このようにして、
ざっと「デラシネ」について述べてきたわけですが、
いろいろと考えを進めるうちに、
人間が創りあげてきているものの意味のようなものに気づきがありました。
そこで、
今回は宗教というものについて考えてみたい、
そう思ったわけです。
そして、
若いころの自分自身を振り返ってみました。
若いころの私は何だかぼ〜っとしていたような気がするんです。
感覚的に存在していたように思います。
丸一日中ギターを弾いて、その音色にうっとりとしていたのです。
朝から弾き続けて、
気がつけば夕方になっていました。
ある意味、
自分自身に因われていたような時期でしたね。
考えて見ると、
悩み事や苦しみなどを抱えていたことが、
その自分に因われていたことの前提となっていたように思うんですね。
作家の太宰治も、『生まれ出る悩み』なんて小説書いていますけど、
それらの悩みもいつしか忘れてしまうものなのでしょうか、
あれだけ悩ましかった問題も、年齢を重ねるごとにサラリと流せたように思えます。
そんな悩みや煩わしいことから開放されるに連れて、
人間が考え出してきた物事の成り立ちが、少し見えて来たような感じがしますね。
それは人が社会的存在として、一人前の人間となるためには、どう在らねばならないかと考える時、そして善い社会を創る必要を感じた時、自ずと必要な分野として生まれるものがあると考えられます。
それは教育であったり、道徳であったり、倫理であったりするのですが、
それらの大本にあるのが宗教なんだということが言えるのではないかと思えます!。
例えば、
孔子が五つの徳を説きましたよね。
人として人格的に完成されていく上で、社会的存在として人間性を満たしていく上で、仁とか義とか礼とか・・・・。
例えば、「仁」は人を思いやることだと。思いやりの心で万人を愛し、利己的な欲望を抑えて礼儀をとりおこなうこと。
「義」利欲にとらわれずなすべきことをすること。⇒「正義」
「信」誠実であること。
こういうようなことは、人が人として当然あるべき存在としての持つべき条件なのではないでしょうか。
それを孔子は考えていったわけですが、
それらの大元にあるのが宗教ではないか。
そう思ったりしたんですね。
😇
あゝ、もう行かなければなりません。
次のステージが待っているようです。