歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪書道の歴史概観 その4≫

2021-02-13 17:50:34 | 書道の歴史
≪書道の歴史概観 その4≫
(2021年2月13日投稿)
 



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


【はじめに】


 六朝代から初唐代への時代は、中国書道の歴史(中国書史)において、転換期である。この時期の書の歴史はどのように捉えられるのだろうか。この点に焦点をしぼって、概説してみたい。




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


・六朝代から初唐代への転移の構造について
・二折法から三折法へ
・唐の太宗と書
・唐の太宗と書家たち






六朝代から初唐代への転移の構造について


六朝代から初唐代への転移の構造について図式的に言えば、六朝代の草書=王羲之=二折法=筆触=自然書法から、初唐代の楷書=三折法=筆蝕=基準書法へということになると石川九楊はいう。
(石川九楊『書と文字は面白い』新潮文庫、1996年、285頁~286頁)

【石川九楊『書と文字は面白い』新潮文庫はこちらから】

書と文字は面白い (新潮文庫)

中国書史の750年、つまり六朝代から宋代までの書の歴史(350年頃から1100年頃まで)について、代表的な作品としては、次の8作品を挙げている。
1 王羲之の「喪乱帖」
2 智永の「真草千字文」
3 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
4 褚遂良の「雁塔聖教序」
5 孫過庭の「書譜」
6 張旭の「古詩四帖」(狂草)
7 顔真卿の「顔勤礼碑」
8 黄庭堅の「李白憶旧遊詩巻」
とりわけ、初唐代楷書成立期の頂上劇としては、
632年 欧陽詢の「九成宮醴泉銘」
646年 唐太宗の「晋祠銘」(草書[ママ])
653年 褚遂良の「雁塔聖教序」を挙げて、
646年頃(650年頃、649年に太宗の死)に頂上に達したものと考えている
石川の「書からみた中国史の時代区分への一考察」によれば、649年の太宗皇帝の死を境に、中国史は前史と後史に二分されると石川は考えている。この649年の太宗の死は、初唐代楷書のうち、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)と、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)との間に位置する。この両者間の20年余りの間に書史の劇的な頂点が想定できるという。「九成宮醴泉銘」は頂上以前であり、「雁塔聖教序」は頂上以降であるとみる。
「雁塔聖教序」は「九成宮醴泉銘」と形態上は似ているが、筆蝕が動きを見せる点においては、むしろ顔真卿の楷書に近いものと捉えている。楷書の成立は「三過折の獲得」ではあるのだが、「九成宮醴泉銘」と「雁塔聖教序」は、その三過折の意味を極限まで減じることによって、成立させているという。
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、102頁)

【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史


書の表出で言えば、筆触時代と筆蝕時代の分岐点であり、歴史的にも匿名の時代と実名の時代の分岐であるともいう。
太宗の死が中国全史を以前と以後に分ける分水嶺を形成すると石川は試論している。昭陵に「蘭亭序」が眠るという伝説は、その意味においても興味深く、比喩的に言えば太宗の昭陵に中国の前半史は埋まっているという
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、98頁~100頁、196頁、403頁)。

また、宋代以降の書史としては、
1100年頃 黄庭堅の「松風閣詩巻」
1650年頃 傳山の明末連綿草
1750年頃 金農の「昔邪之盧詩」を挙げて、
1650年頃に頂上を求めている
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、99頁)。


二折法から三折法へ


このように、楷書、行書、草書がセットで存在するものだと考えられる書の構造は、西暦350年頃の中国六朝期から、宋代1100年頃までの750年くらいをかけてゆっくり出来上がったものと石川は考えている。350年頃から650年頃までが前期で、比喩的に名づければ、「王羲之の時代」である。650年頃から1100年頃までが後期で、「脱王羲之の時代」と名づけている。
350年頃から650年頃までが、いわゆる「古法」の時代である。「古法」とは王羲之書法と言ってもよい。書字について言えば、「トン」とおさえて「スー」と引くか、「スー」と入って「グー」とおさえる二折法である。この二折法が、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)などによって、三折法へと変わる。つまり、「トン・スー・トン」という方式で、起筆、送筆、終筆、転折、撥ね、はらいが構造的に変わる。唐代に入って、いわゆる「永字八法」が成立し、書法がやかましくなる。こうして「唐代の書は『法』である」と言われるようになる
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、98頁~100頁)。
「永字八法」の起源については、後漢代に蔡邕(さいよう)が創定したと言われるが、唐代あたりまで下ると考えるのが順当であろうと石川九楊は考えている
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、263頁)。
以下、この石川の持論を中心に中国書史について考察してみたい。


唐の太宗と書


唐の太宗は唐王朝300年の礎を築いた英主である。その貞観の治といわれる治世には名臣がその左右に雲集するといった壮観を現出した。その結果唐代初期の文化は新鮮な光彩を放つようになった。この時期、花が咲き揃ったように、書の名手が輩出した。欧陽詢(557-641)、虞世南(558-638)、褚遂良(596-658)はこの時代の王朝の重臣であると同時に、書の名手であった。これら唐初の三大家は、揃いもそろって楷書に傑作を残している。六朝の乱離を収攬した新興王朝にふさわしい清新さが、爽やかな楷書という姿をかりて息づいているといわれる。たとえば、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」(632年)、虞世南の「孔子廟堂碑」(626年)、褚遂良の「雁塔聖教序」(653年)がある。つまり六朝の混乱を治めて建てられた王朝が唐であるように、六朝書法の多様性を統一したのが初唐の書法であるといわれる。ただ、初唐は楷書の黄金時代を迎えたが、隋王朝が滅んだ時(618年)、隋王朝に仕えていた欧陽詢と虞世南はすでに60歳であったし、褚遂良は22歳になっていた。ことに欧陽詢と虞世南の30歳から60歳までは隋王朝で過ごしていた。
(青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社、1982年、36頁、鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会、1996年[2010年版]、44頁)

【青山杉雨『書の実相―中国書道史話』二玄社はこちらから】

書の実相―中国書道史話

【鈴木翠軒・伊東参州『新説和漢書道史』日本習字普及協会はこちらから】

新説和漢書道史


さて、唐の太宗は、書を愛好し、歴代帝王中でも、第一の能書家といわれた。この唐の太宗の書としては「晋祠銘」(646年)がよく知られている。これは太宗が唐叔虞(とうしゅくぐ)を祭った祠に行幸した時、親ら文を撰び、それを碑に書いたものである。行書の碑刻としては最古のものといわれている。中国の天子の書としては第一等のもので、鷹揚さと品格をもっていると評される。北魏の書のように大きな規模があり、和潤な所もあってよいとされる。
文化を愛する太宗は書道が好きで、中でも史上最高の名手である王羲之の書に心酔していた。有名な「蘭亭序」入手の経緯については逸話が生まれるくらいで、太宗の王羲之への執心を物語っている。王羲之の書を広く天下から集め、苦心に苦心を重ねて、ようやく入手した「蘭亭序」は太宗の死とともに、昭陵に葬らしめたほどである。
また太宗自身、この王羲之の法に則った見事な作品である「温泉銘」(648年)を残している。
ところで、官吏登用試験である科挙の課目にも書を加えて有能の書家を重く用いたこともあって、書道の黄金時代を現出した。先の初唐の三大家がそうである。科挙では、楷書が正しく美しく書けなければ合格できなかった。だから、文字の外見は整った。しかし、その一方で、性情雅致は次第に失われ、その書写も機械的観念的になったとも評される。科挙の制は書を普及発達させる上には大きな力があったが、芸術的発展の上での影響については疑問視する書家もいる。
(鈴木・伊東、1996年[2010年版]、51頁~59頁)

さて、唐の太宗の書として、「温泉銘」がよく知られている。この書は、全体を通じて、起筆して力を抜くだけの二折法の「トン・スー」の筆蝕に主律されていると石川九楊はいう。古法、アルカイック書法は、その二折法と同時に、「転折の不在の傾向」をもつとみる。
たとえば、「口」字の画数を考えてみればよい。この「口」字の画数が三画であると数えられるのは、横筆部と縦筆部が連続的に一画で書かれるべきものであるという古法(アルカイック)時代の名残りであると石川はいう。三折法が成立し、三折法に基づいて書かれるなら、「口」字は四画と数えられるべきものである。しかし、二折法は転折部を露わにせず、横筆から縦筆にまたがる一画がいっきに書かれようとし、結字的にはいわゆる向勢をもたらすことが多く(その典型例としては、鐘繇筆と伝えられる「薦季直表(せんきちょくひょう)」を想定できる)、率意の二折書法と相まってふくよかで穏やかな、アルカイックな姿を見せると石川は解説している
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、187頁)。

また、唐太宗の「晋祠銘」の飛白体の題額には、イスラム文字の影響が見られるとも言われ、また「大秦景教流行中国碑」(781年)などには下部にイスラム文字が刻されており、当時の大国際都市・長安の姿を彷彿とさせる
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、174頁)。

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中国書史

唐の太宗と書家たち


唐の太宗は、貞観元年(627)、中央政府の文官武官の子弟を弘文館に集めて、もう70歳という虞世南と欧陽詢に書法の教授を開始させた。若い褚遂良は館長に任じられ、カリキュラムの作成に励んだ。
太宗は王羲之の書へ心酔し、その書を勅命により手もとに集めたが、貞観13年(639)、勅命を下して集めた王羲之の書を分類整理した。3000点にも及ぶ王羲之の書を類別し、真偽の鑑定をしたのが、編集長の褚遂良であった。その結果、楷書50点が8巻、行書240点が40巻、草書2000点が80巻にまとめられたという。
編集された王羲之の書は、弘文館の子弟に、習字の手本として与えられた。巻末には、太宗の筆になる「勅」の一字を大きくおいて、その下に「臣・褚遂良校シテ失無シ」と奥付た。この奥付けのある法帖は館本とよばれて、書的権威の象徴とされた。
ともあれ、虞世南は638年に、欧陽詢は641年にこの世を去ったので、二人なきあと、褚遂良はひとり書の第一人者としてたたねばならなかった。
(榊莫山『書の歴史―中国と日本―』創元社、1970年[1995年版]、56頁~57頁)

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書の歴史―中国と日本 (1970年)


さて、このようにして、虞世南、欧陽詢、褚遂良が華やかに楷書の名作を残しながら、その楷法はまたたくうちに、影を潜めてしまう。それはなぜだろうか。この興味ある問題について、榊莫山は次のように推察している。
初唐の名家が生みだした楷法は、太宗と弘文館をぬきにして、つまり唐王朝のバックアップを背景にしなければ考えることができないという点に注目している。すなわち、唐王朝という偉大な組織の中にあってはじめて楷法の爛熟と名家の誕生がもたらされたと考えている。そして、彼ら王朝人の自我の自覚が感受性の解放となって、絢爛とした黄金期を迎えたというよりも、初唐の三大家は、王朝のシステムにどのように迎合し、いかにして有能な書の指導者として立つかという、きわめて普遍的な意志の信奉者であったとして理解できるのではないかと主張している。彼らの書をみたとき、そのことがよりはっきりとうなづけるという。
その姿態は王朝貴族の趣味ともいうべき、一種の冷徹さにおおわれて、人間的なにおいが息をひそめているのではないかとみる。その厳格な様式を通過するのは、結構の斉正さと筆法の精緻さからもたらされるつめたい気韻であっても、人間の精神の豊かさや官能の表象は決して顔を出さず、非情の様式であると榊は評している(榊、1970年[1995年版]、57頁~58頁)。

この唐初と、日本の明治初年の書道事情について、書家の青山杉雨は面白いことを述べている。すなわち、
「このような唐初の書道事情を見ていると、私はいつも日本の明治初年の書道事情を思い浮べます。江戸末期―いわゆる御家流という堕落しきった幕府のご用文字の氾濫を、見事に払拭して新鮮な官用文字として登場したのが、巻菱湖(まきりょうこ)や中沢雪城(なかざわせつじょう)などの書いた、欧陽詢を主とした唐初様式の端正な楷書です。まさに明治政府が志向する新時代を象徴するかの如き感じを、当時の人々はこの楷書に発見したことでしょう。歴史の循環がこんな所にも現われていることに、私はいつも深い興味を感じております。」(青山、1982年、37頁~38頁)。
つまり中国の六朝から唐初へという時代と、日本の江戸末期から明治初年という時代は、政治的には、混乱期から統一期へと収攬した時代であったが、書道事情から見た場合、唐初に三大家の楷書の傑作が出たように、日本の明治初年、欧陽詢を主とした唐初様式の端正な楷書を巻菱湖や中沢雪城が書いたということである。いわゆる御家流という江戸末期の堕落した幕府のご用文字を払拭して、新鮮な官用文字の端正な楷書が登場したという。それはまさに明治政府が志向する新時代を象徴するかのような事であったという
(青山、1982年、36頁~38頁、44頁。榊、1970年[1995年版]、55頁。鈴木・伊東、1996年[2010年版]、51頁~59頁)



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