東大寺のオフィシャルWebには「戒壇堂」と記載されているが、「戒壇院」でも
いいんだよ、きっと。
戒壇院の四天王像に心打たれたのは、7年前だったか。
それ以前にもお目にかかったことはあったはずだし、実物を拝見したことも
あったかもしれない。それを全く忘れていたのだが、30代も半ばに差し掛かる
頃、とある本に掲載された「広目天」像の写真に出会った。
圧倒された。
その力強さ、芸術性、完成度。それだけじゃない何モノか。
どう表現すればいいのだろう。
敢えて言葉にするなら「負けた」と思った。「勝てない」の方が近いか。
すぐに「多聞天」「持国天」「増長天」の写真も手に入れ、衝撃は更に拡大した。
文化とはこういうものなのかもしれない。
たった4つの神像かもしれないが、これだけで日本の民族・文明・歴史という
ものに、心から誇りが持てるようになった。相対的なものではなく、他と比較
することが意味を成さない感覚。
おいらの心が天平の時代を遊び、純粋で粋な涙を流す。
本当に感動したのを覚えている。
その年の暮れに帰省を兼ねて奈良まで行ったさ。実物を見に。
年末の渋滞に巻き込まれ、東大寺到着が確か3:50頃。
拝観が16:00までだったので、駐車場から戒壇院まで走った。寒空は既に暮れ
かけており、人もまばらな砂利道においらの足音が響く。
戒壇院に上る階段に辿り着いた時には、入り口の門は閉ざされていた。
それでもゆっくり階段を上り、門の前に立ち尽くしてみたんだ。
結局入れなかったし、中も全く見られなかったんだけど、不思議なことに
後悔の気持ちが全く浮かび上がらない。東大寺の砂利を踏みしめる音。
土でできた戒壇院の階段を靴が叩く足音。目の前で行く手を阻む木製の門。
それらの一つ一つが心に響く。
あんなに心が洗われたことはなかった。顕れたのかもしれない。
実は翌日に再度拝観しに行き、その時にはちゃんと中に入った。戒壇院の
四天王像は、三月堂等の諸仏にくらべるとサイズが小さい。しかし、互いに
他との比較を寄せ付けない圧倒的な存在感に打ちのめされたものだ。
それはそれは感動したものさ。
不思議なことに、前日の門前払いの経験とセットで、どちらも同列の貴重さ
でおいらの記憶に残っている。
奈良、恐るべし。
日本、自信を持っていいと心から思う。
おいらにイデオロギーは関係ない。左右は若干あるだろうが、口外はしない。
だから政治団体の主張には興味がない(聞かないと言うことではない)。
作家の福井晴敏氏が小説で言う戦後日本の問題なんかとは全く異質なもの、
現在の日本の大きな課題と言うか、穴みないなものがあるような気がする。
そんなことまで考えさせられる神像。
すげぇ。
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