海寧の人で、書学に深く各体の書をよくし、鑑識に長じていた。この法帖は多くは旧刻を翻摹したものであるが、数の多いことと多方面にわたっている点においては、明代の法帖ではほかに類がまれである。
⑨「秀餐軒帖」
陳旾永(しゅんえい)が刻した法帖である。この帖の「黄庭経」は万暦47年(1619)冬に刻されたことが清の張廷済の「清儀閣題跋」に見えているので、この頃の刻帖であるとみられている。内容は魏晋および唐の欧・虞・褚・薛、宋の蔡・蘇・黄・米から張即之にいたるまで20家33種の名蹟を集めて刻したもので、小楷を主としている。
⑩「渤海蔵真帖」
陳瓛が刻した法帖の一つである。「内景経」の跋により、崇禎3年(1630)以後の刻であろうと推定されている。唐、宋、元の名蹟11家18種を真蹟によって刻したもので、その中では鐘紹京の「小楷霊飛経」がもっとも精刻である。
⑪「快雪堂帖」
馮銓が魏、晋、唐、宋、元の名蹟を集めて刻した法帖である。快雪堂の名称は明の馮開之が王羲之の「快雪時晴帖」を所蔵し、その室に快雪堂と名づけたのを、そのまま馮銓がうけついで、この帖を手に入れるとともにまた室名とし、これを帖の首に刻して帖名としたのである。
「洛神賦十三行」の跋により、崇禎14年(1641)以後の刻帖と推定される。帖内には真蹟から刻したものと旧刻をまた翻刻したものとがあるが、概して精刻であり、「停雲館帖」ほどの蒼深さはないが、それにもまさるよい法帖である。
馮銓は河北、涿州の人で、万暦41年(1613)の進士で、清朝に仕えて康煕11年(1672)に没した。
帖内には宋人のものを多く収め、元では趙子昻の「蘭亭帖十三跋」が著名である。
以上、①から⑪まで、主要なものを掲げたが、この種類の集帖には、王世貞の「小酉館選帖」、文嘉の「帰来堂帖」、蒋一先の「浮雲枝帖」がある。
次に中田は一人の書を集めて刻したもの、一家の書を集めて刻したもの、一時代の書を刻したもの、一地方の書を刻したものを列挙している。
例えば一人の書を集めて刻したものには、陳継儒が宋の蘇軾の書を集めて刻した「晩香堂蘇帖」および宋の米芾の書を集めて刻した「来儀堂帖」があり、陳比玉が宋の蔡襄の書を集めて刻した「古香斎帖」があり、陳瓛が董其昌の書を集めて刻した「小玉煙堂帖」「観復堂帖」がある。
そして民間で刻された法帖は明代の法帖を代表するものであって、その特色について中田は次の点を指摘している。
①宋代の『淳化閣帖』とその翻刻本およびその他の法帖から材料をとるとともに、さらに従来の法帖に見られなかった新しい書蹟をとりあげて刻していること
②宋、元、明時代の新しい書を多く収めていること
③法帖の鑑賞の記録である題跋を併せて付刻し、これが解説の役目をなしていること
④法帖のほかに碑版をも法帖の形式で収めていること
⑤摹勒は当時の第一流の文人の手になり、鐫刻や拓打にも専門の名工が技術を振っていること
このようにしてできた法帖は書を好み書を学ぶ人々の間に広くゆきわたり、その時代の書風に大きな影響を与え、前代の法帖よりも一般的な性格をもって普及していった。
さて、今日では印刷技術が発達し、伝世の真蹟の名品を精巧な複製本によって鑑賞することができるので、刻帖はすでに過去の鑑賞法となっているが、古香の漂う拓本による書の鑑賞にもまた一種の風味があるとともに、これらの法帖に収められているものの中には、今日亡んで見ることのできないものもあり、またこれによってその鑑賞の方法やその時の情況をも併せて知ることができる点において、明代の法帖にもおのずから価値を存していると中田は主張している(中田、19頁~27頁)。
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