世の中、ルールに溢れている。
法律のように明文化されたもの、
道徳のような不文律ではあっても厳然と存在するもの、
形態は様々なのだろうが、
単独では現状の生活レベルが維持できない生き物、
人間である以上、それは止むを得ずもあり、
存在価値そのものでもあったりするのだろう。
人は他人に対して、
ルールを知っているかどうかで、その人の常識を図り、
ルールの守り具合で、その人の個性を見る。
ルールというものは、
不特定多数の人と社会生活を営む必要がある上で、
生活や活動を円滑ならしめる手段としてのみならず、
パートナーとしての適合性を見極める道具でもある訳だ。
しかして、相手が子供の場合はどうだろうか。
ルールの目的、アウトロー化した時に降りかかる事態、
そういったことを教える為にも、校則等の一般から独立
したルールが存在することは認める。
ただ、ルールそのものがレッテルを作り出すということ
を忘れてはならない。
違反者に不良のレッテルを貼り、
その社会から締め出したり、
個性を奪い去って将来性を閉ざさせたり、
そういう側面があるから、ルールというのは、
行き過ぎたり細かすぎたりしてはならず、
状況や実態に応じた運用が求められるべきものなのだ。
ルールの運用、これが子供社会において、最も優先
すべき教育ポイントなのだと思う。
細かく不要なルールによって、どれだけの青少年少女が
疎外されていったのか、統計情報を持ち合わせている訳
ではないが、直感的には少なくない犠牲者がいるように
思う。
さて、ここでは校則等に代表されるルールに関する現状
の問題点を記録しようというのではない。
あしからず。
ネット等の、現代生活では切っても切れないインフラに
ついて、子供達に如何に提供していくか、という話題を
記録しておきたい。
パソコン、iPOD、ネットゲーム機器、スマホ、携帯、
他にも多種多様なツールが存在する。
それら全てについて、教育的に、経済的に、倫理的に、等
の理由で不都合な目的で使用されることを抑止することは
可能だろうか。
できるかもしれないが、いたちごっこをする程に価値が
あるとは思えない。
与えなければいい、という極論はあるかもしれない。
しかし、将来的には、自らを律して使用を制限しなければ
ならないのだ。ここが最も教育すべきところで、与えない、
という選択肢は、可能性の生き物である人間そのものを
否定していると考える。
では、与えた上で、何を制限し、どこまでを自制に委ねれ
ばいいのだろう?
我が家では、恐らく標準よりも多くの機器を与えている。
同時に多くの危機も与えている訳だが、一般的なサイト制限
と、使用時間制限くらいしかかけていない。勿論、携帯の
上限は設定したりはしているが。
それでいいと思っている。
知らないところで買い物や有料ダウンロードされ、請求額に
腰を抜かすようなことも起こっているが、その都度、根気
強く会話していくことが、将来に繋がると確認している。
仕事が忙しく、家族の会話もままならない状態で何を言って
いるのか、と怒られそうだが、考えを変えるつもりはない。
その昔、「3無い運動」という活動があった。子供のバイク
事故を防ぐために、乗らない、乗らせない、乗せない、
だったかな? ちょっと違うかもしれないが、要は機会を
与えないことで、利点ともども弊害を取り除こうという手段
だ。
おそまつ!
教育者の怠惰も甚だしいと憤慨したものだったが、自らの
プライドを掛けて、同じ轍を踏まないようにしたい。
ま、子供の命という、ナニモノよりも大切なものを守るに
あたっての手段と、同列に語ってはいけないのだろうけども。
収集が付かなくなってきたのでこの辺でやめるが、
親ばかと言われようとも、我が子の可能性を摘むことだけは
したくない、そんなことを考えているバカ親父です。
結局何?クリック
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