中国でもっとも権威ある歴史書とされている、
司馬遷の『史記』によれば、
「夏」、「殷」、「周」と続いた中国大陸の歴代王朝がBC770年に崩壊して以来、
中国は斉・普・楚の覇王が我が物顔にふるまう春秋時代に突入した。
そして、
BC403年に覇者の普が韓・魏・趙の三国に分裂して以来、
中原は斉・楚・燕・韓・魏・趙・秦の七国が、
血みどろの戦いを繰り広げた戦国時代に突入したと説かれている。
そして、
このような戦乱の乱世にあって
中国大陸の西方で着々と富国強兵策を進めた秦が、
ついに秦王政(始皇帝)の時代に、東方の大国である「斉」を征服して中国大陸を統一したということになっている。
ところが、
この『史記』に書かれた斉の国譲り物語と、
『古事記』に記されている出雲の国譲り物語が、あまりにもよく似ているのはおかしいのではないか?
と思った『縄文日本の宇宙文字』著者である高橋氏は、『史記』作者の司馬遷が出雲の地名をアナグラム技法を使って、漢字名にすり替えたのではないかという疑いを持った。
すると、
案の定、日本の神代文字で表された出雲の地名は、中国の地名にすり替えられたことが分かったというのだ。
詳細は著者である高橋良典氏の本を読んでもらいたいです。
そこで、
ここでは結論だけを述べたいと思います。
初代(BC399〜398)太公田和=タケハヤスサノオ
2代(BC397〜393)桓公田午=ヤシマジヌミ
3代(BC392〜358)威王因斉=フハノモジクヌスヌ
4代(BC357〜340)宣王辟疆=フカブチミヅヤレハナ
5代(BC339 〜300 )泯王地=オミヅヌ
6 代(BC292 〜265 )襄王法章=アマフユキヌ
とこう来て
最後の7代目が
(BC264〜221)王建=オオクニヌシ。
このように、出雲7代の王は「斉」の7代の王として実在したことが分かったという。
そして、
田斉を創始したのは、タケハヤスサノオだったというのである。
つまり、
出雲の国は本来、中国大陸にあって、東の大国として長い間栄えていたのだ。
それが7代目のオオクニヌシの時代になって、西の大国である秦に攻められて、斉の王である大国主は戦わずして国を譲り渡したというのだ。
そして、
大国主は二度と大陸には戻らないと誓わされた上で、日本に幽閉されて終生を津軽開発に励み、最後は岩木山に神隠れされたという。
ここまで来ると、
スサノオと出雲の関係やオオクニヌシとの関係もよく理解できるのではないかと考えるのである。
11月21日は大柴燈護摩供が修されると聞く。
中には、出雲の神々が一体どういう存在なのか、よく分からないと思っている方も少なくないと思われるので、
今回、本の紹介がてらここに述べさせていただいた次第です。
皆様、しっかりとご供養お願いいたします。😶 合掌