地上を旅する教会

私たちのすることは大海のたった一滴の水にすぎないかもしれません。
でもその一滴の水があつまって大海となるのです。

人々の模範【北海道南西沖地震20年 島の姿】

2013-07-13 18:36:48 | 今日の御言葉



あなたは、年が若いということで、
だれからも軽んじられてはなりません。
むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、
信じる人々の模範となりなさい。


「テモテへの手紙一」 / 4章 12節
新約聖書 新共同訳


多くの人は病んでいます。
自分がまったく愛されていない
関心をもってもらえない
いなくてもいい人間なのだと・・・

人間にとって
いちばんひどい病気は
だれからも必要とされていないと
感じることです。


マザーテレサ

(マザーテレサ『愛のことば』より)





★北海道南西沖地震20年 奥尻、教訓を胸に避難訓練


◆日本経済新聞2013年7月12日 11:30


▲北海道南西沖地震から20年。
避難訓練で高台に駆け上がる
青苗小学校の児童と先生
(12日、北海道奥尻町)=共同


 北海道南西沖地震から20年となった12日、津波に襲われ死者、行方不明者198人と最大の被害が出た北海道・奥尻島では、小学校で授業中に地震が起きたと想定した避難訓練が行われた。

 訓練をしたのは大規模な火災が起きた島南端の青苗地区の青苗小学校。非常ベルが鳴ると児童約60人がヘルメットをかぶり近くの高台まで約3分で駆け上がった。その後、地元の人の実体験を基にした紙芝居を見た。

 12日午後には遺族らのほか、高橋はるみ道知事が出席して奥尻町で追悼式。財政難などを理由に町主催の式典は今年で最後という。夜は青苗小の児童らが慰霊碑の前で2千本のろうそくに火をともし、祈りをささげる。

 地震は1993年7月12日午後10時17分に発生した。震源は北海道南西沖で、マグニチュード(M)は7.8。北海道の日本海側の広い範囲が大きな被害を受け、死者、行方不明者は青森県の1人を含めて計230人にのぼった。

 奥尻島には発生後2~3分で高さ最大約30メートルの津波が襲った。奥尻町は被災後、住宅の高台への移転や防潮堤の建設などを進め、5年で「完全復興」を宣言した。

 だが、多額の復興事業費が町の財政を圧迫し続けている。島の人口は地震前約4700人だったのが現在は3千人を下回り、65歳以上が千人ほどを占める。

 一方、東日本大震災をきっかけに奥尻の復興対策に注目が集まる。町は防災訓練を組み込んだ修学旅行のプランを作って誘致しているほか、被災した役場職員や消防士らで語り部隊を結成、防災教育で地域振興を図ろうとしている。
〔共同〕





★北海道南西沖地震二十年(4)復興 描けなかった“島の姿”
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130712/dst13071210190006-n1.htm?view=pc


◆産経新聞2013年7月12日 10:13



▲フェリー乗り場では
奥尻島イメージキャラクターの
うにまるくんが乗客らを迎えてくれる
 =北海道・奥尻島(三尾郁恵撮影) 


 「当初は本当に奥尻を再生できるのか不安だった」


 昭和30年に完成後、一度も建て替えていない奥尻町役場。年季の入った庁舎内で、新村卓実(しんむら・たかみ)町長(60)は、「ここまで歩んできたのはたくさんのご支援のおかげ」と感謝しつつ、こんな思いも口にした。「もっと違うやり方があったのでは、という気持ちもある」

 北海道南西沖地震で甚大な被害を受けた奥尻町は、復興基本計画を策定するにあたり3本の柱を打ち立てた。(1)生活再建(2)防災まちづくり(3)地域復興-だ。

 当時島で最も懸念されていたのは「島民の島外離脱」。それゆえ、力点は家や家財を失った島民に手厚い支援をすることで生活再建を促し、島に残ってもらうことにあったという。

 土地を準備し、自宅を再建した場合は最大で約1400万円助成、商工業者にも約4500万円を上限に助成した。漁業者には漁船を用意し漁再開を助けた。

 その結果、地震を理由に島外へ離れた住民はわずか3世帯。地震から5年を前にした平成10年3月、当時の町長は定例議会で「完全復興」を宣言した。

 12日で地震から20年を迎える島は今、衰えを隠せない。約4700人いた島民は高齢化が進み、現在3千人弱。当初の復興景気は徐々にしぼみ、復興事業にともなう多額の借入金返済が町財政を圧迫。観光客数は15年度の約5万8千人をピークに右肩下がりを続け、昨年度は約3万2千人まで減少した。

 「過疎や高齢化は地震に関係なく、日本各地で同じ問題を抱えている」。新村町長はこう弁明しつつ、「復興を考えていた当時、島では、将来の島の姿を考えることができていなかった」と反省を口にする。

 例えば被災者支援。原資は全国から集まった約190億円の義援金だった。「島民のさまざまな要望を受け入れた結果、義援金を全て配りきった。後の産業振興や住民サービスなどに充てるため、20億~30億円を基金として残しておけなかったことが悔やまれる」

 問題は次から次へと噴出してくる。島内42カ所に張り巡らせた緊急避難路は「5分以内の避難」を重視し、傾斜を急にした結果、高齢化が進んだ住民からは「これでは上りにくい」という声が上がる。


 充実した復興支援が、結果的に今の生活を苦しめているとの声もある。ある町関係者はこぼした。「土地や住宅の購入資金の援助を受け、分不相応な大きな家を建ててしまった結果、固定資産税や住宅ローンに苦しんでいる家庭もある」

 観光も同様だ。「震災当初は震災復興の作業員や奥尻を元気づけようという観光客も多数訪れた」と、島観光協会の佐野由裕主任(31)。「しかし、復興が進むとともに作業員は減り、応援してくれる観光客も去った。そこまでに観光地として、島に人を呼べるものを打ち出せなかった」

    ■  ■

 東日本大震災の被災地が得られる教訓は何か。

 「未来を見据えた復興が必要なことは、みな頭ではわかっている。だが、被災者の側に立てば立つほど半年先の復旧に取り組まざるを得なくなる」

 そう分析するのは災害復興に詳しい明治大学危機管理研究センターの中林一樹(いつき)特任教授(65)だ。


 「奥尻では住民の離島を防いだことに行政が満足し、住民らと子供や孫にどんな島を残すか議論しなかった」。190億円の義援金や764億円に及ぶ復興資金を奥尻に一極集中できた北海道南西沖地震とは違い、被害が広範囲な分、使える予算が限られる東日本大震災の被災地。すでに人口流出も始まっており、状況は奥尻よりも厳しい。

 中林特任教授は言う。「行政が苦手とする、地域の担い手や新たな地場産業の育成を、民間と連携しながら進めて“被災地の未来”を描く作業を急ぐべきだ。奥尻から得るべきヒントを防潮堤整備に求めるなら、過ちは繰り返される」

 11日で東日本大震災から2年4カ月。奥尻の20年は、被災地で流れる時間の速さも如実に伝えている。=おわり


(この連載は豊吉広英、五十嵐一、長内洋介が担当しました)


◼ことば: 北海道南西沖地震

◆毎日新聞 2013年07月13日 東京朝刊

◇北海道南西沖地震

 1993年7月12日午後10時17分ごろ、奥尻島北西沖を震源とするマグニチュード7.8の地震が発生、奥尻島は震度6(推定)だったとされる。地震発生の数分後に到達した津波は、島南西部で最大30メートル以上を観測した。奥尻島のほか、対岸のせたな町なども含め、死者・行方不明者は計230人に上った。


祈りと呪い【これぞ保守本流?!  自民党元重鎮がまた「赤旗」で吠えた】

2013-07-13 13:40:49 | 今日の御言葉



一人が祈り、もう一人が呪うなら、
主は、どちらの声に耳を傾けられるであろうか。


シラ書〔集会の書〕 / 34章 29節
旧約聖書続編 新共同訳



愛が自分のためのものではないように、
幸福と平和も自分のためのものではありません。
相手のいない愛がないように、
相手のいない理想と幸福、平和もありません。

これらすべては、
人との関係から始まるものです。

一人で愛してできることは何もなく、
一人で立派な理想を夢見て
成し遂げられるものは何もありません。


一人では、幸福になることも、
平和を語ることもできません。


必ず相手がいなければならないということは、
私よりもその相手がより大切だという意味です。



【高木桂一の『ここだけ』の話】

★これぞ保守本流?! 
自民党元重鎮がまた「赤旗」で吠えた


◆産経新聞 2013年6月1日18:00


[高木桂一の『ここだけ』の話]


▲6月2日付「しんぶん赤旗」日曜版


 自民党の古賀誠元幹事長が日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」日曜版(2日付)のインタビューに応じ、安倍晋三首相が目指す憲法96条改正に真っ向から反論した。政界から引退したとはいえ自民党の元重鎮が共産党機関紙にわざわざ登場するのは、今年1月20日付「赤旗」日曜版で慰安婦問題をめぐる安倍首相の姿勢を批判した加藤紘一元幹事長以来。古賀、加藤両氏とも「保守本流」を自負する自民党派閥「宏池会」に身を置いていたが、革命政党の広報紙で“身内”の足を引っ張るが如く吠えることが保守本流というのか-。

 共産党関係者によると古賀氏は、赤旗編集部からの憲法改正問題をテーマにしたインタビューの要請に二つ返事で応じたという。共産党はこのところ赤旗上で「憲法改正反対」の大キャンペーンを展開しており、古賀氏もそれに乗った格好だ。

 共産党は4月28日付赤旗日曜版に「改憲論者も怒った」という見出しで改憲論者の憲法学者、小林節慶応大教授を登場させ、96条改正の動きを「憲法破壊」だと言わせた。同党はこれまで「護憲派」だけに頼って憲法改正反対を主張してきたが、いまは「保守系」の論客や政治家をもとりこんで改憲阻止の世論を広げていく戦略をとっているのだ。党関係者によれば、古賀氏のほかの「自民党の元大物議員」にも登場をアプローチしているという。

 志位和夫委員長は、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会会長」も務めた“対極”の古賀氏が援護射撃してくれたことがよほどうれしかったのだろう。早々と5月28日に自身のツイッターで古賀氏の赤旗登場を“前宣伝”し、「書記局長時代に論争し、凄みと信念を感じたものです」と同氏を持ち上げてみせた。


◼掲載の日の「赤旗」は安倍政権攻撃一色に

 くだんの古賀氏のインタビュー記事は赤旗日曜版の1面と2面に分けて大きく掲載された。「96条改憲に大反対」「憲法の平和主義は『世界遺産』」という大見出しがつけられている。ちなみに1面隣のトップ記事は「アベノミ苦ス 悲痛な叫び」という見出しで、安倍首相が進める経済政策「アベノミクス」を徹底批判している。この日の赤旗日曜版の1面は、古賀氏のインタビュー記事とセットで安倍政権攻撃一色である。


 古賀氏のインタビュー記事の全文は以下の通りだ。


 《私は、憲法改正の勉学、研究、学習は当然として、議論はやっていいが、実際の改正には慎重でなければならないという立場です。とくに現行憲法の平和主義、主権在民、基本的人権という崇高な精神は尊重しなければならない。なかでも平和主義は「世界遺産」に匹敵すると私は講演でも話しています。

 いま、96条を変えて憲法改正手続きのハードルを下げるということが出ていますが、私は認めることはできません。絶対にやるべきではない。

 憲法はわが国の最高法規です。他の法規を扱う基準とは違うのは当然でしょう。一般の法規が「過半数以上」ということなら、憲法改正発議が「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」という現在の規定は当然です。諸外国を見ても、憲法改正のハードルは高くなっているじゃないですか。

 私は、自民党の政策グループ「宏池会」の4月の会合でも「今日の日本があるのは、平和憲法が根底に強く存在していたということだけは忘れてはならないとつねづね思っている」とあいさつしました。


※現在の「宏池会」は岸田派。(2012年10月4日~)
谷垣派と再び分裂へ。


◼「戦争を知る私たちのような世代の役割は大きい」


 憲法の議論は、現行憲法に流れる平和主義・主権在民・基本的人権の尊重という三つの崇高な精神を軸にしなければならない。とくに9条は平和憲法の根幹です。“浮世離れしている”と見られるかもしれないが、その精神が一番ありがたいところで、だから「世界遺産」と言っているのです。平和主義は絶対に守るべきだと思っています。

 ただ、ここはあなたと意見が違うでしょうが、自衛隊は9条2項を1行変えて認めればいい、というのが私の考えです。ここは国民的議論をすればいい。

 私の父は、私が2歳の時、「赤紙」1枚で召集され、フィリピンのレイテ島で戦死しました。父の訃報が届いた時はまだ5歳でした。私には父の思い出がありません。

 あの時代、母は自分の幸せなど、何ひとつ求めることなく、私と姉を必死で育ててくれました。子ども心にも母の背中を見ていて、戦争は嫌だ、二度と戦争を起こしてはいけない、と思いました。この思いが私の政治家としての原点です。

 戦争を知らない人たちが国民の8割近くを占めるようになりました。だからこそ戦争を知っている私たちのような世代の役割は大きいと思っています。

 私は、自衛隊をイラクに派遣するイラク特措法案の衆院採決の際(2003年)、議場から退場しました。平和を脅かすようなことをしてはいけない、と戦争を知らない世代に目に見える形で示したかったからです。

 党幹部からはお叱りを受けましたが、退場したことは間違っていなかったと今でも思っています。今回、あなた方(赤旗日曜版)のインタビューを受けたのも、戦争を知る世代の政治家の責任だと思ったからです。





◼「自民党と共産党こそが『二大政党』」


 戦後の長い期間、国政の場で、自由民主党と日本共産党は、立場や政策は違っても、それぞれが自負も誇りも持って活動してきた、と私は思っています。離合集散する政党はたくさんあり、照る日や曇る日もあったが、その中でぶれずにやってきた。私にいわせると自民党と共産党こそが「二大政党」だと思っています。》

 森喜朗元首相は5月30日のBSフジの番組で、古賀氏が赤旗のインタビューに応じたことについて、こう忖度(そんたく)した。

 「古賀さんはご本人がご遺族だ。そして、長い間、遺族会の会長をして、戦争にとられて、国のために戦った奥様や家族のことを一生懸命、古賀さんは守ってきた。普通の議員とはちょっと違う特別な思いがある。だから、ご自分も僕らと一緒に議員を辞めたが、最後までそれを言い続けて政治家としての務めを果たしていきたいという思いだったと思う。やっぱり、単に安倍さんが『そうだ』と言って、皆『そうだ、そうだ』といってしまうことではいけない。きちんとした議論をしていこう。その中に私のような考えもあるんだということを知っていて欲しいということだと思う」

 古賀氏は最近、テレビ番組への出演を重ねるなど露出を増やしているが、赤旗登場もその延長線上にあるのだろう。古賀氏周辺はこう語る。

 「安倍首相が最近、自身の出身派閥の清和会のことを『保守本流だ』とアピールしているが、宏池会の古賀氏としては『俺こそが保守本流だ』という思いが強いようだ」



▲宏池会会長 岸田文雄氏 (現外務大臣)


◼「宏池会は保守本流の名門派閥」に違和感

 しかし宏池会は本当に保守本流なのか。マスコミの多くは「宏池会は保守本流の名門派閥」と紋切り型で表現しているが、筆者は以前から違和感を持ってきた。宏池会は、古賀氏といい、赤旗に1月に登場した加藤氏といい、旧日本軍による慰安婦募集の強制性を認めた「河野洋平官房長官談話」(平成5年)を出した河野氏といい、「ハト派」を超越した“左派”の重鎮を量産してきたのだ。



 政界から引退したとはいえ、彼らは今や共産党の“御用達政治家”のようである。「自民党機関誌では絶対にとりあげてもらえない主張、見解だから、渡りに舟で共産党のアプローチに乗った」と自民党関係者は指摘する。むろん政治家がどこで、どんな見解を披瀝しようが自由であり、自民党もバッジを外した元議員の発言を制限するはずがない。野中広務元幹事長も引退後、赤旗のインタビューに応じたことがある。



※河野、加藤、野中、これらが政界の中枢にいたことが90年代の日本の不幸であった。


 ただ第2次安倍政権発足後、政界から身を引いたはずの古賀、加藤両氏が赤旗にノコノコと登場し、身内を露骨に攻撃することはまさに“事件”だろう。自民党の元実力者が赤旗に登場することで、なおも固い鎧をまとっている共産党が「開かれた政党」だという錯覚も国民に抱かせかねない。「憲法改正は慎重に」と言う以前に「発言する場は慎重に」だ。

 古賀さん、加藤さんは今からでも自民党から完全に離れて共産党員になったらいい。

(政治部編集委員)





◆シラ書〔集会の書〕 / 35章 21節

謙虚な人の祈りは、
雲を突き抜けて行き、

それが主に届くまで、
彼は慰めを得ない。

彼は祈り続ける。
いと高き方が彼を訪れるまで。