歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その5≫

2020-05-23 14:28:10 | 私のブック・レポート
≪中野京子『はじめてのルーヴル』 【読後の感想とコメント】その5≫
(2020年5月23日投稿)
 



【中野京子『はじめてのルーヴル』はこちらから】



はじめてのルーヴル (集英社文庫)

【はじめに】


 今回のブログは、引き続きダヴィッドという画家と作品について、考えてみたい。
 あわせて、ダヴィッドの弟子アングルにも、言及しておきたい。
 また、ルーヴル美術館の前身であるナポレオン美術館館長ドノンについて、紹介してみたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・ダヴィッドの作品計画と挫折と功績
・戦争の絵を描かなかったダヴィッド
・ダヴィッドの弟子グロの作品
・首席画家ダヴィッドの限界
・アングルによるナポレオンの肖像画

・ドノンの生涯
・ドノンとナポレオンとの出会い――エジプト遠征
・ナポレオン美術館館長のドノン
・ナポレオン美術館館長ドノンと、ダヴィッドの批評の相違――ジェリコーの騎馬肖像をめぐって

※ドゥノンとドノンの表記の相違は、出典によることをお断りしておく







【読後の感想とコメント】


ダヴィッドの作品計画と挫折と功績


帝政初期のダヴィッドが、帝国草創の叙事詩を情熱と期待をかけて描こうとしていたかは、1806年6月19日、執事ダリュに提出した、皇帝の即位関係の4点の作品の計画案に、はっきり示されている。
① ≪聖別式≫(≪戴冠式≫)
つまり、これが≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式≫
② ≪即位式≫
③ ≪鷲の軍旗の授与≫
④ ≪皇帝の市庁舎到着≫

※①と③の油彩画は完成し、④は全体の構想を描いた素描がある。

この1806年という年には、ダヴィッドは1748年生まれなので、すでに60歳に近かった。
にもかかわらず、大画面の制作を計画していたということは驚くべきことである。ただ、実際に完成にいたったのは、2点である。①の≪聖別式≫は、6.29×9.79メートル、③の≪鷲の軍旗の授与≫は6.10×9.70メートルである。

その最大の原因について、鈴木氏は次のように推測している。
第一帝政という時代が、人々に精神的な面でも現実的な面でも、決して安定感を与える時代ではなかったことを挙げている。
皇帝はしばしば遠征にでかけて留守であったし、しかも戦場にあったその不在の間、つねに生命の危険にさらされていた。ナポレオンが計画した土木建築関係の事業の大半が中断されているが、この時代の計画は突然の中止の可能性をはらみつつ進められていた。

帝国の不安定さは現実面においても、様々な計画に支障をもたらした。ダヴィッドの場合にも、絵の注文はしばしば口頭で行なわれ、いざ制作を開始してからも必要な経費がなかなか支給されなかった。
ダヴィッドは前述の4点の作品の1点ずつに10万フランを要求し、皇帝はそれを法外な額として拒否した。
(その要求価格に、はるかに及ばない小額の経費さえ、支給されるまで幾度となく当局と書類上の応酬が必要だったらしい)

ダヴィッドの首席画家としての仕事は、数量的には期待されるほどの達成をみなかった。
ダヴィッドがナポレオンの帝政に、かつて革命に寄せていたような政治的な共感をもっていたとは思わないと鈴木氏はみている。
おそらく、フランス国内の様々な利害関係の思惑と、一人の人間の専制によって支えられ、引きずられていた第一帝政自体が、そうした情熱の対象には、なりえないものであったとみる。

ただ、ダヴィッドを虜にしていたのは、帝政の理想や理念ではなく、帝国誕生の華麗なドラマを首席画家としてほとんど独占的に描き、後世に残すことができるという、歴史画家としての本能的な悦びであったのだろうと解釈している。
現代史のできごとを従来の歴史画に匹敵する規模と構成で描き出すという試みは、≪ジュ・ド・ポームの誓い≫の中断によって、ダヴィッドは挫折した。しかし、ダヴィッドはその試みを帝政期の作品によってみごとに実現し、19世紀絵画への道を開いたと鈴木氏は理解している。そしてダヴィッドはこの帝政期の作品によって、フランス絵画史にも新しい地平を開いたとみている。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、195頁~197頁)

【鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社はこちらから】


鈴木杜幾子『画家ダヴィッド―革命の表現者から皇帝の首席画家へ』




戦争の絵を描かなかったダヴィッド


ダヴィッドの弟子グロ(1771~1835)において、フランス絵画史は大きく方向転換すると鈴木氏はみている。

ダヴィッドは皇帝ナポレオン1世の首席画家の地位にありながら、ナポレオン最大の事業であった戦争の絵を描いていない。この意外な事実は、どのように考えたらよいのかと、その理由について鈴木氏は次のように考えている。

その理由は、ダヴィッドが「成功した歴史画家」であったことに関わっているという。
ダヴィッドの世代の正統的歴史画家にとって、描くべき主題は、まず第一にギリシア・ローマの歴史と神話であった。そして、こうした異教的主題と並んで、ルネサンス以来歴史画の二本目の柱となっていたのは、キリスト教主題であった。
しかし、啓蒙主義時代とフランス革命期は、無神論や理神論の支配をした時代であったので、宗教主題には、野心的な歴史画家は熱意を傾けなかった。

一方、19世紀の歴史画家がしばしば扱っている中世以降の歴史・文学はこの時代にはまだ例外的な主題であった。そして同時代のできごとが歴史画にふさわしい大画面に、しかも寓意的表現を用いずに描かれることは、ロマン主義以前には、きわめてまれであった。
(ロマン主義派の画家ジェリコーが、1816年の難破事件を扱った≪メデューズ号の筏≫を制作したのが、1818年~1819年であった。491×716㎝の大作であった。)

ダヴィッドも一般的傾向に従って、1点の≪キリストの磔刑≫(1782年、マコン、サン・ヴァンサン教会蔵)を残してはいるが、彼の歴史画のほとんどすべては、古典古代の主題を描いている。
例外として、革命やナポレオンに関わる作品がある。
革命関連作品の≪ジュ・ド・ポームの誓い≫(1791年、ヴェルサイユ宮国立美術館)は、大画面の歴史画としては未完にとどまった。
またナポレオン関係の大作として完成された≪皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠式≫(1807年、ルーヴル美術館蔵)や≪鷲の軍旗の授与≫(1810年、ヴェルサイユ宮国立美術館)は、同時代主題の歴史画といっても、皇帝の即位にまつわる儀式の記録という点で、同時代性よりはむしろ記念性が要求された作品であると鈴木氏はみている。
(その意味では正統的な歴史画に近い意識で制作することが可能であったのではないかという)

一方、戦争画は、一定の現実感が要求される画題であった。その構図は、戦場の地形や布陣のようすに基づいていなければならず、描かれる挿話は戦況を端的に伝えるものでなくてはならなかった。
ダヴィッドが首席画家に任ぜられたときに、すでに50歳代半ばを過ぎており、戦争画のような未知の領域に食指を動かさなかったのは当然であったと鈴木氏はみる。

このような事情によって、ナポレオン時代の戦争画の描き手はダヴィッドの弟子やその世代の画家たちであった。その戦争画には、2つのタイプがある。
① 視点を遠く取って、戦場の地形や布陣の様子がはっきりと判るように描いたもの。  バクレ=ダルブ(1761~1824)、ルジュンヌ(1775~1848)
② 視点を近く取って、ナポレオンや将軍たちをクローズ・アップして描くもの。
第2のタイプの最高峰はダヴィッドの弟子グロ(1771~1835)、ジロデ(1767~1824)、ジェラール(1770~1837)によって描かれている。
  例えば、グロは、ナポレオンについて理念的主張を盛り込んで描いた。

2つのタイプの戦争画は、共通の特徴として、フランスが勝利をおさめた戦争しか描かれないことが挙げられる。
人物がクローズ・アップして描かれた第2のタイプの戦争画の全般的傾向としては、流血の場面がなく、味方がいかに寛大に敵に接したかに重点が置かれているということを鈴木氏は指摘している。この型の戦争画が歴史画家によって歴史画の伝統にのっとって描かれたため、ある種の品位が必要とされたからであるようだ。
(鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、96頁~100頁)

【鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」』講談社選書はこちらから】


フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで (講談社選書メチエ)



ダヴィッドの弟子グロの作品


ダヴィッドの弟子グロの代表的な作品として、次のものがある。
〇グロ≪ヤッファのペスト患者を見舞うボナパルト≫~「勇敢な総司令官」の礼賛
 (1804年、ルーヴル美術館)
〇グロ≪アイラウの戦場のナポレオン≫~「慈悲深い皇帝」の称揚
 (1808年、ルーヴル美術館)
いずれも縦横数メートルに及ぶこともある大画面を等身大以上の人物像で構成することは、歴史画家としての訓練なしには不可能であった。

それぞれの作品を簡潔に解説しておく。

〇グロ≪ヤッファのペスト患者を見舞うボナパルト≫~「勇敢な総司令官」の礼賛
 (1804年、ルーヴル美術館)
この絵は、エジプト遠征中におこなわれたシリア侵攻の際のできごとを描いている。
1799年初め、フランスはトルコ軍の本拠地攻撃のため、シリアに軍を進めたが、途中徹底抗戦を試みたヤッファの町で、ペストが流行した。ボナパルト将軍は病院を訪れ、病人に声をかけて励ましたといわれる。

ルーヴル美術館にあるグロの作品は第一執政官ボナパルトが直接画家に注文した作品である(1804年のサロンに出品された)。
グロは遠征に従軍したドノンの助言を得て、1799年3月11日の総司令官の病舎訪問の情景を描き出している。
中央に立つボナパルトは、一人の裸体の病人の胸に手を触れて励ましている。感動した様子の病人は、敬礼するように片手を頭上に挙げている。
グロがこの絵を歴史画として描こうとしたことは、このボナパルト像が、伝統的歴史画に描かれている、「癒しの奇跡」をおこなう絶対者(キリスト、聖人、王、皇帝)のイメージに重ね合わされていることにも看取できるとされる。

こちら向きに頬杖をついてうずくまる病人は、ミケランジェロがシスティナ礼拝堂の「最後の審判」に描いた亡者を思わせる。かつて僅かな期間ローマを訪れたグロがひかれたのは、明澄なラファエロの世界ではなく、暗い情念に満ちたミケランジェロの芸術であったようだ。

ミケランジェロへの直接の暗示のほかにも、このグロの絵には、西洋美術の伝統との関連をみることができるとされる。
例えば、何人かの病人が裸体で描かれていることである。新古典主義時代の画家にとって、古典古代美術の特徴である裸体表現は、自分たちの作品を美術の正統に近づけるためのものであった。
このグロの≪ヤッファのペスト患者を見舞うボナパルト≫と相前後して、ダヴィッドが制作した≪サビニの女たち≫≪テルモピュライのレオニダス≫に裸体が多く描かれているのも、そのことを示している。

ただし、この18世紀末から19世紀初めという時期は、裸体表現に対する人々の感覚が微妙に変化し始めた時期でもあった。ダヴィッドの2作品に対しても、ギリシア・ローマの正統を継承するものという見方と同時に、裸体が目立ちすぎるという批判もあった。
こうした感覚の変化は、現実主義的意識が伝統尊重の意識にとって代わったことを意味していた。不必要な裸体表現には抵抗を感じる、市民的な「良識」を重んじる感性が生じたようである。
ダヴィッドの弟子グロが描いた病人の裸体は、現実的な場面に西洋美術の伝統を導入する一種の妥協策であったと鈴木氏は考えている。

〇グロ≪アイラウの戦場のナポレオン≫~「慈悲深い皇帝」の称揚
 (1808年、ルーヴル美術館)
1807年2月8日にプロイセン東部のアイラウでの合戦は、雪中での戦いが長時間続き、寒冷地の困難な戦闘であった。合戦の翌朝に皇帝は戦場を視察した。
このときの皇帝の姿を描くコンクールの開催が決定され、ナポレオン美術館館長ドノンが主題を決定した。アイラウの合戦の翌日、皇帝は戦場を訪れ、負傷したロシア兵の手当を命じた。その慈悲を見て、一人の若いリトアニアの兵士が感謝の念を表したという主題であった。
グロがこのコンクールに応募して、入賞を果たした。その完成作が、ルーヴル美術館に所蔵されている作品である。
(鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔』筑摩書房、1994年、54頁~59頁。鈴木杜幾子『フランス絵画の「近代」―シャルダンからマネまで』講談社選書メチエ、1995年、96頁~109頁。)



首席画家ダヴィッドの限界


皇帝の首席画家としてのダヴィッドの公式の仕事は、戴冠の式典に関して計画された4点の大作の内の2点の完成などにとどまった。
それらが制作されたのは、帝政開始後から、≪鷲の軍旗の授与≫完成の1810年までの丸6年の期間であるが、その作品数は決して多くない。
その原因の一端は、帝政下の絵の注文がしばしば口頭で、しかもナポレオン自身のみならず、執事などが介在したため、制作の条件や価格が明確に決定されていないことにあった。だから画家が安心して次々に作品を完成することができなかった。

ダヴィッドが1806年に提出した4点の大作の文章による計画案も、前年1805年にダヴィッドが≪聖別式≫の制作を開始して以来、当局と画家との間の支払いの問題に関する話し合いが容易につかなかったのを収拾するためだった。
(そもそもこの計画案以外に、当局とダヴィッドとの間で正式の契約書が、とりかわされた形跡は全くないそうだ)

現在からみれば、1810年から12年にかけての時期には、首席画家の仕事は事実上終わりを告げていたと鈴木氏は判断している。
ただ、ダヴィッド自身は、そのことを認識していず、彼自身は、ルイ14世時代のル・ブランのような地位を望んでいたようである。ル・ブランは美術行政、教育、制作の3つの領域に関して絶大な権力を振るっていた。
一方、ダヴィッドの時代においては、美術行政は旧体制下の外交官上がりの政治力によって、皇帝をはじめ人々の信頼を得ていたドノンの手中に握られていた。そして教育に関しては、アンスティチュの絵画部門が権限をもっていた。
(ダヴィッドはアンスティチュのメンバーではあったが、他の多くのメンバーは旧アカデミー会員であり、革命期にはアカデミーを廃止に追い込んだダヴィッドに対して、良い感情をもっていなかった)

このように、ダヴィッドは美術行政の面でも教育の面でも、最高権をもつことができなかった。
ダヴィッドはせめて制作の面でル・ブランの後継者たろうと試みたようだ。1812年9月、ダヴィッドはダリュの後継者シャンパニー執事に対して、ルーヴル宮を歴史画で飾る権限を首席画家に与えるよう要求している。

しかし、首席画家の地位はダヴィッドのために名誉ある称号として創設されたもので、実際の権限はもたず、ダヴィッドは皇帝に命ぜられた作品を制作すればよいので、制作を提案したりするのは、美術館長の役目であるとされたようだ。
(いうまでもなく、美術館長とあるのは、ルーヴル宮のナポレオン美術館長のドノンのことである)

ダヴィッドは帝国を正統的な歴史画によって飾るという理想を抱いたが、現実をみなかった。おそらくナポレオンは仮にダヴィッドでなくとも、ただ一人の人間の芸術観によって国家の美術行政のすべてが律される時代では、もはやないと知っていたのではないかと鈴木氏は推察している。
事実、帝政末期にダヴィッドの芸術観を相対化する美術の新しい潮流が流れはじめていた。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、237頁~243頁)

アングルによるナポレオンの肖像画


新古典主義の総帥ダヴィッドの弟子アングル(1780~1867)が描いたナポレオンの肖像画として、20代半ばに描いた代表的なものとして、次の2点がある。
〇アングル≪第一執政官ボナパルト≫リエージュ、美術館
〇アングル≪玉座のナポレオン一世≫パリ、軍事博物館

これらの作品は、西欧中世への暗示によって特徴づけられると鈴木氏は捉えている。
美術における中世風への好みは、1790年代後半から流行の兆しをみせていたようだ。革命がもっとも急進的であった1790年代の前半には、非キリスト教化の傾向が強く、教会や宝物の破壊が盛んにおこなわれたが、この「ヴァンダリスム」への反省の最初の現われが見られる。1795年、パリのプチ・ゾーギュスタン修道院にフランス記念物美術館を創設する。展示品の時代は13世紀から17世紀に及び、18世紀啓蒙主義や革命によって「野蛮」「迷妄」として否定された中世美術・キリスト教美術が日の目を見る。

ちなみに、同じ時代にルーヴル宮殿の中央美術館(1803年以降はナポレオン美術館と改称)が古典古代彫刻やルネサンス以降の古典主義的絵画に重点をおき、伝統的な美術観に基づく収集をおこなっていた。一方、フランス記念物美術館は、それとは対照的なコンセプトの美術館であったといえる。

アングルはダヴィッドの弟子の中でも世代が若い。
それまでの伝統的価値観と相反する非古典主義的美術への志向は流行になりつつあり、これはのちのロマン主義につながる流れの萌芽であったので、若いアングルも、それに鈍感ではいられなかった。

≪第一執政官ボナパルト≫は、第一執政官自身が1803年、23歳のアングルに注文した作品である。
第一執政官は、1794年のオーストリアの攻撃によって破壊されたリエージュ市(当時フランス領、現在ベルギー領)の地区の復興の資金を市に与えた。この肖像画は、その記念としてボナパルトが市に贈ったものである。
完成は1804年で、そのままリエージュの美術館に所蔵されている。

窓の外にはゴシック様式のサン・ランベール大聖堂が描かれている。
(この大聖堂は結局復興されず、リエージュ市復興の象徴として、アングル個人の選択によって描いたのだそうだ)
新古典主義世代の画家はゴシック建築をほとんど描くことがなかったが、アングルはこの絵の重要なモティーフとして選んだ。加えて、アングルはこの肖像画全体においても、新奇な様式を採用している。執政官の衣服などの材質感が克明に表されている反面、床は手前に向かって不自然に急傾斜し、執政官や椅子は宙に浮遊しているように見える。
こうした細部と空間のアンバランスは、ゴシック期の絵画にしばしば見られるが、師のダヴィッドにはなかったものである。

こうした「ゴシック風」や「奇妙な(ビザール)手法」であるアングル独特の様式は、終生批評家の批判の対象となった。その風当たりは、≪玉座のナポレオン一世≫が発表された時に頂点に達したそうだ。

例えば、ショッサールという美術批評家は、「アングル氏は美術の進歩を四世紀後退させることしかしていない。彼はわれわれを美術の揺籃期に連れもどし、ヤン・ファン・エイクの手法を復活させてしまった」とこの絵を批判した。

ヤン・ファン・エイクは、ゴシックから北方ルネサンスへの移行期の15世紀フランドルの画家である。初期油彩技法による細密な描写で知られる。
ところが、ヨーロッパ絵画の主流は、イタリアの盛期ルネサンス以降、ファン・エイク風の克明な細部表現よりもラファエロ風の理想化された全体像の描出を目的とするようになった。
これが古典主義絵画の伝統である。
アングルの時代の一般の美意識もまだその延長上にあった。
(ショッサールが、アングルのファン・エイク的手法は美術を後退させたと述べているのは、このような事情を示していると鈴木氏は解説している)

この≪玉座のナポレオン一世≫は立法院の注文によるもので、1806年に完成した(現在はパリの軍事博物館の所蔵になっている)
この肖像画は、玉座に座った戴冠の衣装の皇帝を描いたものである。この肖像画のどのような点がファン・エイク的かについて鈴木氏は次のように説明している。

まず、正面から描いた肖像画というのは近代ではきわめて例外的である。レオナルド・ダ・ヴィンチの≪モナ・リザ≫以降の肖像画は、半身像や全身像などの相違はあっても、人物を斜めの角度から描くのが普通であった。
真正面や真横から見た肖像画には動きが出にくく、不自然である。それに対して、斜めから見られた人物には空間の中にそれが存在しているという実在感を与えやすい。
アングルのこのナポレオン像がそうした近代の肖像画の系譜に属するというよりは、むしろファン・エイクの≪ヘントの祭壇画≫に描かれたキリストの像に近いものであると批評家たちは指摘したとされる。中世絵画においては、全能のキリスト像はつねに厳然と正面を向いた姿で描かれた。

またアングルの絵の克明な細部描写も、ファン・エイク的であるといわれる。例えば、白貂(しろてん)の毛皮や紅のビロードや金糸の材質感は手でさわって確かめたくなるほどである。このような手法は、ラファエロ以降の正統派絵画がめざしてきた「理想化」の逆をゆくものであった。

そして≪玉座のナポレオン一世≫の「中世風」の雰囲気は、アングルの手法だけでなく、皇帝が手にしている品物が実際に中世からフランス王室に伝えられてきたものであることによっても強められている。
例えば、皇帝の左膝にたてかけられている、長い笏の頂きについている象牙の手である。これは「正義の手」と呼ばれ、本体は10世紀に作られたものだそうだ。

また右手の笏(頂きにシャルルマーニュの像がついている)は、「シャルル5世の王笏」といい、14世紀後半の品である。さらに皇帝が帯びている剣は、「ジョワイユーズ」という銘をもち、10世紀か11世紀に作られたが、シャルルマーニュの持ち物であったとする伝説のある剣である。

これらの品は、シャルルマーニュの帝冠を考証復元して制作された帝冠とともに、1804年12月2日の戴冠式の際に用いられた(現在ではルーヴル美術館のアポロンのギャラリーに展示されている)。これらの品は、この肖像画の中世風の雰囲気を高める役割を果たした。

ナポレオン1世は、これら王室ゆかりの品々を戴冠式の小道具に用いることによって、フランスの正当な君主であることを示そうとした。

皇帝の戴冠式用の盛装は、皇妃のそれと同じく、イザベイ(1767~1855)の意匠になるものである。画家イザベイは1805年に「皇妃の首席画家」の称号を得、つねに皇帝夫妻の身近にいて、公私にわたる催し事の計画を担当した人物である。
皇帝夫妻の衣装には、古代風と王朝風との二種のデザイン・ポリシーの共存をみてとることができるようだ。

皇帝がかぶっている柏と月桂樹の冠は古代風である。他方、白貂の毛皮、白サテン、紅のビロード、金糸などの使用材料は王朝風である。
ルイ14世やルイ15世の公式肖像画の衣装の素材もこれと同じものである。異なっているものは、歴代の王の場合、ビロードのマントに金糸で刺繍されているのが、フランス王室の紋章の百合である。一方、ナポレオンの場合には、カロリング王朝のシンボルに倣って制定された、皇帝の紋章の蜜蜂である。

皇帝ナポレオン1世の戴冠式用の盛装は、持ち物は中世伝来のもの、衣装は古代風と王朝風の混在という、三つの要素から成立していた。
この三要素は、19世紀初頭の、フランスの人々の価値観と美意識を正確に伝えている。
古代風は、ルネサンス以来の正統的美術観の集大成ともいうべき新古典主義美術の特質である。それはヨーロッパの個々の国々や地域を超えた普遍的価値と考えられたものを表象していた。それに対し、中世風と王朝風はフランス史の産物であった。

ヨーロッパ諸国共有の文化的源流としての古典古代から各国固有の歴史への関心の移行は、一般にロマン主義時代の特質であるといわれる。フランス絵画においても、中世以降の歴史の挿話を、史的考証をおこないつつ描く、いわゆる「吟遊詩人」様式が19世紀前半に流行する。イザベイのデザインによる皇帝夫妻の戴冠の衣装は、そのような美意識の最初のあらわれであるが、それは新帝国の構想にしたがって計画された、式典全体の文脈と関連しつつ生まれてきたものであるといわれる。
(鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔』筑摩書房、1994年、95頁~103頁)

【鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成』筑摩書房はこちらから】


ナポレオン伝説の形成―フランス19世紀美術のもう一つの顔 (ちくまライブラリー)





ドノンの生涯


ドミニック=ヴィヴァン・ドノン(1747~1825)は、今なお、ルーヴル美術館の一翼にその名を残している。
(中野京子氏の著作では、ドゥノンと表記されていたが、鈴木杜幾子氏の著作ではドノンと表記されているので、本節では、その表記に従う)

ドノンは、シャロン=シュール=ソーヌで、ユダヤ系と思われる裕福な両親のもとに生まれた。
若くしてルイ15世に信頼されて、寵姫ポンパドゥール夫人の古代のメダル類の収集の管理を委ねられた。また外交官として聖ペテルブルクに派遣された。
ルイ16世時代にもひきつづき、王の信任を受けて、1782年から85年にかけてナポリに勤務し、かたわらコレクター、美術史家、素描家としても知られるようになった。

1785年、38歳の時に外交官の職をしりぞき、父親から相続したブルターニュ地方の資産を頼りに、芸術愛好家としての生活を始める。
この頃、ナポリ時代に知り合ったダヴィッドやカトルメール・ド・カンシー(1755~1849、フランス新古典主義美術の理論的指導者で考古学者)との親交を再開する。

そして1787年には、アカデミー会員になる。
入会作品は、ルカ・ジョルダーノの≪羊飼の礼拝≫原画のエッチングである。所属は、「版画その他の領域の芸術家たち」の部門であった。

コレクターとしては、ギリシア、エトルリアの陶器、素描、版画を収集していたが、1788年6月、その一部を国に売却して、イタリアに赴く。
目的は、絵画史の執筆で、ヴェネツィアに5年間滞在し、版画を教えたり、魅力的な博識ぶりを発揮して社交につとめたりの日々を送る。
(1792年にヴェネツィアに滞在した女流画家ヴィジェ=ルブラン夫人(1755~1842)は、ドノンのゆきとどいた配慮のもとにヴェネツィア美術に堪能したり、芸術愛好家のサークルでの社交を楽しんだりした日々のことを書き残しているそうだ)

ところが、現実には、1789年に革命が勃発して以降は、ドノンには様々な心労があった。そしてブルターニュ地方に残してきた財産を保持するためには、亡命貴族(エミグレ)とみなされることを避ける必要があった。だから、ドノンは1793年12月にパリに帰還する。
(当時はフランス革命が最も急進的であった時期であった。二人の王に仕え、革命初期に永く外国に滞在していたので、ドノンにとっては困難な時代であったようだ。シュヴァリエ・ド・ノンからシトワイヤン・ドノンに名を変えるなどして、この状況を乗り切ろうとしていた)

そのドノンを救ったのが、ダヴィッドであった。
ダヴィッドは急進的革命派として、この頃の美術行政に絶大な権力をふるっていた。そのダヴィッドの尽力で、ドノンは「国民の版画家」の称号を得て、革命政府関係の仕事に携わるようになる。
(この時期のドノンのスケッチブックには、エベールなどの革命の大立者たちの風貌や、共和国政府の役職のための衣装のデザインが描きのこされているそうだ)

テルミドールの反動以降は、一時投獄されたのち釈放されたダヴィッドや、その弟子ジェラールと交際したり、1793年に開館していた中央美術館に通ったりして時を過ごしている。
1796年には、フランスが収奪によって多数の美術品をそれらが生み出された環境から持ち出すことに反対する、カトルメール・ド・カンシーの音頭取りによって実現した請願書に署名しているという。
(これはのちにナポレオン美術館の館長として、イタリアやドイツからの収奪に尽力することになるドノンらしからぬ行動とされる。だが同じ請願書には、やはりナポレオン美術館に造営の面で深く関わることになる建築家シャルル・ペルシエとピエール・フォンテーヌも名を連ねている)

この事実をどう解釈するかという点について、鈴木氏は私見を述べている。
1796年の時点では、フランス人たちはまだ自国フランスをヨーロッパ諸国の間での特権的な存在とみなしていなかったことを物語ると解釈している。
1796年にイタリア遠征軍総司令官に任命されたナポレオン・ボナパルトがヨーロッパの覇者への階梯を駆けのぼり始め、フランス人たちは初めて自国を他の諸国の支配者と感じ、パリを汎ヨーロッパ的大帝国の首都に擬して、美術品のパリ集中を考えるようになったと推測している。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、302頁~304頁)

ドノンとナポレオンとの出会い――エジプト遠征


イタリアから帰還したボナパルト将軍は、早くも翌1789年には、エジプト遠征に出発する。
(これは、宿敵英国のインド支配を脅かすことを直接の目的としていたが、ボナパルト将軍の個人的野望も強い動機として働いていた)

ボナパルト将軍は、1795年1月に旧王立アカデミーに代わって設立されたフランス学士院の会員に選出されており、1789年前半には、その会合に熱心に出席していた。エジプト遠征軍には多数の学者が随行し、学術調査の性格をも帯びることになった。

ドノンは遠征の計画が発表されるとただちに随行を志願し、ジョゼフィーヌのとりなしで将軍の許可を取りつけた。ボナパルト将軍はドノンが51歳という年齢で随行を望んだことに驚き、彼に関心を抱いたという。
これがナポレオン・ボナパルトとドノンの最初の出会いであった。

ドノンの参加資格は、考古学者あるいは素描家としてのものであった。素描家としてのドノンは、15カ月間の遠征中、エジプトの建造物、風景、合戦のようすをデッサンした(のちに『上下両エジプト旅行記』[1802年刊]にまとめられた)。
この著作によって、ドノンは、エジプトの風土文明の記録者として近代エジプト学の基礎づくりに貢献した。そして、エジプト遠征の合戦を描いた絵のイコノグラフィの創始者にもなった。

のちに、ダヴィッドの弟子グロ(1771~1835)がエジプト遠征中の一事件を描いた名作≪ヤッファのペスト患者を見舞うボナパルト≫を制作する際、ドノンが見たヤッファの光景をグロに語って聞かせたというエピソードが伝えられている。

グロのほかにもエジプトの戦場を描いた画家は多いが、大方の場合エジプトを実見していなかったので、ドノンの版画や素描による記録は貴重な資料として役立ったようだ。
またドノンのこの時の体験の拡がりは、のちのナポレオン美術館の収集の幅の広さを生む一つのきっかけにもなった。

なお、ルーヴル美術館所蔵のグロの作品としては、次のものがある。
〇グロ≪アルコレ橋頭のボナパルト≫(1796年、ルーヴル美術館)
〇グロ≪アイラウのナポレオン≫(1807年、ルーヴル美術館)
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、304頁~305頁)


ナポレオン美術館館長のドノン


1797年1月、中央美術館代表評議会が設置された。それは中央美術館の運営に当たる機関であったが、1802年の時点では管理官がフベールであった。
一方、ドノンはエジプト遠征以来ボナパルト執政に信頼され、しばしば美術行政に関して個人的進言を行なっていた。
ドノンは、ついに1802年11月19日の執政の布令によって、中央美術館館長(Le directeur général du musée central des arts)に任じられる。
この時以降、中央美術館は共和国美術館の性格を完全に失い、執政ボナパルトの腹心ドノンの絶大な権力のもとに、のちのナポレオン美術館としての実質を備えるようになる。

そして1803年8月、第二執政カンバセレスの「この貴重な収集の名称としてよりふさわしいのは、それをわれわれに与えた英雄の名だ」という提案によって、中央美術館はついにナポレオン美術館(Musée Napoléon)と名を変えるにいたる。
(これは翌1804年の皇帝即位に先がけて、ナポレオンの(姓ではなく)名前が公的に用いられた最初の機会であったそうだ)

ナポレオン皇帝と、館長ドノンとの関係は終始良好なものであった。
ドノンが洗練された宮廷人の物腰の魅力的な人物であったことを物語るエピソードは多い。
例えば、旧体制時代の二人の王やポンパドゥール夫人に仕える一方で、ヴォルテールとも親交があった。また1812年、皇帝が教皇ピウス7世をフォンテーヌブロー宮に幽閉していた時に、その相手を務めたのもドノンであった。
そのようなドノンは、皇帝夫妻の美術関係の事柄の良き相談相手となった。モニュメントの建設は、皇帝にとって大きな関心事であったが、ドノンは次のような建設の相談にあずかっている。
ヴァンドームの円柱、ドゼー将軍記念碑、カルーゼルの凱旋門の装飾的部分、バスティーユの象(バスティーユ跡地にブロンズで作られるはずであった巨大な象で、木と石膏の原型のみが何十年か置かれていた。この木製の象については、ユゴーが『レ・ミゼラブル』の中で語っている)

例えば、ドノンは、カルーゼルの凱旋門頂上に置かれた、勝利と平和の擬人像に先導される四頭立ての馬車(馬はヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂からの収奪品であった)の御者をナポレオンの姿に造らせた(1806年8月15日除幕)。

ウルムとアウステルリッツにおける大陸軍の勝利を記念して建てられたヴァンドームの円柱の頂上に、当初のシャルルマーニュ像の計画を変更してナポレオンの像を立てさせた(1810年8月15日除幕)。
(ただし、皇帝は謙譲の風を装って、凱旋門からは自分の彫刻を撤去させ、円柱の場合にも不服なようすを示した)

皇帝とドノンが見解を異にしていた唯一の問題があったようだ。
彫刻はそれが肖像彫刻であってさえ、裸体でなくては優れた作品にはなり得ないとドノンは考えていた。
それに対して、ナポレオンは、カノーヴァが「ベルヴェデーレのアポロン」(B.C.4世紀のギリシア原作のローマ模刻、ヴァティカン美術館)にならって制作した裸体の皇帝像(1806年、ロンドン、アプスリー・ハウス)や、ダヴィッドの「テルモピュライのレオニダス」にならったブロンズのドゼー像を嫌ったという。

このような好みの相違がなぜ生じたのか。この点について、鈴木氏は次のように推察している。
① まず、個人的な相違として、ドノンが旧体制時代の教育を受けて、教養人であったのに対して、ナポレオンはコルシカという片田舎の出身で早くから軍人教育を受けた皇帝であった。
② 芸術思潮としては、ドノンを養った古典主義的風土が革命の進展とともに次第にブルジョワ的なものに変わっていった点を指摘している。

彫刻に関して、二人は見解を異にしたが、ドノンは皇帝に代わって作品を注文するマエケナスの役割を果たした。帝国の発展とともに、国威の発揚や皇帝の称揚のための美術品の需要は増加した。
例えば、皇帝の即位関係の公式行事(即位式、戴冠式、軍旗の鷲の授与式、皇帝のパリ市庁舎訪問)を4点の大作に描くことがダヴィッドに依頼された。

また、ドノンはある時、帝国の建築や彫刻に使用される大理石の欠乏を心配して、イタリアの大理石産地カララの併合を皇帝に進言したという。
大抵の美術品の発注に関し、ドノンは常に目を配る立場にあり、芸術家たちに公平であるべく努めたようだ。
例えば、「皇帝の首席画家」ダヴィッドやジョゼフィーヌに気に入られていたイザベイが多額の制作報酬を要求した時には、その額を抑えるように努力している。

ナポレオン美術館および帝国の美術行政全般に関して、ドノンは、ほとんど独力でこなしていたようだ。ドノンの諸美術館館長の地位は形式上は内務大臣に所属するものであり、またナポレオン美術館には館長ドノンのほかに、事務総長、各部門の部長ポストがあったが、ドノンは皇帝と特別に親しい関係にあり、事業が両者の間で超機構的に行なわれることもあった。
そしてこの二人は、諸国から美術品の収奪という一件において、協同を示した。「皇帝は畑を耕し、ドノンはみごとな腕前の刈り取り手であった」と鈴木氏は表現している。
(鈴木杜幾子『画家ダヴィッド』晶文社、1991年、305頁~309頁)

ナポレオン美術館館長ドノンと、ダヴィッドの批評の相違――ジェリコーの騎馬肖像をめぐって


ルーヴル美術館には、テオドール・ジェリコー(1791~1824)の騎馬肖像がある。
〇ジェリコー≪突撃する近衛猟騎兵士官≫(1812年のサロンに出品、ルーヴル美術館蔵)
〇ジェリコー≪砲火を逃れる胸甲騎兵≫(1814年のサロンに出品、ルーヴル美術館蔵)

ジェリコーといえば、≪メデューズ号の筏≫(1819年完成、ルーヴル美術館蔵)という歴史画の大作が有名であるが、上記2点の作品は、修業時代に「大陸軍」の軍人を描いたものである。これらは、20代半ばで、画家として一家を成すことを望んでジェリコーが自主的に制作したものである。
その意味で、同じ20代半ばのアングル(1780~1867)は次の2作品を描いている。
〇アングル≪第一執政官ボナパルト≫(1804年、ベルギーのリエージュの美術館)
〇アングル≪玉座のナポレオン一世≫(1806年、パリの軍事博物館)
これらは、公的な注文(第一執政官自身や立法院の注文)を受けたものであり、性格が全く異なる。

ジェリコーの騎馬肖像をめぐって、ドノンとダヴィッドは対照的な批評をしている。そのことを述べる前に、ジェリコーは、画家として、どのような人生を辿ったのかを略述しておく。

ジェリコーは、少年時代をパリで過ごすが、馬と絵に夢中であった。彼は曲馬師の経営する「シルク(サーカス)・オランピック」に通い、ノルマンディの親戚の家に滞在して乗馬を楽しんだ。
絵に関しては、当時リュクサンブール宮殿にあったルーベンスの≪マリー・ド・メディシスの生涯≫の連作を見るのを好んだという。
少年時代に好きだった馬と絵画を結びつけ、馬を描く機会が多い歴史画家をこころざしたようだ。

1810年、19歳のときに新古典主義の画家ゲランに弟子入りした。
ゲランは、王政復古期には学士院会員になり、王立美術学校の教授になる歴史画家であった(そこでの弟弟子にドラクロワがいたことはよく知られている)。

数年後、ジェリコーはローマ賞に失敗し、1816年から17年にかけて私費でローマへ留学する。
そしてイタリアからの帰国後最初の歴史画である≪メデューズ号の筏≫(1819年完成、ルーヴル美術館蔵)を制作し、サロンに出品する。
これは、周知のように、実際に起きた難破事件を描いたものである。難破の原因が政府の責任とされて社会問題となっていた事件だけに、作品は大きな波紋を呼んだ。「在野の」歴史画家ジェリコーの存在を印象づけた作品であった。

ところが、その5年後、1824年には、落馬が原因の病で33歳の若さで、この世を去る。
(早世したジェリコーにとっては、≪メデューズ号の筏≫がほとんど唯一の歴史画となる)

ちなみに、1824年のサロンで弟弟子のドラクロワは、ギリシア独立戦争を主題とする≪キオス島の虐殺≫を世に問うた。ドラクロワが兄弟子ジェリコーから継承したのは、この「在野の」歴史画家という美術史上かつてみなかった役割であったといわれる。
一方、1824年のサロンには、ダヴィッドの弟子アングルが保守的画壇での出世の糸口となった≪ルイ13世の誓い≫を出品している。
1824年というこの年を境にフランス画壇がアカデミー陣営の大家アングルと、ロマン主義の領袖ドラクロワの両巨匠に二分される。このことは美術史上の定説となっている。

さて、ジェリコーの騎馬肖像≪突撃する近衛猟騎兵士官≫に話を戻そう。
この兵士官は、アレクサンドル・ディユードネという名で、革命期とナポレオン時代の合戦に参加した陸軍の古参兵である。1807年に中尉に任命され、この絵のモデルをつとめた1812年に戦死したという。
(もしジェリコーの絵筆によってその名をとどめられることがなかったなら、戦地で命を落とした無数の兵士として忘れ去られていたことであろう)

画面では、第一帝政を支えた、すでに若くはないディユードネ中尉が、美々しい軍服に身を包み、斑模様の灰色の馬にまたがって、ふりかえって突撃の合図を与えている。ここに描かれた中尉が所属する近衛隊は、皇帝のそば近く勤務するためもあって、軍隊の中でも重きを置かれ、軍服も一段と豪奢である。

ところで、この作品が発表された時、サロンの批評は二つに分かれたといわれる。
その代表的なものが、ドノンとダヴィッドのものである。
ナポレオン美術館館長ドノンは、好意的な批評であった。ドノンは「(ジェリコーが)きわめて巧みな戦争画家の誕生を保証する作品でデビューした。(中略)彼の描き振りは情熱に満ちている」と言い、ジェリコーに金のメダルを与えた。

それに対して、ダヴィッドは、次のような批判的な感想を述べた。
「これはいったいどこから出てきたのか、私はこんなタッチは知らない」と。
ダヴィッドはジェリコーのタッチに対する違和感を表明している。ジェリコーの筆使いは、新古典主義の巨匠ダヴィッドには、見慣れぬものであった。ダヴィッドにとっては、筆の跡がはっきりと見えてよいのは習作においてのみであった。
(プッサンを規範として17世紀にアカデミックな作画法が確立して以来、これは鉄則であったとされる)

一方、ドノンは、ナポレオン美術館館長という美術行政の中枢の地位にあったものの、個人的にはヴァトーなどの非古典主義的な絵画を愛好するなど、柔軟な感性の持ち主であった。
ドノンが「情熱に満ちた描き振り」という時、それは画家が心と手の動きをそのまま伝えるタッチを、作画上の常識に縛られて消し去ろうとしていないことを指した。
ダヴィッドが「知らなかった」このタッチは、ジェリコーからドラクロワに受け継がれた。そして19世紀フランス絵画史においてアカデミックに「仕上げられた(フィニ)」絵画に対する「仕上げられていない(ノン=フィニ)」絵画の革新的な流れを形作ることになる。

この革新こそが最終的には、ルネサンス以来の絵画的伝統を崩壊させ、20世紀への道を開いた印象派の革命へとつながってゆくと鈴木氏は、近代西洋絵画史を理解している。
(鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成――フランス19世紀美術のもう一つの顔』筑摩書房、1994年、130頁~135頁)

【鈴木杜幾子『ナポレオン伝説の形成』筑摩書房はこちらから】
ナポレオン伝説の形成―フランス19世紀美術のもう一つの顔 (ちくまライブラリー)




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