(2020年5月3日投稿)
【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】
はじめてのルーヴル (集英社文庫)
【はじめに】
前回まで、中野京子『はじめてのルーヴル』(集英社文庫、2016年[2017年版])を要約してきた。
今回からは、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』の【読後の感想とコメント】を記したい。
その前に、中野京子氏の『はじめてのルーヴル』の特長を列挙しておきたい。
〇「ディスクリプション(作品叙述)の上手さ
ドイツ文学者であり人気作家である中野京子氏の筆の冴えを随所に感じる魅力的な作品解説である。
〇コンパクトな文庫本
コンパクトな文庫本としてまとめてあり、携行にも便利である。本書掲載作品のルーヴル美術館内の展示場が記してあり、本書を携えてゆけるので、実践向きである。初心者にとって必読文献である。
〇見開き2ページの図解
各章1枚の絵について、見開き2ページを使い、細部について解説、鑑賞ポイントをまとめている。
例えば、ラファエロの『美しき女庭師』の見開きの解説では、聖母の青いマント部分に矢印を引っぱり、≪マントの裾には「ウルビーノのラファエロ」と金文字による署名。またマリアの左肘のところには「1507年」と、作品完成年が記されている。≫と述べている。
(中野、2016年[2017年版]、204頁~205頁)
このように鑑賞する上で、痒い所に手が届くように細かい配慮がみられる入門書である。
〇最近の知見
最近の知見も盛り込まれて叙述されている。例えば、「第⑰章モナ・リザ」のモデル問題に関して、2008年のハイデルベルク大学図書館蔵書に16世紀の書き込みが発見され、モデルはフィレンツェの商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻リザで正しかったとされ、長年の論争に決着がついたとする。
(中野、2016年[2017年版]、233頁~235頁)
このように、至れり尽くせりの美術史入門書であるが、ただ一つ注文をつけるとすれば、フランス絵画のロマン派の画家の作品をも取り上げてほしかった。例えば、ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』などを収録してほしかった。
私も、2004年のパリ旅行でルーヴル美術館を訪れた際に、ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』を見た時、衝撃を受けた。絵の大きさにまず圧倒され、臨場感があった。それ以来、ダヴィッドという画家に興味を持つようになった。
物理的に、縦・横のサイズは、ヴェロネーゼ『カナの婚礼』(ルーヴル美術館ドゥノン翼2階展示室6)がルーヴル美術館で最大であるとされる。しかし、ヴェロネーゼの絵の方は、印象に残らなかった。なぜか?
その理由の一端について、中野氏は言及している。つまり、『カナの婚礼』は、画面中央のイエスに存在感が薄く、光輪が差しているというのに、すっかり周囲に埋没しているのである。ヴェロネーゼは、祝宴で水をワインに変えたというイエスの奇蹟という主題を強調せず、群像劇に核を作らなかったため、画面は雑然としてしまっているのである(中野、2016年[2017年版]、16頁~17頁)。
一方、ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』には、群像劇に核がある。この点、ダヴィッド特有の描き方の工夫があり、鈴木杜幾子氏の著作を読むことにより、納得がいった。
ともあれ、中野氏が「第①章 なんといってもナポレオン ダヴィッド『ナポレオンの戴冠式』」と題して、ルーヴル美術館の作品で真っ先にダヴィッドのこの作品を取り上げたこともうなずける。
今回以後、【読後の感想とコメント】では、まず、ルーヴル美術館の歴史、ダヴィッド、『ナポレオンの戴冠式』、ダヴィッドの諸作品などについて説明してゆきたい。
ダヴィッドに関連しては、日本での研究の第一人者である鈴木杜幾子氏の次の著作を主に参考にした。
〇鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年
〇鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔――』筑摩書房、1994年
〇鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔』筑摩書房、1994年
〇鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年
これらの内容は、該当するコメントの所で紹介してみたい。
ところで、女性をモデルにした肖像画は、女性の病気の兆候をも画家は描き込むことにもなったといわれている。
この点は、中野氏も言及している。
例えば、レオナルドの『モナ・リザ』においては、「目元の脂肪塊についての研究まである」と指摘している。そして、中野氏がルーヴルにおける必見の名画とみなした、レンブラントの『バテシバ』については、「モデルは画家の愛人で、乳癌で亡くなったらしい。バテシバの左の乳房の黒い影をその兆候と見做す研究者もいる」と説明している(中野、2016年[2017年版]、63頁、237頁)。
こうした指摘の典拠は、おそらく次の文献を参照したものであろう。
〇篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮新書、2003年
私のコメントでは、『モナ・リザ』、『バテシバ』を見て、篠田達明氏が、なぜ、こうした診断を下したのか、補足説明しておきたい。
その他、中野氏の本書を読んで、私の関心をひいた絵画について感想を記してみた。その際の参考文献を掲げておきたい。
合せて、フランス語の解説文を読んでみることを試みた。読者でフランス語を勉強してみたい人に少しでもお役に立てれば幸いである。その際に、比較的簡潔に要領をえた文を記している、次のガイドブックを主に参照にした。
〇 Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, artlys, 2001.
〇その翻訳本 フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』artlys、2001年
このガイド本は、ルーヴル美術館で購入したものであり、ルーヴル美術館所蔵の諸作品を簡潔に解説してあり、有用である。
≪参考文献≫
鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔――』筑摩書房、1994年
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年
鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔』筑摩書房、1994年
鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年
安達正勝『ナポレオンを創った女たち』集英社、2001年
J・ジャンセン(瀧川好庸訳)『ナポレオンとジョゼフィーヌ』中公文庫、1987年
飯塚信雄『ロココの時代――官能の十八世紀』新潮選書、1986年
中山公男編『大日本百科事典 ジャポニカ21 別巻世界美術名宝事典』小学館、1972年
ジュヌヴィエーヴ・ブレスク(遠藤ゆかり訳)『ルーヴル美術館の歴史』創元社、2004年
フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』artlys、2001年
Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, artlys, 2001.
高階秀爾監修『NHKルーブル美術館IV ルネサンスの波動』日本放送出版協会、1985年
高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年
高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年
赤瀬川原平、熊瀬川紀『ルーヴル美術館の楽しみ方』新潮社、1991年[2000年版]
木村泰司『美女たちの西洋美術史』光文社新書、2010年
木村泰司『名画の言い分』筑摩書房、2011年
田中英道『美術にみえるヨーロッパ精神』弓立社、1993年
篠田達明『モナ・リザは高脂血症だった 肖像画29枚のカルテ』新潮新書、2003年
中西進『万葉集入門』角川文庫、1981年
佐佐木信綱編『白文 万葉集 上巻』岩波文庫、1930年[1977年版]
中野京子氏の『はじめてのルーヴル』の【読後の感想とコメント】は、次のような構想のもとに述べてみたい。
・ルーヴル美術館の歴史
・ 【旧体制時代のルーヴル宮】
・ 【1760年代から1770年代の動き】
・ 【フランス革命と美術館】
・ 【中央美術館からナポレオン美術館へ 】
・中央美術館の一時的な収蔵品について
・中央美術館とアングルの作品
・フランス語で読む、ルーヴル美術館の歴史
・ナポレオンのイメージを形作っている2枚の絵
・ダヴィッドについて
・『ナポレオンの戴冠式』
・ナポレオンの戴冠問題と絵画の構図
・ナポレオンとダヴィッド
・フランス語で読む、ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠式』
・不評だった戴冠式の衣装のナポレオン像
・ナポレオンにとっての運命の女性たち
・偉大なる母、レティツィア
・勝利の女神、ジョゼフィーヌ
・ハプスブルク家の姫君、マリー・ルイーズ
・ダヴィッドの生い立ちと古典主義
・ダヴィッドの『ホラティウス兄弟の誓い』について
・ダヴィッドの『サビニの女たち』について
・ダヴィッドの作品に関連して思うこと―壬申の乱と十市皇女
・ダヴィッドの亡命と作品『ナポレオンの戴冠式』
・ダヴィッドの肖像画――≪レカミエ夫人≫と≪教皇ピウス7世≫
・ダヴィッドの≪サン・ベルナール峠を越えるボナパルト≫について
・ダヴィッドの≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫
・ダヴィッドの作品計画と挫折と功績
・戦争の絵を描かなかったダヴィッド
・ダヴィッドの弟子グロの作品
・首席画家ダヴィッドの限界
・アングルによるナポレオンの肖像画
・ナポレオン美術館館長ドゥノン
・ドノンとナポレオンとの出会い――エジプト遠征
・ナポレオン美術館館長のドノン
・ナポレオン美術館館長ドノンと、ダヴィッドの批評の相違――ジェリコーの騎馬肖像をめぐって
・ラファエロについて
・ラファエロの「カスティリオーネの肖像」
・【補足】ラファエロの自画像
・【補足】ラファエロの肖像画のすばらしさ
・赤瀬川原平氏のルネサンスの見方
・ラファエロの「カスティリオーネの肖像」のフランス語の解説文を読む
・フランス語で読む、ラファエロの「聖母子と幼児聖ヨハネ」(「美しき女庭師」)
・フランス語で読む、『モナ・リザ』
・【『モナ・リザ』の展示場所の変遷】
・【チュイルリー宮殿の歴史】
・【補足】ヤン・ファン・エイクの『宰相ロランの聖母』
・ヤン・ファン・エイクと宰相ニコラ・ロラン
・『宰相ロランの聖母』のフランス語の解説文を読む
・『アヴィニョンのピエタ』のフランス語の解説文を読む
・『マリー・ド・メディシスの生涯』
・マリー・ド・メディシスの一生とルーベンスの連作
・【マリー・ド・メディシスの一生】
・【マリー・ド・メディシスによる連作の注文】
・『マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸』のフランス語の解説文を読む
・イギリス肖像画の礎を築いたヴァン・ダイク
・ヴァン・ダイク『狩りをするイギリス王チャールズ1世』のフランス語の解説文を読む
・『モナ・リザ』の目元の脂肪塊について
・レンブラントのバテシバ像について
・ディドロとグルーズ
・グルーズ作『壊れた甕』についての私の感想ひとこと~歌「花はどこへ行った」と映画『シェルブールの雨傘』
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・ルーヴル美術館の歴史
・ 【旧体制時代のルーヴル宮】
・ 【1760年代から1770年代の動き】
・ 【フランス革命と美術館】
・ 【中央美術館からナポレオン美術館へ 】
・中央美術館の一時的な収蔵品について
・中央美術館とアングルの作品
・フランス語で読む、ルーヴル美術館の歴史
【読後の感想とコメント】
【ルーヴル美術館の写真】(2004年筆者撮影)
≪ルーヴル美術館の中庭であるナポレオン広場にある、ガラスのピラミッド≫
イオ・ミン・ペイがこの広いスペースを生かす建築計画をたてたが、ナポレオン広場中央のピラミッドは、ミッテラン大統領の大計画の象徴の一つである。
(L’architecte Ieoh Ming Pei conçoit alors un projet de grande ampleur dont la pyramide
au centre de la cour Napoléon n’est que le signe extérieur. Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, artlys, 2001, p.7より)
ルーヴル美術館の歴史
現在のルーヴル美術館の最も充実した部門は、フランスおよびイタリア絵画部門であるといわれる。この基本は、フランソワ1世とルイ14世に負うところが大きい。フランソワ1世が、イタリア・ルネサンス絵画に寄せた関心は、中世的な要素を残していた自国の文明の向上の理想と深く結びついていた。
そしてルイ14世は当時のパリやヴェルサイユをローマに匹敵する文明の中心にする意図をもって美術品を収集し、芸術家を保護した。
草創期のルーヴル美術館においてもまた、美術品が収集され、伝統的な王室コレクションが近代的美術館へと脱皮してゆく過程がみられる。
ところで、鈴木杜幾子氏は、『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』(晶文社、1991年)において、「第Ⅳ部 ルーヴル美術館の誕生」において、ルーヴル美術館の歴史を叙述している。まず、この著作の内容を紹介しておきたい。
鈴木氏は「第Ⅳ部 ルーヴル美術館の誕生」を次のような章立てで述べている。
はじめに
第一章 旧体制時代
第二章 革命時代
第三章 執政政府時代
第四章 帝政時代
第五章 ナポレオン美術館の崩壊
この第Ⅳ部においては、ルーヴル美術館創設を支えたさまざまな理念がどのように変質していったかを跡づける試みである。
具体的には、次のようなルーヴル美術館の草創期の歴史を辿っている。
・17世紀末にルーヴル宮がのちの美術館的機能の萌芽としての役割を果たし始めたこと
・18世紀を通じて行なわれた美術館の試み
・1793年の国民公会時代の中央美術館の開設
・1803年のナポレオン美術館の開設と1815年のその終焉
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド――革命の表現者から皇帝の首席画家へ――』晶文社、1991年、267頁~334頁、とくに271頁)
【鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社はこちらから】
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド―革命の表現者から皇帝の首席画家へ』
【旧体制時代のルーヴル宮】
ルーヴル宮は、西暦1200年前後にカペー王朝のフィリップ2世によって当時のパリ市壁に沿って建てられた城砦を出発点として、それ以来800年間、増改築を重ねて現在の姿になっている。
この間、ルーヴル宮が王の住居として用いられたのは短期間で、通算しても150年にしかならない。
特に1678年ルイ14世がヴェルサイユに宮廷を移してから現在にいたるまで、この宮殿が国家の首長の居城として政治の中心になったことはない。
宮廷がルーヴル宮を去った時、あとに残された王室所有の絵画400点余を、許可を得た芸術家や愛好家が鑑賞するようになったのが、この宮殿が美術館的な機能を果たすようになったはじめである。
(ただしこれらの作品は17世紀末までにはヴェルサイユその他の宮殿に運ばれた)
ルイ14世は宮廷の移転前にこそルーヴル宮の拡張工事に熱心であったが、のちにヴェルサイユ宮への支出が増大すると、ルーヴル宮の造営を放棄し、王の死(1715年)の頃のルーヴル宮は荒廃した状態に放置されていた。
かろうじて使用に耐える部分には、王立絵画彫刻アカデミーが置かれた。その会員の作品展が当初は2~3年に1回、1737年以降には毎年宮殿内のサロン・カレで開催された。これがいわゆる官展(ル・サロン)の始まりである。
だがこのような正常の使用のほかに、当時のルーヴル宮殿は、芸術家たちがアトリエ兼住居として使ったりした。
【1760年代から1770年代の動き】
1760年代から1770年代の動きを略述しておこう。
18世紀後半のルーヴル宮は、なかば芸術家の共同アトリエに化していた。
アカデミーに属し、業績をあげた芸術家が、王よりルーヴル宮内に住居(ロージュマン)を賜わった。
もともとヴェルサイユ時代以来、なかば見捨てられていたリュクサンブールやルーヴル宮は、しかるべき画家が、鍵番(コンシエルジュ)に任命されて王室美術品の管理を委嘱されたが、それ以外に多くの画家が住むことになる。
意外と規則は厳しかったらしく、1779年にシャルダンが死んだあと、未亡人は、ルーヴル宮に住む権利を失い、退去している(シャルダンの奥さんは、夜になるとランプの灯を点ける役をしていたらしい)。
ただ、ルーヴルの内部の芸術家たちの住居は、かなり乱雑になっていたらしい。当時の絵を見ると、広大なギャラリーが間仕切りで仕切られ、それぞれの間仕切りから煙突がつき出ている。
こうしたルーヴルを美術館として整備し、王室を一般に公開しようとする動きが生まれるのが、1770年代である。
すでに早くから王室美術品は専門の画家たちに公開されていた。しかし、18世紀の啓蒙主義思潮は、もっと一般的な公開を求めた。
1777年、ルイ16世の設立認可が出されるが、その時から、ルーヴルの整備、陳列計画の策定を行なったのが、風景画家ユベール・ロベールである。
ロベールは図面ではなく、お得意の油絵で陳列計画をつくっている。ルーヴルの初代館長というべき人が、遠い未来のルーヴルの廃墟となり果てた姿まで想いを馳せながら、陳列計画を練っており、凄味があるといわれる。
(高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年、128頁)
【高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』はこちらから】
フランス芸術の華 ルイ王朝時代 (NHK ルーブル美術館)
1765年に刊行された『百科全書』の「ルーヴル」項目に、ディドロは、次のような提案を記した。
すなわち、ディドロは、ルーヴル宮全体を美術館・博物館化し、グランド・ギャラリーを絵画展示スペースとして、改築して王室美術コレクションを公開すべきであると提案した。
(この提案は、ルイ15世の認可を得たが、具体的実現にはいたらなかった。一方、美術品は、パリ市内のリュクサンブール宮殿に集められ、1750年から77年まで一般に公開された。)
ところが、1774年、ルイ15世が死去し、新王の家族の住居としてリュクサンブール宮が必要となったため、1778年、当時の王室建造物監督官ダンジヴィレール(ママ)伯爵が王室コレクション公開の場としてのグランド・ギャラリー使用を検討する委員会を組織した。
1768年に、建築長官マリニーは、ルーヴル宮殿のグランド・ギャラリーとサロン・カレを修復し、美術品を移動させることを提案していた。マリニ―の後任者となったダンジヴィエ伯爵も、ルーヴル宮殿内に美術館を開こうと考えた。絵画の展示スペースをつくるために、グランド・ギャラリーに置かれていた都市の立体地図が1776年に別の場所へ移された。
美術館となる場所が準備されている間に、ダンジヴィエは驚異的な仕事をなしとげた。展示品の目録をつくり、美術品を修復し、フランスとイタリアの様々な傑作をコレクションとしてまとめた。
【フランス革命と美術館】
王政が崩壊したあとは、ルーヴル宮殿内に美術館をつくるという以前から計画を実現させるために、委員会が設置された。
ようやく、1793年8月10日に、ルーヴル宮殿の「方形サロン(サロン・カレ)」と「グランド・ギャラリー」に民衆のための美術館が誕生した。
その後、革命政府に対する反動的なクーデターが起こると、美術館の計画にも手直しが必要になった。
1795年に総裁政府が樹立されると、画家ユベール・ロベール、彫刻家パジュなどをメンバーとする美術館設立委員会が、王室の収集品を管理するようになった。さらに、教会や亡命貴族からの押収品、イタリアから獲得した戦利品も、美術館のコレクションに加わった。また1793年に廃止されたアカデミーが、95年にフランス学士院として復活した。
フランス学士院の会議は、建築長官ダンジヴィエがつくらせた著名人の彫像が飾られた「女像柱(カリアティード)の広間」で開かれた。
ルーヴル宮殿内の美術館は、1803年からナポレオン美術館と呼ばれるようになった。その後、ナポレオンが皇帝になると、1805年に皇帝の巨大な胸像が入り口の上部に飾られた。
(鈴木、1991年、273頁~274頁。ジュヌヴィエーヴ・ブレスク(遠藤ゆかり訳)『ルーヴル美術館の歴史』創元社、2004年、74頁、82頁~83頁。鈴木氏は、ダンジヴィレールと表記し、ブレスク氏の方では遠藤ゆかり氏は、ダンジヴィエと表記している)
【ブレスク『ルーヴル美術館の歴史』(創元社)はこちらから】
ルーヴル美術館の歴史 (「知の再発見」双書)
【中央美術館からナポレオン美術館へ 】
旧体制以来の懸案であったルーヴル宮の美術館化の計画は、1793年に最初の実現をみた。
まず、7月27日、中央美術館(Museum Central des Arts)の創設が宣言され、8月10日、王権停止の一周年の記念日に、ついにグランド・ギャラリーの公開が行われた。
(ただし、8月10日の開館は形式的なもので、その直後に工事のために一時閉館、11月18日に再び公開された)
中央美術館が、フランス語のMuséeではなく、ラテン語的な響きをもつMuseumをもつことは象徴的であると鈴木氏は指摘している。
テルミドールの反動の後に結成された中央美術館代表評議会(Conseil d’administration du Musée central des Arts)において、初めてMusée の語が用いられるまで、ルーヴル宮の美術館に関するすべての組織の名には、Museumの語が用いられていたそうだ(鈴木、1991年、284頁)。
当時の様子は、ユベール・ロベールがおそらく1795年の現状を描いた油彩画≪ルーヴル美術館のグランド・ギャラリー現状≫によって知ることができる(採光の問題はまだ未解決)。
公開当時の中央美術館の目録(1793年、ルブラン編)には、537点の油彩が記載されていたようだが、内4分の3が王室コレクションからのもので、そのほかは教会から没収された作品が大部分であった。
亡命貴族から没収された作品の一部は、債権者のために取り除かれ、ヴァトーの≪シテール島の巡礼≫を含む王立アカデミーの作品も一時除外されたという。
(これらの作品は、亡命貴族の売却された没収品を除き、中央美術館開設の後に所蔵品に加えられた)。
1796年美術館は再び閉じられ、1799年4月7日にその一部が、1801年7月14日にグランド・ギャラリー全体が公開され、1803年以降はナポレオン美術館(Musée Napoléon)と名を変えて存続することになる。
中央美術館創設後は、グランド・ギャラリーのほかにサロン・カレやアポロンのギャラリーも随時、美術館スペースとして用いられた。
中央美術館時代には、他に2つの重要な美術館が開館されたそうだ。
① 1795年に、プチゾーギュスタン修道院にフランス記念物美術館(Musée des Monuments Français、ただし1816年閉館)
ここには教会から没収された美術品が集められていたが、その内絵画は中央美術館に移され、彫刻がフランス記念物美術館の所蔵品として残された
② 1797年にヴェルサイユ宮内に開設されたフランス派美術館(Musée spécial de l’École française)
中央美術館開設後、ルーヴル宮にあるフランス絵画とヴェルサイユ宮にあるイタリア絵画(≪モナ・リザ≫がその中に含まれていた)を交換する取り決めが行なわれ、その結果設けられたのがこの美術館である。
ただし、フランス絵画の質的に優れた作品の多くはルーヴル宮に残された。
(鈴木、1991年、280頁~281頁、284頁)
中央美術館の一時的な収蔵品について
<共和国軍のベルギー遠征>
国民公会の派遣する共和国軍は、1792年以来ネーデルラントでオーストリアを相手に戦っていたが、フランスは1793年には現在のベルギーに当たる地方を征服するにいたった。
ベルギーからの最初の美術品は、1794年9月19日にパリに到着した。それはルーベンスの4点の作品で、当時から評価の高かったアントウェルペン大聖堂の≪キリストの十字架降架≫(1614年)もそれに含まれていた。
<ナポレオン・ボナパルト将軍のイタリア遠征>
1795年10月に国民公会は解散し、よりブルジョア的な総裁政府が成立する。総裁政府は国民公会時代からの対外戦争を継続しており、1796年にナポレオン・ボナパルトをイタリア方面軍司令官に任命する。
イタリア遠征からワーテルローの年まで続く長い収奪の歴史で、ナポレオンが特定の美術作品に個人的愛着を抱いた形跡はほとんど見当たらないようだ。ナポレオンが美術品を被征服国との外交的取引の道具、ないしはその所有によってフランスの栄光を増すための手段とみなしていたといわれる。
その限りにおいて、ナポレオンは美術品収奪に熱心で、イタリア遠征において美術品は、停戦や条約締結の条件として要求されている。
各都市に要求された美術品は、まず総数が決められ、細かいリストが作成された。
イタリア遠征に従事してボナパルト将軍の肖像画を描いたジャン=アントワーヌ・グロは、作品選定にもあずかっている。グロの作品として≪アルコレの橋頭のボナパルト≫(1796年、ルーヴル美術館)がある。
全体の傾向としては、イタリアにおけるフランス側の第一の狙いは、ヘレニズム期およびローマ時代の彫刻にあった。
例えば、≪ベルヴェデーレのアポロン≫(B.C.4世紀のギリシア原作のローマ模刻、ヴァティカン美術館)は、トレンティーノ条約(1797年2月)によって、ヴァティカーノからパリに送られ、盛大な祝典に迎えられてルーヴル宮に入った。
ほかにこの時ローマの古代彫刻の宝庫ヴァティカーノとカピトリーノから中央美術館に運ばれた作品としては、≪ラオコーン≫(ヘレニズム彫刻、ヴァティカン美術館)、≪瀕死の剣闘士≫、≪カピトリーノのアンティノウス≫、≪クレオパトラ≫がある。
フィレンツェでは、ウフィッツィ画廊のトリブーナと呼ばれる八角形の間の古代彫刻の収集がフランスの垂涎(すいぜん)の的であったが、ウフィッツィからは≪メディチのウェヌス≫以外に見るべき美術品がフランスに送られていない。
≪メディチのウェヌス≫は難を避けてパレルモに送られていたのを、ナポレオンが「≪ベルヴェデーレのアポロン≫の花嫁として」、フェルディナンド4世に譲渡させ、1803年にパリに送らせた。
(ウフィッツィの美術品が収奪されなかった理由として、このギャラリーが市の所有であって、同じフィレンツェのピッティ宮の収集のように土地の支配的地位にある象徴のものではなかったという点が指摘されている。
一般にフランスの収奪は無差別に行なわれたのではなく、たとえばその町の統治に関係のない、まったくの私人の邸などが対象になることはなかったようだ。)
このように、フィレンツェでは、ウフィッツィがほとんど収奪の対象にならず、ピッティ宮の収集が主に要求された。
その中には、ラファエロの≪椅子の聖母≫(1514年頃、フィレンツェ、ガレリア・パラティア)、パルミジャニーノの≪長い首の聖母≫などが含まれていた。
中央美術館とアングルの作品
中美術館において公開された作品自体が、芸術家たちに与えた影響は大きかったようだ。
ダヴィッドのような旧世代の芸術家には、かつての若き日にイタリアで学んだ古代彫刻やイタリア絵画の多くに再開する機会が与えられたことになる。アングルのように若くてまだイタリアを知らない芸術家が早くから古今の名作にふれる機会を提供した。
この点で、中央美術館の役割ははかりしれなかった。
事実アングルは、1801年にローマ賞を得て、1806年にようやくイタリア留学を果たす以前に制作した≪リヴィエール氏の肖像≫(1805年)の画中に、みてとれると鈴木氏はいう。
当時、中央美術館の収蔵品であったラファエロの≪椅子の聖母≫の版画を描き入れて、この巨匠への若々しいオマージュを捧げているというのである。
(鈴木、1991年、282頁~289頁、299頁)
フランス語で読む、ルーヴル美術館の歴史
ベイル氏は、18世紀の末からのルーヴル美術館の歴史について、次のように述べている。
De la forteresse au musée : huit siècles d’histoire
À la fin du XVIIIe siècle, l’histoire architecturale du Louvre devient indissociable de
l’idée de musée. En effet, dans toute l’Europe, on parle de plus en plus d’exposer au public
les grandes collections des princes et des papes. Dans cette mouvance, le comte d’Angiviller,
à la tête des Bâtiments du roi, décide, en 1776, de transformer la Grande Galerie en
Muséum – il est vrai que l’Académie de peinture, qui logeait au Louvre, exposait régu-
lièrement les œuvres de ses membres dans la Grande Galerie, depuis de nombreuses années.
L’ouverture du Muséum est empêchée par la Révolution, mais la Constituante reprend
les idées de d’Angiviller et crée officiellement le Muséum central des arts le 6 mai 1791, qui
est inauguré le 10 août 1793.
(Françoise Bayle, Louvre : Guide de Visite, artlys, 2001, p.7)
【Françoise Bayle, Louvre(フランソワーズ・ベイル『ルーヴル見学ガイド』)はこちらから】
Louvre: Visitor's Guide: Francoise Bayle
≪訳文≫
「城砦から美術館へ:8世紀にわたるルーヴルの歴史」
18世紀の末、このような歴史をもつルーヴルを美術館にする構想が生まれた。ちょうどヨーロッパ各地で、王侯や教皇の大コレクションを展示して一般市民に公開すべきだという声が高まっていた頃である。そうしたなかで、1776年に王室建築物監督官のダンジビレ伯爵がグランド・ギャラリーを美術博物館に改装する決定を下した。ルーヴル宮内にあった絵画アカデミーが長年にわたりグランド・ギャラリーで定期的に会員の作品を展示していたこともこれを後押しするものとなった。美術博物館の開館は大革命によって頓挫してしまうが、その後に権力を握った立憲議会がダンジビレの案を採用し、1791年5月6日に「中央美術博物館」の創設を決定し、1793年8月10日に開館の運びとなった。
(フランソワーズ・ベイル((株)エクシム・インターナショナル翻訳)『ルーヴル見学ガイド』artlys、2001年、7頁)
【語句】
architecturale [形容詞]建築の(architectural)
devient <devenir~になる(become)の直説法現在
indissociable [形容詞]切り離せない、分離できない(inseparable)
En effet 実際、たしかに(indeed, as a matter of fact)
on parle <parler話す(speak, talk)の直説法現在
parler de +不定法 ~するつもりだと言う(talk of doing)
<例文>
Il a parlé de se retirer à la campagne.
彼は田舎に引きこもるつもりだと言った。(He has talked of retiring into the country.)
de plus en plus ますます、しだいに(more and more)
<例文>
Il fait de plus en plus beau.
天気がしだいによくなる。(The weather gets better and better.)
exposer 展示する(display, expose)
public [男性名詞]公衆、大衆(public)
pape [男性名詞]ローマ教皇(法王)(pope)
cette mouvance [女性名詞](←mouvoir)影響の及ぶ範囲、勢力圏(sphere of influence)
le comte [男性名詞]伯爵(count)
d’Angiviller ダンジヴィレ伯爵(1730~1810)。1775年からルイ16世治下で、王室建造物局総監(訳文では、王室建築物監督官としている)
décide de <décider 決定する(decide)の直説法現在
décider de+不定法 ~することに決める(decide to do)
transformer [他動詞](enに)変える(transform, change)
il est vrai que <êtreである(be)の直説法現在
vrai [形容詞]真の、本当の(true)
il est vrai que+ind. ~は本当だ(が)、確かに~だ(が)
※前の文で言われたことに弁解じみた説明を加えたり、次の文で制限を加えたりするのに多く用いられる
<例文>
Il est vrai que le Japon est devenu un pyas riche, mais il ne faut pas oublier que les richesses ne sont pas équitablement réparties.
確かに日本は豊かになったが、富が公平に配分されているとは言えないことを忘れてはならない。
qui logeait <loger住まわせる(lodge)、(物を)収め入れる(place, put)の直説法半過去
exposait <exposer展示する(display, expose)の直説法半過去
régulièrement [副詞]定期的に(regularly)
depuis [前置詞]~以来(since)、~前から、~の間(for)
nombreux(se) [形容詞](複数形でおもに名詞の前で)多数の、たくさんの(numerous, many)
L’ouverture [女性名詞]開くこと、開始、開館(opening)
(cf.)heures d’ouverture 開館時間(opening hours)
est empêchée par <助動詞etreの直説法現在+過去分詞(empêcher)受動態の直説法現在
empêcher 妨げる(prevent, impede)
la Révolution [女性名詞]革命(revolution)
la Révolution françaiseフランス革命(1789~1799年)(the French Revolution)
la Constituante [女性名詞]立憲議会 Constituante憲法制定議会(1789年)
reprend <reprendre再び取る(take again)、引き継ぐ(take over)の直説法現在
crée <créer 創設する、創造する(create, establish)の過去分詞
officiellement [副詞]公式に、正式に(officially)
qui est inauguré <助動詞êtreの直説法現在+過去分詞(inaugurer)受動態の直説法現在
inaugurer 開会(落成)式を行う(inaugurate, open)
【Françoise Bayle, Louvre(フランソワーズ・ベイル『ルーヴル見学ガイド』)はこちらから】
Louvre: Visitor's Guide: Francoise Bayle
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