
あなたは、年が若いということで、
だれからも軽んじられてはなりません。
むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、
信じる人々の模範となりなさい。
「テモテへの手紙一」 / 4章 12節
新約聖書 新共同訳
多くの人は病んでいます。
自分がまったく愛されていない
関心をもってもらえない
いなくてもいい人間なのだと・・・
人間にとって
いちばんひどい病気は
だれからも必要とされていないと
感じることです。
マザーテレサ
(マザーテレサ『愛のことば』より)

★北海道南西沖地震20年 奥尻、教訓を胸に避難訓練
◆日本経済新聞2013年7月12日 11:30

▲北海道南西沖地震から20年。
避難訓練で高台に駆け上がる
青苗小学校の児童と先生
(12日、北海道奥尻町)=共同
北海道南西沖地震から20年となった12日、津波に襲われ死者、行方不明者198人と最大の被害が出た北海道・奥尻島では、小学校で授業中に地震が起きたと想定した避難訓練が行われた。
訓練をしたのは大規模な火災が起きた島南端の青苗地区の青苗小学校。非常ベルが鳴ると児童約60人がヘルメットをかぶり近くの高台まで約3分で駆け上がった。その後、地元の人の実体験を基にした紙芝居を見た。
12日午後には遺族らのほか、高橋はるみ道知事が出席して奥尻町で追悼式。財政難などを理由に町主催の式典は今年で最後という。夜は青苗小の児童らが慰霊碑の前で2千本のろうそくに火をともし、祈りをささげる。
地震は1993年7月12日午後10時17分に発生した。震源は北海道南西沖で、マグニチュード(M)は7.8。北海道の日本海側の広い範囲が大きな被害を受け、死者、行方不明者は青森県の1人を含めて計230人にのぼった。
奥尻島には発生後2~3分で高さ最大約30メートルの津波が襲った。奥尻町は被災後、住宅の高台への移転や防潮堤の建設などを進め、5年で「完全復興」を宣言した。
だが、多額の復興事業費が町の財政を圧迫し続けている。島の人口は地震前約4700人だったのが現在は3千人を下回り、65歳以上が千人ほどを占める。
一方、東日本大震災をきっかけに奥尻の復興対策に注目が集まる。町は防災訓練を組み込んだ修学旅行のプランを作って誘致しているほか、被災した役場職員や消防士らで語り部隊を結成、防災教育で地域振興を図ろうとしている。
〔共同〕

★北海道南西沖地震二十年(4)復興 描けなかった“島の姿”
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130712/dst13071210190006-n1.htm?view=pc
◆産経新聞2013年7月12日 10:13

▲フェリー乗り場では
奥尻島イメージキャラクターの
うにまるくんが乗客らを迎えてくれる
=北海道・奥尻島(三尾郁恵撮影)
「当初は本当に奥尻を再生できるのか不安だった」
昭和30年に完成後、一度も建て替えていない奥尻町役場。年季の入った庁舎内で、新村卓実(しんむら・たかみ)町長(60)は、「ここまで歩んできたのはたくさんのご支援のおかげ」と感謝しつつ、こんな思いも口にした。「もっと違うやり方があったのでは、という気持ちもある」
北海道南西沖地震で甚大な被害を受けた奥尻町は、復興基本計画を策定するにあたり3本の柱を打ち立てた。(1)生活再建(2)防災まちづくり(3)地域復興-だ。
当時島で最も懸念されていたのは「島民の島外離脱」。それゆえ、力点は家や家財を失った島民に手厚い支援をすることで生活再建を促し、島に残ってもらうことにあったという。
土地を準備し、自宅を再建した場合は最大で約1400万円助成、商工業者にも約4500万円を上限に助成した。漁業者には漁船を用意し漁再開を助けた。
その結果、地震を理由に島外へ離れた住民はわずか3世帯。地震から5年を前にした平成10年3月、当時の町長は定例議会で「完全復興」を宣言した。
12日で地震から20年を迎える島は今、衰えを隠せない。約4700人いた島民は高齢化が進み、現在3千人弱。当初の復興景気は徐々にしぼみ、復興事業にともなう多額の借入金返済が町財政を圧迫。観光客数は15年度の約5万8千人をピークに右肩下がりを続け、昨年度は約3万2千人まで減少した。
「過疎や高齢化は地震に関係なく、日本各地で同じ問題を抱えている」。新村町長はこう弁明しつつ、「復興を考えていた当時、島では、将来の島の姿を考えることができていなかった」と反省を口にする。
例えば被災者支援。原資は全国から集まった約190億円の義援金だった。「島民のさまざまな要望を受け入れた結果、義援金を全て配りきった。後の産業振興や住民サービスなどに充てるため、20億~30億円を基金として残しておけなかったことが悔やまれる」
問題は次から次へと噴出してくる。島内42カ所に張り巡らせた緊急避難路は「5分以内の避難」を重視し、傾斜を急にした結果、高齢化が進んだ住民からは「これでは上りにくい」という声が上がる。
充実した復興支援が、結果的に今の生活を苦しめているとの声もある。ある町関係者はこぼした。「土地や住宅の購入資金の援助を受け、分不相応な大きな家を建ててしまった結果、固定資産税や住宅ローンに苦しんでいる家庭もある」
観光も同様だ。「震災当初は震災復興の作業員や奥尻を元気づけようという観光客も多数訪れた」と、島観光協会の佐野由裕主任(31)。「しかし、復興が進むとともに作業員は減り、応援してくれる観光客も去った。そこまでに観光地として、島に人を呼べるものを打ち出せなかった」
■ ■
東日本大震災の被災地が得られる教訓は何か。
「未来を見据えた復興が必要なことは、みな頭ではわかっている。だが、被災者の側に立てば立つほど半年先の復旧に取り組まざるを得なくなる」
そう分析するのは災害復興に詳しい明治大学危機管理研究センターの中林一樹(いつき)特任教授(65)だ。
「奥尻では住民の離島を防いだことに行政が満足し、住民らと子供や孫にどんな島を残すか議論しなかった」。190億円の義援金や764億円に及ぶ復興資金を奥尻に一極集中できた北海道南西沖地震とは違い、被害が広範囲な分、使える予算が限られる東日本大震災の被災地。すでに人口流出も始まっており、状況は奥尻よりも厳しい。
中林特任教授は言う。「行政が苦手とする、地域の担い手や新たな地場産業の育成を、民間と連携しながら進めて“被災地の未来”を描く作業を急ぐべきだ。奥尻から得るべきヒントを防潮堤整備に求めるなら、過ちは繰り返される」
11日で東日本大震災から2年4カ月。奥尻の20年は、被災地で流れる時間の速さも如実に伝えている。=おわり
(この連載は豊吉広英、五十嵐一、長内洋介が担当しました)
◼ことば: 北海道南西沖地震
◆毎日新聞 2013年07月13日 東京朝刊
◇北海道南西沖地震
1993年7月12日午後10時17分ごろ、奥尻島北西沖を震源とするマグニチュード7.8の地震が発生、奥尻島は震度6(推定)だったとされる。地震発生の数分後に到達した津波は、島南西部で最大30メートル以上を観測した。奥尻島のほか、対岸のせたな町なども含め、死者・行方不明者は計230人に上った。
