変化を受け入れることと経緯を大切にすること。バランスとアンバランスの境界線。仕事と趣味と社会と個人。
あいつとおいらはジョージとレニー




前にも記載したかもしれないが、
言葉によるコミュニケーションの限界として、
人それぞれの認識の幅は伝わらないものだ。

それぞれが勝手に認識しているだけでは、
コミュニケーションは成立しないし、
集団生活を前提とした人間という生き物は
存在自体が否定されてしまうだろう。

だから基準が必要になり、この基準を軸にして
人はコミュニケーションを成立させる。
この基準のことを常識と呼び、個人の価値観
として受け入れるかどうかの別の次元で、
誰もが共有しておかなければならない。

事実として、常識の認識にも幅がある。
それは個性と表現されるもので、数値化した
定義は無いものの、一定の範囲に収まる差異を
個性と呼び、それを越えると単なる異常となる。
或いは変わり者か。
この範囲の捉え方も常識だからややこしい。

そういったややこしさをと曖昧さ、それらを
包含した人と人のコミュニケーション。
所詮、と言うとおこがましいが、一定の枠内
の情報伝達であり、共有の範囲に留まらざるを
得ない。

何が言いたいかというと、、、
特に無いのだが、厳密に内容を定義すべき
ビジネスに代表されるオフィシャルな関係に
おいても、結局は相互に理解できる、或いは
している積もりの情報は、一定の枠内という
範囲を超えない。

逆に、個人の持つ認識は、その人だけの固有の
ものであり、決して他人に伝わることはない。
相手によって、経験の類似性によって伝わる
範囲は左右されるだろうが、全く同一の価値観
というのは有り得まい。

だからさ。

信じたことをやろう。

コミュニケーションを諦めてはならないが、
差異がある前提で大らかに受け入れよう。

競争とは、決して戦いと同じではない。

プライベートの方はと言うと。

例えば芸術的カワイさを醸し出すジヨンちゃんも、
超可愛いお店の指名嬢も、
一般的視点として見ているに過ぎず、或いは単に
好みへの近さ故の視覚的認識に過ぎない。

人生をともにしたパートナーとなると、
数多の思い出と幾多の経験、
それらに立脚した価値観を通して見るおいらと、
客観的に見る一般の方々と、見え方は全く異なる
に違いない。
決して伝えることはできないだろうが、逆に
その可愛さと美しさは、おいらだけの特権。

思わずほくそ笑んでしまうのだが、こういった
価値観もまた、共有の難しさでは同じ。

やはり人とは、物理的には単独では有り得ない
にも関わらず、精神性において本質的には孤独
なのだろうか。


・・・深みにハマる前に仕事しよ(笑)


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