和霊神社ってご存知ですか?
愛媛県は宇和島市にある神社なんですが、
そのご祭神は山家清兵衛公頼公というお方。
この山家清兵衛という方は、最上家に仕え、
伊達輝宗と義姫の婚姻の折、
お付き方として伊達家に士官したのが、
伊達家との関係の始まりだという。
その有能さを政宗は非常に高く評価したらしい。
そして、伊達秀宗。
仙台藩主伊達政宗のの庶長子で、
幼児期は豊臣秀吉の人質になったりで、
とても苦労された方のようです。
そして、
その秀宗が政宗の庶長子ということで、
伊予の僻地の、当時は板島と呼ばれていた宇和島に、
転封されていったわけですね。
で父親の政宗は我が息子のことを心配して、
自分の信頼していた家臣を付けたわけです。
「57騎」と呼ばれた家臣団を付けて、
その中の一人に、
山家清兵衛という家臣も目付の意味も込めて、
長男の秀宗に家臣として付けたわけです。
当時、
宇和島に赴く際の大名行列は、
とても壮麗で華やかだったそうです。
で、
宇和島に赴いた山家清兵衛は、
総奉行(筆頭家老)として、
藩のために実質的な藩政をとった、
そして、
粉骨砕身して働いたわけです。
当時、
宇和島藩は10万石という石高でしたが、
秀宗は父親から6万両を借り受けていたということで、
その返済にはたいへん苦労したということです。
その当時、
宇和島藩領の宇和地方は、
前の直轄者だった富田某という圧政者のため、
大変に疲弊していたのです。
その立て直しに清兵衛は大変な尽力をしたわけですが、
領民の税を免除し、家臣たちの禄を下げたことで、
家臣たちの反感を買ったわけです。
また、
大阪城の石垣普請工事に駆り出されたこともあって、
その費用の捻出にも大変な苦労をしたということなんですね。
かたや藩主の秀宗は、
放蕩三昧の生活から抜けきれず、
また、
政宗の信任篤い清兵衛を疎んじる思いから、
だんだんと、
秀宗の清兵衛に対する反感は募っていったようです。
それが、
「和霊騒動」の発端だった。
元和6年6月29日天深夜、
山家邸が襲われて、清兵衛以下次男三男、
そして、
清兵衛の娘婿の塩谷内匠とその子二人が殺された。
当時9歳だった清兵衛四男も井戸に投げ込まれて殺害された。
だから、
清兵衛一家はほぼ全員藩主の命を受けた、
桜田一派によって殺されたのである。
その清兵衛も、
体格はよくて武術にも長けていたのだが、
蚊帳を吊って寝ていた、その蚊帳の四隅を切り落とされて、
その中で身動きできない状態で惨殺されたのである。
だから、その死体を遺棄するときも、
蚊帳に遺骸を包まれた状態で海に捨てられたそうだ。
その記事を読んで、
私はなんとも「哀れだなあ!」と、
嘆息の吐息を吐いたのだった。
雪国の山形から仙台、
仙台から伊予の僻地の宇和島へ、藩主に従い赴いて、
そして藩政を確立するために、
藩主に成り代わって、藩のために立ち働いた。
その結果、
藩主の命令で御成敗されてしまった。
無念と言うには、あまりにも残念すぎる運命。
清兵衛の怒りはものすごかったらしく、
その後、政敵桜田一派の次々と起こる事故、
桜田玄蕃本人は台風による家の倒壊で圧死。
藩主の秀宗は病に伏すようになり、
息子たちも早死し、
桜田玄蕃の関係者も、次々と変死したりする事件が起きた。
そこで結局、
清兵衛の祟りだということで、
その御霊を鎮めるために、和霊神社が建立されたのだ。
生前の清兵衛は民・百姓からの敬慕篤かったようだ。
その慈悲深い心が、
和霊神社のご利益の厚さとなって、
全国150社以上の建立となって、
今に至っている。
それが今の大変立派な和霊神社である。
(上の写真は丸の内の山家邸宅跡の神社である)
私が書いているのは歴史探訪のためではない。
思い出に花を咲かせているのではなく、
この清兵衛の無念の霊をなんとか助けてやりたいと、
成仏させてやりたいと願っているのである。
なんともあわれな清兵衛の霊に、
救いの手を差し伸べてやりたいのだ。
その祈りの心を集めたい。
多くの菩提を募りたいのです。
※(庶長子:正室の女性以外から生まれた子供のこと)
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