《饗庭孝男の小林秀雄論 その1》
(2021年6月1日投稿)
今回のブログからは、3回にわたって、『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)で論じられた饗庭孝男の小林秀雄論を紹介してみたい。
今回のその1では、小林秀雄と中原中也、芥川龍之介との関係を通して、小林が詩や小説ではなく、なぜ批評活動におもむいたのかについて、述べてみたい。あわせて、小林の文章観、歴史観について解説してみたい。
次回以降、その2では、小林の日本古典論について、その3では、ベルクソン、ランボー、モーツアルト、ドストエフスキーなどの西欧の人物と作品について、小林秀雄がどう論じたかのかを紹介してみたい。
【饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店はこちらから】
小林秀雄とその時代
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
この書は、『文學界』(昭和59年7月号~61年1月号)に10回にわたって連載された「小林秀雄とその時代」をまとめたものである。
饗庭孝男は、「あとがき」において、小林秀雄について、次のように評している。
「小林秀雄は、日本「近代」文学において、批評をそれ自体「作品」として自立させた、ほとんど最初の人間である」(321頁)
フランスの象徴主義における「詩的言語」の自己完結的な「表現」に依り、しかもそれを「自意識」の問題と内密的にかかわらせながら、昭和初年における彼の文学的出発に際し、時代を風靡したマルクス主義文学による「思想」の「伝達」と有効性に対峙させつつあらわれた批評家である。」(321頁)
つまり、饗庭は、小林という批評家を理解する上で、重要な指標を示している。
〇日本「近代」文学において、ほとんど最初に批評それ自体「作品」として自立させた
〇フランスの象徴主義における「詩的言語」の自己完結的な「表現」に依っていた
〇それを「自意識」の問題と内密的にかかわらせた
〇昭和初年に小林は文学的出発した
〇当時のマルクス主義文学による「思想」の「伝達」と有効性に対峙した
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、321頁)
精神と魂という二つの存在のかたちこそ、小林秀雄と中原中也の、文学表現をわけた重要な点であるといわれる。
中原と小林では、「歌う」ことと「見る」こと以上に存在のありようがことなっていた。
小林にとって、いかに女との生活が地獄でも、社会と自意識のあいわたる接点を見つめる精神の働きがあった。
「思想史とは社会の個人に対する戦勝史に他ならぬ」(「Xへの手紙」)という言葉がある。そこには、このような認識をうむ相対化された精神の働きがあった。
逆に中也は、精神より魂を重視する。つまり、「芸術とは、自分自身の魂に浸ることいかに誠実にして深いかにあるのだ」(「詩論」)という思い、あるいは生きることは感覚することであると考える。また、「それらは魂により織物とされ」「その織物こそ芸術」(「詩に関する話」)であるとする。中也には、魂のみが重要に思われた。
小林は、自らの「詩的精神」の及びがたさを知り、砕かれた魂の現場から「歌う」ことを断念し、地獄を体験した精神によって、「見る」ことをえらんだと、饗庭は解説している。
ここに少なくとも、小林の批評の出発にかかわる一つの問題が隠されているとする。
小林は女によって、書物的(リブレスク)的人生をうちくだかれ、「社会は常に個人に勝つ」ことを身をもって認識し、芸術が実生活に優位する神聖物であると考える幻想を捨てた。そして、中也に与えたふかい傷への苦い自覚を代償として、「見る」批評の根源をつかんだようだ。
(小林が文学的出発の当初書いた小説が、後に展開されなかったし、「歌う」ということが、ついに小林のものとならなかった理由の一つでもあったらしい)
ところで、小林は、中也がつれて来た長谷川泰子とひそかに会うようになる。
ここから4年にわたる小林の地獄がはじまる。
泰子は中也より3歳年長で、小林は中也より5歳年長である。
泰子は広島に生まれ、女優を志していた。面長で、グレタ・ガルボという、当時一世を風靡した女優に似ていた。しかし、自己中心的で、異様に神経症的に潔癖であった。
この女性によって、小林は、書物的(リブレスク)人生から現実に対して、目をひらかれ、また、恋という狂気(フォリ)によって自殺を思うという極限に追いこまれた。
例えば、「Xへの手紙」には、
「女は俺の成熟する場所だつた。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破つてくれた」とある。
また、「批評家失格Ⅰ」には、
「実生活にとつて芸術とは(私は人々の享楽或は休息或は政策を目的とした作物を芸術とは心得ない)屁の様なものだ。(中略)芸術が何か実生活を超えた神聖物とみなす仮定の上にはどんな批評も成り立たぬ」と記す。
小林は、女と生活してみて、自分が度しがたく夢想家であり、また観念も言葉も現実との関係を経なければ意味をなさないということも理解する。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、46頁~57頁)
小林秀雄は、
〇昭和2年「芥川龍之介の美神と宿命」
〇昭和4年「様々なる意匠」を書く。
芥川龍之介は、昭和2年7月、自殺する。
小林が、「ランボオⅠ」を発表した翌年のことである。
小林のランボオ体験は、それ自体、根源的なものであった。詩(ポエジー)への断念と「見ること」への熾烈な希求が、やがて小林の裡に批評家を誕生させたと饗庭はみている。
この芥川龍之介の死に対して、昭和2年9月、小林は、「芥川龍之介の美神と宿命」(『大調和』)を書いた。
「芥川氏は見る事を決して為なかつた作家である。彼にとつて人生とは彼の神経の函数としてのみ存在した。そこで彼は人生を自身の神経をもつて微分したのである」
(「芥川龍之介の美神と宿命」)
当時、小林は25歳、長谷川泰子と同棲3年目であった。この女との地獄は、小林の言葉をかりれば、「シベリア流刑」であった。
小林の「シベリア流刑」のなかで、芥川龍之介の「あらゆるものを本の中で学んだ」生(つまり書物的な[リブレスク]人生)の懐疑が、小林にとって、いかに現実を知らぬものと見えたか。
小林は「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破つ」(「Xへの手紙」)た現実、男と女の間にさえ他者をもつ社会があるという現実を、日常のレヴェルから身にしみて感じていた。
小林は、何よりもヴァレリー的に「見る」ことを求め、自らの意識の「球体」をうちやぶることをとおして、芥川を見たようだ。
小林の芥川批判は、現実の「シベリア流刑」をとおして、小林自身の書物的人生を歩んできた自己を、ランボオの衝撃とともに、否定しつくすことにほかならなかったと、饗庭は捉えている。
この「芥川龍之介の美神と宿命」を書いたのちに、12年経った後も、「見る」ことにかかわりのある「懐疑」にことよせながら、小林は次のように述べている。
「僕は芥川氏の自殺に少しも同感も共鳴も出来なかつた。懐疑といふものは、もつと遠くまで行く筈だと信じてゐた」
(『芥川龍之介作品集』内容見本、岩波書店)
このように、小林が書いたことの背後には、間接的な自己批判の意味合いもあったようだ。
芥川の死と近接して小林が立った位置について、「文明開化の論理の終焉」という場を示していると、饗庭はみている(保田與重郎の表現をかりつつ)。
明治という時代は、「国家」の概念が、漱石と鷗外、啄木などの数少ない例をのぞけば、「個」に優位していた時代である。大正は、「人類」という概念が、ほとんど無媒介に、「個」の教養と直接していた時代である。それに対して、昭和の初期は、はじめて「社会」という概念が、否応なく、そのなかの「個」を知識人の参加という現実をとおして、うかびあがらせるようになった時代であった。
小林は、まさに、この「個」の内実を問い、さまざまな思想の「意匠」ではなく、思考の果までゆく懐疑こそ、はじめて裸形の「個」の確立であると信じたという。
これが、昭和という時代の小林の出発点における象徴の意味にほかならないと、饗庭は捉えている。
芥川批判の根底には、そうした自覚があったとする。小林の「見る」という視力の純化への希求もそこにかかわっていたようだ。
昭和は、明治からの「近代」化が一サイクルをおわった時期にあたる。芥川と小林のバトン・タッチは、こうした意味で否定を媒介としたものであった。この徹底した「個」の確立こそ、小林が生きた時代におけるマルクス主義の風圧にたえる唯一のとりでとなるはずであった。
小林が「芥川龍之介の美神と宿命」を書いた時、「様々なる意匠」よりも早く、自らの批評の意味を自覚したにちがいない。ただ、現代をよく「見る」ためには、過去の自分の存在の総体をかけて、否定する必要があった。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、60頁~67頁)
小林秀雄の「様々なる意匠」は、それ自体一個の批評論として自立しているが、しかし明らかに時代のマルクス主義とその文学運動に対する強力な反措定として戦略的に出されたものであるとされる。
小林は、マルクス主義に対して、そのキイ・ワードである「意識」「存在」「商品」等を逆に用いながら、その「搦手から」の反措定を出した。だが、「様々なる意匠」のなかで小林自身が自己の文学観を逆照明しようとして措定した強力な抵抗体としてのマルクス主義の文献からの引用とその応用は、単にこの批評作品のみにかぎられるわけではない。
それは、昭和4年から昭和8年にかぎってみても、その批評の根底に働いていると、饗庭は指摘している。例えば、次のような小林の批評である。
・「アシルと亀の子」
・「物質への情熱」
・「マルクスの悟達」
・「文芸時評」
・「文芸批評の科学性に関する論争」
・「現代文学の不安」
・「新しい文学と新しい文壇」
・「年末感想」
・「文学批評について」
・「私小説について」
小林がマルクス主義という「思想」を自らに対峙する強力な相手として、いかに意識していたかをものがたる。
このことは逆に言って、小林がマルクス主義運動の存在によってこそ、あらためて「自己」「懐疑」「意識」「存在」「言語」「社会」等の問題を徹底的に考えさせられたということにもなる。それが小林の批評意識を尖鋭にしたようだ。小林はマルクス主義関係の文献も熟読していた。例えば、『ドイツ・イデオロギー』『哲学の貧困』『資本論』『フォイエルバッハ論』『反デューリング論』『自然の弁証法』『唯物論と経験批判論』が挙げられ、引用されたテクストである。
そして、小林は、三木清が書いたマルクス主義に関する論文・著作にも影響を受けた。例えば、昭和2年の「マルクス主義と唯物論」、昭和3年(小林の「様々なる意匠」が書かれる前年)の『唯物史観と現代の意識』(岩波書店)である。
小林の「様々なる意匠」のなかで、言語とその社会性について論及している要(かなめ)の個所には、表現のニュアンスおよび小林の言う「言語の魔術」をのぞけば、言わんとすることは等しかった。つまり、言葉の内面を捨てることで得られる社会的な実践性という核心にあたる部分は同じであると、饗庭はみている。
小林は三木清の「マルクス主義と唯物論」を読み、関心をそそられ、それを換骨奪胎し、逆用することによって、小林の言語論を武器とする批評の中心にそれを置いた。
小林は、用語の上でも、思想の上でも、マルクス主義や三木清の表現を援用し、それをよみかえることで、おのれの批評主体を鮮明にうち出した。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、77頁~84頁)
小林秀雄の「様々なる意匠」を中心に、それに隣接して書かれた文芸時評その他の評論は、3つの領域に分けられる。
①自己(意識)のとらえ方
②言語に関する部分
③作品創造の「過程」の重視
それらは有機的に、密接に関連し合っており、相互補完的によまなければならない。
自己認識とは、「批評とは自覚すること」であり、「宿命」の自覚である。それはマルクス主義批評のような「普遍性」への志や、「方法」意識からうまれるものではない。
批評するとは、作品のなかに「作者の宿命の主調低音」を聴くという、その共鳴(レゾナンス)と理解の外にはなく、全く「個」の問題に還元される。批評とは、自己認識を他者の裡に、作品のなかによむことである。
文学作品が「方法」やイデオロギーによって客観的になど書かれるわけはないと小林は批判する。作品は作者の現実認識の結果からしかうまれず、また、その創造の過程こそ重要だという。そして何より作品の内側に身を置く態度を強調する。
作品は社会に規定されているというマルクス主義の論理を逆のバネとして、小林は論理を展開して、作品は時代と社会の裡にうまれるが、目的意識にしたがって、それらを刻むのではなく、作品固有の法則にしたがって自己完結するのであり、時代と社会の姿があるとしても結果の問題にすぎないと、小林は見ていた。
作品を批評するとは、そこに隠れて働く<純粋我>である「宿命」をよみとり、その固有の創造過程に内密的に参加することにほかならないと、小林は考えた。
作品の制作過程をヴィヴィッドに内覚することであり、外から観察してえがくことではない。
この生成の内的知覚、その創造過程にたいする感性と想像力の参加(批評)こそ、小林の目指したものであった。そこにヴァレリー的認識に加えて、ベルクソン的な生の把握も影響を与えたとされる。
小林の3つの領域、すなわち自己認識と言語、作品の創造過程への注目が、いずれも相互補完的に働いて、小林の独自な思考と批評主体をつくりあげた。
この領域とその内密的な関係への明晰な把握こそ、小林がマルクス主義による批評に拮抗しえた理由であり、また同時に「心理主義小説」や私小説への単純な「方法」や素朴な印象批評を一蹴し去った点であったと、饗庭は理解している。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、84頁~90頁)
小林秀雄の歴史観については、「第六章 歴史の闇の「花」――『無常といふ事』」に述べられている。
昭和12年7月に日中戦争が勃発し、それはさらに昭和14年のソビエトとの「ノモンハン事件」をふくみながら、昭和16年12月の太平洋戦争勃発へとひろがってゆく。いわば「非常時」への突入の時期にあたっている。
小林秀雄に、昭和初期におけるマルクス主義運動とはちがった意味で、「政治」や「歴史」、そして「日本」を問い直す機会を外から与える時期でもあった。かつての「思想」としてのマルクス主義にたいして、「現実」としての戦争が否応なしに小林を状況の前にみちびいた。
しかも、文学における「思想と実生活」は国家と歴史の状況のレヴェルに拡大されて、あらたな検討を小林にうながした。
予測のつかぬ「現実」をひたすら直視するほかにしか、「思想」をつくり出す契機はないと小林は考えるに至ったようだ。「現実」そのものの受容におもむいた。
「現実」は、「人為」をもってはいかんともなしがたい「自然」のように、ある絶対的性格を帯びてあらわれた。したがって日中戦争をも「長い年月の間に緩慢に蓄積された莫大な諸原因の結果」(「事変と文学」)として見ることになる。「歴史」もまたこの視線のもとにとらえられ、やがて「第二の自然」として映じるようになった。
(そこに戦争を「人為」であるとともに「自然」とも見る相対的な思考は働かないのであり、「現実」の絶対化はこのようにして小林の戦争に対する態度を決定するに至ったそうだ)
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、165頁~167頁)
ところで、小林は昭和11年から明治大学で「日本文化史研究」という講座を開講し、歴史にふかい関心を示すようになっていた。そして、昭和14年に「歴史について」を書くが、これはそのまま『ドストエフスキイの生活』の「序」となった。それは、きわめて抽象的な歴史についての自問的な文章である。
ただ、この「序」には、ドストエーフスキイについてのべられた部分がまことに少ない。それは10頁のうち、わずか最後の1頁のみである。素材によって自分を語らず、在ったがままのドストエーフスキイの姿を再現するつもりもなく、「あらゆる史料は生きてゐた人物の蛻の殻に過ぎ」ず、「邪念といふものを警戒すれば足りる」として、「立還るところは、やはり、ささやかな遺品と深い悲しみとさへあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術より他にはない」という有名な一文を加えているのみである。
(この主情的な歴史認識については後述)
※「ドストエフスキイの生活」の「序(歴史について)」は、たとえば、『現代日本文学体系60 小林秀雄集』(筑摩書房、1969年、3頁~8頁)を参照のこと。
「あらゆる史料は生きてゐた人物の蛻(もぬけ)の殻に過ぎぬ」(8頁)とある。
【『現代日本文学体系60 小林秀雄集』筑摩書房はこちらから】
現代日本文学大系 (60)
この「序」全体にある小林の「歴史観」を取り上げて、饗庭は考察している。
「自然は人間に関係なく在るものだが、人間が作り出さなければ歴史はない」と小林が言う時、それは格別に斬新的でなく、まっとうな歴史解釈である。
また、自然を軸にし、人間を自然化しようとする能力と、自然を人間化する能力のせめぎあいに歴史があるというのも、正統的(オータンティック)である。
その上、史料という問題を媒介に、次のように小林が語る場合にも、的確に歴史と人間の関係を見ている。
「言はば歴史を観察する条件は、又これを創り出す条件に他ならぬといふ様な不安定な場所で、僕等は歴史といふ言葉を発明する。生き物が生き物を求める欲求は、自然の姿が明らかになるにつれて、到る処で史料といふ抵抗物に出会ふわけだが、欲求の力は、抵抗物に単純に屈従してはゐない。」
小林が歴史をこのように見る立場は、すでに昭和初年代におけるマルクス主義運動の過程で否応なく自分なりに歴史への把握を迫られていることに起因している。
小林が「自然」と人為のあいせめぎ合う劇のなかに歴史の姿を見ると考える時、それが時代のうながしから来ていることは容易に推察できる。
一方、三木清は、『歴史哲学』(昭和6~7年)に歴史について、次のように考えた。
歴史の「基礎経験」(現実の存在の構造全体)は「事実としての歴史」であり、歴史にかかわる「行為」を示す。ついでその「事実」(行為)が出来事をつくるゆえに、それは「存在としての歴史」となる。したがって、前者の「作る」行為にたいし、「作られたもの」として考えられる。この両者の弁証法的展開から歴史がうまれると三木は考えた。
(単純化すれば、それは「行為」と「存在」との力動的関係にほかならない。小林的に言えば、自然を「人間化」することと、人間が「自然化」されることの間における劇であろうと、饗庭は表現している。そして、小林は三木の諸論文を読んでいたと推測している。『様々なる意匠』にも、三木の影響があると指摘している。)
さて、小林の「序」において、そうした歴史のディアレクティックを説いている部分と、亡児を惜しむ母の感情としての歴史をのべた最後の結論との部分とは、異質なものと映じる。そして、その間に思想の連続性がほとんど存在しないように見える。
小林は、いずれに力点をおいたのかと、饗庭は問いかける。
昭和14年のこの「序」から2年経った後の「歴史と文学」において、ふたたび次のように述べた。
「歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念といふものであつて、決して因果の鎖といふ様なものではない」
「母親にとつて、歴史とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味する」
こうした点を読めば、後者の側に小林の考える歴史の意味があったことは明らかである。
この事実は、小林の歴史解釈が本質的に「個」のエモーショナルな領域から見られ、その主情性のリアリティにのみ存在することをものがたっている。
そこには「自然」と人間との間の動的な関係もディアレクティックもない。史料の相対的操作の必要も存在しない。
「自然」と人間の動的な、自然化と人間化の相剋の劇としての歴史という観点はなく、動かしがたい歴史にたいする嘆きと愛惜という「抵抗」においてしか歴史はないと考えるのが、小林の立場である。
母親の亡児にたいする愛惜のなかにこそ歴史(必然)が存在するのであれば、「自然」と人間とのディアレクティックな構造的展開は、小林にとって無縁となる他はない。
換言すれば、小林が言う意味での歴史は「自然」そのものの働きを嘆きにおいて表現することとなり、歴史という「必然」は嘆きという「意匠」をまとってあらわれる。
(ここに結果として、歴史の絶対化があらわれる。それは「現実」の絶対化と同質の構造ではなかろうかと、饗庭はみている。)
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、175頁~179頁)
この思考の水準で言うならば、井伏鱒二が昭和10年「炭鉱地帯病院」を書いたとき、そのなかで、不幸が人間に押寄せて来た時には「能ふる限り嘆き」、その嘆きのみが人間に与えられた自由であるとのべている点とひとしい。井伏は一貫して抗しがたい「自然」の運命にたいする人間の嘆きをとらえた。『黒い雨』のなかで、原爆をも天災と同じとらえ方で描いたとされる。
小林の歴史解釈は事の是非は別として、彼固有の思考をこえる日本の心性(メンタリティ)の表現に個人的輪郭を与えているともいえる。
当時のマルクス主義運動における「世界史的必然」の歴史解釈が、「日本的なもの」の伝統的自覚に先んじて、小林に歴史とは何かを自問することを強いた。
それからうまれた小林の観念と主義(イズム)嫌悪は「個」の自覚なき日本のマルクス主義者に対する批判の延長線上に「世界史的必然」という、「因果の鎖」に整合された歴史にかわるものを、時代のうながしのなかで見たようだ。それは「日本的なるもの」の覚醒のなかからあらわれた「伝統」であり、歴史という「自然」であった。
しかも、この自然が「必然」として絶対化され措定され、それにむかいあう態度が、それに打ち砕かれるところに生じる愛惜という主情的な認識にもとづくものとなる。
(小林の視野にあった、二つの「必然」は時代の推移にしたがい、このような置換をとげたと、饗庭は捉えている。)
このような歴史解釈が小林という「個」の認識からあらわれたことにかわりはない。
マルクス主義における歴史の客観性にかわる小林の歴史の主観的で、感性的な解釈がここにうまれたと、饗庭はみている。
「歴史といふものを眺めて兎や角言ふ自分といふ様なものを考へるのは誤りである。僕等には歴史を模倣する事以外に何も出来る筈はない。刻々に変る歴史の流れを、虚心に受け納れて、その歴史のなかに己れの顔を見るといふのが正しいのである」(「文学と自分」)という、このような認識が、非個性的な「日本主義」とことなっている。それはマルクス主義に拮抗することなくしては、うまれなかったという意味で個性的であった。
そのうえ、歴史(自然)の「必然」によって打ち砕かれたところにうまれる愛惜という感性的認識から歴史を「個」のなかに再創造するととらえる。このとらえ方が小林なりの確とした解釈であるとすれば、それは十分に文学的であった。
ここから小林が、ほとんど必然のように、歴史のなかの想像的空間である「古典」にむかったとしても、不思議ではない。
(それこそは、愛惜という表現にふさわしい想像力と感性の解読であり、批評という創造の場における再生であると、饗庭は解している)
小林は本来、政治と権力の力学からつくり出される歴史を「伝統」におきかえ、さらにそれを「古典」によみかえていった。いわば政治から美意識へのこうした過程を見る時、その感性的把握の仕方は、小林の「個」をこえて日本の心性の隠されたモーターのように存在していたようだ。
饗庭は、小林の歴史観と日本の文化について、次のように考えている。
小林が歴史を「思い出」として考え「愛惜」としてとらえるのも、それが日本においては、「木の文化」に象徴されるいちはやい滅亡の空しさ、時には一回性の儚なさとして把握される習慣があるからと推察している。
それと比較して、「石の文化」は、過去を連続的に、しかも可視的にとどめている。日本では、歴史が存在しなくなったものを思い出す感性的な形式であるのに反して、西欧では眼前に石の建物のように過去を多様に示すあらわな実在感をもった即物的な対象である。
この点、小林の著作の中から、例を挙げている。
例えば、「ガリア戦記」について、それを「石のザラザラした面、強い彫りの線」であらわされたものとして、「ロオマの戦勝記念碑の破片」のように感じた。
それに対して、『平家物語』を、短調でかかれた音楽にたとえて、その哀調に「叙事詩としての驚くべき純粋さ」をもった「詩魂」の存在として愛惜のうちに感得する。
(これは、小林の歴史のとらえ方の端的なあらわれであろう)
このようにして、小林は日本におけるマルクス主義運動の非個性的な歴史解釈にたいするアンチテーゼを、伝統(自然)にたいする「個」の感性的確認からつくり出して「歴史の魂に推参する」創造的行為として、歴史のなかにおける言語空間としての「古典」解読におもむいた。
それが日本の心性の歴史感覚を一つの自覚としてとらえなおした小林の歴史意識であると、饗庭は解している。
そして小林の思想の鳥瞰図は、『平家物語』でのべているような、全てが「諸元素の様な変らぬ強い或るものに還元され、自然のうちに織り込まれ」ていると見るところにあらわれているようだ。
それはすでに無常感ではなく、無常観とでもいうべきリアリスティックな「自然」への認識のはてにあらわれた視界であり、美といっていいと、饗庭はみている。
小林が古典にかかわる態度の根底には、このような認識が主調低音のように鳴っている。その上で愛惜としての歴史があり、古典が一つの旋律を奏でている。
昭和16年12月8日、太平洋戦争がはじまる。小林にとって、歴史の必然はここにおいて「自然」の形をした必然にきわめられたようだ。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、179頁~182頁)
(2021年6月1日投稿)
【はじめに】
今回のブログからは、3回にわたって、『小林秀雄とその時代』(小沢書店、1997年)で論じられた饗庭孝男の小林秀雄論を紹介してみたい。
今回のその1では、小林秀雄と中原中也、芥川龍之介との関係を通して、小林が詩や小説ではなく、なぜ批評活動におもむいたのかについて、述べてみたい。あわせて、小林の文章観、歴史観について解説してみたい。
次回以降、その2では、小林の日本古典論について、その3では、ベルクソン、ランボー、モーツアルト、ドストエフスキーなどの西欧の人物と作品について、小林秀雄がどう論じたかのかを紹介してみたい。
【饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店はこちらから】
小林秀雄とその時代
饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
第一章 「故郷」喪失と「意識」のドラマ――「一ツの脳髄」
第二章 批評の誕生――ランボオとヴァレリー体験
第三章 拮抗する批評の精神――「様々なる意匠」と志賀直哉論
第四章 「思想」と実生活――「私小説論」の成立
第五章 意識の「地下室」を求めて――ドストエーフスキイ論考
第六章 歴史の闇の花――『無常といふ事』
第七章 「無垢」な魂の歌――『モオツアルト』
第八章 「精神」としての絵画――『ゴッホの手紙』と『近代絵画』
第九章 「経験」の深化――ベルクソン論としての「感想」
第十章 「信」としての<知>――『本居宣長』
あとがき
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・饗庭孝男『小林秀雄とその時代』について
・小林秀雄と中原中也 小林の批評の出発と関連して
・小林秀雄と芥川龍之介 昭和初期という時代
・小林秀雄の文章観
・小林秀雄の歴史観
饗庭孝男『小林秀雄とその時代』について
この書は、『文學界』(昭和59年7月号~61年1月号)に10回にわたって連載された「小林秀雄とその時代」をまとめたものである。
饗庭孝男は、「あとがき」において、小林秀雄について、次のように評している。
「小林秀雄は、日本「近代」文学において、批評をそれ自体「作品」として自立させた、ほとんど最初の人間である」(321頁)
フランスの象徴主義における「詩的言語」の自己完結的な「表現」に依り、しかもそれを「自意識」の問題と内密的にかかわらせながら、昭和初年における彼の文学的出発に際し、時代を風靡したマルクス主義文学による「思想」の「伝達」と有効性に対峙させつつあらわれた批評家である。」(321頁)
つまり、饗庭は、小林という批評家を理解する上で、重要な指標を示している。
〇日本「近代」文学において、ほとんど最初に批評それ自体「作品」として自立させた
〇フランスの象徴主義における「詩的言語」の自己完結的な「表現」に依っていた
〇それを「自意識」の問題と内密的にかかわらせた
〇昭和初年に小林は文学的出発した
〇当時のマルクス主義文学による「思想」の「伝達」と有効性に対峙した
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、321頁)
小林秀雄と中原中也 小林の批評の出発と関連して
精神と魂という二つの存在のかたちこそ、小林秀雄と中原中也の、文学表現をわけた重要な点であるといわれる。
中原と小林では、「歌う」ことと「見る」こと以上に存在のありようがことなっていた。
小林にとって、いかに女との生活が地獄でも、社会と自意識のあいわたる接点を見つめる精神の働きがあった。
「思想史とは社会の個人に対する戦勝史に他ならぬ」(「Xへの手紙」)という言葉がある。そこには、このような認識をうむ相対化された精神の働きがあった。
逆に中也は、精神より魂を重視する。つまり、「芸術とは、自分自身の魂に浸ることいかに誠実にして深いかにあるのだ」(「詩論」)という思い、あるいは生きることは感覚することであると考える。また、「それらは魂により織物とされ」「その織物こそ芸術」(「詩に関する話」)であるとする。中也には、魂のみが重要に思われた。
小林は、自らの「詩的精神」の及びがたさを知り、砕かれた魂の現場から「歌う」ことを断念し、地獄を体験した精神によって、「見る」ことをえらんだと、饗庭は解説している。
ここに少なくとも、小林の批評の出発にかかわる一つの問題が隠されているとする。
小林は女によって、書物的(リブレスク)的人生をうちくだかれ、「社会は常に個人に勝つ」ことを身をもって認識し、芸術が実生活に優位する神聖物であると考える幻想を捨てた。そして、中也に与えたふかい傷への苦い自覚を代償として、「見る」批評の根源をつかんだようだ。
(小林が文学的出発の当初書いた小説が、後に展開されなかったし、「歌う」ということが、ついに小林のものとならなかった理由の一つでもあったらしい)
ところで、小林は、中也がつれて来た長谷川泰子とひそかに会うようになる。
ここから4年にわたる小林の地獄がはじまる。
泰子は中也より3歳年長で、小林は中也より5歳年長である。
泰子は広島に生まれ、女優を志していた。面長で、グレタ・ガルボという、当時一世を風靡した女優に似ていた。しかし、自己中心的で、異様に神経症的に潔癖であった。
この女性によって、小林は、書物的(リブレスク)人生から現実に対して、目をひらかれ、また、恋という狂気(フォリ)によって自殺を思うという極限に追いこまれた。
例えば、「Xへの手紙」には、
「女は俺の成熟する場所だつた。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破つてくれた」とある。
また、「批評家失格Ⅰ」には、
「実生活にとつて芸術とは(私は人々の享楽或は休息或は政策を目的とした作物を芸術とは心得ない)屁の様なものだ。(中略)芸術が何か実生活を超えた神聖物とみなす仮定の上にはどんな批評も成り立たぬ」と記す。
小林は、女と生活してみて、自分が度しがたく夢想家であり、また観念も言葉も現実との関係を経なければ意味をなさないということも理解する。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、46頁~57頁)
小林秀雄と芥川龍之介 昭和初期という時代
小林秀雄は、
〇昭和2年「芥川龍之介の美神と宿命」
〇昭和4年「様々なる意匠」を書く。
芥川龍之介は、昭和2年7月、自殺する。
小林が、「ランボオⅠ」を発表した翌年のことである。
小林のランボオ体験は、それ自体、根源的なものであった。詩(ポエジー)への断念と「見ること」への熾烈な希求が、やがて小林の裡に批評家を誕生させたと饗庭はみている。
この芥川龍之介の死に対して、昭和2年9月、小林は、「芥川龍之介の美神と宿命」(『大調和』)を書いた。
「芥川氏は見る事を決して為なかつた作家である。彼にとつて人生とは彼の神経の函数としてのみ存在した。そこで彼は人生を自身の神経をもつて微分したのである」
(「芥川龍之介の美神と宿命」)
当時、小林は25歳、長谷川泰子と同棲3年目であった。この女との地獄は、小林の言葉をかりれば、「シベリア流刑」であった。
小林の「シベリア流刑」のなかで、芥川龍之介の「あらゆるものを本の中で学んだ」生(つまり書物的な[リブレスク]人生)の懐疑が、小林にとって、いかに現実を知らぬものと見えたか。
小林は「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破つ」(「Xへの手紙」)た現実、男と女の間にさえ他者をもつ社会があるという現実を、日常のレヴェルから身にしみて感じていた。
小林は、何よりもヴァレリー的に「見る」ことを求め、自らの意識の「球体」をうちやぶることをとおして、芥川を見たようだ。
小林の芥川批判は、現実の「シベリア流刑」をとおして、小林自身の書物的人生を歩んできた自己を、ランボオの衝撃とともに、否定しつくすことにほかならなかったと、饗庭は捉えている。
この「芥川龍之介の美神と宿命」を書いたのちに、12年経った後も、「見る」ことにかかわりのある「懐疑」にことよせながら、小林は次のように述べている。
「僕は芥川氏の自殺に少しも同感も共鳴も出来なかつた。懐疑といふものは、もつと遠くまで行く筈だと信じてゐた」
(『芥川龍之介作品集』内容見本、岩波書店)
このように、小林が書いたことの背後には、間接的な自己批判の意味合いもあったようだ。
芥川の死と近接して小林が立った位置について、「文明開化の論理の終焉」という場を示していると、饗庭はみている(保田與重郎の表現をかりつつ)。
明治という時代は、「国家」の概念が、漱石と鷗外、啄木などの数少ない例をのぞけば、「個」に優位していた時代である。大正は、「人類」という概念が、ほとんど無媒介に、「個」の教養と直接していた時代である。それに対して、昭和の初期は、はじめて「社会」という概念が、否応なく、そのなかの「個」を知識人の参加という現実をとおして、うかびあがらせるようになった時代であった。
小林は、まさに、この「個」の内実を問い、さまざまな思想の「意匠」ではなく、思考の果までゆく懐疑こそ、はじめて裸形の「個」の確立であると信じたという。
これが、昭和という時代の小林の出発点における象徴の意味にほかならないと、饗庭は捉えている。
芥川批判の根底には、そうした自覚があったとする。小林の「見る」という視力の純化への希求もそこにかかわっていたようだ。
昭和は、明治からの「近代」化が一サイクルをおわった時期にあたる。芥川と小林のバトン・タッチは、こうした意味で否定を媒介としたものであった。この徹底した「個」の確立こそ、小林が生きた時代におけるマルクス主義の風圧にたえる唯一のとりでとなるはずであった。
小林が「芥川龍之介の美神と宿命」を書いた時、「様々なる意匠」よりも早く、自らの批評の意味を自覚したにちがいない。ただ、現代をよく「見る」ためには、過去の自分の存在の総体をかけて、否定する必要があった。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、60頁~67頁)
小林秀雄の文章観
小林秀雄の「様々なる意匠」は、それ自体一個の批評論として自立しているが、しかし明らかに時代のマルクス主義とその文学運動に対する強力な反措定として戦略的に出されたものであるとされる。
小林は、マルクス主義に対して、そのキイ・ワードである「意識」「存在」「商品」等を逆に用いながら、その「搦手から」の反措定を出した。だが、「様々なる意匠」のなかで小林自身が自己の文学観を逆照明しようとして措定した強力な抵抗体としてのマルクス主義の文献からの引用とその応用は、単にこの批評作品のみにかぎられるわけではない。
それは、昭和4年から昭和8年にかぎってみても、その批評の根底に働いていると、饗庭は指摘している。例えば、次のような小林の批評である。
・「アシルと亀の子」
・「物質への情熱」
・「マルクスの悟達」
・「文芸時評」
・「文芸批評の科学性に関する論争」
・「現代文学の不安」
・「新しい文学と新しい文壇」
・「年末感想」
・「文学批評について」
・「私小説について」
小林がマルクス主義という「思想」を自らに対峙する強力な相手として、いかに意識していたかをものがたる。
このことは逆に言って、小林がマルクス主義運動の存在によってこそ、あらためて「自己」「懐疑」「意識」「存在」「言語」「社会」等の問題を徹底的に考えさせられたということにもなる。それが小林の批評意識を尖鋭にしたようだ。小林はマルクス主義関係の文献も熟読していた。例えば、『ドイツ・イデオロギー』『哲学の貧困』『資本論』『フォイエルバッハ論』『反デューリング論』『自然の弁証法』『唯物論と経験批判論』が挙げられ、引用されたテクストである。
そして、小林は、三木清が書いたマルクス主義に関する論文・著作にも影響を受けた。例えば、昭和2年の「マルクス主義と唯物論」、昭和3年(小林の「様々なる意匠」が書かれる前年)の『唯物史観と現代の意識』(岩波書店)である。
小林の「様々なる意匠」のなかで、言語とその社会性について論及している要(かなめ)の個所には、表現のニュアンスおよび小林の言う「言語の魔術」をのぞけば、言わんとすることは等しかった。つまり、言葉の内面を捨てることで得られる社会的な実践性という核心にあたる部分は同じであると、饗庭はみている。
小林は三木清の「マルクス主義と唯物論」を読み、関心をそそられ、それを換骨奪胎し、逆用することによって、小林の言語論を武器とする批評の中心にそれを置いた。
小林は、用語の上でも、思想の上でも、マルクス主義や三木清の表現を援用し、それをよみかえることで、おのれの批評主体を鮮明にうち出した。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、77頁~84頁)
小林秀雄の「様々なる意匠」を中心に、それに隣接して書かれた文芸時評その他の評論は、3つの領域に分けられる。
①自己(意識)のとらえ方
②言語に関する部分
③作品創造の「過程」の重視
それらは有機的に、密接に関連し合っており、相互補完的によまなければならない。
自己認識とは、「批評とは自覚すること」であり、「宿命」の自覚である。それはマルクス主義批評のような「普遍性」への志や、「方法」意識からうまれるものではない。
批評するとは、作品のなかに「作者の宿命の主調低音」を聴くという、その共鳴(レゾナンス)と理解の外にはなく、全く「個」の問題に還元される。批評とは、自己認識を他者の裡に、作品のなかによむことである。
文学作品が「方法」やイデオロギーによって客観的になど書かれるわけはないと小林は批判する。作品は作者の現実認識の結果からしかうまれず、また、その創造の過程こそ重要だという。そして何より作品の内側に身を置く態度を強調する。
作品は社会に規定されているというマルクス主義の論理を逆のバネとして、小林は論理を展開して、作品は時代と社会の裡にうまれるが、目的意識にしたがって、それらを刻むのではなく、作品固有の法則にしたがって自己完結するのであり、時代と社会の姿があるとしても結果の問題にすぎないと、小林は見ていた。
作品を批評するとは、そこに隠れて働く<純粋我>である「宿命」をよみとり、その固有の創造過程に内密的に参加することにほかならないと、小林は考えた。
作品の制作過程をヴィヴィッドに内覚することであり、外から観察してえがくことではない。
この生成の内的知覚、その創造過程にたいする感性と想像力の参加(批評)こそ、小林の目指したものであった。そこにヴァレリー的認識に加えて、ベルクソン的な生の把握も影響を与えたとされる。
小林の3つの領域、すなわち自己認識と言語、作品の創造過程への注目が、いずれも相互補完的に働いて、小林の独自な思考と批評主体をつくりあげた。
この領域とその内密的な関係への明晰な把握こそ、小林がマルクス主義による批評に拮抗しえた理由であり、また同時に「心理主義小説」や私小説への単純な「方法」や素朴な印象批評を一蹴し去った点であったと、饗庭は理解している。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、84頁~90頁)
小林秀雄の歴史観
小林秀雄の歴史観については、「第六章 歴史の闇の「花」――『無常といふ事』」に述べられている。
昭和12年7月に日中戦争が勃発し、それはさらに昭和14年のソビエトとの「ノモンハン事件」をふくみながら、昭和16年12月の太平洋戦争勃発へとひろがってゆく。いわば「非常時」への突入の時期にあたっている。
小林秀雄に、昭和初期におけるマルクス主義運動とはちがった意味で、「政治」や「歴史」、そして「日本」を問い直す機会を外から与える時期でもあった。かつての「思想」としてのマルクス主義にたいして、「現実」としての戦争が否応なしに小林を状況の前にみちびいた。
しかも、文学における「思想と実生活」は国家と歴史の状況のレヴェルに拡大されて、あらたな検討を小林にうながした。
予測のつかぬ「現実」をひたすら直視するほかにしか、「思想」をつくり出す契機はないと小林は考えるに至ったようだ。「現実」そのものの受容におもむいた。
「現実」は、「人為」をもってはいかんともなしがたい「自然」のように、ある絶対的性格を帯びてあらわれた。したがって日中戦争をも「長い年月の間に緩慢に蓄積された莫大な諸原因の結果」(「事変と文学」)として見ることになる。「歴史」もまたこの視線のもとにとらえられ、やがて「第二の自然」として映じるようになった。
(そこに戦争を「人為」であるとともに「自然」とも見る相対的な思考は働かないのであり、「現実」の絶対化はこのようにして小林の戦争に対する態度を決定するに至ったそうだ)
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、165頁~167頁)
ところで、小林は昭和11年から明治大学で「日本文化史研究」という講座を開講し、歴史にふかい関心を示すようになっていた。そして、昭和14年に「歴史について」を書くが、これはそのまま『ドストエフスキイの生活』の「序」となった。それは、きわめて抽象的な歴史についての自問的な文章である。
ただ、この「序」には、ドストエーフスキイについてのべられた部分がまことに少ない。それは10頁のうち、わずか最後の1頁のみである。素材によって自分を語らず、在ったがままのドストエーフスキイの姿を再現するつもりもなく、「あらゆる史料は生きてゐた人物の蛻の殻に過ぎ」ず、「邪念といふものを警戒すれば足りる」として、「立還るところは、やはり、ささやかな遺品と深い悲しみとさへあれば、死児の顔を描くに事を欠かぬあの母親の技術より他にはない」という有名な一文を加えているのみである。
(この主情的な歴史認識については後述)
※「ドストエフスキイの生活」の「序(歴史について)」は、たとえば、『現代日本文学体系60 小林秀雄集』(筑摩書房、1969年、3頁~8頁)を参照のこと。
「あらゆる史料は生きてゐた人物の蛻(もぬけ)の殻に過ぎぬ」(8頁)とある。
【『現代日本文学体系60 小林秀雄集』筑摩書房はこちらから】
現代日本文学大系 (60)
この「序」全体にある小林の「歴史観」を取り上げて、饗庭は考察している。
「自然は人間に関係なく在るものだが、人間が作り出さなければ歴史はない」と小林が言う時、それは格別に斬新的でなく、まっとうな歴史解釈である。
また、自然を軸にし、人間を自然化しようとする能力と、自然を人間化する能力のせめぎあいに歴史があるというのも、正統的(オータンティック)である。
その上、史料という問題を媒介に、次のように小林が語る場合にも、的確に歴史と人間の関係を見ている。
「言はば歴史を観察する条件は、又これを創り出す条件に他ならぬといふ様な不安定な場所で、僕等は歴史といふ言葉を発明する。生き物が生き物を求める欲求は、自然の姿が明らかになるにつれて、到る処で史料といふ抵抗物に出会ふわけだが、欲求の力は、抵抗物に単純に屈従してはゐない。」
小林が歴史をこのように見る立場は、すでに昭和初年代におけるマルクス主義運動の過程で否応なく自分なりに歴史への把握を迫られていることに起因している。
小林が「自然」と人為のあいせめぎ合う劇のなかに歴史の姿を見ると考える時、それが時代のうながしから来ていることは容易に推察できる。
一方、三木清は、『歴史哲学』(昭和6~7年)に歴史について、次のように考えた。
歴史の「基礎経験」(現実の存在の構造全体)は「事実としての歴史」であり、歴史にかかわる「行為」を示す。ついでその「事実」(行為)が出来事をつくるゆえに、それは「存在としての歴史」となる。したがって、前者の「作る」行為にたいし、「作られたもの」として考えられる。この両者の弁証法的展開から歴史がうまれると三木は考えた。
(単純化すれば、それは「行為」と「存在」との力動的関係にほかならない。小林的に言えば、自然を「人間化」することと、人間が「自然化」されることの間における劇であろうと、饗庭は表現している。そして、小林は三木の諸論文を読んでいたと推測している。『様々なる意匠』にも、三木の影響があると指摘している。)
さて、小林の「序」において、そうした歴史のディアレクティックを説いている部分と、亡児を惜しむ母の感情としての歴史をのべた最後の結論との部分とは、異質なものと映じる。そして、その間に思想の連続性がほとんど存在しないように見える。
小林は、いずれに力点をおいたのかと、饗庭は問いかける。
昭和14年のこの「序」から2年経った後の「歴史と文学」において、ふたたび次のように述べた。
「歴史を貫く筋金は、僕等の愛惜の念といふものであつて、決して因果の鎖といふ様なものではない」
「母親にとつて、歴史とは、子供の死ではなく、寧ろ死んだ子供を意味する」
こうした点を読めば、後者の側に小林の考える歴史の意味があったことは明らかである。
この事実は、小林の歴史解釈が本質的に「個」のエモーショナルな領域から見られ、その主情性のリアリティにのみ存在することをものがたっている。
そこには「自然」と人間との間の動的な関係もディアレクティックもない。史料の相対的操作の必要も存在しない。
「自然」と人間の動的な、自然化と人間化の相剋の劇としての歴史という観点はなく、動かしがたい歴史にたいする嘆きと愛惜という「抵抗」においてしか歴史はないと考えるのが、小林の立場である。
母親の亡児にたいする愛惜のなかにこそ歴史(必然)が存在するのであれば、「自然」と人間とのディアレクティックな構造的展開は、小林にとって無縁となる他はない。
換言すれば、小林が言う意味での歴史は「自然」そのものの働きを嘆きにおいて表現することとなり、歴史という「必然」は嘆きという「意匠」をまとってあらわれる。
(ここに結果として、歴史の絶対化があらわれる。それは「現実」の絶対化と同質の構造ではなかろうかと、饗庭はみている。)
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、175頁~179頁)
この思考の水準で言うならば、井伏鱒二が昭和10年「炭鉱地帯病院」を書いたとき、そのなかで、不幸が人間に押寄せて来た時には「能ふる限り嘆き」、その嘆きのみが人間に与えられた自由であるとのべている点とひとしい。井伏は一貫して抗しがたい「自然」の運命にたいする人間の嘆きをとらえた。『黒い雨』のなかで、原爆をも天災と同じとらえ方で描いたとされる。
小林の歴史解釈は事の是非は別として、彼固有の思考をこえる日本の心性(メンタリティ)の表現に個人的輪郭を与えているともいえる。
当時のマルクス主義運動における「世界史的必然」の歴史解釈が、「日本的なもの」の伝統的自覚に先んじて、小林に歴史とは何かを自問することを強いた。
それからうまれた小林の観念と主義(イズム)嫌悪は「個」の自覚なき日本のマルクス主義者に対する批判の延長線上に「世界史的必然」という、「因果の鎖」に整合された歴史にかわるものを、時代のうながしのなかで見たようだ。それは「日本的なるもの」の覚醒のなかからあらわれた「伝統」であり、歴史という「自然」であった。
しかも、この自然が「必然」として絶対化され措定され、それにむかいあう態度が、それに打ち砕かれるところに生じる愛惜という主情的な認識にもとづくものとなる。
(小林の視野にあった、二つの「必然」は時代の推移にしたがい、このような置換をとげたと、饗庭は捉えている。)
このような歴史解釈が小林という「個」の認識からあらわれたことにかわりはない。
マルクス主義における歴史の客観性にかわる小林の歴史の主観的で、感性的な解釈がここにうまれたと、饗庭はみている。
「歴史といふものを眺めて兎や角言ふ自分といふ様なものを考へるのは誤りである。僕等には歴史を模倣する事以外に何も出来る筈はない。刻々に変る歴史の流れを、虚心に受け納れて、その歴史のなかに己れの顔を見るといふのが正しいのである」(「文学と自分」)という、このような認識が、非個性的な「日本主義」とことなっている。それはマルクス主義に拮抗することなくしては、うまれなかったという意味で個性的であった。
そのうえ、歴史(自然)の「必然」によって打ち砕かれたところにうまれる愛惜という感性的認識から歴史を「個」のなかに再創造するととらえる。このとらえ方が小林なりの確とした解釈であるとすれば、それは十分に文学的であった。
ここから小林が、ほとんど必然のように、歴史のなかの想像的空間である「古典」にむかったとしても、不思議ではない。
(それこそは、愛惜という表現にふさわしい想像力と感性の解読であり、批評という創造の場における再生であると、饗庭は解している)
小林は本来、政治と権力の力学からつくり出される歴史を「伝統」におきかえ、さらにそれを「古典」によみかえていった。いわば政治から美意識へのこうした過程を見る時、その感性的把握の仕方は、小林の「個」をこえて日本の心性の隠されたモーターのように存在していたようだ。
饗庭は、小林の歴史観と日本の文化について、次のように考えている。
小林が歴史を「思い出」として考え「愛惜」としてとらえるのも、それが日本においては、「木の文化」に象徴されるいちはやい滅亡の空しさ、時には一回性の儚なさとして把握される習慣があるからと推察している。
それと比較して、「石の文化」は、過去を連続的に、しかも可視的にとどめている。日本では、歴史が存在しなくなったものを思い出す感性的な形式であるのに反して、西欧では眼前に石の建物のように過去を多様に示すあらわな実在感をもった即物的な対象である。
この点、小林の著作の中から、例を挙げている。
例えば、「ガリア戦記」について、それを「石のザラザラした面、強い彫りの線」であらわされたものとして、「ロオマの戦勝記念碑の破片」のように感じた。
それに対して、『平家物語』を、短調でかかれた音楽にたとえて、その哀調に「叙事詩としての驚くべき純粋さ」をもった「詩魂」の存在として愛惜のうちに感得する。
(これは、小林の歴史のとらえ方の端的なあらわれであろう)
このようにして、小林は日本におけるマルクス主義運動の非個性的な歴史解釈にたいするアンチテーゼを、伝統(自然)にたいする「個」の感性的確認からつくり出して「歴史の魂に推参する」創造的行為として、歴史のなかにおける言語空間としての「古典」解読におもむいた。
それが日本の心性の歴史感覚を一つの自覚としてとらえなおした小林の歴史意識であると、饗庭は解している。
そして小林の思想の鳥瞰図は、『平家物語』でのべているような、全てが「諸元素の様な変らぬ強い或るものに還元され、自然のうちに織り込まれ」ていると見るところにあらわれているようだ。
それはすでに無常感ではなく、無常観とでもいうべきリアリスティックな「自然」への認識のはてにあらわれた視界であり、美といっていいと、饗庭はみている。
小林が古典にかかわる態度の根底には、このような認識が主調低音のように鳴っている。その上で愛惜としての歴史があり、古典が一つの旋律を奏でている。
昭和16年12月8日、太平洋戦争がはじまる。小林にとって、歴史の必然はここにおいて「自然」の形をした必然にきわめられたようだ。
(饗庭孝男『小林秀雄とその時代』小沢書店、1997年、179頁~182頁)
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