海面からの距離が大きければ大きい程、
潜った工程が長ければ長い程、
深海という場所は人に厳しくなる。
深度6,000メートル。
太陽の光は、海面で最初の屈折を見せ、巡り合う海流の寒暖の差を通り抜ける度に、力を失っていく。そしてここには光子の欠片さえも立ち入ることができない。それと反比例するかのように、海水の圧力は増加していき、ここには人類はおろか、殆どの生物がただ生存することさえ許されない地獄の水圧に満たされていた。
一介の会社員である琢磨洋介がここで感慨にふけっていられるのは、現代科学が作り出した奇跡の恩恵である。僅か数メートル四方の空間は、自然が作り出したこの地獄の中で人が生存できる唯一の天国。人が生きていられるというだけで、深海ではそれが天国になる。地上では当たり前のことが、ここでは何よりも有難いことに感じられるのだ。そんな非日常が、彼の思考を研ぎ澄ましていた。
かすかに耳に届く機器が発する雑音を聞きながら、彼は一つの賭けにでるべきか、それともこれまでの平凡を継続さしめるのか、という選択に結論を与えるべく考え込んでいた。
「今なら、やれるさ。」
右の耳から聞こえる台詞は、彼の頭を心地よく満たした。
「それで、どうするつもりなんだ?」
左の耳には、熟慮を求める言葉が繰り返し入り込んで来る。
前者は恐らく、彼が自分を中心に物を考えた時の心の声であり、後者はまぎれもなく、自分も社会の一員であることを知った彼とその周囲の人々の声なのだろう。
深海艇『月光』。
コクピットに映し出されている現在の深度は、この深海底の限界耐深深度まで、更に千メートル以上の余裕を残していた。そして彼が潜るのは既に8回目になり、その慣れが相まって、船体が時折上げる軋み音も彼の思考を中断することはなかった。
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