≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その4≫
(2020年5月12日投稿)
【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】
はじめてのルーヴル (集英社文庫)
今回は、ダヴィッドという画家の生い立ちと作品について解説してみたい。
ダヴィッドの作品としては、次のものを取り上げる。
〇『ホラティウス兄弟の誓い』
〇『サビニの女たち』
〇『ナポレオンの戴冠式』
〇『レカミエ夫人』と『教皇ピウス7世』
〇『サン・ベルナール峠を越えるボナパルト』
〇『ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち』
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
ギリシャ趣味、古典趣味は、すでにルイ15世時代にひとつの流行となっていた(ただ、それはロココ的な夢の衣装のひとつでしかなかったが)。
ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David、1748~1825)は、ブーシェ、ジョゼフ・ヴィアンに師事して、修業時代、ロココ風の作品を描いている。
そもそも、ダヴィッドは1748年、フランスのパリに商人の子として生まれる。1757年の9歳のときに父親が決闘で殺害され、その後裕福な叔父によって育てられた。
ダヴィッドは少年時代にはロココ風の絵画を好み、1766年には、フランソワ・ブーシェ(ロココ絵画の大家、ダヴィッドの母の従兄弟)に弟子入りを希望したが、高齢を理由に断られ、知人のヴィアン(1716~1809)の弟子になった経歴の持ち主であった。
その後、ローマ賞を得て、イタリア留学となったとき、ダヴィッドは師のヴィアンに「私にとって古代は魅力とはならないでしょう」とさえ言っている。
しかし、ローマでダヴィッドを熱狂させたのは、古代彫刻、あるいはカラッチ、あるいは17世紀フランスの古典主義者プッサンの作品であった。
この収穫を持ち帰ったとき、フランスの芸術的風土は一変した。
ダヴィッドの作品は、ロココ的なものへの反動の象徴となる。ダヴィッドは、大革命時には、ロベスピエールの友人として公職に就き、そしてナポレオン時代にかけての英雄主義的な昂揚の中で、古典派の総帥としての地位は高まっていく。
ただ、ダヴィッドの作品を、古典主義や倫理面からのみ見ることは、その本質を見誤ることになると中山公男氏は注意している(古典主義の台頭によって、18世紀的なもののすべてが否定されてしまったと見ることも誤りという)。
ダヴィッドのストイックなまでの英雄主義的倫理は、ある意味で感傷的(サンティマンタル)であり、ロココ的情緒のひとつの展開とみることができるとする。
また、ダヴィッドの作品は、古代彫刻などから得た規範性の傍らに、現実への鋭い視線をひそめている。例えば、目撃者の証言ともいうべき「マラーの死」(1793年、ブリュッセル王立美術館)やその他の多くの肖像画もそれを物語っている。
(中山公男「一八世紀ロココの美術」170頁~171頁。高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年所収)
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フランス芸術の華 ルイ王朝時代 (NHK ルーブル美術館)
ダヴィッド(1748~1825年)は、革命の気運が高まる18世紀末、貴族階級の享楽生活に奉仕するロココ芸術に対するアンチテーゼとして、新古典主義を掲げ、画壇に颯爽と登場した。
ダヴィッドの『ホラティウス兄弟の誓い』(1748年、カンヴァス、油彩、330×425cm、ルーヴル美術館蔵)は、新古典主義のマニフェストとも言える作品である。
この絵は、古代ローマの建国時の伝承を主題にしている(17世紀にフランスの劇作家コルネイユがこれを劇化した)。
建国当時のローマは、アルバの町と争っていたが、容易に勝敗が決まらず、双方から3人ずつの代表戦士を選んで戦わせ、結着をつけることになる。
ローマ側からは、ホラティウス家の三兄弟が選ばれ、アルバ側のクリアティウス家の三兄弟と戦う。激闘の末、ホラティウス家のひとりだけが生き残り、ローマに勝利をもたらす。
ところが、ホラティウス兄弟の妹カミルラは、クリアティウス兄弟のひとりと婚約しており、悲しみのあまり泣き叫んでローマの民衆に訴えるので、激怒した兄は妹を刺し殺してしまう。
そして兄が殺人罪で裁かれて死刑になろうとする時、父親の嘆願によって救われるという物語である。
ダヴィッドは、今まさに戦いに出て行こうとするホラティウス兄弟が、父親に勇敢に義務を遂行することを誓う場面を描いている。
画面の右手には、これと対照的に、女たちが悲嘆にくれている。全体的に静的な画面であるが、来たるべき悲劇を予告するような緊張感をはらんでおり、新古典主義の典型的な作品である。
祖国に対する義務を果たすために、私情を超えて生命をかけて戦う若者たちのヒロイックな行為を描いている。
この絵は、ロココ絵画の対極にあるものである(この絵の中に、すでに共和政への願望が暗示されているといわれる)。
(高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年、138頁~140頁)
ダヴィッドの『サビニの女たち』の主題について、鈴木杜幾子氏は、次のように解説している。出典は、ティトゥス・リウィウスの『ローマ史』、プルタルコスの『英雄伝』である。
ロムルスは、ローマの建国神話に登場するローマの建設者である。古代ローマは、ラティウムの地にあり、彼とともにローマを建てた仲間たちが男ばかりであった。そのため、ロムルスは子孫の断絶を恐れて、祭に招いた近隣のサビニの町の未婚の娘たちをローマの男たちに略奪させ、結婚させる。
サビニの男たちは数年後に態勢を整えて、彼らの姉妹や娘たちを取り戻すためにローマに攻め寄せるが、すでにローマの男たちを夫として家庭を築き、ある者は子供までもうけていた。サビニの女たちは、戦いの場に駆けつけて、兄弟や父たちと夫たちの間の争いを止めに入る。
『サビニの女たち』は、男たちがひきおこした不和を女たちが和解に導くという物語であるが、絵画としては、主に2つの場面が描かれてきた。
① 女たちが略奪される場面
プッサン(1594~1665年)『サビニの女たちの略奪』(1634~35年頃、ルーヴル美術館蔵)
② 仲裁の場面
・バロック期にも描かれているそうだが、このダヴィッドの作品が代表的である。
・ダヴィッド自身、「プッサンの官能的で厳格な筆によって描かれた」略奪の場面に続く仲裁の場面を自分は描いた、と記している。
(プッサンの『サビニの女たちの略奪』が、ダヴィッドの構想の源にあったことを彼自身隠してはいない。ただ、二つの作品には特に大きな共通点はないと鈴木氏はみている)
さて、ダヴィッドの『サビニの女たち』(1799年、ルーヴル美術館蔵)の作品で、中央を占めるのは、大きく両腕を拡げた、ロムルスの妻のヘルシリアの姿である。
彼女のかたわらでは、一人の女性が子供たちを地面に置いて、男たちに指し示している。背後では、別の女が乳児を差し上げて、全軍に示している。
妻に見つめられたロムルスは、サビニの首領のタティウスを狙った投げ槍を宙に浮かせたまま茫然としている(楯には、「ROMA」と記され、双子の兄弟ロムルスとレムスが狼の乳を吸っている像が彫られている!)。
一方、タティウスもまた身を引いて、剣を地面に向けてしまっている。
背景では、すでに和平の意志を示す脱がれた兜が差し上げられており、無数の槍もまっすぐに立てられ、戦意の喪失を物語っている。
ダヴィッドは、1799年12月21日に、この絵をルーヴル宮内に展示場所を得て、展示している。入場料は、1.8フランで、その展示は1805年5月まで続いた。
展示の開始とともに配付された自筆のパンフレットの中で、ダヴィッドは歴史画の制作には、経済的な裏付けが不可欠であるために、入場料を取ることなどを説いているそうだ。こうした展示法が作品の発表の機会を独占していた官展(サロン)制度に対する挑戦の意味あいをもっていた。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、163頁~165頁)
【ルーヴル美術館 フランス絵画のダヴィッド作品の写真】(2004年5月筆者撮影)
※写真の右手には、ダヴィッドの『ホラティウス兄弟の誓い』、左手には『サビニの女たち』が見える。この作品は、『ナポレオンの戴冠式』の右隣りに展示されていた。
私のブログ【コメント】その2の写真『ナポレオンの戴冠式』の右隣りに、大きく両腕を拡げた、ロムルスの妻のヘルシリアの姿が見える。
(1977年、フランスはダヴィッドの描いたヘルシリアの顔を描いた切手を発行したそうだ)
『サビニの女たち』の絵には、愛は対立に勝るという主題があるといわれる。
【『サビニの女たち』について】
サビニ人の歴史は家族の歴史である。祖国に子孫を確保するために、ローマ人はサビニの女たちを略奪した。3年が経った。復讐が決められ、敗者たちは誘拐の地に再びやって来た。その時、女たちは戦いに割って入り、夫となった人々と、父や兄弟であった人々との間を仲裁した。革命期のジャコバン党員で、新古典主義の領袖であるダヴィッドが選んだのは、この瞬間である。
(L’histoire des Sabines est une histoire de famille :
afin d’assurer une descendance à leur patrie nais-
sante, les Romains enlevèrent les femmes du
peuple sabin. Trois ans se passèrent. Bien déci-
dés à se venger, les vaincus revinrent sur le lieu
du rapt. Alors les femmes entrèrent dans la bataille
et s’interposèrent entre ceux qui étaient devenus
leurs époux et ceux qui étaient leurs pères et
leurs frères. C’est ce moment que choisit David,
le Jacobin des années révolutionnaires, le chef
de file du néo-classicisme.)
(Valérie Mettais, Votre Visite du Louvre, Art Lys, 2003, p.82.
Jacques Louis David, Les Sabines, 1799. Huile sur toile, 385×522㎝.)
【Valérie Mettais, Votre Visite du Louvre, Art Lysはこちらから】
Visiter le Louvre
余談になるが、ダヴィッドの『サビニの女たち』の絵を見て、その物語を知ると、日本史の壬申の乱を想起する(壬申の年、672年)。
壬申の乱の背後におかれた女性たちの悲しみを思い出させるその一人が、十市(とおち)皇女である。
十市皇女は、初々しい額田と若き天武との間に生まれた、天武最初の子である。
長じて大友皇子の妃となった。十市はすでに天智初年に大友との間に葛野(かどの)王を生んでいる。
しかし、この結婚は、かの壬申の乱によっていっぺんに蹂躙された。十市皇女にとっては、父と夫との戦いであった。夫の首は父の陣営にとどけられる。
25歳の夫を失った十市はまだ20歳以前であり、4歳の葛野王が残されていた。数年の結婚生活であった。
この十市皇女は、天武7年(678)年4月、薨じる。壬申の乱後、6年を経て、唐突の死(世には自殺説がつよい)。
夫の死後、高市皇子が彼女の前に現れる。高市皇子はほぼ十市と同年配で壬申の乱には19歳で天武を助けて奮戦した。しかし十市にとっては夫の首級をあげた敵軍の将であった。
亡き夫への思慕と、その寂寥による満たされぬ心、自分の恋心を責めながらも高市に魅かれてしまう心、十市皇女の気持ちは、絶望と昏迷の中で、揺れていたと想像されている。
(中西進氏は、十市の気持ちはある面で後の和泉式部の心に似通うところがあると指摘している)
その高市が、十市薨去のおりに作った歌が、『万葉集』巻二に三首(一五六、一五七、一五八)残されている。
その一首で、次のような歌で嘆いている。
神(かむ)山の 山辺真蘇木綿(やまべまそゆふ) 短(みじか)木綿 かくのみ故(から)に 長くと思ひき(巻二、一五七)
(原文は次のようにある。『万葉集』巻二
十市皇女薨時高市尊御作歌三首
一五七 神山之 山邊眞蘇木綿 短木綿 如此耳故爾 長等思伎)
十市との逢瀬を、「短木綿」のごとく思った、そしてそれゆえに末長くと願ったことだった、と追憶している。しかしそれも今はすべて空しい。
中西氏は、なぜこのような不幸が起こるのかと、問いかけている。わたしたちはこれを古代的不幸と呼ぶしかないという。
(中西進『万葉集入門』角川文庫、1981年、83頁~86頁。佐佐木信綱編『白文 万葉集 上巻』岩波文庫、1930年[1977年版]、57頁)
【中西進『万葉集入門』(角川文庫)はこちらから】
万葉集入門―その歴史と文学 (1981年) (角川文庫)
1815年のナポレオン失脚後、ダヴィッドもまもなく失脚し、1816年にベルギーのブリュッセルに亡命する。
そして9年後の1825年にブリュッセルで、時代に翻弄された77年の生涯を終える。
この点を少し説明しておこう。
ナポレオンは、1812年のロシア遠征の失敗をきっかけとして、皇帝と帝国の命運は急速に傾いていく。
連合軍は1814年3月パリ入城を果たした。タレイランは臨時政府をつくり、元老院がルイ18世の即位を決議し、ナポレオンの廃位が決定された。
ナポレオンがエルバ島へ去り、第一次王政復古が始まっても、元皇帝の首席画家で王殺しの一派でもあったダヴィッドに追及の手が及ぶことはなかったようだ。仮にナポレオンがエルバ島から戻らなかったら、ダヴィッドは一生をパリで送ることができたかもしれない。
しかし、ナポレオンは再びフランスに上陸し、1815年3月19日、パリに入城する。いわゆる百日天下の始まりである。
そしてナポレオンはブルジョワジー的自由主義に基づく新しい帝国を構想し、「帝国憲法付加法」を起草させ、新体制を整えた。ダヴィッドはこの「付加法」に署名した130万人の一人であったようだ。
ダヴィッドを再び首席画家に任命し、完成した≪テルモピュライのレオニダス≫を見るために画家のアトリエを訪問した。また、ナポレオンは画家にレジオン・ドヌールのコマンドゥール章を与えた。
しかし、再び政権の座についたナポレオンの命脈は短期間で尽きる運命にあった。1815年6月18日、現在ベルギー領のワーテルローで会戦が行なわれ、連合軍はナポレオンの駆逐に成功する(ナポレオンは南大西洋の孤島セント・ヘレナに流され、1821年に死去する)。
1815年7月3日にパリ市は開城され、まもなくルイ18世が再び王位につき、第二王政復古が実現した。
国内では王党派の白色テロが荒れ狂い、ダヴィッドは身の危険を感じて、逃亡を計画する。
出発前に、第一王政復古の時に、画家のソルボンヌのアトリエに戻されていた≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式≫と≪鷲の軍旗の授与≫をいくつかに裁断して地方に疎開させ、予想されたプロシア軍の収奪から守ったそうだ。
ダヴィッドは一人の従僕を連れて、7月の半ばパリを後にして、まずスイスに向かう。
だが、7月24日に軍事法廷で裁判を受けるリストに名がなかったので、8月末にパリに戻り、アトリエの生活を再開した。
しかし、1816年1月16日、百日天下の際に「帝国憲法付加法」支持の署名を行なった者には国外退去の命令が下り、ダヴィッドは結局亡命を余儀なくされた。
ダヴィッドは当初亡命の地として、美術のメッカ、ローマを希望したが、許可されず、ベルギーのブリュッセルが次善の策として選ばれた。早くも1月27日にはそこに到着し、まもなく妻も合流した。ブリュッセルでの生活は亡命者としては恵まれたものであったようだ。当代一の画家として尊敬されて、オランダのアカデミー会員として選ばれ、肖像画の注文もあった。
亡命の仲間には、革命初期の立役者シエイエスもいて、ダヴィッドはその肖像画を残している。ダヴィッド≪シエイエス≫(1817年、マサチューセッツ州ケンブリッジ、フォッグ美術館)。
忠実な弟子グロが、パリのアトリエにあった作品を売却したりして、安定した生活をダヴィッドは送れた。ちなみに、≪サビニの女たち≫や≪テルモピュライのレオニダス≫を購入したのは、ルイ18世であった。
フランス政府はダヴィッドが亡命して間もない頃から、画家の帰国にあえて反対しない態度をとっていたようだ。グロを初めとする弟子や子供たちも、懇願したが、ダヴィッドはブルボン王家の統治する故国に帰ることを潔しとしなかった。
また、ダヴィッドは、ナポレオンを滅ぼし王政復古を招いたイギリスには敵意をもっていたようだ。例えば、ワーテルローの勝者ウェリントン公爵が画家を訪れて、公爵自身の肖像画か≪サン・ベルナール峠を越えるボナパルト≫の写しを所望したが、自分は歴史画しか描かないと言って、にべもなく断ったという。
ベルギー時代にダヴィッドが革命や帝政に対する肯定的な気持ちを失っていなかったことは、次の2つの事から推察できると鈴木氏はいう。
① ≪ジュ・ド・ポームの誓い≫の登場人物見取り図を作成していること
② ≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式≫のレプリカを完成させていること。
実はこのベルギー亡命時代の1822年に、②の≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式≫の第2作(ヴェルサイユ宮国立美術館蔵)を完成させている。
この作品のレプリカは、すでに1808年にアメリカの実業家グループによって依頼されていた。
その目的は、このヨーロッパの歴史を彩る大事件をアメリカ各地の人々に目の当たりに見せるために、戴冠の儀式を描いた絵をアメリカの諸都市に巡回させようというものであった。
十数年の中断ののち、依頼が再燃し、ダヴィッドはパリに残してきた未完のカンヴァスを取り寄せ、原作の制作に加わった弟子ルージェも呼び寄せて、制作を再開した。そして、1822年にこれを完成させた。
このレプリカは大きさも原作とほとんど違わず、構図も忠実に写されている。ただ、色彩ははるかに明るいものになっている。人物に関しては、全体の配置はほとんど変わっていないものの、観覧席の人物が一人消え、ベルギーで知り合って親しくしていた当地の画家が一人描き加えられ、ダヴィッド夫人や娘たちが歳をとって、1822年当時の流行に従った服装をしている。この点が目立った改変であるという。
レプリカは完成後ただちにロンドンで展示され、1826年以降ニューヨークやボストンで展示された。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、248頁~254頁)
【鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社はこちらから】
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド―革命の表現者から皇帝の首席画家へ』
ダヴィッドは絵画の分野で、フランスの新古典主義の指導者となった。
ローマに学んだダヴィッドが、ヴィンケルマンの古代研究に深く傾倒し、新古典主義の画家として名声を得た。
フランス革命が勃発すると、ダヴィッドは、急進的なジャコバン党に加わり、革命に参加する。しかし、やがて権力者ナポレオンに近づき、宮廷の筆頭画家に任命される。
ルーヴルには、≪教皇ピウス7世≫をはじめ、ダヴィッドが描いた優れた肖像画がのこされている。
中でも≪レカミエ夫人≫は新古典主義のヴィーナスといわれ、ダヴィッドの美学をよく伝えている作品である。
〇ダヴィッド≪レカミエ夫人≫(1800年、カンヴァス・油彩、174×244cm、ルーヴル美術館)
優美な線を見せる寝台、ほっそりとした燭台、そして美しい女主人公の着る清楚な衣装、ヘアバンドにいたるまで、すべてが古代ギリシャを装ってつくられている。これが、1800年当時の最新流行だったそうだ。
ダヴィッドは、社交界の名花レカミエ夫人をこのように永遠化した。レカミエ夫人の不思議も気を惹くポーズは、アングルの≪グランド・オダリスク≫(1814年、カンヴァス・油彩、91×162cm、ルーヴル美術館)(~ティツィアーノ作≪ウルビーノのヴィーナス≫とも類比された美女の姿態~)にも、影響を与えたといわれる。
レカミエ夫人に白い簡素な衣装を身につけさせ、ギリシャ風のベッドに横たえさせ、品のある清楚な肖像画に仕上げてある。そこがダヴィッドの腕である。
レカミエ夫人は当時の社交界で有名な女性で、この美貌で多くの男性を虜にした。
(ただ、ずいぶん気まぐれな性格で、ダヴィッドのアトリエにポーズをとりに訪れるのに、遅れたり、すっぽかしたりしたそうだ)
〇ダヴィッド≪教皇ピウス7世≫(1805年、板・油彩、86.5×71.5cm、ルーヴル美術館)
ピウス7世は、ナポレオンの戴冠式に臨席するために、パリに来た教皇である。
≪ナポレオンの戴冠式≫でナポレオンの背後に座し、祝福を与えているのがその人である。
その高潔な性格のために、パリでも崇敬されたが、ダヴィッドもまた教皇ピウス7世に接して感銘を受けたそうだ。ダヴィッドは、ラファエロの描いた≪ユリウス2世≫を思い出して、ピウスはユリウスより人物が上だと人に語ったようだ。
ダヴィッドはこの肖像画を描いた1805年頃、意気盛んだった。この肖像画にも麗々しく、「フランス皇帝ナポレオンの第一画家ルイ・ダヴィッド」と記した。
(もっとも、その前半は王政復古後、塗り消されてしまった)
(高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年、14頁~15頁。鈴木、1991年、191頁~192頁)
【高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』はこちらから】
ロマン派登場 (NHK ルーブル美術館)
美術の根底に関わる点で、ナポレオンとダヴィッドの見解は異なるものをもっていた。
それでも、ナポレオンの現実主義とダヴィッドの理想主義が折り合う場所もあったと鈴木杜幾子氏は指摘している。
それは、ダヴィッドがナポレオンの肖像などを、ナポレオンの満足が得られるほどのリアリティをもって、しかも画家の芸術観にしたがって理想性や観念的な枠組みを与え得た場合であるという。
そうした場合には、ナポレオンは自分の栄光が現実味と壮麗さをそなえた形で、後世の人々の記憶にとどまることを喜んだ。
そして、その種の作品の最初のものが、≪サン・ベルナール峠を越えるボナパルト≫であると鈴木氏は理解している。
(この作品は、ダヴィッドの2番目のナポレオン・ボナパルトの肖像である)
ところで、第一執政ボナパルトは、1800年再びアルプスを越える。
そして、北伊ピエモンテ地方のマレンゴでオーストリア軍を敗り、翌1802年、ライン左岸を獲得し、またイタリアの大部分を従属させた。
このあと、執政政府は、革命以来対立していたローマ教皇と政教和約を結んで和解する。マレンゴの大勝は19世紀初頭の数年間の平和をフランスにもたらし、ボナパルト執政が内政に力を注いで、帝位に上る準備の期間を与えた。
このときのボナパルト執政のアルプス越えの姿を描いたのが、≪サン・ベルナール峠を越えるボナパルト≫である。
(この作品には、ほぼ同構図の数点のヴァージョンが存在する)
注文の経緯は定かでないが、一般には、次のように考えられている。
最初にスペインのカルロス4世が第1のヴァージョンをダヴィッドに依頼し、制作された作品を見て、ボナパルト自身が依頼したのが第2のヴァージョンであるとされる。
1801年9月には、この2点と≪サビニの女たち≫がルーヴル宮内で一緒に展示されている。
こののち、ダヴィッドは助手を使って、さらに3点のレプリカを制作した。
(ダヴィッドは最初の2点には革命歴9年の、あとの3点には革命歴10年の年記を入れ、すべてに署名している)
① スペイン王のための第1ヴァージョンは、ほとんど白く見える白黒ぶちの馬で、黄色のマントの方である。今日、マルメゾンの館にある。
② ボナパルト自身が注文した第2ヴァージョンは、栗毛の馬で、赤のマントをボナパルトは身に着けている。こちらはベルリンのシャルロッテンブルク宮にある。
ダヴィッドはこの肖像のためにボナパルトにポーズを要求したが、執政は拒否した。その理由は、肖像と自分が似ているか否かなどには意味がない、アレクサンダー大王はアペレスのためにポーズなどしなかった、偉人たちの肖像が似ているかどうか気にする者はいないから、ただ偉人たちの天才が肖像に息づいていればよいというものであったそうだ。
それに対して、ダヴィッドは「ポーズされるには及びません。お任せください。ポーズなしであなたを描きましょう」と答えた。
結局ダヴィッドは弟子にポーズをさせて、この肖像画を制作した。
その際、服装については、実際にボナパルト執政がマレンゴで着用した軍服を借り出して正確を期した。
また執政のまたがる馬に関しても、少なくともマルメゾンの第1ヴァージョンの白馬は、ボナパルト執政の愛馬を写生して描いたそうだ。
ナポレオンは自分の肖像が似ていなくても気にしなかったが、馬は似ていることを要求したといわれる。
このように細部においては、かなり写実への配慮が行なわれたものの、この肖像画の全体としてのコンセプトはきわめて観念的なものであったと鈴木氏はみている。マルメゾンの作品について、そのコンセプトを分析している。
この絵は、前脚を挙げて、逸る馬にまたがったボナパルトの姿が描かれている。
しかし、実際のアルプス越えは、悪路に強いラバで行なわれたという記録が残っている。当時の版画なども荷物や人を乗せて首をうなだれて進むラバの列を示している。だから、馬を描いていること自体がすでにして作為的な理想化であったと鈴木氏はまず指摘している。
また、ボナパルト執政は、鑑賞者を凝視しつつ、はるかな峠を指し示している。足元の岩には、ボナパルト、ハンニバル、シャルルマーニュの3つの名が刻まれる。ボナパルトがアルプスを越えた3人目の英雄であることを示されている。
そしてボナパルトの帽子に三色の標章がつけられており、軍勢はほんの一部が遠景に描かれているのみである。だから、ボナパルト執政が鼓舞しているのが軍隊ではなく、鑑賞者すなわちフランス人民と想定されていると鈴木氏は解釈している。
このように、馬にまたがるボナパルトの動作が戦場での実際の動作ではなく、英雄的指導者の本質を語るものである。そのことは、この肖像画に、ハンニバルやシャルルマーニュの後継者としてのボナパルトの称揚画の性格を与えているという。
さらに、本来、岩山の上の君主騎馬像は、ベルニーニのルイ14世像にみられるように、美徳の岩を登る君主という図像伝統に基づくものでもあるようだ。
そしてこの肖像画の特殊性は、わずか1年前に描かれた≪レカミエ夫人像≫(1800年、ルーヴル美術館)などが、簡素な背景に、なんのアトリビュート(モデルがどのような人物であるかを示す小道具)もなしに、描かれているのと比べてみても明らかであるという。
(≪サン・ベルナール峠を越えるボナパルト≫は、本質的な意味においては、肖像画というよりは、むしろ歴史画の結構をそなえた作品であると鈴木氏は捉えている)
ところで、この肖像画を制作する前に、ダヴィッドとボナパルトとの間には、次のような会話のやりとりがあったと伝えられている。
ダヴィッドが「私はあなたが戦場で剣を手にしている姿を描きましょう」と言ったのに対し、ボナパルトは「いや、私は逸り立つ馬上で平静な姿で描かれたい」と答えたという。
(フランス語で、calme sur un cheval fougueux)
この簡潔な言葉には、フランス美術の18世紀と19世紀を分ける重要な鍵が隠されていると鈴木氏はみている。
この言葉の発せられた1800年頃は、フランス美術における二つの様式の交替期であった。平静ないし静謐を意味する Calmeの語は、ヴィンケルマン以来の新古典主義美術のキーワードである。一方、「逸り立つ馬」の姿はジェリコーとドラクロワのロマン主義の二人の大画家が最も好んで描いたモチーフであった。
人馬の荒々しい動感は、細部までを克明に描くダヴィッドの手法ではなく、ジェリコーやドラクロワの、筆触をそのまま残した技法によって、初めて充分に表現することができた。ロマン主義の世代の画家たちは、人や馬の運動の描出を通じて情念を表現した。
例えば、ジェリコー≪猟騎兵士官≫(1812年、ルーヴル美術館)などがある。
このことを念頭において、再度、ダヴィッドのこの絵を観察すると、ダヴィッドがここに描くことに成功しているのは、むしろ「平静な」人物の方であって、逸り立つ馬の運動感はリアリティをもって、とらえられてはないことに気づく。
ダヴィッドがついに戦場でのナポレオン・ボナパルトを描かなかったことは、ダヴィッドにとって幸いであった(その優れた描き手となったのが弟子のグロであった)。
その理由について、≪サビニの女たち≫や≪テルモピュライのレオニダス≫にみられるように、彫刻的人体をフリーズ状に配置するというダヴィッドの手法では、戦争画に要求される激動感あふれる現前性を表現することは至難の技であったからと鈴木氏は説明している。
運動と情念の表現は、ナポレオン・ボナパルトよりも約20歳年長であったダヴィッドにとって、ついに無縁に終わったようだ。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、182頁~187頁)
〇ダヴィッド≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫
1789年 カンヴァス・油彩 323×425㎝ ルーヴル美術館
この絵は、フランス革命勃発の年のサロンに出品された作品である。
≪ホラティウス兄弟の誓い≫の完成後、ただちにダンジヴィレール伯爵、つまり王室はダヴィッドに新たな古代主題の歴史画を注文した。画家は、ローマの将軍コリオラヌスを選んでいた。結局、1789年のサロンに9月7日になって出品したのが、≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫であった。
ダヴィッドの新古典主義をよく示す見事に計算された明晰な構図といわれる。
描かれたのは、1789年、革命勃発直前であったが、サロンに出品されたのはすでに革命が始まった後である。共和政讃美の作品として、熱狂的に迎えられた。
この作品には、古代ローマの僭主タルクィニウスを追放して、共和政を打ち立てた功労者ブルートゥスの物語がある。
復帰を狙う暴君と内通して祖国を裏切った二人の息子を、法にしたがって、ブルートゥスは死刑に処し、家に帰って悲しみに沈む。何も知らない家族は、運ばれて来た遺体に驚き悲しむという場面である。
ブルートゥスは暴虐な王を追放してローマに共和政を樹立した英雄である。ブルートゥスは、有名なカエサルの暗殺者とは別人物で、それよりも500年も昔の人物である。没年紀元前509年である。
(一連のエピソードは、ティトゥス・リウィウスの『ローマ史』やプルタルコスの『英雄伝』に語られているという)
ローマの最後の王、暴君のタルクィニウスの息子セクストゥスは有徳の女性ルクレツィアを自害に追いやる。王の甥ブルートゥスはこの事件に憤って、伯父王に対して反逆を企てて王を追放し、共和制を樹立して、初代のコンスルの地位を得る。
やがてブルートゥスの二人の息子は、タルクィニウス王を再度、君主の地位に戻す陰謀を企てたが、発覚する。そして父ブルートゥスは共和制を危うくした息子たちに死刑の判決を下す。
ダヴィッドは、処刑された息子たちの遺体が埋葬のために家に運びこまれるのを、ブルートゥスが茫然自失の表情で迎える場面を描いている。
(この場面はリウィウスやプルタルコスにはなく、ダヴィッドの創意であるようだ)
左の薄暗がりには、陰謀の証拠となった手紙を握りしめながら、執政官として国を守る
義務と父親としての悲しみに板ばさみになって、激情をこらえているブルートゥスがいる。人々はこの人物に共和政の象徴を見、妥協を許さない高貴さに共鳴した。
皮肉なことに、≪ホラティウス兄弟の誓い≫と≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫も、とくにルイ16世のために、ダンジヴィレール伯爵によって注文されたものであった。だから、ダヴィッドが最初から共和政の理想をこの絵に託そうとしたかどうかははっきりとはわからないが、「絵画において、すでに革命を先取りしていた」ともいわれる。
ダヴィッドの新古典主義をよく示す見事に計算された明晰な構図といわれる。画面の左半分には、家の女たちが驚き、悲しみ、あまりのことに気を失う姿が描かれている。
このように右に「理」を原理とする男性の世界を、左に「情」によって動かされる女性の世界を配している点は、≪ホラティウス兄弟の誓い≫に通じる。
ただ、こちらの方が、構図全体ははるかに複雑で巧妙である。
主人公であるブルートゥスを故意に暗い中に描き、運び込まれる遺体と女性たちにハイライトを当てて、彼女たちの驚愕と嘆きを表現の中心にしている。
そうすることによって、ダヴィッドはこの典型的なストイシズムの主題をいわば裏から描いていると鈴木氏は分析している。
父としての悲しみと祖国愛の板ばさみとなりながら、義務を果たしたブルートゥスは、背後のローマ擬人像と共に闇に沈むことによって、愛国の大義がひきおこした人間的苦悩を分かちあっていると鈴木氏は解釈している。
また、小道具などの細部は、≪ホラティウス兄弟の誓い≫に比べて、はるかに豊かになっているそうだ。
特に家具はダヴィッドが画中に描きいれるために、わざわざ家具師のジャコブに依頼してつくらせたものである。
(ギリシアの壺絵などにある家具を模倣した典型的な新古典主義様式のものである)
カピトリーノに現存するブルートゥス像を写したブルートゥスの風貌や、人間のポーズや家具や衣装のすべてに古代遺品を手本にした考証がゆきわたっている。
フランス(そしてヨーロッパ)の新古典主義絵画全般の到達目標であった「ローマ人とプッサンを手本にした」歴史画はここに完成した。
この≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫が革命勃発直後にサロンで公開された時には、熱狂をもって観衆に迎えられた。その大きな原因の一つは、ブルートゥスの主題が革命の理想に結びつけて解釈されたからである。
ただ、純粋に造形的な面からは、アカデミー関係者から多くの批判をこうむっている。
歴史画に関するアカデミーの教えでは、構図は主要な人物を中央に置き、副次的な人物を左右に置くピラミッド型のものでなくてはならなかった。そしてハイライトはつねに主要人物に当てるべきであるとされた。
しかし、ダヴィッドの構図は異なっている。アカデミー的な規準の構図は、ダヴィッドがローマ留学以来次第に自分のものとしてきた画面構成法とは、根本的に異なっていた。ダヴィッドが追究してきたのが、ピラミッド構図とは正反対のフリーズ状の構図であった。
≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫の構図も、その延長上にある。
≪ホラティウス兄弟の誓い≫と≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫においては、フリーズ構成が採用されている。
その結果、画面の左右、つまり男性群が描かれている部分と女性群が描かれている部分がはっきりと分割されている。アカデミーの規準では欠点とされた点がかえってダヴィッドの意図を表現しているともみられている。
つまりダヴィッドは「理」と「情」、ないし「大義」と「私情」のどちらに軍配を挙げているのでもなく、いわば両義的な絵画を描いているとされている。
ダヴィッドがこれらの道徳的な主題を描くに当たって、道徳のリゴリスティックな適用に対する反作用の象徴としての女性像に重要な意味を与えているようだ。
(ただ、フランス革命勃発後に、ダヴィッドを≪ホラティウス≫と≪ブルートゥス≫という「愛国的」主題の絵画の描き手として讃えた人々の心には、そうした両義性は感じられていなかったのであるが)
(高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年、140頁~145頁。鈴木、1991年、102頁~106頁)
(2020年5月12日投稿)
【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】
はじめてのルーヴル (集英社文庫)
【はじめに】
今回は、ダヴィッドという画家の生い立ちと作品について解説してみたい。
ダヴィッドの作品としては、次のものを取り上げる。
〇『ホラティウス兄弟の誓い』
〇『サビニの女たち』
〇『ナポレオンの戴冠式』
〇『レカミエ夫人』と『教皇ピウス7世』
〇『サン・ベルナール峠を越えるボナパルト』
〇『ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち』
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・ダヴィッドの生い立ちと古典主義
・ダヴィッドの『ホラティウス兄弟の誓い』について
・ダヴィッドの『サビニの女たち』について
・ダヴィッドの作品に関連して思うこと――壬申の乱と十市皇女
・ダヴィッドの亡命と作品『ナポレオンの戴冠式』
・ダヴィッドの肖像画――≪レカミエ夫人≫と≪教皇ピウス7世≫
・ダヴィッドの≪サン・ベルナール峠を越えるボナパルト≫について
・ダヴィッドの≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫
【読後の感想とコメント】
ダヴィッドの生い立ちと古典主義
ギリシャ趣味、古典趣味は、すでにルイ15世時代にひとつの流行となっていた(ただ、それはロココ的な夢の衣装のひとつでしかなかったが)。
ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David、1748~1825)は、ブーシェ、ジョゼフ・ヴィアンに師事して、修業時代、ロココ風の作品を描いている。
そもそも、ダヴィッドは1748年、フランスのパリに商人の子として生まれる。1757年の9歳のときに父親が決闘で殺害され、その後裕福な叔父によって育てられた。
ダヴィッドは少年時代にはロココ風の絵画を好み、1766年には、フランソワ・ブーシェ(ロココ絵画の大家、ダヴィッドの母の従兄弟)に弟子入りを希望したが、高齢を理由に断られ、知人のヴィアン(1716~1809)の弟子になった経歴の持ち主であった。
その後、ローマ賞を得て、イタリア留学となったとき、ダヴィッドは師のヴィアンに「私にとって古代は魅力とはならないでしょう」とさえ言っている。
しかし、ローマでダヴィッドを熱狂させたのは、古代彫刻、あるいはカラッチ、あるいは17世紀フランスの古典主義者プッサンの作品であった。
この収穫を持ち帰ったとき、フランスの芸術的風土は一変した。
ダヴィッドの作品は、ロココ的なものへの反動の象徴となる。ダヴィッドは、大革命時には、ロベスピエールの友人として公職に就き、そしてナポレオン時代にかけての英雄主義的な昂揚の中で、古典派の総帥としての地位は高まっていく。
ただ、ダヴィッドの作品を、古典主義や倫理面からのみ見ることは、その本質を見誤ることになると中山公男氏は注意している(古典主義の台頭によって、18世紀的なもののすべてが否定されてしまったと見ることも誤りという)。
ダヴィッドのストイックなまでの英雄主義的倫理は、ある意味で感傷的(サンティマンタル)であり、ロココ的情緒のひとつの展開とみることができるとする。
また、ダヴィッドの作品は、古代彫刻などから得た規範性の傍らに、現実への鋭い視線をひそめている。例えば、目撃者の証言ともいうべき「マラーの死」(1793年、ブリュッセル王立美術館)やその他の多くの肖像画もそれを物語っている。
(中山公男「一八世紀ロココの美術」170頁~171頁。高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年所収)
【高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』はこちらから】
フランス芸術の華 ルイ王朝時代 (NHK ルーブル美術館)
ダヴィッドの『ホラティウス兄弟の誓い』について
ダヴィッド(1748~1825年)は、革命の気運が高まる18世紀末、貴族階級の享楽生活に奉仕するロココ芸術に対するアンチテーゼとして、新古典主義を掲げ、画壇に颯爽と登場した。
ダヴィッドの『ホラティウス兄弟の誓い』(1748年、カンヴァス、油彩、330×425cm、ルーヴル美術館蔵)は、新古典主義のマニフェストとも言える作品である。
この絵は、古代ローマの建国時の伝承を主題にしている(17世紀にフランスの劇作家コルネイユがこれを劇化した)。
建国当時のローマは、アルバの町と争っていたが、容易に勝敗が決まらず、双方から3人ずつの代表戦士を選んで戦わせ、結着をつけることになる。
ローマ側からは、ホラティウス家の三兄弟が選ばれ、アルバ側のクリアティウス家の三兄弟と戦う。激闘の末、ホラティウス家のひとりだけが生き残り、ローマに勝利をもたらす。
ところが、ホラティウス兄弟の妹カミルラは、クリアティウス兄弟のひとりと婚約しており、悲しみのあまり泣き叫んでローマの民衆に訴えるので、激怒した兄は妹を刺し殺してしまう。
そして兄が殺人罪で裁かれて死刑になろうとする時、父親の嘆願によって救われるという物語である。
ダヴィッドは、今まさに戦いに出て行こうとするホラティウス兄弟が、父親に勇敢に義務を遂行することを誓う場面を描いている。
画面の右手には、これと対照的に、女たちが悲嘆にくれている。全体的に静的な画面であるが、来たるべき悲劇を予告するような緊張感をはらんでおり、新古典主義の典型的な作品である。
祖国に対する義務を果たすために、私情を超えて生命をかけて戦う若者たちのヒロイックな行為を描いている。
この絵は、ロココ絵画の対極にあるものである(この絵の中に、すでに共和政への願望が暗示されているといわれる)。
(高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年、138頁~140頁)
ダヴィッドの『サビニの女たち』について
ダヴィッドの『サビニの女たち』の主題について、鈴木杜幾子氏は、次のように解説している。出典は、ティトゥス・リウィウスの『ローマ史』、プルタルコスの『英雄伝』である。
ロムルスは、ローマの建国神話に登場するローマの建設者である。古代ローマは、ラティウムの地にあり、彼とともにローマを建てた仲間たちが男ばかりであった。そのため、ロムルスは子孫の断絶を恐れて、祭に招いた近隣のサビニの町の未婚の娘たちをローマの男たちに略奪させ、結婚させる。
サビニの男たちは数年後に態勢を整えて、彼らの姉妹や娘たちを取り戻すためにローマに攻め寄せるが、すでにローマの男たちを夫として家庭を築き、ある者は子供までもうけていた。サビニの女たちは、戦いの場に駆けつけて、兄弟や父たちと夫たちの間の争いを止めに入る。
『サビニの女たち』は、男たちがひきおこした不和を女たちが和解に導くという物語であるが、絵画としては、主に2つの場面が描かれてきた。
① 女たちが略奪される場面
プッサン(1594~1665年)『サビニの女たちの略奪』(1634~35年頃、ルーヴル美術館蔵)
② 仲裁の場面
・バロック期にも描かれているそうだが、このダヴィッドの作品が代表的である。
・ダヴィッド自身、「プッサンの官能的で厳格な筆によって描かれた」略奪の場面に続く仲裁の場面を自分は描いた、と記している。
(プッサンの『サビニの女たちの略奪』が、ダヴィッドの構想の源にあったことを彼自身隠してはいない。ただ、二つの作品には特に大きな共通点はないと鈴木氏はみている)
さて、ダヴィッドの『サビニの女たち』(1799年、ルーヴル美術館蔵)の作品で、中央を占めるのは、大きく両腕を拡げた、ロムルスの妻のヘルシリアの姿である。
彼女のかたわらでは、一人の女性が子供たちを地面に置いて、男たちに指し示している。背後では、別の女が乳児を差し上げて、全軍に示している。
妻に見つめられたロムルスは、サビニの首領のタティウスを狙った投げ槍を宙に浮かせたまま茫然としている(楯には、「ROMA」と記され、双子の兄弟ロムルスとレムスが狼の乳を吸っている像が彫られている!)。
一方、タティウスもまた身を引いて、剣を地面に向けてしまっている。
背景では、すでに和平の意志を示す脱がれた兜が差し上げられており、無数の槍もまっすぐに立てられ、戦意の喪失を物語っている。
ダヴィッドは、1799年12月21日に、この絵をルーヴル宮内に展示場所を得て、展示している。入場料は、1.8フランで、その展示は1805年5月まで続いた。
展示の開始とともに配付された自筆のパンフレットの中で、ダヴィッドは歴史画の制作には、経済的な裏付けが不可欠であるために、入場料を取ることなどを説いているそうだ。こうした展示法が作品の発表の機会を独占していた官展(サロン)制度に対する挑戦の意味あいをもっていた。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、163頁~165頁)
【ルーヴル美術館 フランス絵画のダヴィッド作品の写真】(2004年5月筆者撮影)
※写真の右手には、ダヴィッドの『ホラティウス兄弟の誓い』、左手には『サビニの女たち』が見える。この作品は、『ナポレオンの戴冠式』の右隣りに展示されていた。
私のブログ【コメント】その2の写真『ナポレオンの戴冠式』の右隣りに、大きく両腕を拡げた、ロムルスの妻のヘルシリアの姿が見える。
(1977年、フランスはダヴィッドの描いたヘルシリアの顔を描いた切手を発行したそうだ)
『サビニの女たち』の絵には、愛は対立に勝るという主題があるといわれる。
【『サビニの女たち』について】
サビニ人の歴史は家族の歴史である。祖国に子孫を確保するために、ローマ人はサビニの女たちを略奪した。3年が経った。復讐が決められ、敗者たちは誘拐の地に再びやって来た。その時、女たちは戦いに割って入り、夫となった人々と、父や兄弟であった人々との間を仲裁した。革命期のジャコバン党員で、新古典主義の領袖であるダヴィッドが選んだのは、この瞬間である。
(L’histoire des Sabines est une histoire de famille :
afin d’assurer une descendance à leur patrie nais-
sante, les Romains enlevèrent les femmes du
peuple sabin. Trois ans se passèrent. Bien déci-
dés à se venger, les vaincus revinrent sur le lieu
du rapt. Alors les femmes entrèrent dans la bataille
et s’interposèrent entre ceux qui étaient devenus
leurs époux et ceux qui étaient leurs pères et
leurs frères. C’est ce moment que choisit David,
le Jacobin des années révolutionnaires, le chef
de file du néo-classicisme.)
(Valérie Mettais, Votre Visite du Louvre, Art Lys, 2003, p.82.
Jacques Louis David, Les Sabines, 1799. Huile sur toile, 385×522㎝.)
【Valérie Mettais, Votre Visite du Louvre, Art Lysはこちらから】
Visiter le Louvre
ダヴィッドの作品に関連して思うこと――壬申の乱と十市皇女
余談になるが、ダヴィッドの『サビニの女たち』の絵を見て、その物語を知ると、日本史の壬申の乱を想起する(壬申の年、672年)。
壬申の乱の背後におかれた女性たちの悲しみを思い出させるその一人が、十市(とおち)皇女である。
十市皇女は、初々しい額田と若き天武との間に生まれた、天武最初の子である。
長じて大友皇子の妃となった。十市はすでに天智初年に大友との間に葛野(かどの)王を生んでいる。
しかし、この結婚は、かの壬申の乱によっていっぺんに蹂躙された。十市皇女にとっては、父と夫との戦いであった。夫の首は父の陣営にとどけられる。
25歳の夫を失った十市はまだ20歳以前であり、4歳の葛野王が残されていた。数年の結婚生活であった。
この十市皇女は、天武7年(678)年4月、薨じる。壬申の乱後、6年を経て、唐突の死(世には自殺説がつよい)。
夫の死後、高市皇子が彼女の前に現れる。高市皇子はほぼ十市と同年配で壬申の乱には19歳で天武を助けて奮戦した。しかし十市にとっては夫の首級をあげた敵軍の将であった。
亡き夫への思慕と、その寂寥による満たされぬ心、自分の恋心を責めながらも高市に魅かれてしまう心、十市皇女の気持ちは、絶望と昏迷の中で、揺れていたと想像されている。
(中西進氏は、十市の気持ちはある面で後の和泉式部の心に似通うところがあると指摘している)
その高市が、十市薨去のおりに作った歌が、『万葉集』巻二に三首(一五六、一五七、一五八)残されている。
その一首で、次のような歌で嘆いている。
神(かむ)山の 山辺真蘇木綿(やまべまそゆふ) 短(みじか)木綿 かくのみ故(から)に 長くと思ひき(巻二、一五七)
(原文は次のようにある。『万葉集』巻二
十市皇女薨時高市尊御作歌三首
一五七 神山之 山邊眞蘇木綿 短木綿 如此耳故爾 長等思伎)
十市との逢瀬を、「短木綿」のごとく思った、そしてそれゆえに末長くと願ったことだった、と追憶している。しかしそれも今はすべて空しい。
中西氏は、なぜこのような不幸が起こるのかと、問いかけている。わたしたちはこれを古代的不幸と呼ぶしかないという。
(中西進『万葉集入門』角川文庫、1981年、83頁~86頁。佐佐木信綱編『白文 万葉集 上巻』岩波文庫、1930年[1977年版]、57頁)
【中西進『万葉集入門』(角川文庫)はこちらから】
万葉集入門―その歴史と文学 (1981年) (角川文庫)
ダヴィッドの亡命と作品『ナポレオンの戴冠式』
1815年のナポレオン失脚後、ダヴィッドもまもなく失脚し、1816年にベルギーのブリュッセルに亡命する。
そして9年後の1825年にブリュッセルで、時代に翻弄された77年の生涯を終える。
この点を少し説明しておこう。
ナポレオンは、1812年のロシア遠征の失敗をきっかけとして、皇帝と帝国の命運は急速に傾いていく。
連合軍は1814年3月パリ入城を果たした。タレイランは臨時政府をつくり、元老院がルイ18世の即位を決議し、ナポレオンの廃位が決定された。
ナポレオンがエルバ島へ去り、第一次王政復古が始まっても、元皇帝の首席画家で王殺しの一派でもあったダヴィッドに追及の手が及ぶことはなかったようだ。仮にナポレオンがエルバ島から戻らなかったら、ダヴィッドは一生をパリで送ることができたかもしれない。
しかし、ナポレオンは再びフランスに上陸し、1815年3月19日、パリに入城する。いわゆる百日天下の始まりである。
そしてナポレオンはブルジョワジー的自由主義に基づく新しい帝国を構想し、「帝国憲法付加法」を起草させ、新体制を整えた。ダヴィッドはこの「付加法」に署名した130万人の一人であったようだ。
ダヴィッドを再び首席画家に任命し、完成した≪テルモピュライのレオニダス≫を見るために画家のアトリエを訪問した。また、ナポレオンは画家にレジオン・ドヌールのコマンドゥール章を与えた。
しかし、再び政権の座についたナポレオンの命脈は短期間で尽きる運命にあった。1815年6月18日、現在ベルギー領のワーテルローで会戦が行なわれ、連合軍はナポレオンの駆逐に成功する(ナポレオンは南大西洋の孤島セント・ヘレナに流され、1821年に死去する)。
1815年7月3日にパリ市は開城され、まもなくルイ18世が再び王位につき、第二王政復古が実現した。
国内では王党派の白色テロが荒れ狂い、ダヴィッドは身の危険を感じて、逃亡を計画する。
出発前に、第一王政復古の時に、画家のソルボンヌのアトリエに戻されていた≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式≫と≪鷲の軍旗の授与≫をいくつかに裁断して地方に疎開させ、予想されたプロシア軍の収奪から守ったそうだ。
ダヴィッドは一人の従僕を連れて、7月の半ばパリを後にして、まずスイスに向かう。
だが、7月24日に軍事法廷で裁判を受けるリストに名がなかったので、8月末にパリに戻り、アトリエの生活を再開した。
しかし、1816年1月16日、百日天下の際に「帝国憲法付加法」支持の署名を行なった者には国外退去の命令が下り、ダヴィッドは結局亡命を余儀なくされた。
ダヴィッドは当初亡命の地として、美術のメッカ、ローマを希望したが、許可されず、ベルギーのブリュッセルが次善の策として選ばれた。早くも1月27日にはそこに到着し、まもなく妻も合流した。ブリュッセルでの生活は亡命者としては恵まれたものであったようだ。当代一の画家として尊敬されて、オランダのアカデミー会員として選ばれ、肖像画の注文もあった。
亡命の仲間には、革命初期の立役者シエイエスもいて、ダヴィッドはその肖像画を残している。ダヴィッド≪シエイエス≫(1817年、マサチューセッツ州ケンブリッジ、フォッグ美術館)。
忠実な弟子グロが、パリのアトリエにあった作品を売却したりして、安定した生活をダヴィッドは送れた。ちなみに、≪サビニの女たち≫や≪テルモピュライのレオニダス≫を購入したのは、ルイ18世であった。
フランス政府はダヴィッドが亡命して間もない頃から、画家の帰国にあえて反対しない態度をとっていたようだ。グロを初めとする弟子や子供たちも、懇願したが、ダヴィッドはブルボン王家の統治する故国に帰ることを潔しとしなかった。
また、ダヴィッドは、ナポレオンを滅ぼし王政復古を招いたイギリスには敵意をもっていたようだ。例えば、ワーテルローの勝者ウェリントン公爵が画家を訪れて、公爵自身の肖像画か≪サン・ベルナール峠を越えるボナパルト≫の写しを所望したが、自分は歴史画しか描かないと言って、にべもなく断ったという。
ベルギー時代にダヴィッドが革命や帝政に対する肯定的な気持ちを失っていなかったことは、次の2つの事から推察できると鈴木氏はいう。
① ≪ジュ・ド・ポームの誓い≫の登場人物見取り図を作成していること
② ≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式≫のレプリカを完成させていること。
実はこのベルギー亡命時代の1822年に、②の≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式≫の第2作(ヴェルサイユ宮国立美術館蔵)を完成させている。
この作品のレプリカは、すでに1808年にアメリカの実業家グループによって依頼されていた。
その目的は、このヨーロッパの歴史を彩る大事件をアメリカ各地の人々に目の当たりに見せるために、戴冠の儀式を描いた絵をアメリカの諸都市に巡回させようというものであった。
十数年の中断ののち、依頼が再燃し、ダヴィッドはパリに残してきた未完のカンヴァスを取り寄せ、原作の制作に加わった弟子ルージェも呼び寄せて、制作を再開した。そして、1822年にこれを完成させた。
このレプリカは大きさも原作とほとんど違わず、構図も忠実に写されている。ただ、色彩ははるかに明るいものになっている。人物に関しては、全体の配置はほとんど変わっていないものの、観覧席の人物が一人消え、ベルギーで知り合って親しくしていた当地の画家が一人描き加えられ、ダヴィッド夫人や娘たちが歳をとって、1822年当時の流行に従った服装をしている。この点が目立った改変であるという。
レプリカは完成後ただちにロンドンで展示され、1826年以降ニューヨークやボストンで展示された。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、248頁~254頁)
【鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社はこちらから】
鈴木杜幾子『画家ダヴィッド―革命の表現者から皇帝の首席画家へ』
ダヴィッドの肖像画――≪レカミエ夫人≫と≪教皇ピウス7世≫
ダヴィッドは絵画の分野で、フランスの新古典主義の指導者となった。
ローマに学んだダヴィッドが、ヴィンケルマンの古代研究に深く傾倒し、新古典主義の画家として名声を得た。
フランス革命が勃発すると、ダヴィッドは、急進的なジャコバン党に加わり、革命に参加する。しかし、やがて権力者ナポレオンに近づき、宮廷の筆頭画家に任命される。
ルーヴルには、≪教皇ピウス7世≫をはじめ、ダヴィッドが描いた優れた肖像画がのこされている。
中でも≪レカミエ夫人≫は新古典主義のヴィーナスといわれ、ダヴィッドの美学をよく伝えている作品である。
〇ダヴィッド≪レカミエ夫人≫(1800年、カンヴァス・油彩、174×244cm、ルーヴル美術館)
優美な線を見せる寝台、ほっそりとした燭台、そして美しい女主人公の着る清楚な衣装、ヘアバンドにいたるまで、すべてが古代ギリシャを装ってつくられている。これが、1800年当時の最新流行だったそうだ。
ダヴィッドは、社交界の名花レカミエ夫人をこのように永遠化した。レカミエ夫人の不思議も気を惹くポーズは、アングルの≪グランド・オダリスク≫(1814年、カンヴァス・油彩、91×162cm、ルーヴル美術館)(~ティツィアーノ作≪ウルビーノのヴィーナス≫とも類比された美女の姿態~)にも、影響を与えたといわれる。
レカミエ夫人に白い簡素な衣装を身につけさせ、ギリシャ風のベッドに横たえさせ、品のある清楚な肖像画に仕上げてある。そこがダヴィッドの腕である。
レカミエ夫人は当時の社交界で有名な女性で、この美貌で多くの男性を虜にした。
(ただ、ずいぶん気まぐれな性格で、ダヴィッドのアトリエにポーズをとりに訪れるのに、遅れたり、すっぽかしたりしたそうだ)
〇ダヴィッド≪教皇ピウス7世≫(1805年、板・油彩、86.5×71.5cm、ルーヴル美術館)
ピウス7世は、ナポレオンの戴冠式に臨席するために、パリに来た教皇である。
≪ナポレオンの戴冠式≫でナポレオンの背後に座し、祝福を与えているのがその人である。
その高潔な性格のために、パリでも崇敬されたが、ダヴィッドもまた教皇ピウス7世に接して感銘を受けたそうだ。ダヴィッドは、ラファエロの描いた≪ユリウス2世≫を思い出して、ピウスはユリウスより人物が上だと人に語ったようだ。
ダヴィッドはこの肖像画を描いた1805年頃、意気盛んだった。この肖像画にも麗々しく、「フランス皇帝ナポレオンの第一画家ルイ・ダヴィッド」と記した。
(もっとも、その前半は王政復古後、塗り消されてしまった)
(高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』日本放送出版協会、1986年、14頁~15頁。鈴木、1991年、191頁~192頁)
【高階秀爾、ピエール・クォニアム監修『NHKルーブル美術館VII ロマン派の登場』はこちらから】
ロマン派登場 (NHK ルーブル美術館)
ダヴィッドの≪サン・ベルナール峠を越えるボナパルト≫について
美術の根底に関わる点で、ナポレオンとダヴィッドの見解は異なるものをもっていた。
それでも、ナポレオンの現実主義とダヴィッドの理想主義が折り合う場所もあったと鈴木杜幾子氏は指摘している。
それは、ダヴィッドがナポレオンの肖像などを、ナポレオンの満足が得られるほどのリアリティをもって、しかも画家の芸術観にしたがって理想性や観念的な枠組みを与え得た場合であるという。
そうした場合には、ナポレオンは自分の栄光が現実味と壮麗さをそなえた形で、後世の人々の記憶にとどまることを喜んだ。
そして、その種の作品の最初のものが、≪サン・ベルナール峠を越えるボナパルト≫であると鈴木氏は理解している。
(この作品は、ダヴィッドの2番目のナポレオン・ボナパルトの肖像である)
ところで、第一執政ボナパルトは、1800年再びアルプスを越える。
そして、北伊ピエモンテ地方のマレンゴでオーストリア軍を敗り、翌1802年、ライン左岸を獲得し、またイタリアの大部分を従属させた。
このあと、執政政府は、革命以来対立していたローマ教皇と政教和約を結んで和解する。マレンゴの大勝は19世紀初頭の数年間の平和をフランスにもたらし、ボナパルト執政が内政に力を注いで、帝位に上る準備の期間を与えた。
このときのボナパルト執政のアルプス越えの姿を描いたのが、≪サン・ベルナール峠を越えるボナパルト≫である。
(この作品には、ほぼ同構図の数点のヴァージョンが存在する)
注文の経緯は定かでないが、一般には、次のように考えられている。
最初にスペインのカルロス4世が第1のヴァージョンをダヴィッドに依頼し、制作された作品を見て、ボナパルト自身が依頼したのが第2のヴァージョンであるとされる。
1801年9月には、この2点と≪サビニの女たち≫がルーヴル宮内で一緒に展示されている。
こののち、ダヴィッドは助手を使って、さらに3点のレプリカを制作した。
(ダヴィッドは最初の2点には革命歴9年の、あとの3点には革命歴10年の年記を入れ、すべてに署名している)
① スペイン王のための第1ヴァージョンは、ほとんど白く見える白黒ぶちの馬で、黄色のマントの方である。今日、マルメゾンの館にある。
② ボナパルト自身が注文した第2ヴァージョンは、栗毛の馬で、赤のマントをボナパルトは身に着けている。こちらはベルリンのシャルロッテンブルク宮にある。
ダヴィッドはこの肖像のためにボナパルトにポーズを要求したが、執政は拒否した。その理由は、肖像と自分が似ているか否かなどには意味がない、アレクサンダー大王はアペレスのためにポーズなどしなかった、偉人たちの肖像が似ているかどうか気にする者はいないから、ただ偉人たちの天才が肖像に息づいていればよいというものであったそうだ。
それに対して、ダヴィッドは「ポーズされるには及びません。お任せください。ポーズなしであなたを描きましょう」と答えた。
結局ダヴィッドは弟子にポーズをさせて、この肖像画を制作した。
その際、服装については、実際にボナパルト執政がマレンゴで着用した軍服を借り出して正確を期した。
また執政のまたがる馬に関しても、少なくともマルメゾンの第1ヴァージョンの白馬は、ボナパルト執政の愛馬を写生して描いたそうだ。
ナポレオンは自分の肖像が似ていなくても気にしなかったが、馬は似ていることを要求したといわれる。
このように細部においては、かなり写実への配慮が行なわれたものの、この肖像画の全体としてのコンセプトはきわめて観念的なものであったと鈴木氏はみている。マルメゾンの作品について、そのコンセプトを分析している。
この絵は、前脚を挙げて、逸る馬にまたがったボナパルトの姿が描かれている。
しかし、実際のアルプス越えは、悪路に強いラバで行なわれたという記録が残っている。当時の版画なども荷物や人を乗せて首をうなだれて進むラバの列を示している。だから、馬を描いていること自体がすでにして作為的な理想化であったと鈴木氏はまず指摘している。
また、ボナパルト執政は、鑑賞者を凝視しつつ、はるかな峠を指し示している。足元の岩には、ボナパルト、ハンニバル、シャルルマーニュの3つの名が刻まれる。ボナパルトがアルプスを越えた3人目の英雄であることを示されている。
そしてボナパルトの帽子に三色の標章がつけられており、軍勢はほんの一部が遠景に描かれているのみである。だから、ボナパルト執政が鼓舞しているのが軍隊ではなく、鑑賞者すなわちフランス人民と想定されていると鈴木氏は解釈している。
このように、馬にまたがるボナパルトの動作が戦場での実際の動作ではなく、英雄的指導者の本質を語るものである。そのことは、この肖像画に、ハンニバルやシャルルマーニュの後継者としてのボナパルトの称揚画の性格を与えているという。
さらに、本来、岩山の上の君主騎馬像は、ベルニーニのルイ14世像にみられるように、美徳の岩を登る君主という図像伝統に基づくものでもあるようだ。
そしてこの肖像画の特殊性は、わずか1年前に描かれた≪レカミエ夫人像≫(1800年、ルーヴル美術館)などが、簡素な背景に、なんのアトリビュート(モデルがどのような人物であるかを示す小道具)もなしに、描かれているのと比べてみても明らかであるという。
(≪サン・ベルナール峠を越えるボナパルト≫は、本質的な意味においては、肖像画というよりは、むしろ歴史画の結構をそなえた作品であると鈴木氏は捉えている)
ところで、この肖像画を制作する前に、ダヴィッドとボナパルトとの間には、次のような会話のやりとりがあったと伝えられている。
ダヴィッドが「私はあなたが戦場で剣を手にしている姿を描きましょう」と言ったのに対し、ボナパルトは「いや、私は逸り立つ馬上で平静な姿で描かれたい」と答えたという。
(フランス語で、calme sur un cheval fougueux)
この簡潔な言葉には、フランス美術の18世紀と19世紀を分ける重要な鍵が隠されていると鈴木氏はみている。
この言葉の発せられた1800年頃は、フランス美術における二つの様式の交替期であった。平静ないし静謐を意味する Calmeの語は、ヴィンケルマン以来の新古典主義美術のキーワードである。一方、「逸り立つ馬」の姿はジェリコーとドラクロワのロマン主義の二人の大画家が最も好んで描いたモチーフであった。
人馬の荒々しい動感は、細部までを克明に描くダヴィッドの手法ではなく、ジェリコーやドラクロワの、筆触をそのまま残した技法によって、初めて充分に表現することができた。ロマン主義の世代の画家たちは、人や馬の運動の描出を通じて情念を表現した。
例えば、ジェリコー≪猟騎兵士官≫(1812年、ルーヴル美術館)などがある。
このことを念頭において、再度、ダヴィッドのこの絵を観察すると、ダヴィッドがここに描くことに成功しているのは、むしろ「平静な」人物の方であって、逸り立つ馬の運動感はリアリティをもって、とらえられてはないことに気づく。
ダヴィッドがついに戦場でのナポレオン・ボナパルトを描かなかったことは、ダヴィッドにとって幸いであった(その優れた描き手となったのが弟子のグロであった)。
その理由について、≪サビニの女たち≫や≪テルモピュライのレオニダス≫にみられるように、彫刻的人体をフリーズ状に配置するというダヴィッドの手法では、戦争画に要求される激動感あふれる現前性を表現することは至難の技であったからと鈴木氏は説明している。
運動と情念の表現は、ナポレオン・ボナパルトよりも約20歳年長であったダヴィッドにとって、ついに無縁に終わったようだ。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、182頁~187頁)
ダヴィッドの≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫
〇ダヴィッド≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫
1789年 カンヴァス・油彩 323×425㎝ ルーヴル美術館
この絵は、フランス革命勃発の年のサロンに出品された作品である。
≪ホラティウス兄弟の誓い≫の完成後、ただちにダンジヴィレール伯爵、つまり王室はダヴィッドに新たな古代主題の歴史画を注文した。画家は、ローマの将軍コリオラヌスを選んでいた。結局、1789年のサロンに9月7日になって出品したのが、≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫であった。
ダヴィッドの新古典主義をよく示す見事に計算された明晰な構図といわれる。
描かれたのは、1789年、革命勃発直前であったが、サロンに出品されたのはすでに革命が始まった後である。共和政讃美の作品として、熱狂的に迎えられた。
この作品には、古代ローマの僭主タルクィニウスを追放して、共和政を打ち立てた功労者ブルートゥスの物語がある。
復帰を狙う暴君と内通して祖国を裏切った二人の息子を、法にしたがって、ブルートゥスは死刑に処し、家に帰って悲しみに沈む。何も知らない家族は、運ばれて来た遺体に驚き悲しむという場面である。
ブルートゥスは暴虐な王を追放してローマに共和政を樹立した英雄である。ブルートゥスは、有名なカエサルの暗殺者とは別人物で、それよりも500年も昔の人物である。没年紀元前509年である。
(一連のエピソードは、ティトゥス・リウィウスの『ローマ史』やプルタルコスの『英雄伝』に語られているという)
ローマの最後の王、暴君のタルクィニウスの息子セクストゥスは有徳の女性ルクレツィアを自害に追いやる。王の甥ブルートゥスはこの事件に憤って、伯父王に対して反逆を企てて王を追放し、共和制を樹立して、初代のコンスルの地位を得る。
やがてブルートゥスの二人の息子は、タルクィニウス王を再度、君主の地位に戻す陰謀を企てたが、発覚する。そして父ブルートゥスは共和制を危うくした息子たちに死刑の判決を下す。
ダヴィッドは、処刑された息子たちの遺体が埋葬のために家に運びこまれるのを、ブルートゥスが茫然自失の表情で迎える場面を描いている。
(この場面はリウィウスやプルタルコスにはなく、ダヴィッドの創意であるようだ)
左の薄暗がりには、陰謀の証拠となった手紙を握りしめながら、執政官として国を守る
義務と父親としての悲しみに板ばさみになって、激情をこらえているブルートゥスがいる。人々はこの人物に共和政の象徴を見、妥協を許さない高貴さに共鳴した。
皮肉なことに、≪ホラティウス兄弟の誓い≫と≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫も、とくにルイ16世のために、ダンジヴィレール伯爵によって注文されたものであった。だから、ダヴィッドが最初から共和政の理想をこの絵に託そうとしたかどうかははっきりとはわからないが、「絵画において、すでに革命を先取りしていた」ともいわれる。
ダヴィッドの新古典主義をよく示す見事に計算された明晰な構図といわれる。画面の左半分には、家の女たちが驚き、悲しみ、あまりのことに気を失う姿が描かれている。
このように右に「理」を原理とする男性の世界を、左に「情」によって動かされる女性の世界を配している点は、≪ホラティウス兄弟の誓い≫に通じる。
ただ、こちらの方が、構図全体ははるかに複雑で巧妙である。
主人公であるブルートゥスを故意に暗い中に描き、運び込まれる遺体と女性たちにハイライトを当てて、彼女たちの驚愕と嘆きを表現の中心にしている。
そうすることによって、ダヴィッドはこの典型的なストイシズムの主題をいわば裏から描いていると鈴木氏は分析している。
父としての悲しみと祖国愛の板ばさみとなりながら、義務を果たしたブルートゥスは、背後のローマ擬人像と共に闇に沈むことによって、愛国の大義がひきおこした人間的苦悩を分かちあっていると鈴木氏は解釈している。
また、小道具などの細部は、≪ホラティウス兄弟の誓い≫に比べて、はるかに豊かになっているそうだ。
特に家具はダヴィッドが画中に描きいれるために、わざわざ家具師のジャコブに依頼してつくらせたものである。
(ギリシアの壺絵などにある家具を模倣した典型的な新古典主義様式のものである)
カピトリーノに現存するブルートゥス像を写したブルートゥスの風貌や、人間のポーズや家具や衣装のすべてに古代遺品を手本にした考証がゆきわたっている。
フランス(そしてヨーロッパ)の新古典主義絵画全般の到達目標であった「ローマ人とプッサンを手本にした」歴史画はここに完成した。
この≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫が革命勃発直後にサロンで公開された時には、熱狂をもって観衆に迎えられた。その大きな原因の一つは、ブルートゥスの主題が革命の理想に結びつけて解釈されたからである。
ただ、純粋に造形的な面からは、アカデミー関係者から多くの批判をこうむっている。
歴史画に関するアカデミーの教えでは、構図は主要な人物を中央に置き、副次的な人物を左右に置くピラミッド型のものでなくてはならなかった。そしてハイライトはつねに主要人物に当てるべきであるとされた。
しかし、ダヴィッドの構図は異なっている。アカデミー的な規準の構図は、ダヴィッドがローマ留学以来次第に自分のものとしてきた画面構成法とは、根本的に異なっていた。ダヴィッドが追究してきたのが、ピラミッド構図とは正反対のフリーズ状の構図であった。
≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫の構図も、その延長上にある。
≪ホラティウス兄弟の誓い≫と≪ブルートゥスの邸に息子たちの遺骸を運ぶ警士たち≫においては、フリーズ構成が採用されている。
その結果、画面の左右、つまり男性群が描かれている部分と女性群が描かれている部分がはっきりと分割されている。アカデミーの規準では欠点とされた点がかえってダヴィッドの意図を表現しているともみられている。
つまりダヴィッドは「理」と「情」、ないし「大義」と「私情」のどちらに軍配を挙げているのでもなく、いわば両義的な絵画を描いているとされている。
ダヴィッドがこれらの道徳的な主題を描くに当たって、道徳のリゴリスティックな適用に対する反作用の象徴としての女性像に重要な意味を与えているようだ。
(ただ、フランス革命勃発後に、ダヴィッドを≪ホラティウス≫と≪ブルートゥス≫という「愛国的」主題の絵画の描き手として讃えた人々の心には、そうした両義性は感じられていなかったのであるが)
(高階秀爾監修『NHKルーブル美術館VI フランス芸術の華』日本放送出版協会、1986年、140頁~145頁。鈴木、1991年、102頁~106頁)
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