ブログ原稿≪書道の歴史概観 その8≫
(2021年2月14日投稿)
【石川九楊『中国書史』はこちらから】
中国書史
今回のブログでは、宋代の書について解説してみたい。とりわけ、宋の四大家の蔡蘇黄米、すなわち蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾について取り上げる。そして、宋代の朱熹の書についても触れておく。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
書家の伏見冲敬(ちゅうけい)は、『書の歴史―中国篇』(二玄社、1960年[2003年版]、146頁)において、宋の四大家について、面白いことを記している。すなわち、「蘇黄米蔡」という宋の四大家の蔡は、どうも本来京であったのではないかというのである。
北宋末の政治家である蔡京(1047-1126)が徽宗をそそのかして勝手なことをしているうちに、とうとう国を亡してしまった所業を憎んで、蔡襄と入れ替わらされたのではないかと伏見は推測している。蔡京も唐人の書から王羲之に遡って、書を学んだようだ。姦臣として嫌われた蔡京の書跡は伝わるものが少ないが、その代表作としての「趙懿簡公碑(ちょういかんこうのひ)」(1092年)には、こまやかな筆意が汲みとられ、「十八学士図跋(
双鉤郭塡本)」(1110年)には、かなり力強い筆が見られると伏見は解説している。
なお、蔡京を入れていたときは、年齢順に蘇黄米蔡といっていたが、蔡襄と入れ替えると、年齢順にすると蔡が一番年上である。それでも口なれたせいか、近年でも昔のままの呼び方で使う人があると西川は付言している。
(伏見冲敬『書の歴史 中国篇』二玄社、1960年[2003年版]、146頁。西川、1964年[1984年版]、16頁)
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書の歴史 中国篇
宋の太祖趙匡胤(927-976、在位960-976)が、後周の恭帝から皇帝の位をうけついでから100年近くの間は、書法の上からは唐の延長と考えていいと伏見冲敬は考えている。
王安石を登用して新法を実施した宋の第6代の皇帝神宗(1048-1085、在位1067-1085)の熙寧(1068-1077)・元豊(1078-1085)年間にいたって、天才蘇・黄・米の出現によって、宋朝の書法は面目を一新したという。のみならず、殊に蘇・黄の書風は後世への影響の大きいことは、王羲之・顔真卿に匹敵するものがあるとされる。ただし、彼らの書風は、直ちに当時一般に行われたわけではなく、北宋の末期までは、なお伝統的な書法が底流をなしていた。
ところで、宋代の四大家の一人、蘇軾(1036-1101)は幼年の頃から書を好んだが、どんなものを習ったのであろうか。この点について、黄庭堅は次のように捉えている。蘇軾は若いとき「蘭亭序」を学んだので、その書は姿媚なところは徐浩に似、酒を飲んで心に巧拙を忘れたときは、その筆の瘦勁なこと柳公権に似る。中年喜んで顔真卿・楊凝式を学んだので、出来のよいものは李邕に劣らないといっている。この黄庭堅の蘇軾の書に対する評言を、書家の伏見は真相に近いものであろうと評価している。
そして、そうした先人を学んだ跡はすっかり底にひそんで、完成された蘇軾の傑作として「黄州寒食詩巻(こうしゅうかんしょくしかん、かんじきとも)」(1082年)を挙げている(伏見、1960年[2003年版]、140頁)。
蘇軾は、流謫されていた湖北・黄州の地において、元豊5年(1082)の春、寒食を迎えた。寒食というのは、冬至から数えて、105日目に行なう中国の旧習で、この日は火を禁じて煮焚きをしないという。つまり冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたことをさす。その起こりについては、春秋時代の晋の介子推が焼死したのを弔う意味から、との俗説がある。蘇軾の「黄州寒食詩」は、春とはいえ冷雨の降りつづくのに思いを寄せて作った二首の詩で、その詩巻の執筆は、1082年から遠からぬ時期であろうと推測されている。この二首の詩の書き始めの第一行には、王羲之を基盤とする典雅なたたずまいが看取され、行を追うにつれ激しい感情の起伏があらわになり、第二首の後半は、その頂点に達すると堀江はみている。この書の魅力は、この激しい動きに加え、その豊潤な筆触にあるという。蘇軾など北宋の四大家は、初唐の三大家と比べると、主観主義的傾向の強い書風であると評されている。
(堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版、1991年、144頁~146頁)
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中国風の書―日本の名筆・その歴史と美と鑑賞法 (名筆鑑賞入門)
ところで、蘇軾・黄庭堅、米芾の三人の書を、松井如流は一言でたとえている。蘇軾は情の書、黄庭堅は意の書、また米芾は知の書であるという。書の精妙さは米芾に指を屈し、抒情のゆたかさは蘇軾を推さねばならない。その間に黄庭堅は意気の旺盛なしかも独自のスタイルをもって精神性を強調したのだという。
後代の人たちは、これら三人の影響を大きく受け、ことに禅門の人たちの中には黄庭堅の書が尊重された。
蘇軾の書「黄州寒食詩巻(寒食帖)」に黄庭堅は次のような跋を記している。
「此の書、顔魯公(唐・顔真卿)・楊少師(五代・楊凝式)・李西台(宋・李建中)の筆意を兼ぬ」と。
蘇軾の書の根底には、二王と顔真卿があるが、この帖を書いた頃の蘇軾は47歳の頃で、最も脂の乗った時で、もはや蘇軾の心の中には、二王も顔真卿もなく、自己の性情をいかに正直に表すかにあったといわれている。つまり二王を学びながら二王の法に捉われておらず、顔真卿を学びながら、その筆癖だけを模したという風ではない。
この寒食の詩は、黄州に追いやられた元豊3年から2年経った元豊5年(1082年)の作であり、この帖を書いたのも、詩ができて、すぐに筆をとったものと考えられている。
蘇軾の書は洗練された書ではあるが、癖のある書で、側筆だといわれ、上下からおしつぶされたような構成には非難されていたようである。このことを本人も気にしていたらしく、次のような話が伝わっている。
ある時、蘇軾と黄庭堅がお互いに書を論じ合い、蘇軾は黄庭堅に「貴方の書は清勁でよいが、時あって筆勢が甚だ痩せて、木の梢に蛇がからまっているようだ」といい、黄庭堅は蘇軾に「貴公の書は軽ろ軽ろしく論じられないけれども、まま狭く浅くまるで石におしつぶされた蟇のようだ」とやり返して大笑したが、お互いに、心中では病所(欠陥)を突かれたと思ったということである。
しかし蘇東坡の書は、幾多の病所を超えた気象の高さと精神の清らかさが認められ、この「寒食帖」を見ると、側筆だとか、おしつぶされた蟇のようなところが見えなくなっていると、松井如流は述べている。おそらく、自己の病弊は気がついて、改めて、このような境地に達したのであろうと推測している。
(松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年、230頁、236頁~239頁)
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中国書道史随想 (1977年)
蘇軾が墨にこだわった話は有名であるらしい。榊莫山が『莫山書話』(毎日新聞社、1994年、172頁~173頁、181頁)において、この話を紹介している。
蘇軾は、若くして高等文官試験の科挙にパスした英才であった。彼は宋代を革新する政治家になるのが夢だったが、その夢もはかなく消え、政治的な圧迫や左遷で、あげくのはては投獄という不遇に彷徨した。ただ、この不遇が、彼をたぐいまれなる数奇の詩人にした。彼は政治への不信を不朽の名作「黄州寒食詩巻」のなかへ、おりたたむようにしてえがいた。
この詩人は、文房四宝への憧憬も大きかった。彼はロマンをかきたてて、狂人のように墨造りへとはしった。
松脂を焚いて松煙のススで造った墨の色は、青く冴えて美しいそうだ。青墨(せいぼく)とも呼ばれた(水墨画をかく画家になくてはならない墨だったという)。
かつて、宋の詩人・蘇軾は、この松煙のススにこだわった。自分でススとりをするんだと、といって、谷深い松林のはえた山に分け入り、小屋をたてて、松煙をたきつづけて、ススとりをはじめたが、なんと山火事をおこしてしまったほどである。墨というのは、それほど人を夢中にさせるのである。
また、蘇軾は歙(きゅう)州の硯である歙硯(きゅうけん)にも、ぞっこん惚れこんだ。あたかも歙州の硯が少なくなっていた頃で、それを惜しんで詩にうたっている。歙州では、採石の坑道に洪水が流れこんで、手がつけられなくなっていた頃の話である。
(榊莫山『莫山書話』毎日新聞社、1994年、172頁~173頁、181頁)
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新装版 莫山書話
蘇軾の字(あざな)は東坡である。つまり彼がみずから「東坡居士」と号したのは、湖北省にある黄岡(こうこう)での流刑時代のことであった。彼は朝廷での政争に巻き込まれて、荒れた土地を開墾し畑とし、そこを「東坡」と読んだ。「坡」とは坂道のことで、ここでは岡の意味に使われているという。
この黄岡では豚肉が安く、ほとんどが泥土と同じくらいの値段で買えたようだ。そこで彼は安く手に入る豚肉を買ってきては喜んで食べ、やがて新しい料理を開発した。それが「東坡肉」という豚の角煮であるそうだ。宋の周紫芝(しゅうしし)の書物『竹坡詩話』には、蘇東坡の詩「猪肉を食らうの詩」が引用されている。「黄州の好き猪肉、価(ねだん)の
賤(やす)きこと糞土の如し、富者は喫(た)べることを肯んぜず、貧者は煮るを解せず、火を慢着(とろび)にし、水を少着(すくなめ)にし、火候(ひかげん)足りし時、他(それ)は自ずから美(うま)し」というものである。
これは浙江省杭州で今も名物料理とされる。これが黄岡のあった湖北ではなく杭州の名物とされるのは、蘇東坡がやがて罪を許されて都に帰り、さらに杭州の知県(知事)となった時に、民衆から届けられる豚肉と酒(紹興酒)を使って、この料理をよく作り、民衆にふるまったからであるという。
(阿辻哲次『漢字の字源』講談社現代新書、1994年、56頁~58頁)
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漢字の字源 (講談社現代新書)
黄庭堅の「松風閣詩巻」は書の革命であると石川はいう。「筆蝕」の細分化と連合が見られ、起筆・送筆・終筆の各単位をさらに起筆・送筆・終筆の小単位(3×3=9の小単位)に細分化し、九折化した小単位を「三折法」が統合して、一つの字画を描き出しているとする。そして切れよく小気味よい必然的脈絡(テンポ)が全体を覆っているという。
この点、五木ひろしの歌った歌謡曲「よこはま・たそがれ」というわかりやすい例を持ち出し、説明している。山口洋子が作詞したこの曲は、名詞を突き放すように並べただけといったふうの構成であるが、新鮮な歯切れのよい作詞法である。そこには、従来の流れとうねりと連続の歌謡曲の歌詞にはついぞ聞かれなかった。
黄庭堅の「松風閣詩巻」は喩えれば、実質はともかく、形の上では主語も述語も繋辞も消えたかのような山口洋子の「よこはま・たそがれ」なのだというのである。このような切れ味のよいテンポをもつ行書は従来まったく存在しなかったと称賛している
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、234頁~240頁)。
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中国書史
李家正文(りのいえ まさふみ)は「米芾の毒舌―欧、褚、公権、張旭、懐素、智永―」というエッセイで、面白いことを述べている。
欧陽詢、褚遂良、柳公権、張旭、懐素、智永は、中国の書道史上に有名な書家である。
ところが、米芾にとってはすべて悪筆の代表であるという。米芾は、『米襄陽集』において、薛郎中の紹彭に寄す」という詩をおさめている。
そこには次のようにある。
「欧は怪 褚は妍自 ら持せず
猶能く半ばは古人の規を踏む
公権の醜怪は 悪札の祖にして
茲従り古法は蕩として遺ること無し
張顚と柳とは頗る同罪にして
俗子を鼓吹して乱離を起こす
懐素は猲獠(かつりょう) 小(すこ)し事を解するも
僅かに平淡に趨(はし)れば 盲医の如し
憐れむ可し 智永は硯空しく白く
本を去ること一歩 千嗤(し)を呈す
已ぬる矣 此の生は此が為に困しむ
欧陽詢の書は怪勁であるし、褚遂良の書は妍媚であるが、どちらもしっかりしたところがない。ただ多少は古人の書法に従ったところはあろう。
しかし、これに対して柳公権なんかは、醜怪そのもので、それこそ悪筆の元祖みたいなものである。柳公権があらわれてからというもの、古人の書法は、水に押し流されたように消え去ってしまい、この世に残らないことになった。
そういえば、張旭も柳公権と全く同罪の徒である。かれらは世間の俗人をあおり立てて、正しい書法を乱してしまい、かれらの書が書だというものだと誤らせて、正しい道から離れさせてしまったのである。
また懐素は、一匹狼か西南の土蛮みたいな奴である。まあ、すこしは書のことがわかっていたかもしれないが、それはかれの草書だけのことで、普通の真行書になると、もう駄目で、まるで盲医のように心もとない。
ことに憐れな者は智永である。永欣寺の楼門に籠居して、多くの人々のために書きまくって暮らした。そのために筆はちびていっぱいになり、硯には墨が切れて乾き、正法の書から外れる始末となって、世間の人々から笑いを買うことになった。
どうにもいたしかたのないことである。この人生は、君のために、たれもかれも苦労することである。このように李家正文は解説している。
このように、毒舌極まった米芾は、書家たちから敬仰されている諸家を、そろいもそろってなぎ倒している。
李家正文の米芾評は、「米芾は書画学博士ではあったが、懐古的というか、古代への妄想狂の一人で、唐朝の冠服を着て得意になっていた変人であった」という。
(李家正文『書の詩』木耳社、1974年、272頁~277頁)
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書の詩 (1974年)
宋代を代表する書といえば、蔡蘇黄米の四大家が挙げられるが、蘇・黄は革新書風の完成者として天才をうたわれたのに対し、蔡・米は古法の継承者として盛名を馳せた。
米芾と蘇軾・黄庭堅の書の相違点を、出身階層の相違と結びつけて考える人もいる。
例えば、米芾は官僚地主の出身で、宋初の功臣米信は五世の祖である。一方、蘇軾や黄庭堅は科挙による新興の士大夫階級であり、蘇軾の祖父から五代さかのぼると、もう名も知られず、祖父の蘇序自身、文盲に近いという、いわば成り上がりものであるといわれる。
米家も貴族階級ではないけれども、米芾は幼少より皇親国戚の豪華な邸宅に育ったというから、その生活環境が彼の人となりに影響を与えたと考えられている。
米芾の父の佐は、左武衛将軍、中散大夫、会稽県公という官品を贈られた。また、母の閻(えん)氏はかつて英宗皇后の高氏の乳母であった人で、丹陽県太君を贈られた。米芾が貴族社会で育ったのは、この母の関係からであり、米芾は科挙によらず、高皇后の子神宗が即位すると、旧恩によって秘書省校書郎になることができた。時に米芾は18歳(1068年)であった。
その後、1106年には、書画学博士に除せられ、そして徽宗は特に便殿において賜対し、米芾は、子の友仁をともなって拝閲した。すると、徽宗は自ら筆を揮った書および画扇を賜ったという。
このことは、三者のうちで、蘇軾・黄庭堅と米芾との書が、革新的と保守的という対照的な相異を示していることと関連があるという。
(宇野雪村編『中国書道史 下巻』木耳社、1972年、57頁~58頁、63頁)
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中国書道史〈下巻〉 (1972年)
朱子学を大成した南宋の朱熹(1130~1200)の書「劉子羽神道碑」(1179年)も残っている。朱熹は13歳で父を失い、遺言によって母とともに当時劉子羽(1097~1146)の後援をうけた。劉子羽は北宋の末、靖康の変で殉節した勇将の子で、軍略家として知名の士であった。
こうした因縁の劉子羽の碑であるから、朱熹は文も書も力をこめてなしたようだ。その書体はやや行書風をおびた楷書で、穏健で端正な字体は、学者の書たるにふさわしく品格が高いと評される。この朱熹の書について、平山観月は次のように記している。
「書は唐にあきたらずとして魏晋にさかのぼり、とくに曹操を学んだというが、これはきびしい学問的態度の結果であろう。書風は少し艶態を含みながら、より以上の骨がありシンが通っている。そこにかれの性格のあらわれがみられる。」と。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、289頁~290頁、294頁~295頁)
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新中国書道史 (1962年)
(2021年2月14日投稿)
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中国書史
【はじめに】
今回のブログでは、宋代の書について解説してみたい。とりわけ、宋の四大家の蔡蘇黄米、すなわち蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾について取り上げる。そして、宋代の朱熹の書についても触れておく。
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・宋の四大家について
・蘇軾の書について
・蘇軾と墨
・蘇軾と「東坡肉(トンポーロウ)」
・黄庭堅の書について
・米芾の毒舌について
・宋の四大家の書について
・宋代の朱熹の書について
宋代の書について
宋の四大家について
書家の伏見冲敬(ちゅうけい)は、『書の歴史―中国篇』(二玄社、1960年[2003年版]、146頁)において、宋の四大家について、面白いことを記している。すなわち、「蘇黄米蔡」という宋の四大家の蔡は、どうも本来京であったのではないかというのである。
北宋末の政治家である蔡京(1047-1126)が徽宗をそそのかして勝手なことをしているうちに、とうとう国を亡してしまった所業を憎んで、蔡襄と入れ替わらされたのではないかと伏見は推測している。蔡京も唐人の書から王羲之に遡って、書を学んだようだ。姦臣として嫌われた蔡京の書跡は伝わるものが少ないが、その代表作としての「趙懿簡公碑(ちょういかんこうのひ)」(1092年)には、こまやかな筆意が汲みとられ、「十八学士図跋(
双鉤郭塡本)」(1110年)には、かなり力強い筆が見られると伏見は解説している。
なお、蔡京を入れていたときは、年齢順に蘇黄米蔡といっていたが、蔡襄と入れ替えると、年齢順にすると蔡が一番年上である。それでも口なれたせいか、近年でも昔のままの呼び方で使う人があると西川は付言している。
(伏見冲敬『書の歴史 中国篇』二玄社、1960年[2003年版]、146頁。西川、1964年[1984年版]、16頁)
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書の歴史 中国篇
蘇軾の書について
宋の太祖趙匡胤(927-976、在位960-976)が、後周の恭帝から皇帝の位をうけついでから100年近くの間は、書法の上からは唐の延長と考えていいと伏見冲敬は考えている。
王安石を登用して新法を実施した宋の第6代の皇帝神宗(1048-1085、在位1067-1085)の熙寧(1068-1077)・元豊(1078-1085)年間にいたって、天才蘇・黄・米の出現によって、宋朝の書法は面目を一新したという。のみならず、殊に蘇・黄の書風は後世への影響の大きいことは、王羲之・顔真卿に匹敵するものがあるとされる。ただし、彼らの書風は、直ちに当時一般に行われたわけではなく、北宋の末期までは、なお伝統的な書法が底流をなしていた。
ところで、宋代の四大家の一人、蘇軾(1036-1101)は幼年の頃から書を好んだが、どんなものを習ったのであろうか。この点について、黄庭堅は次のように捉えている。蘇軾は若いとき「蘭亭序」を学んだので、その書は姿媚なところは徐浩に似、酒を飲んで心に巧拙を忘れたときは、その筆の瘦勁なこと柳公権に似る。中年喜んで顔真卿・楊凝式を学んだので、出来のよいものは李邕に劣らないといっている。この黄庭堅の蘇軾の書に対する評言を、書家の伏見は真相に近いものであろうと評価している。
そして、そうした先人を学んだ跡はすっかり底にひそんで、完成された蘇軾の傑作として「黄州寒食詩巻(こうしゅうかんしょくしかん、かんじきとも)」(1082年)を挙げている(伏見、1960年[2003年版]、140頁)。
蘇軾は、流謫されていた湖北・黄州の地において、元豊5年(1082)の春、寒食を迎えた。寒食というのは、冬至から数えて、105日目に行なう中国の旧習で、この日は火を禁じて煮焚きをしないという。つまり冬至から105日目に、火気を用いないで冷たい食事をしたことをさす。その起こりについては、春秋時代の晋の介子推が焼死したのを弔う意味から、との俗説がある。蘇軾の「黄州寒食詩」は、春とはいえ冷雨の降りつづくのに思いを寄せて作った二首の詩で、その詩巻の執筆は、1082年から遠からぬ時期であろうと推測されている。この二首の詩の書き始めの第一行には、王羲之を基盤とする典雅なたたずまいが看取され、行を追うにつれ激しい感情の起伏があらわになり、第二首の後半は、その頂点に達すると堀江はみている。この書の魅力は、この激しい動きに加え、その豊潤な筆触にあるという。蘇軾など北宋の四大家は、初唐の三大家と比べると、主観主義的傾向の強い書風であると評されている。
(堀江知彦『名筆鑑賞入門 中国風の書―日本の名筆・その歴史と美の鑑賞法』知道出版、1991年、144頁~146頁)
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中国風の書―日本の名筆・その歴史と美と鑑賞法 (名筆鑑賞入門)
ところで、蘇軾・黄庭堅、米芾の三人の書を、松井如流は一言でたとえている。蘇軾は情の書、黄庭堅は意の書、また米芾は知の書であるという。書の精妙さは米芾に指を屈し、抒情のゆたかさは蘇軾を推さねばならない。その間に黄庭堅は意気の旺盛なしかも独自のスタイルをもって精神性を強調したのだという。
後代の人たちは、これら三人の影響を大きく受け、ことに禅門の人たちの中には黄庭堅の書が尊重された。
蘇軾の書「黄州寒食詩巻(寒食帖)」に黄庭堅は次のような跋を記している。
「此の書、顔魯公(唐・顔真卿)・楊少師(五代・楊凝式)・李西台(宋・李建中)の筆意を兼ぬ」と。
蘇軾の書の根底には、二王と顔真卿があるが、この帖を書いた頃の蘇軾は47歳の頃で、最も脂の乗った時で、もはや蘇軾の心の中には、二王も顔真卿もなく、自己の性情をいかに正直に表すかにあったといわれている。つまり二王を学びながら二王の法に捉われておらず、顔真卿を学びながら、その筆癖だけを模したという風ではない。
この寒食の詩は、黄州に追いやられた元豊3年から2年経った元豊5年(1082年)の作であり、この帖を書いたのも、詩ができて、すぐに筆をとったものと考えられている。
蘇軾の書は洗練された書ではあるが、癖のある書で、側筆だといわれ、上下からおしつぶされたような構成には非難されていたようである。このことを本人も気にしていたらしく、次のような話が伝わっている。
ある時、蘇軾と黄庭堅がお互いに書を論じ合い、蘇軾は黄庭堅に「貴方の書は清勁でよいが、時あって筆勢が甚だ痩せて、木の梢に蛇がからまっているようだ」といい、黄庭堅は蘇軾に「貴公の書は軽ろ軽ろしく論じられないけれども、まま狭く浅くまるで石におしつぶされた蟇のようだ」とやり返して大笑したが、お互いに、心中では病所(欠陥)を突かれたと思ったということである。
しかし蘇東坡の書は、幾多の病所を超えた気象の高さと精神の清らかさが認められ、この「寒食帖」を見ると、側筆だとか、おしつぶされた蟇のようなところが見えなくなっていると、松井如流は述べている。おそらく、自己の病弊は気がついて、改めて、このような境地に達したのであろうと推測している。
(松井如流『中国書道史随想』二玄社、1977年、230頁、236頁~239頁)
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中国書道史随想 (1977年)
蘇軾と墨
蘇軾が墨にこだわった話は有名であるらしい。榊莫山が『莫山書話』(毎日新聞社、1994年、172頁~173頁、181頁)において、この話を紹介している。
蘇軾は、若くして高等文官試験の科挙にパスした英才であった。彼は宋代を革新する政治家になるのが夢だったが、その夢もはかなく消え、政治的な圧迫や左遷で、あげくのはては投獄という不遇に彷徨した。ただ、この不遇が、彼をたぐいまれなる数奇の詩人にした。彼は政治への不信を不朽の名作「黄州寒食詩巻」のなかへ、おりたたむようにしてえがいた。
この詩人は、文房四宝への憧憬も大きかった。彼はロマンをかきたてて、狂人のように墨造りへとはしった。
松脂を焚いて松煙のススで造った墨の色は、青く冴えて美しいそうだ。青墨(せいぼく)とも呼ばれた(水墨画をかく画家になくてはならない墨だったという)。
かつて、宋の詩人・蘇軾は、この松煙のススにこだわった。自分でススとりをするんだと、といって、谷深い松林のはえた山に分け入り、小屋をたてて、松煙をたきつづけて、ススとりをはじめたが、なんと山火事をおこしてしまったほどである。墨というのは、それほど人を夢中にさせるのである。
また、蘇軾は歙(きゅう)州の硯である歙硯(きゅうけん)にも、ぞっこん惚れこんだ。あたかも歙州の硯が少なくなっていた頃で、それを惜しんで詩にうたっている。歙州では、採石の坑道に洪水が流れこんで、手がつけられなくなっていた頃の話である。
(榊莫山『莫山書話』毎日新聞社、1994年、172頁~173頁、181頁)
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新装版 莫山書話
蘇軾と「東坡肉(トンポーロウ)」
蘇軾の字(あざな)は東坡である。つまり彼がみずから「東坡居士」と号したのは、湖北省にある黄岡(こうこう)での流刑時代のことであった。彼は朝廷での政争に巻き込まれて、荒れた土地を開墾し畑とし、そこを「東坡」と読んだ。「坡」とは坂道のことで、ここでは岡の意味に使われているという。
この黄岡では豚肉が安く、ほとんどが泥土と同じくらいの値段で買えたようだ。そこで彼は安く手に入る豚肉を買ってきては喜んで食べ、やがて新しい料理を開発した。それが「東坡肉」という豚の角煮であるそうだ。宋の周紫芝(しゅうしし)の書物『竹坡詩話』には、蘇東坡の詩「猪肉を食らうの詩」が引用されている。「黄州の好き猪肉、価(ねだん)の
賤(やす)きこと糞土の如し、富者は喫(た)べることを肯んぜず、貧者は煮るを解せず、火を慢着(とろび)にし、水を少着(すくなめ)にし、火候(ひかげん)足りし時、他(それ)は自ずから美(うま)し」というものである。
これは浙江省杭州で今も名物料理とされる。これが黄岡のあった湖北ではなく杭州の名物とされるのは、蘇東坡がやがて罪を許されて都に帰り、さらに杭州の知県(知事)となった時に、民衆から届けられる豚肉と酒(紹興酒)を使って、この料理をよく作り、民衆にふるまったからであるという。
(阿辻哲次『漢字の字源』講談社現代新書、1994年、56頁~58頁)
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漢字の字源 (講談社現代新書)
黄庭堅の書について
黄庭堅の「松風閣詩巻」は書の革命であると石川はいう。「筆蝕」の細分化と連合が見られ、起筆・送筆・終筆の各単位をさらに起筆・送筆・終筆の小単位(3×3=9の小単位)に細分化し、九折化した小単位を「三折法」が統合して、一つの字画を描き出しているとする。そして切れよく小気味よい必然的脈絡(テンポ)が全体を覆っているという。
この点、五木ひろしの歌った歌謡曲「よこはま・たそがれ」というわかりやすい例を持ち出し、説明している。山口洋子が作詞したこの曲は、名詞を突き放すように並べただけといったふうの構成であるが、新鮮な歯切れのよい作詞法である。そこには、従来の流れとうねりと連続の歌謡曲の歌詞にはついぞ聞かれなかった。
黄庭堅の「松風閣詩巻」は喩えれば、実質はともかく、形の上では主語も述語も繋辞も消えたかのような山口洋子の「よこはま・たそがれ」なのだというのである。このような切れ味のよいテンポをもつ行書は従来まったく存在しなかったと称賛している
(石川九楊『中国書史』京都大学学術出版会、1996年、234頁~240頁)。
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中国書史
米芾の毒舌について
李家正文(りのいえ まさふみ)は「米芾の毒舌―欧、褚、公権、張旭、懐素、智永―」というエッセイで、面白いことを述べている。
欧陽詢、褚遂良、柳公権、張旭、懐素、智永は、中国の書道史上に有名な書家である。
ところが、米芾にとってはすべて悪筆の代表であるという。米芾は、『米襄陽集』において、薛郎中の紹彭に寄す」という詩をおさめている。
そこには次のようにある。
「欧は怪 褚は妍自 ら持せず
猶能く半ばは古人の規を踏む
公権の醜怪は 悪札の祖にして
茲従り古法は蕩として遺ること無し
張顚と柳とは頗る同罪にして
俗子を鼓吹して乱離を起こす
懐素は猲獠(かつりょう) 小(すこ)し事を解するも
僅かに平淡に趨(はし)れば 盲医の如し
憐れむ可し 智永は硯空しく白く
本を去ること一歩 千嗤(し)を呈す
已ぬる矣 此の生は此が為に困しむ
欧陽詢の書は怪勁であるし、褚遂良の書は妍媚であるが、どちらもしっかりしたところがない。ただ多少は古人の書法に従ったところはあろう。
しかし、これに対して柳公権なんかは、醜怪そのもので、それこそ悪筆の元祖みたいなものである。柳公権があらわれてからというもの、古人の書法は、水に押し流されたように消え去ってしまい、この世に残らないことになった。
そういえば、張旭も柳公権と全く同罪の徒である。かれらは世間の俗人をあおり立てて、正しい書法を乱してしまい、かれらの書が書だというものだと誤らせて、正しい道から離れさせてしまったのである。
また懐素は、一匹狼か西南の土蛮みたいな奴である。まあ、すこしは書のことがわかっていたかもしれないが、それはかれの草書だけのことで、普通の真行書になると、もう駄目で、まるで盲医のように心もとない。
ことに憐れな者は智永である。永欣寺の楼門に籠居して、多くの人々のために書きまくって暮らした。そのために筆はちびていっぱいになり、硯には墨が切れて乾き、正法の書から外れる始末となって、世間の人々から笑いを買うことになった。
どうにもいたしかたのないことである。この人生は、君のために、たれもかれも苦労することである。このように李家正文は解説している。
このように、毒舌極まった米芾は、書家たちから敬仰されている諸家を、そろいもそろってなぎ倒している。
李家正文の米芾評は、「米芾は書画学博士ではあったが、懐古的というか、古代への妄想狂の一人で、唐朝の冠服を着て得意になっていた変人であった」という。
(李家正文『書の詩』木耳社、1974年、272頁~277頁)
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書の詩 (1974年)
宋の四大家の書について
宋代を代表する書といえば、蔡蘇黄米の四大家が挙げられるが、蘇・黄は革新書風の完成者として天才をうたわれたのに対し、蔡・米は古法の継承者として盛名を馳せた。
米芾と蘇軾・黄庭堅の書の相違点を、出身階層の相違と結びつけて考える人もいる。
例えば、米芾は官僚地主の出身で、宋初の功臣米信は五世の祖である。一方、蘇軾や黄庭堅は科挙による新興の士大夫階級であり、蘇軾の祖父から五代さかのぼると、もう名も知られず、祖父の蘇序自身、文盲に近いという、いわば成り上がりものであるといわれる。
米家も貴族階級ではないけれども、米芾は幼少より皇親国戚の豪華な邸宅に育ったというから、その生活環境が彼の人となりに影響を与えたと考えられている。
米芾の父の佐は、左武衛将軍、中散大夫、会稽県公という官品を贈られた。また、母の閻(えん)氏はかつて英宗皇后の高氏の乳母であった人で、丹陽県太君を贈られた。米芾が貴族社会で育ったのは、この母の関係からであり、米芾は科挙によらず、高皇后の子神宗が即位すると、旧恩によって秘書省校書郎になることができた。時に米芾は18歳(1068年)であった。
その後、1106年には、書画学博士に除せられ、そして徽宗は特に便殿において賜対し、米芾は、子の友仁をともなって拝閲した。すると、徽宗は自ら筆を揮った書および画扇を賜ったという。
このことは、三者のうちで、蘇軾・黄庭堅と米芾との書が、革新的と保守的という対照的な相異を示していることと関連があるという。
(宇野雪村編『中国書道史 下巻』木耳社、1972年、57頁~58頁、63頁)
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中国書道史〈下巻〉 (1972年)
宋代の朱熹の書について
朱子学を大成した南宋の朱熹(1130~1200)の書「劉子羽神道碑」(1179年)も残っている。朱熹は13歳で父を失い、遺言によって母とともに当時劉子羽(1097~1146)の後援をうけた。劉子羽は北宋の末、靖康の変で殉節した勇将の子で、軍略家として知名の士であった。
こうした因縁の劉子羽の碑であるから、朱熹は文も書も力をこめてなしたようだ。その書体はやや行書風をおびた楷書で、穏健で端正な字体は、学者の書たるにふさわしく品格が高いと評される。この朱熹の書について、平山観月は次のように記している。
「書は唐にあきたらずとして魏晋にさかのぼり、とくに曹操を学んだというが、これはきびしい学問的態度の結果であろう。書風は少し艶態を含みながら、より以上の骨がありシンが通っている。そこにかれの性格のあらわれがみられる。」と。
(平山観月『新中国書道史』有朋堂、1965年[1972年版]、289頁~290頁、294頁~295頁)
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新中国書道史 (1962年)
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