昨日は母に会いに有料ホームへ。
母の好きなものを買い、一緒にお昼を食べるという決まり事。
探すことをせず「ない」という母の言葉にいちいち反論はせず、ノートだとかペンだとか、大した金額でもないので部屋にあるものを再び購入する。
訪問するたびに認知症がひどくなっていくのを目の当たりにして、達観できない自分を、毎回確認する作業は少し辛い。
認知症でも長期記憶はある程度保たれている人が多いが、母はそれもいけなくなった。朝ご飯を食べたかどうかもわからないし、たった数分前の出来事も覚えていない。排泄をはじめ基本的な動作の手順はまだわかるし、他人とある程度交流できるので、それだけが救いだ。
私のことを妹と勘違いするのも毎回のこと。
でも「私に娘がいたのかな?」と、真顔の母の言葉を、今回は受け止めきれなかった。
多分日々の疲れがたまっているせいだと思うけれど、帰るときには不機嫌を隠せない自分がいた。
それまでの人生の延長に老いや死がある。
母と向き合っていると、なるべくして今の姿があるということがわかる。
母は自己愛のひと。自分を俯瞰し他者との関係を熟慮することなく、自分の今の感情を大切にして行動してきた印象を受ける。
子どもをもつことも、育てることも、多分それなりに頑張っただろうけれど、責任というワードは、母のあたまの中にはなかっただろうと思う。
・・・・・今更分析して何になる?もういい加減割り切れば?
もう一人の自分が呆れた顔で心の井戸のなかを覗き込んでいる。