丸顔おばさんのブログ

すべての問題は「心」に通ず。
リンドウの花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」「正義」「誠実」

ひきこもり、初の大規模調査、したそうだ。

2022-06-09 18:50:21 | 心の解放シリーズ
先日、

2022-06-04 投稿
物理的に、支援をする行政の仕組みは、これから整っていくことだろう。
縦割り行政による取りこぼしもなくしていくと言っている。
デジタル化、マイナンバーとの紐づけもされていく。
予備費を積み増した補正予算/こども家庭庁~監視管理のゆくすえ - 丸顔おばさんのブログ
こどもだけでなく、大人への支援もそうなっていくだろう。
でも、根本的に解決していくためには、
過干渉に気がついて、
自分の責任を果たす喜びを経験させてあげて、
本人の自信や意思を育てていくことなんだ。

って書いたら、さっそくだ
以下、記事を転載。赤、こちらで追記。青、おばさんつぶやき。
2022年6月8日 19時33分 
人口およそ70万の東京・江戸川区がひきこもりの可能性がある15歳以上のおよそ25万人を対象に初めて大規模な調査を行いました。

その結果、14歳以下の不登校の子どもなどと合わせ、区内に9000人余りのひきこもりの人がいて40代が最も多く、女性が男性よりも多いことなどがわかりました。

専門家は「潜在化したひきこもりが行政につながったという点で、新たなひきこもり支援の在り方としても注目される」としています。 

区民70万人の76人に1人がひきこもり 

江戸川区の調査は、およそ70万の区民のうち、14歳以下は不登校の情報が把握できているとして除き、15歳以上の区民のうち、給与収入で課税がない人や介護や障害など行政サービスを利用していない人がひきこもりの可能性があるとしておよそ18万世帯の24万6000人余りを対象に去年、初めて行い、8日その結果を発表しました。

ところで、これだと、例えば専業主婦の方で、人と関わりたくない人などは入っていないよな。
私自身は、それが問題とは思わない。
ただ、こういった要件で、勝手にひきこもりと定義するだけでは問題の解決には程遠い。
まず、なにが問題の本質が見えていないんだろうなぁと思った。

問題の本質は、いつも心だ。それは引きこもりに限らずだ。
すべての問題は、人間が起こしている、いや、つくっているからだ。

ところで、
ひきこもりとは、なんなのか。
ひきこもりとは、社会問題とされているけれど、果たしていけないことなのか?


調査は用紙を郵送する形で行われ、回答がなかった世帯には直接訪問して回答を求め、57%余りから回答を得ました。

その結果、ひきこもりとされたのは7919人で、14歳以下の不登校の子ども1113人などと合わせると区内に、ひきこもりの人が9096人いることがわかりました。 


年齢別 40代が最多 

そして、調査でひきこもりとされたおよそ7919人の内訳は、年齢別では40代が1196人で率にして17.1%、次いで50代が1155人で16.6%、30代が968人で13.9%20代が813人で11.7%などとなっています。

女性が男性よりも多く

男女別では女性が3684人で51.4%男性が3461人で48.3%と女性が男性よりも多いことがわかりました。

ひきこもりの期間は

また、ひきこもり状態の期間は、1年から3年未満が28.7%と最も多く、次いで10年以上が25.7%となっています。

当事者が求めているものは

一方、調査では当事者の生活の状況やニーズについても聞いていて、
このうち日常生活の不安について複数回答で聞いたところ
自分の健康が最も多く66%
収入・生活資金が63%などとなっています。

また、ひきこもりの当事者が求めているものについて複数回答で聞いたところ
「就労に向けた準備、アルバイトや働き場所の紹介」が最も多く、21%、
次いで「短時間でも働ける職場」が18%と就労に関する回答が合わせて39%となっているほか
「身体・精神面について専門機関への相談」が16%
「友達や仲間づくり」が15%となっています。

一方で、「何も必要ない、今のままでよい」とした人が32%となっています。

これ、回答したのは、ご本人なんでしょうか?
それともご家族でしょうか?
お仕事の紹介を求めている人が一番多いということだけど、
引きこもりたい人が、本心から、それを求めるかな?
「働かなければ」という観念が強いご本人か、ご家族の回答か?

「何も必要ない、今のままでよい」とした人が32%
というのが、じつは一番多かったということで、
こちらが引きこもることを選択されている方の本音ではないかと感じた。


今後への課題も

調査では、今後への課題も浮かび上がりました。

区は、最も大きな課題として今回調査に未回答だったおよそ7万7000世帯の実態把握を挙げています。

区では、すみやかにこうした世帯に対して追加の調査を行いたいとしています。

未回答がこれだけいる。
回答する余裕もない方、
こんなもんやってられるか、ほっといてくれという思いの方、
いろいろいらっしゃると想像するけど、もうほっといてもらえない社会になりそうな予感だ。

また、調査では、ひきこもり当事者が何を求めているか聞いたところ、32%の人が「何も必要ない、今のままでよい」と答えていて、こうした人たちへの支援も課題だとしています。

見守ってくれる人が全然いない場合など、
行政によるサポートが必要な方もいらっしゃると思うけど、
そういうわけではないのに、
本人の意思に反して行政がヘタに介入してしまうと、よけいに苦痛やストレスになってしまわないか?

育った家庭や職場で、責任というものがめちゃくちゃで、
過干渉や支配をされてきたために、
心がそういう状態になっている方が多いのだと思うけど。

「テーマはなにか、
誰が決めて誰が責任をとることなのか」

こどもが責任をとるべき問題に親が過干渉していると、
こどもはやりたいことを自由にやって達成感を感じながら、自信や満足を育てることができない。(冒頭リンク先参照)
ここが叶っているとき、充実して幸せだから、他人なんてあまり気にしてない。気にならない。
そして、自分を感じていると、ちゃんと相手も感じられるから、人とも心が通う関係が築ける。
自分が薄いと、他人ばかり気になってしかたなくなる。他人がこわくなる。
犠牲者的になったり、そうかと思うと支配したりいじめたり。
脳のタイプにもよる)

犠牲的に従うか、
自分が上の立場になれば支配するか、
しか知らない、
対等な関わり方を知らない大人が社会にはたくさんいる。

「職場であれば、業務の責任が適切か
責任が果たせそうにない場合、話合えるか。」

管理職がリードして話合って、こういう業務の責任の調整ができなければ、
トラブルばかりになっていくし、そういう職場で我慢し続けても自分が伸びない。
だから、その組織はあまり仕事できない人が多いと思うんだ。

行きつく先は、ムリなのに「やれ」ってなっていき、それはパワハラなわけだ。
ムリなのに命令してるわけだから、業務のトラブルが起こるわけだ。
過重労働にもなるわけだ。
これだと、人間関係のトラブルだって絶えないわけだ。

こういった過干渉や支配が原因で、心も体もこわれていき、ひきこもりたい、ひきこもらざるを得なくなってしまった方に対して、
行政までもが「働かないとダメなんだ」という勝手な価値観で、
本人の意思に関係なく介入されれば、それは自分だったらだいぶイヤだろうな~と思った。

自分のもっとも苦しかった時を振り返れば、だれにも入ってきてほしくなかった。
そういう時間が必要な人も、いるんだよ。
それが長期間必要な方もいるだろう。

区ではひきこもりの人たちを支援するため15分という短い時間でも働くことができる仕組みの活用を呼びかけたり、オンラインを含めた居場所づくりなどを進めていきたいとしています。 

少し動きたくなった方にウォーミングアップのような場を提供することは、いいかもしれない。

区長 “実際の数はもっと…” 

会見で江戸川区の斉藤猛区長は
「行政から最も遠い場所にいる人にこそ支援の手を差し伸べるべきだ。
幅広い年代でひきこもりの人がいて、男性と女性は、ほぼ半々で区民全体の課題だ。
今まで顔が見えなかった人の顔が見え、支援のきっかけができたことは成果だが、調査に答えてもらえない区民がまだ半数いるので、実際のひきこもりの数はこんな数ではないと思う。こうした人たちへのアプローチを引き続き続けていきたい」と述べました。

76人に1人もすごいけど、もっと多いでしょう。

それは、未回答の人もだし、
調査対象にはなっていない
働いている方、専業主婦の方のなかにも、
心が苦しい方、人と関わりたくない方、無気力な方、やっとの思いで生きている方はたくさんいらっしゃるからだ。

専門家 “新たなひきこもり支援の在り方”と評価

ひきこもり問題に詳しいジャーナリストの池上正樹さんは
「江戸川区のような大規模な自治体で全世代を対象に直接行う調査ははじめてだと思う
非常に画期的で、これまで見えなかった引きこもりの人たちの困りごとやニーズなどが見えてきたという意味でも非常に注目される。
潜在化したひきこもりが行政につながったという点で、新たなひきこもり支援の在り方としても注目される」と話しています。

行政とつなげるために、今になって本格的な調査したんだろう?

また、「都市部は地方に比べると、よりつながりが薄いという地域性があり、特に団地とかタワーマンションでは実態がほとんどわからなかった。
周囲から見えにくいため、都市部で顕在化してこなかった」
として都市部のひきこもりの実態に迫る貴重な調査だとしています。

そのうえで「どうやって行政がつながりを継続していくかということが最も重要だ。困りごとに寄り添っていくという専門のスタッフの育成も大切でそういうことができる人がまだ少ないのではないかなと実感している」と述べ、
ひきこもり支援の専門家の育成などを国なども含めて、社会全体で考えていくべきだと指摘しました。

カウンセラーなど、心理の勉強をされた専門の人はたくさんいるけど、
それで問題を解決できていれば、こうなってはいないだろう。

そもそも ひきこもりの定義とは?

ひきこもりの定義について厚生労働省は、
『仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人と交流せずに6か月以上続けて自宅に引きこもっている状態』としていますが、
区は、今回の調査では6か月という期間を除き、
仕事や学校等に行かず、家族以外の人との交流をほとんどしない人』と定義しました。

え~、それじゃ、わたしもひきこもりだな。
こんな一方的に決められた定義で「ひきこもり」認定されて、行政から支援がくるのかな?

調査方法は?
これまで行われてきた政府の引きこもりに関する調査は一定数の人を対象にしたうえで全体の推計を行うというのが主な方法でした。

このうち、内閣府がひきこもりについて2019年に公表した調査結果は全国の40歳から64歳の男女5000人を対象に行った調査でこの年齢層の全国の「ひきこもり」の人の数をおよそ61万人余りと推計しました。

どうして今まで、推定しかしていなかったのに、
今になって初めて本格的な調査をすることにしたんですかね?w
あ~、ゴールまで、あと少しですなぁ。
本当に、ひきこもり問題を解決する気があるのでしょうか?
解決したいなら、心と向き合わないとムリなわけだけど、
定義だけ決めて、勝手にひきこもりと決めても、
心がどうなっているか、見えないでしょう。
(これは心の病の診断などでも感じるけど。便宜上、人間が決めた基準に過ぎない)

そういう感じの行政にできることは、必要な方への見守りと、生活保護など必要なサポートにつなげてあげることくらいではないだろうか。

一方、今回の江戸川区の調査は、およそ70万人の全区民の中からすでに不登校を把握している14歳以下を除いたうえで15歳以上のうち、
給与収入で課税がない人や介護や障害など行政サービスを利用していない人がひきこもりの可能性があるとして
およそ18万世帯の24万6000人余りを対象に直接郵送し、回答がなかった場合には直接、訪問して行われた点が特徴となっています。 

ご本人が出てこなくてご家族が代わりに回答したケースも多そうだな。
働き場所の紹介を求めているのは、家族の希望である可能性がある。


こんな社会になったのはなぜか?

「パワハラ」でツイッターを検索すると、山のように出て来る。
ご本人に仕返しすることが実現したんだな。

パワハラに耐えてしまうと、
自分が上の立場になったとき、下の立場の人にパワハラするようになる。
親に支配されて育った人は、自分が親になったとき自分の子を支配する。
これは今に始まったことではなく、昔からこんなことをしてきたわけなんだけど、
これにデジタル化や管理社会、便利すぎの社会という、
感情や実感、意思や自信が育ちにくいという現代ならではの要因も加わって、
ますます自分の心の幸せを感じにくい、きつい社会になってしまっている。
(冒頭リンク先参照)

うつっぽくもなる。わたしも長い間、易疲労感に悩まされた。
こういう環境にいれば、誰でもそういうふうになるのね。
だから病気と思わなくていいんだ。
支配関係にずっといると、そうなる。
なのに環境を変えたり、心と向き合うことをしないで、
病気と診断して薬が処方される世の中なのね。
(再度引用)
自分を感じていると、ちゃんと相手も感じられるから、心が通う関係が築ける。
自分が薄いと、他人ばかり気になってしかたなくなる。他人がこわくなる。

てことは、他人じゃなくて、心の目を自分に向けて、自分の感情を感じてあげることが少しずつ回復していくコツなんだ。
関連記事:

自然に動きたいと感じられるまで、休む必要がある。
だから「ひきこもり」ってマイナスにとらえているけど、必要だからそうしたいわけだ。
OKして心を見てあげることなんだ。
心が怪我してる状態で痛くて動けないわけだ。
あるいは怪我しやすいもろい状態だから、自分を守っているんだ。
無理して働いても、自分を守れないと自分の無意識は知っているから、ひきこもりたい気持ちにさせるんだ。
それは育った過程も関係あるから、多くは親にも責任があるから、
こどもをダメだ責めるのはまず、筋違いだ。

職場で業務の責任がおかしかったり、
責任を果たせない可能性があるなら、自分から言っていくってことなんだ。

私の身内が、数年前、過重労働に苦しんでいてね。どう見ても不可能な量の業務を押し付けられるという状況でね。私、言ってやったの。
「ここまではできるけど、これ以上は責任をとれません。できません」と上司にきっちり言ったほうがいいぞと。それやると会社が赤字になるとかごにょごにょ言ってたけど、結局言ったのね。やつは。ムリなもんはムリで、そのままにしてても問題になるのは分かりきっているから。
言っておくってことが大切だ。そして案の定、仕事がやりきれなかったときに、「自分はあのとき『これ以上はムリだ』と言いました」と主張できる
つまり、業務の割り振りを適切にできなかった上司に責任を返すことができる。
言っとかないと、自分が案の定仕事をやりきれなかったときに、全部自分の責任にされるだろう?
この場合、業務の責任の割り振りというのがテーマで、これをやるのはヤツの上司だ。よって上司に責任がある。
だから上司に責任を返す必要がある

これができて、成功すると、ものすごくうれしいんだ。
争わず、トラブルになる前に自分から問題を解決できたんだ!って。
自信もつく。
うつの方向に行くか、問題解決して自信をつける方向に行けるかの分かれ道だ。

案外簡単に成功すると、ちっとも我慢したり戦う必要なんてないんだってことに気が付く。
こうなっている人は、これまでの人生で、
責任に焦点を当てて、話合って、問題を解決した経験がないと思われる。
話合わずに命令することしか知らないし、自分もそうされてきた。

だから、いやなやつってだけでなく、
仕事もできないし、いっしょにいると、トラブルに巻き込まれる。
でも、自分もその人に従っていれば、将来そういうふうになる。

そういう関わりしか知らない。
そういう人が多い社会だ。
こういう社会だ。

だから、お子さんにこういった問題が出ているなら、親御さんも似たようなパターンを持っていたりする。

じつは、こどもの問題を解決しなきゃなんて思う必要もないんだ。
それもまた過干渉であるともいえる。
自分が子どもの自信を育ててあげられなくて、子どもは動けなくなっている。
なのに、「働かなければならない、問題だ」と親が思っている。
それも支配で、その意識が本人に伝わる。

親が責任を見極めて、そういうのをやめていくってことなんだ。
親自身の問題を解決して、自分を楽に解放してあげることなんだ。
たぶん、子ども以外の人とも支配関係であるはずだ。
そこを働きかけたり距離を調整して、楽にしていくってことだ。
いやなことはやめていく。嫌な人ともつきあうのをやめる。

親自身が自分の支配パターンから抜けて自分を救ってあげると、親の言動のパターンが変わる。
楽になると、こどもにも、へんなプレッシャーをかけなくなる。
そうなると、こどもや周りも、解放されて楽になるんだ。

過干渉してしまっているとき、自分もなにかの支配を我慢して耐えている。
そこから離れて、自分が自立することだ。
するとこどもも自立へ向かいはじめたり、いい流れになっていく。

頼まれごとばかり、ということは、業務の責任がめちゃくちゃだったということだな。
こんな職場ばかりだ。

職場のトラブルは、全部、業務の責任に焦点を当ててみると問題が見えてくる。

上記のように、自分から話合って解決できれば、そこは、けっこういい職場だ。
そこが話合えない、どうにもならない職場もたくさんある。
わざわざそう言う職場を選択しないということが大事だ。

泣いたからダメとかじゃないんだと思うんだ。
そうなる前に、
業務の責任の範囲が相当におかしかったんだと思うんです。
そこを話合えないことが問題なんです。
だから泣きたくなったわけです。
そして、話合えないまま耐えて、お局になった人が、
後輩にこういうパワハラをするようになる。

でも、
わざわざそういう職場にいる必要がないだろう?

がまんしなくていい。そこから離れたほうがいい。

第一は自分のため。
そして、
耐えて我慢することは、そういう職場や支配者を支えることになる。
多くの人が支えている限り、そういう職場は、なくならない。
そこに居続けるならせめて、自分から働きかけてみることだ。


業務の責任がめちゃくちゃである原因のひとつは、人手不足や経営難、不景気。
バブル崩壊、失われた10年、郵政民営化、アベノミクス、コロナ、
搾取され、どんどん貧しくなって、過重労働や過剰な責任を押し付けるパワハラが横行する世の中になってしまった。
業務の責任が適切になるように話合うと、潰れてしまうような組織。
そういうところで我慢して耐えても、先は短いかもしれないし、
持ちこたえたとしても、自分が伸びていかないのではないだろうか?

あ!

こんなふうに怒鳴り散らすだけで、建設的に対等に話合うということができない。
相手の話は聞かない。
脅して言うことを聞けと、支配するのが彼のパターンだ。
だからこそ、あの時期に、ワクチン大臣をされていたわけだ。
ワクチンの推進のしかたも、まさにそうだったわけだ。
人のパターンはだいたいどこでもいっしょなんだ。

社会がピラミッド構造なもんで、河の上流にいる人がこんなありさま↑では、下流はもう悲惨なわけだ。
そういう、でっかいピラミッドの下流である我々の職場がパワハラ体質になるのも、当たり前だ。
上流にいるやつらの言動を見ている限り、そんなやつらばかりだ。

ひきこもり問題、解決する気があるなら、
河の上流のやるべきことは、
外国のあいつらとも対等に話合える、まともな人に権力をゆずることかなぁ。
だから河野さん自身が、強いものに対しては、卑屈に従うことしか知らないということだ。
添付記事にそう書かれちゃってるけどw

100%支配者だけの人も100%犠牲者だけの人も、いないんだ。

支配者も、自分より強い者の前では卑屈な犠牲者なんだ。
逆に、弱そうに従ってても、自分が上の立場になるとパワハラしているものだ。

上から下までこういう社会なので、引きこもる選択をされる方は自分を守っている。
親もそうならば、親からも自分を守る必要があるから、部屋にこもりたくもなる。

上記ツイートにあったように、フリーになったり、会社起こして、とできる方はいいけど、
それが無理な場合、引きこもって自分を守ってる方は大勢いる。

ひきこもることは、意識の視点から見れば、自分を守るための賢明な選択だ。
ただ、本人が、頭で考えすぎて、自分の本当の心をダメだと無視しているから、
「働けないのはダメなんだ」と思いすぎている。
これだといくら休んでも、癒しの方向に行きづらい。
それはじつは逆効果で、その必要はないと書いた(冒頭リンク先記事参照)

まず社会がこんなありさまだから、きつくて当然なんだ。

さらに便利すぎ、管理社会、自然から切り離された社会で、
自分の心や自信、感情が感じにくい→意思や自信が育ちにくいという問題がある。

それは親にも責任がある。(親も子もわかっていないけれど)
だから、働けなくて親に申し訳ないと言うけれど、
「悪いけど今こういう状態だから、しばらくひきこもらせてくれ。贅沢は言わないから。」
とお願いしたっていいのではないか?
自分が困ったとき、助けを依頼できることは、じつは自立への第一歩で、とても有効なことなんだ(冒頭リンク先参照)

そして、犠牲者的な意識、心の傷を癒すことなく転職しても、また同じような職場に行きついてしまいがちなんだ。

その意識のままだと、パワハラっぽい支配的な職場がいいように見えてしまうんだ。
やっぱりなじんでしまう。

堂々と引きこもって、ゆっくりそこのところに取り組んでいくと、自分の行く道が見えてくると書いた(冒頭リンク先記事)

あせらないことだ。そして、感情を感じ切ることだ。
心の目を外ではなく、内に向けることだ。

そして、余裕が出てきたら、上記引用した私の知人のように、
責任を見極めながら、自分から働きかけて話合う、という新しいやり方を少し学ぶことなんだ。
ちょっと試して成功すると、こわくなくなっていく。
すると過去の傷も癒されていくんだ。



引きこもりのお子さんを抱えるご家族のお話

2022-06-04 20:55:14 | 心の解放シリーズ
前回の記事で引きこもりについてのお話を書いたあと、YouTubeのおすすめに出てきた動画だ。
私がなにを書いているか、全部、監視、いや、把握して、興味に合う動画をアルゴリズムで出してくださるからな。。

でも、見させてもらうと、私自身、いろいろ感じることがあって、
なにより、登場する方が、ご自分が苦しいときに、取材に応じて苦しいところを見せてくれていることが、ありがたいと感じた。

それが多くの人に問題提起し、解決方法を考えるきっかけを与えてくれる。

【NNNドキュメント】54歳引きこもりの娘と無職の兄63歳 91歳父の死で変化は NNNセレクション
内容:
54歳引きこもりの女性と無職の兄63歳の面倒を、91歳のお父さんが見ているというご家庭だ。

そのお父さんが亡くなった。だぶん亡くなる前後の2年間くらいを取材した動画だと思われる。

お父さんが亡くなって、保険証の場所も分からない。

月18万円のお父さんの年金で一家3人暮らしていた。行政からの経済的支援は受けなかった。

お父さんはすごく働き者で、女性は一日中スマホをしている。

18歳の時パートに行ったんだけど、
「しゃべらないし、簡単なことしかできないから、2年くらいでやめさせられちゃった」

そこから引きこもり35年。


長男も怪我で仕事をやめたあと、引きこもりに。
一か月パチンコに4万、たばこに2万、カネを使われ・・・

お父さんは5年前、死のうと失踪した。でも死ねなかった。
「もう世の中に許してもらいたい。しょうがない子どもを作ってしまったことをですね」

二男の方は自立されていて、ときどき家族の様子を見に来る。
お父さんの相談にのったり、アドバイスも適切だ。
二男の方が来ると、家族もほっとする。
女性も外に出るように。

お父さんは突然亡くなってしまった。
長男は葬儀には出なかった。「働けんでごめんね」と言っている。

女性は、家を離れることになった。
パチンコをやめられない長男は、おいてかれる。

二男「兄の近くだと妹の生活保護費まで使われてしまう可能性があるのが一番の理由」

女性は、6畳一間の二男の方の住まいの近くで一人暮らしを始めた。
ペットのモルモットもいっしょだ。

お父さんは生前モルモットのエサも調達。
父「もう草いかんぞ」
娘「ないね、なかなか取る場所が」

女性は初めて友達ができた。
友達が作ってくれた焼きそばを食べて「これ、肉が入るともうちょっと・・・」
友達、苦笑。
女性「あ~ごめんなさい」

お友達は、二男の方が立ち上げた、引きこもりや不登校で悩む人の会のメンバー。

「モルモットのケージのそうじしていい?」

自分の関わりが少しでも助けになったら。

『やってね』ではなく『いっしょにやろうか』が女性にとってありがたい。

二男「よかったね。いろんな人と関われて。人がこわかったのがウソみたいだね」

1人暮らしを始めて2か月、また疎外感を抱き始めた。

長男の方は、部屋の掃除を済ませていた。
「はやく、じいさんのところに行きたいだけ。もう帰って」



まず、「働けないからダメだ」って思わなくていいってことだ。
これはみなさんに言いたい。

そういうふうに人の心はできていないんだ。

女性は動物が好きなんだね。
好きとか、かわいいとか、ちゃんとプラスの感情を感じている。
まずここが、すばらしいではないか。それすら感じられない状態だってあるからな。

とりあえず、女性は支援を受けながら、一人暮らしを始めた。
これもまた、すばらしいではないか。

必要な助けを周りの人に求めながら、
自分の今の生活がよりよくなればいいな~と思いながら、休み休み生活する。

これでいい。

働かなくちゃとか、あんまり一生懸命にやっちゃうと逆効果なんだ。
これをするから、その反動でまた憂鬱気分になるんだ。

やりたくないときは、立ち止まって休む、とするだけで、自分を愛することになるから心のエネルギーが充填されるんだ。
ここを無視してムリすると、人は、マイナス感情になってしまう。
うつ傾向があれば、うつっぽさが出てしまうんだ。ムリすると。
そうなると、ますます「動きたくない」ってなる。

だから休み休みやる。
ずっと動きたくないなら、「永遠に休んでいいや」ってする。
すると逆に永遠に動かないことは、ないんだ。

心のエネルギーが充填されると、少しずつ、うつっぽさ、憂鬱っぽさが少なくなって、意欲を感じる瞬間が増えてくるから。
すると、自分がこわくない、しんどくない範囲で、
ちょっと、あれがほしいなとか、食べたいなとか、なにか欲求を感じてくる。
それを自分で叶えられると、満足を感じる。達成感を感じてうれしい。気持ちがいい。
そうしていると、だんだん自信がついてくる。
これも、あせらないことだ。
いつかはそうなるんだ、くらいに思って、今休みたいなら休んでいたほうがいいんだ。

意欲が出てきたときに、好きなモルモットのお世話をする。

やっぱ、モルモットはかわいいなぁ、いとおしいなぁと感じる。

「そっか、もっとケージの中をこうしたら、これを入れてあげたら、モルモットは喜ぶかな?」と思いつく。

ちょっとペットショップに買い物に行こうかな、とちょっと意欲が出る。

で、やってみる。
必要なものが自分で調達できてうれしー!、モルモットも喜んでいる、やった!と満足と達成感を感じる。

こんなふうに、自分の今の生活のなかでのプラスをすこーしずつ増やしていくことなんだ。

すると、これが大きくなっていくと、「なにか、動物に関係した仕事で、できる仕事ないかな~?」と結びついていく。

こうなると、「仕事しなければ」、じゃなくて、「やりたい」か「やりたくないか」という意欲をベースに検討しているはずだ。

「働けないから自分はダメなんだ」っていう意識と全然ちがうの、わかるかな?

自分が「したい、だからする、できた、うれしい」っていうのをやっていくと意思がどんどん育っていくんだ。

だから、引きこもりの方も、うつっぽい方も、
こういう↑夢をかなえたスターも、
心の仕組みとしては、いっしょなんだ。

スターだから特別な人、自分は凡人だからムリだ、なんて思わなくていいし、
それは当たっていない。
時間をかけて、マイナス感情よりもプラスが増えてきて、
そのまま行ったなら、プラスが爆発して、自分だっていつのまにか夢を叶えているはずだ。
だから問題の解決、心の苦しさの解決と、夢の実現は、別々ではなく、同じことなんだ。
そういうわけだから、つねに希望しかない。
絶望したいときはしてもいいけれど、それは幻だ。

「働けないからダメなんだ」というのは、
そういう自分の喜びや欲求、才能、特技を無視して、
せっかくの自分のよさを抑えて、ただ社会に合わせるということだ。

そう言ってるとき、我慢して社会に適応しなければという気分だ。

こういう気分でいる限り、自分の創造性にたどりつけない。

だから、「働けないからダメなんだ」 って思うことを、やめていい。

これは、人間の創造力を無視した思考だ。
(人間から力を奪うために植え付けられたウソの価値観だ)

有害無益だから、やめていい。


創造力は、責任を果たす喜び、満足感を味わわせてあげないと伸びていかない。

子どものときはまだ無邪気で、のちに経験する「人がコワい」とか、うつっぽさもなかっただろうから、
そういうつらい経験をする前に、責任を果たす喜びを経験させてあげることが大事だと思うんだ。
でも、いくつになっても遅すぎることはないんだ。
つねにそこから、いつでもできることだ。
苦しい状態でいる時間が長いと、それを癒してプラスが増えるまで、時間がかかるというだけだ。
ゆっくり時間をかけたら、いいんだ。

そして、少し、欲求が出てきたら、
自分がしたいからする、と選択する。その責任は自分でとる。
やった結果も、自分が責任をとる。

もし、こわければ、ムリだなと感じるなら、選択しなけりゃいいってことなんだ。
こう考えると、安心だ。
「責任」と重く考えなくて済む。
こわいことは、まだムリなのかもしれないんだ。
自分でできそうかどうか感じてみて、どうするか決めさせるってことだ。
失敗してもいいけれど、すると自分が決めたなら、失敗を経験するのも自分やでと。

ここを親が肩代わりしちゃダメなんだ。
やってあげたい親としては我慢のところだ。
親がやってあげちゃえば簡単なんだけど。
子どもから責任を取る機会を奪うと、こどもを無力にしてしまうんだ。
自負心を傷つけてしまうんだ。

ということは、ふだんから、
親が自分を犠牲にしてまでやってあげすぎないほうがちょうどいいんだ。
子どもや家族に尽くさないほうが、こどもも家族も自立していくってことなんだ。
むしろ親が自分を楽にしたり、好きな事をしたほうが、子どもの自信と自立を育てることになるんだ。

例えば、子どもが勉強をしない。不良仲間と遊んでいる。とか、いろいろ心配になることがたくさんある。けど、ムリに言い聞かせてもムダだ。
「お母さんから見たら、おまえそのうち困ることになると思うけど、自分で決めなさい。その責任は自分がとるんだよ」
と言って、離れる。

それで親自身が自分の欲求や感情を大切に生きることだ。それをしなかったから、子どもが引きこもりになったり、問題を起こしたりするのだ

親がやってあげすぎちゃうことで、子どもが自分の責任を果たし自信をつける経験ができなくなる。

やってあげすぎているとき、親もしんどいわけだから、自分でやらせればいいんだ。

お父さんは生前モルモットのエサも調達。
「もう草いかんぞ」
「ないね、なかなか取る場所が」

きっとモルモットを飼うと決めたのは女性だと思うので、そのお世話も女性の責任だ。
だから、お父さんは、もっと早くに責任をお嬢さんに返してあげてよかったんだ。


・次にお父さんの視点から。

90のお父さんは、とにかくよく動く。
お掃除から家計簿を細かくつけることまで。

きっと昔から、こどものために、お世話がよかったんだと推察する。
マメで働き者で、こども思いのお父さん。

たぶん、子どもが「やりたい~」と選択したことを、
自分でやって責任を果たす(失敗も含めて)
っていう経験を邪魔しちゃう、やってあげちゃう場面がけっこうあったのではないだろうか?
モルモットのえさのエピソードとお父さんの働きから推察するに。
昔はお母さんもいたわけだから、夫婦でそのように子育てされていた可能性を思う。

おそらく、引きこもりになってしまうお子さんは、今後ますます増えるだろう。
管理されすぎた人間は意思を失っていく。
それは、野生動物と、動物園の檻の中の動物、くらいの差がある。
(中略)
管理されすぎも、意思がなくなるという点では同じことだ。
昔みたいに元気いっぱいの人がめっきり減ったのは、管理社会がすすんでいることも、大いに関係がある。
無気力な人が増えているのは当然だ。

このご兄弟の子どもの頃は、まだいまほど管理社会ではなかっただろうけど、
責任を果たす喜び、失敗も味わわせてあげられないと、誰でもこうなってしまうことを示唆していると思うのだ。

90のお父さんのこどものころは、まだ戦争していたよね。

私の父は戦後生まれだけど、
こどものころ、チョコレートが食べたくて、よく自転車でお店に買いにいってたんだって。で、帰り道、自転車をこぎながら、買ったチョコを全部食べちゃうんだって。
家に着く頃にはチョコはない。

たぶん、そんなふうにして夢中に食べるチョコは、相当にうまかたんだろうね、当時。

自力でチャリを漕いでわざわざ買いに行って、すぐさまもりもり食べちゃう。

これは、強烈に五感を喜んで味わっている。
そしてそれは、自分の力で獲得してやったぜという達成感と喜びがある。
オレが自力で勝ち取ったという喜び。

ささいなことだけど、こどもにとっては大きなことだ。
こういうのが自信や気力になっていく。

これが、現代の今の子どもには非常に少ないんだと思うの。

たぶん昔の人は生活全般がこんな感じだったのではないか?

全部がアナログだったから。

そして戦後、物がだんだん増えてきて、自分もがんばればゲットできるんだ、そういう希望と達成感と喜びをみんなが味わいながら成長したと想像する。
団塊の世代のみなさん、お元気な人が多いもんね。

で、その親たちも忙しかった。

家事もいまより大変だっただろう。家族全員のごはんをつくるだけでも大変だっただろう。畑をやってる家もたくさんあっただろう。
商売をやってる家もあっただろう。

すると、母ちゃんは家にいるけど忙しい。
子どものそばにはいるけど忙しくしてて、過干渉にはなりえない。

こどもはそこらへんで、勝手に子ども同士で遊んでいる。

遊びもメンコとか、いまより体を使う遊びが多かっただろう。五感や体や手先を使う遊びだ。

こうやって大人になった私の親世代は、たくましい。

自分の五感と達成感を感じて成長したから、自信がある。意思もある。エネルギッシュだ。

ただ、昔の親のしつけは、たぶん今よりずっと荒っぽかったと思う。
お父さんはいばっている人が多かった。お母さんもか。
すぐひっぱたく、とか。頭ごなしに叱るとか。
そういう育てられ方をした息子、娘もまた支配に生きている人が多いように思う。
でもたくましさと根性がある。

自分がたくましく根性があるものだから、いい親になろうとすればするほど、こどもにいろんなことをやってあげたいだろうと思う。
それが、こどもにとって、いいことだと思っているんだね。
それだと子どもの自負心を傷つけてしまうという弊害がわからない
ここがせつない。
こども本人も、周りも、社会も、まだそこまで分かっていない。
こういうのが当たり前に知られるようになればいいなと思ってるんだ。
少しずつ。親を責めるのではなくて。
これは仕方がないんだって。全然時代が違うんだって。

意識も、たくましく根性ある親と、自信が無い状態で苦しい子どもと、まったく正反対になっちゃってるんだって。

それで、今のこどもはというと、もうチョコレートは、たぶんつねに家にある。
自力でチャリンコをこいでまでゲットしなくとも、おかーちゃんが買ってくる。
手を伸ばせばいつでも食べられる。
味は昔よりもおいしくなっているけれど、私の父の子ども時代のような、自力でゲットしたありがたい味わい方ではないんだね。
あんなに五感を、喜んで感じながら、ハングリーには、味わってはいないだろう。
ゲームの片手間に手を伸ばして、なにげに食べるって感じかな?
これだとせっかくのおいしいお菓子もあまり味わっていないはずだ。

そして遊びはゲームだ。
五感や肉体は、あまり使わない。コントローラーを操作する指にまめができるくらいだ。
ただ、勝ち負け、クリアできたかどうか。
そういう喜びだ。

想像力も育たない。
なぜなら画面のなかのキャラクターが勝手に動いてくれるのが、動画やテレビやゲームだ。

昔は絵本しかなかったから、絵の中の動物は動かない。
このさき、このお馬さんはどっちに動くのかなぁと自分の頭で想像して楽しんでいたはずだ。昔のこどもは。おのずと主体的に遊ぶようになる。遊びを創造するようになる。

それに対して、自分から想像力を働かす必要がない動画やゲーム。テレビ。
これだと完全に、受け身だ。

意思や想像力、主体性が育たない。

代わりに勝ち負け意識が育っていく。
ゲームでクリアしたか、悪者を倒したかどうか。
悪者を殺しても血は流れない。

自分の想像力、五感、感情、意思、リアリティが乏しいのに、
勝ち負け意識ばかりが育つとは、
自分が感じられず、他者ばかりが気になるという状態だ。
これは、他人がこわくなるに決まっている。

心の法則として、
自分を感じる分量が少ないと、他人を気にする分量が多くなるんだ。

だから、こわいの。

でも自分の感情をつねに感じていると、

カンタンなんだ。
自分のハートを感じていると、他者の気持ちも感じられるんだ。
だから仕事でもお客さんの気持ちや要望、同僚や上司の思いや意図なども適切に感じられる
。いろいろと解決策も浮かぶだろう。
自分を感じていれば、集中してるから頭の回転も自然によくなるし。

しかし他者の目を中心に生きていると、相手を気にして顔色をうかがっているわりに、相手を適切に感じられないんだ。的外れなんだ。当たってないんだ。
そしてエネルギーも外に漏れちゃってる感じ。もがいているわりに解決策も浮かばないだろう。
だから他人の評価をすごく気にしてるわりに、仕事できないってなっちゃうの。

仕事できないから怒られちゃうでしょ?上司から。そうすると自信なくすでしょ。
自分が信じられなくなるし、失敗したらどうしようと恐れの気持ちがますます強くなる。

女性は18歳のとき初めて仕事をしたとき、このループにはまってしまって、人がコワくなってしまったのかもなと思った。

恵まれすぎていると、自分の責任を果たす達成感を感じにくい。
自信が育たない。
お金持ちでエリートの家の子が崩れていってしまうのは、こういうのがある。
お手伝いさんや親がすべてをやってあげてしまうから。

だから、現代はお金持ちでなくとも便利になりすぎてしまったから、
意図して、そういう機会をつくってあげたり、
こどもがやりたいと意思を示した時は超貴重な機会だから、
親がやたらと触らないで見守ってあげる、最後まで責任を果たさせてあげるってことが必要かなと思う。


でも、90歳のお父さんには、なにが起きているのか、どうしてこうなってしまったのか、なにがなんだか、わからない。
当然だと思う。

自分のこどものころとの違いがわからない。
なんで、こどもが苦しんでいるのか、わからない。
苦しむこどもがかわいそうで、自分にも責任があるから、せめてできることを、最後までと、なおさらやってあげる。

こどもも年月が経てばたつほど苦しくなって、動けないとなるから、
もうやってあげざるをえない。

自分は年老いていく。

罪悪感に苦しむ。

短い動画のなかに、お父さんと3人のお子さん、お友達とたくさんの人が登場するけれど、それぞれの視点から見える景色、取り組むべきことが全然ちがうんだ。

いい悪いじゃなくて、そんな現象がおきていることを、さりげなく教えてあげたくても、
責められたと受け取ってしまって、逆ギレする人もいる。

私自身の経験では、
さりげなく救いの手を差し伸べても、自分の問題と向き合いたくない方は、救いの手も振り払う。
そして誰かのせいにしつづける。

たぶん罪悪感に苦しんでいるから、責められたと過剰反応してしまう。
感情で感じられないから、言ってることの意味がわからない。
すると解決策を提案してあげたくても「聞きたくない」となる。

子どもの問題であっても、自分のこれまでの行動パターンと向き合うことになるから、そうするのがコワい人や準備ができていない方は非常に抵抗を感じ、ちょっとムリなんだ。

高齢であるならばなおさら、難しいだろうなと思う。

もしかしたら今回の人生では、せいいっぱいこの状態を経験して終えたいのかもわからないんだ。

どうしても我々はまだ自分を犠牲にしてでも人のために一生懸命やるのがいいことなんだっていう思い込みがある。
そして、人の自信ができあがる仕組みや、責任と心の関係を知らない。

それなら、周りはそっと様子見しながら見守るのが適切だろうと思うんだ。

長年苦しみ抜いた親子にとって、今までのパターンを変えるのは、簡単なことではない。
3人のバランスもある。

危険な、苦しい状態になっていないかだけ見てあげて、なんとか生活できているなら、それでいいよとしてあげる。

だから二男の方のサポートも適切だなと思った。


・次は二男の方の視点から。

二男の方は自立されていて、引きこもりや不登校の方の会を作っているということだ。

きっと長年ご自分の家族を見てきて、こういった方たちをどうサポートするのが適切か、研究され、取り組んでおられたのかなと想像する。

だからきっと、お父さんがお元気で生きているうちは、
お父さんの責任を邪魔しないように、見守ってあげていたんだな。
問題が起きていないか、暮らしていけているかだけ、注意してあげている。

長男と妹さんはお父さんに依存しているし、とっても好きでもあるし、
お父さんにも子を生み育てた責任がある。
それを最後までなるべくそのまま果たさせてあげたんだね。

長男の方がパチンコにお父さんの年金を使ってしまう問題があって、
私は少しパチンコを減らせないか、話合ってもいいかなとも思ったけど、
長男の方がそれに耐えられないなら、暴れてしまったり、心が不安定になったりすることも考えられるから、
「あいつがパチンコにカネを使ってしまう」とお父さんがこぼしたときに、
「あまり締め付けてもいかんからね」と状態を知っている二男の方は言ったのだな。

年金で3人生活という状況で、カネを使われるのも苦しいし、パチンコで心のバランスを保っている長男の方も苦しいし、その長男の方も働けんでごめんって罪悪感を感じている。
みんなが苦しい中でのバランスなんだよな。

そこを正論で急激に解決しようとしてもムリだから、相手がまだ無理なら見守る。
危険な状態になってきたら、そのときは介入する、次なる策を考えるってことなんだな。


・次に働けなくなってしまった長男の方の視点だ。

同じ親に育てられて兄弟であっても、心の状態はいろいろだ。

わりと一番上の子は、最初の子だから、大事に育てられる。
それは、過干渉になりがちともいえる。
そして長男はプレッシャーや、期待に応えなきゃとか、
期待に応えられなかったときの罪悪感とか、そういうのが大きいことが多い。

するとどうしても心が縛られがちだ。

悲劇のヒロインタイプの支配というのがある。
「助けてくれ」とはっきり言わないで、かわいそうな、つらそうなそぶりな態度で相手の同情を喚起するという支配だ。
そうやって相手を支配するというのを、やってしまうことがある。
女性に多いだろうか。涙や愚痴や態度を使った支配。
母親が息子に対してしているのをよく見る。
こんなふうに子どもを味方につけて夫と争う、とか舅姑と争う、という妻をよく見かける。
長男の人などこうされて育っている方が多いので、必要以上に親孝行しなければならないと思い込んでいる方もいる。その期待に応えられないと罪悪感を感じる。
これは不当な罪悪感だ。

まずはそれを自覚することだ。たいていそれは母親と父親の問題だ。
息子は関係ない。だから離れた方がいいんだ。関係ない息子がかわいそうだと入っていくと、父と母はいつまでも向き合えないんだ。
そして長男自身が結婚して、親の期待に応えたいのに妻がそれを拒むと、また家庭がカオスになる。こうして代々親と同じような家庭を築くことになる。

こういうケースも、ある。

一番下の子(ここでは女性)は、一番小さくてみんなに大事にかわいがられるから、
そういう意味で甘えんぼであったり、また過干渉にもなりやすい。

それに比べると、真ん中の二男の方は過干渉から逃れ、心の自由があったのかもしれない。
自由であると、責任を果たす喜び、達成感を味わうチャンスが自然にできる。
こうして、自信を育て、自立されたのかもしれないなと思った。

長男の方は、あまり多くを語っていない。

末っ子の女性は、人がコワいというけれど、自分の気持ちなど、けっこういろいろ話してくれる。
そして動物が好きとか、プラスの感情も見られる。


どうしても、女性と比べると男性のほうが、感情を感じにくい、感じること自体苦手であったりする。
怖いことをコワいとも言えなかったり、表現することも抑えて、本当に苦しいとき、おしだまってしまう方が多い。

だから、マイナスの感情も見て、感じてあげることが、楽になる方法であるから、
そんな感情を見ないで抑えてしまうと、そこから抜けづらく、苦しいだろうなと想像する。

女性が少しプラスに行き始めたのは、そんな苦しい感情も素直に表現できるからかなと思う。

長男の方は、
「はやく、じいさんのところに行きたいだけ。もう帰って」
と最後言っている。

今は一人でいたいんだね。

お父さんが亡くなって、責任が、それぞれのこどもたちに返された形だ。

今までは、お父さんの年金でパチンコしていたけれど、これからは自分の生活保護費から出すことになり、管理するのは自分だ。
それをしないと破滅するのも自分だ。助けてくれるお父さんは、もういない。

そうやって自分の管理をしながら自分の感情に向き合っていく時間が必要なのかもしれない。

そうやって自分の管理をしていくうちに、いつか自立の自信や達成感、喜びを感じる時が来るかもしれない。

いつか心のエネルギーが満タンになって、人がコワく感じなくなる時が来るかもしれない。

そんなときに、だまってよりそってくれる人がいるといいね。

ご兄弟もいるし、
同じ思い、つらさを経験した仲間を二男の方がたくさんつくって待っていてくれている。

ゆっくり時間をかけよう。

心が怪我している状態だ。

お体を怪我して、仕事をやめたとおっしゃっていた。
でもきっと心もムリしていて怪我をしているような状態なのに、長年我慢していたのだと推察する。
女性は人がコワいと素直に引きこもれたけれど、
長男の方はそういう感情を抑えて、いっぱい傷ついているのに我慢し続けてきた可能性があるなと思った。
それが体の怪我という形で現れた可能性がある。

自分が本当はどうしたいと思っているか、こっちが叶う。
これを自分の「本当の目的」と呼ぼう。
頭では、「こうするべき、これが正しい」と思っていても、
本心では感情のレベルでやりたくなければ、「やりたくない」が叶っていく。
やらなくていい状況を自分自身がつくる。

この場合「やりたくない」ってのが自分の本心、「本当の目的」なわけだ。
本当は働きたくないけど、仕事行かなきゃとか。そういうの。
こういった、心とアタマの差が大きくなっていくと、マイナスの事態を起こして、問題を起こしてやらなくていい状況をつくるんだ。
例えばトラブルを起こしたり、病気になったり、、、


自分を愛する、ゆっくりしながら、自分と向き合うってことが必要で、無意識に、怪我という形で、そうする機会をつくったようにも見える。
仕事より、
こどものときにつけられなかった自分が決めた責任を果たす自信を、少しずつ付けていくってことを、
自分の生活を管理しながらしたかったのかもしれない。

頭では働けなくてごめんね、自分はダメだと苦しんでいるけれど、こんなふうに深層の願いは叶うんだ。

それは皮肉にも、お父さんがいると、依存してしまうから、できなかった。

だから、今、自分の無意識の願いを、これからかなえていく。
そういう旅が始まったのかもしれない。


年は関係ないんだ。
いくつになっても遅いなんてことはないんだ。
生まれたときからプラスからはじめて、若くして夢を叶えて、
みんなも、「こんなふうにできるよ」と見せるお役目もある。

長年マイナスをじっくり経験して納得してから、自分を愛することを始める人もいる。わたしのように。

マイナスだけを堪能して終えたい人もいる。

本当に自由で、みんな無意識にやりたいことを、すでにしているし、叶えている。

そういうふうにできているとすると、年齢や社会の価値観なんて、全然意味が無いし、
そういうものは、心のつくり出す現象には太刀打ちできないんだ。
時代が変わると支配者の都合で簡単に変わるし。
あまり気にしなくていいんだ。


・最後に女性に新しくできたお友達の視点から。

女性は素直だから、お友達がつくってくれた焼きそばにダメだしをしてしまうw

女性は初めて友達ができた。
友達が作ってくれた焼きそばを食べて「これ、肉が入るともうちょっと・・・」
友達、苦笑。
女性「あ~ごめんなさい」

悪気はない。お肉が好きで食べたかった。それを言葉にした。

これもたまたまではなく、女性の意識を象徴していると思ったんだ。

責任の観点から状況を整理すると、
自分が準備すべき食事を友達が作ってくれたわけだ。
テーマはなにか?
誰が決めて誰が責任をとることなのか?
自分に影響があるのか?ないのか?

テーマは、食事
それは本来自分が準備することで、各自が自分で用意して食べる、でもいいわけだ。
でも、話合って、今回はお友達が作るよということになった。

だからこの場合、女性の責任を、友達が引き受けてくれたということだ。
だからやってくれてありがとう、なわけだ。

(料理も生活費を稼ぐのも、やってくれて当たり前ではなくて、一個一個ありがとうなんだ。
当たり前と思っていると、交換条件のように、俺が稼いでるんだから、料理は作ってくれて当たり前となってお互いに縛りあう関係になる。
この件はだれがやる?と一個ずつ話合って、お互いに同意していれば、
例えば料理も生活費も掃除もやるよと相手がOKしてれば、それでもいいわけだ。
これだと自由な関係だ。
責任を丁寧に話合って決めるほど、自由に解放されることにつながり、もめることも減っていく)

責任を一任されたのに文句を言われると、友達はマイナス感情になる可能性がある。

私自身は、人に料理を作ってあげる立場のときは、相手がなにか味について言ってきても、言うことをきかなければならない、という聞き方をしないんだ。
それだと頭に来るから。単なる意見って聞き方だ。

あ、そう?

って感じだ。
なぜなら、私に一任されているから、料理の味も何を作るのかも、私が決めることとなっているからだ。全部任されているので、その意見を却下してもいいわけだ。

だから、私の気分でお望みをかなえてあげてもいいかなってときは、
次回に望みを叶えてあげることもあるし、無視することもあるし、
味なら自分で調整してって言うこともあるし、
次から自分でやってくれる?って話にすることもある。

このくらい責任の感覚を高めて、言うことを聞きすぎない方が、
女性の責任の感覚を育てることもできるし、お友達も心が楽なはずだ。


そしてモルモットのケージの掃除も、本来は女性の責任で女性がやることだ。

『やってね』ではなく『いっしょにやろうか』が女性にとってありがたい。

ということなんだけど、もう一歩進んで、
女性から、「そうじしたいんだけど手伝ってくれる?」って、助けが必要なとき、依頼できたなら、もっと自立の感覚が高まっていいなと思う。

それには友達から、「ケージのそうじがしたいなら手伝うから、そのときは遠慮なく言ってね」と声をかけておく。


女性が掃除したいと思う前に、友達が汚いからと提案して、友達主体でやってしまうと、
女性の意思を育てるのを邪魔してしまい、またもや、自負心を傷つけてしまう可能性もある。

やってあげすぎは、相手をだめにする。それはお父さんとの関係がそうであった。

やってあげすぎは、相手に無力であれと言っているのと同じなんだ。
こうして、自負心を傷つけてしまうんだ。

自分から依頼できたなら、自負心は傷つかないんだ。
むしろ、自分からお願いして問題解決できた!という自信になっていく。

お父さん亡き今、
お父さんと似た人と、同じような関係性を築いてしまう可能性があるんだ。

ここがちょっと注意だなと思った。

今はまだ誰かの助けが必要ならば、依頼するってことを練習してみるのがよいかなと思った。

依頼されてから、お友達や周りが動いてあげるというのが一番適切かなと思った。


また、お友達が、女性の責任の範囲にまで入りすぎて、やってあげすぎて、
女性が構わずダメ出しするということを何度もやっていれば、
二人の関係もぎくしゃくしていくだろう。

自分の責任の範囲、相手の範囲って感覚が、まだ育っていないんだ。

もしかしたら、そのために過去、職場で人とうまくいかなかった可能性もあるんだ。

お友達も、人がコワくなってしまって外に出られなかったことがあったということなんだけど、
もしかしたら、女性と同じく、責任の範囲の感覚が育っておらず、
友達の場合は、相手に入りすぎちゃって、トラブルになって傷ついてしまう、ということが起きていた可能性もあるなと思った。

相手に責任に入りすぎちゃう人(お友達)と入られすぎちゃう人(女性)で、
それぞれそのパターンが自分になじんでいるから、お見合い成立となって仲良くなりやすいんだけど、
注意しないと依存関係になってしまう。


物理的に、支援をする行政の仕組みは、これから整っていくことだろう。
縦割り行政による取りこぼしもなくしていくと言っている。
デジタル化、マイナンバーとの紐づけもされていく。
こどもだけでなく、大人への支援もそうなっていくだろう。

でも、根本的に解決していくためには、
過干渉に気がついて、
自分の責任を果たす喜びを経験させてあげて、
本人の自信や意思を育てていくことなんだ。

まず、そういう心の仕組みがあるってことを、知るってことなんだ。

自分で試してみて、今の状態が楽になるかどうか、検証してみたりして。

それは行政にはできないことなんだ。

短い動画にいろんな方が登場して、
自分に近い立場の人に感情移入して、そんな視点で見ると、たくさんの発見がある動画だなぁと思いました。

やっぱり具定例を見ていかないと、わからないこと、見えないことがいっぱいあるんだ。

自分の苦しいときに取材させてくれて、こうして配信することをOKしてくれてありがとうございます。

それだけでも立派にあるがままで社会に貢献されていて、すばらしいし、ありがたいなぁと感じました。



取り締まりにあったら、どうする?~自分を守るために。

2022-05-31 23:03:25 | 心の解放シリーズ
ちょっと買い物がしたくて、自転車で街に出た。

にぎやかな通りは、自転車通行禁止なんだけど、降りて押せばいい。

ただ、通りのどこまでが自転車禁止なのか、いまいちはっきり書いてない?ので、よく分かんないんだよな~と思って、
人も少ないしと、にぎやかな所をちょっと外れた所で乗ってしまったんだ。

そしたら、おじさんが、自転車ダメだよと、うしろから言ってきた。

やっぱダメなのか。
おばさんは、即座に自転車から降りて、おじさんのほうを向き、帽子のつばを上げて、あ、すみませんでしたというふうに会釈した。

そしたら、おじさんはびっくりした顔をして、足早に走り去っていった。

なんだ?
なぜ、おまえがおどろく?
違反をしていたのは私のほうではないか?
私がびっくりするならわかるけど。。。
もしかして、おばさんの美しさにおどろいてしまったのか・・・?

いや、そーじゃないな、としばらくして思った。


こんなふうに見ず知らずの者を取り締まるとき、
純粋に世のためだと思って声をかける人、
自分が困るのでということで相手に言う人、
それがお仕事の警備員の人などと、いろいろなケースがあるけれど、
なかには、そうすることでひそかに憂さ晴らしをしている人もいる。

自分のふだんのたまりにたまった悔しい感情をはらすため、
自分の悔しい感情とは関係のない見ず知らずの者を、正しさを盾に攻撃する。
こうして溜飲を下げている。

こんな方は、取り締まった相手が、
悔しそうにするか、
卑屈に従うか、
いやいや従うか、
激しい人だと逆ギレするか、
怯えるか、
うろたえるか、
無視されるか、
たぶん、そんな反応を期待している。

だから足早に歩きながら、うしろから逃げ気味に注意してきたわけだ。
すぐに逃げられるように。

なのに
私はどうやら、おじさんの期待した反応をしなかったようだ。
とっさのことだったので、悪びれる様子もなく、すぐに自分を正して、
さらにおっちゃんにまっすぐ向き合って、丁寧にあいさつまでしてしまった。

それで、逃げの態勢だったおっちゃんは、びっくりしちゃったんだな。
ひそかに悔しい感情を晴らすはずが・・・。

取り締まった結果、相手が期待通りの反応をすると、
自分の溜まった感情はすっとして、
その悔しい感情を相手になすりつけることができる。
こうして人は知らず知らずのうちに、見ず知らずの人に仕返しし、たまった感情を晴らそうとする性があるんだ。
(親がこういうタイプだと、こどもはかわいそうだ。いつだって弱い者が犠牲になる)

コツがあってね、
お詫びや、あやまるときは、あやまることでチャラになるんだと思いながら、
自分の心を感じながら言う。
お詫びしておしまい。これ以上申し訳なく卑屈に思わなくてよしと。
すると、あやまることで自分が損したような、負けるような気持ちにならなくて済む。
そして相手に言ってても、自分自身に言ってるつもりで言うんだ。
自分を大切に感じながら言うと、
相手のことも大切にしているように見えるんだ。

おっちゃんのほうは、八つ当たりが目的だったんなら、予想外の反応でさぞかしびっくりしたことだろう。

八つ当たり、こどもだけじゃなく、大人になってもしているんだな。いわゆる「正しい」ことを言いながら。

きっと、ふだんから人とこういう関わり合いをしているのだろう。
「正しい」ことを、人の背後からぶつける。逃げ気味に。相手と向き合わずに。

人とまっすぐ向き合って、心が通う関わりをふだんからしている人は、
仕返しや憂さ晴らしの必要がないからな。

そして内心ずるい目的を隠し持っている場合、
相手に今までに経験したことのない未知のパターンを返されると、うろたえたり、恐怖を感じるんだ。
戦う支配する人は。
攻撃したならば、それ相応の戦う反応が来るはずなのに、
心のこもった反応をされると。卑屈でもない攻撃でもない反応をされると。

だから、戦わないほうが勝つんだ。
結果的に。
勝ったとあんまり自覚ないかもしれないけど、
意識のうえで、勝ってしまっているわけだ。

逆に、いつも戦うような心でいると、あるいは卑屈な心でいると、こういう人の餌食にされるんだ。

人との関わりを避けていても、思いがけず道でやられたりする。

でも、戦わないと、勝つ。
戦うと、負ける。

戦って勝ったとしても、くやしい感情は残る。
やっぱり戦うことで傷ついてるからだと思うんだけど。
だから戦う人は、勝っても負けたような感情をいつも実感しているんだ。

この感情が現実にカタチになってしまうから、結局負けるし、
これがその人の行動パターンや人格になっていってしまう。


最近は、社会の分断が著しい。


よかれと思って、相手に対してしていることが、
いつのまにか、
自分の感情を晴らすことが目的になっていっちゃうってこともある。


自分の感情を晴らすチャンスを狙っている、ずるい取り締まりは、
逃げながら、隠れながら、正論をぶつけて感情を晴らそうと攻撃してくる。

それはリアル社会もネット上も同じだ。
最近は、工作員うんぬんよりも、こういうところに着目しているんだ。
清い感じの方でも、こういう感じだと、先が思いやられるからな。
自分が餌食にされることもあるし。

そういう方と関わることになっても、戦いに乗らず、まっすぐ向き合って差し上げると、なにかうしろめたい気持ちになるようだ。
そして、相手を認める、認めざるを得ない気持ちになるようだ。

あのおじさんも、あのような反応をするということは、心の奥で、自分のずるさを知っているということだ。(ここに人間の可能性を感じるんだ)

だから、こういう取り締まりに出会ってしまっても、
自分の心を感じながら、相手にまっすぐ向き合って、自分に非があれば、上記のように詫びる。
非がなければ、自分の気持ち言っておしまいだ。
ヘンな人なら、なにも言わずに立ち去ったほうがいいかもな。

こんなふうにするだけで意識のうえでは勝ってしまう。

そして、やられたという感情が残らないから、さっぱりいられる。


こういう方、最近増えてしまっただろう?
コロナ以降。
マスク警察とか。

でも、基本は同じだと思うんだ。

こんな話を聞いたことがある。
デパートにノーマスクで入ったら、店員さんが「お客様、マスクはお持ちですか」と聞いてきたそうだ。
その方は
「マスクをしない選択をさせていただいてるんです。マスクをしていないと買い物できませんか?」
と言ったら、店員さんは
「そういうわけではございません。そのような選択をされるお客様がいることは存じておりますが、みなさんに聞かなければならないことになっております。引き続き、お買い物をお楽しみください」
と言ってきたそうだ。
「気にされる方もいらっしゃることはわかっていますので、大きい声で話さないように気をつけます」
とその方も言って気持ちよく立ち去ることができたそうだ。

この方も、きっと自分の心を感じて、マスクは不要と思ってそうして、そのまま素直に、ご自分の心を感じながら店員さんにお話されたんだろうな。
だから気持ちよく心が通じたんだろうな。

店員さんもお仕事で、こんなこと本当にやりたくてやっているわけではなかった可能性がある。
上記のおっちゃんは、完全にやりたくてやってるけどな。

取り締まられる立場も、
こういうステキな反応は、
相手を敵視しているとできないもんだ。

敵視したり、分断したり、戦っているとき、あんまり自分の心を感じていないんだ。
思考で、左脳で、正論で攻撃モードになってしまっているから。
感情がおろそかになっている。
これだと相手に心が伝わる話し方や対応ができないんだ。

じつは、相手を否定するのも、自分を否定するのも同じなんだ。

たしかに、世の中、まちがっていると私も思う。

でも、取り締まりしてる人もいろいろだ。

そして自分だって、本来は取り締まられるような存在ではない。


私自身の自転車の話でいえば、きまりをつくりすぎだと思っている。

本当は、個々人が、人が多くごったがえしているところでは危ないな~と感じて、
自転車を降りてあげて、人が少なく問題なければ乗って大丈夫だなって、
自分で感じて判断できれば、きまりなんてなくてもいいはずだ。

戦っていて、感じていないから、他人を大切に感じることができないから、
他人の安全おかまいなしってなってしまうわけだ。

だからきまりを作ろうとなる。
たしかに必要な場合もあるだろう。
でも、本当に悪いヤツはきまりをつくっても取り締まれない
だから、さらにきまりを作る
そして、ふつうの悪意のない方ばかりががんじがらめにされていく

こうしてみんなが身動き取れない窮屈な社会になる。もうなっているわけだ。
だから私は根底のところで申し訳ないと思っていないんだな、違反はあやまるけれど。

そして、全部、こういったカン違いや思い込みに基づく不幸な現象だと思ってるんだ。
あいつらが仕組んでいるとはいえ、
それに従ってしまうのは、
人々の側のカン違いと、
感情を感じられない、戦うパターンから抜けられない、その意味がわからない
っていうのが原因だと思っている。

だから、社会がこうなっているのは、みんながDSや陰謀を知らないからだけではないと断言できる。

人の心は知ったからすぐできる、というふうにはできていない。
知ったとしても、憎しみとくやしさと否定にまみれて大変なことになってしまう方もいるだろう。
受け入れられない人もいるだろう。
それが社会の分断となって、
○○警察とか、憂さ晴らしのような取り締まりという現象になってあらわれている可能性もある。

だから目覚めてるとか目覚めてないとかいうのも、分断というだけでなく、
根本的に人の心もご自分の心もわかっていないと思うんだ。

自分自身の心の扱い方と守り方を覚えていかないと、こういう現実を受け入れるのも大変なことだ。


私は、
最近、とりあえず、そういう方を含めて全部を肯定する練習をしているんだ。
そういう状態なんだって。
(練習というか、本当は肯定しかないんだろうとも感じている。否定っていうのが不自然なんだと思う)

それは、そのほうが、自分が楽だからだ。

相手を否定していると、それも戦いだから、恐怖も出るし、
すると自分の言いたいことが楽に言えなくなっていく。

他人も、どんなでもいいんじゃないっすか?と思っていると、自分も自由でいられるのね。

たぶん、自分自身が最近、こんなふうにヤカラに縛られないでいられるようになってきたから、ヤカラも肯定できるようになってきたんだと思う。

あいつらや社会の仕組みに気が付いてきたばかりのころ、
それに毒されるまま生きてきた人たちに傷つけられ、
やられるがまま、心も体も苦しかったころは、そうできなかったからな。

だから受け入れられない人や、分断や取り締まりに走る人が出るのも無理もないのかもしれない。

すべて肯定できると、楽なんだ。

でもそれは、なかなかカンタンではない。

でも、自分を守れるようになると、できるんだ。

みなさん、自分の心の守り方をまだ、ご存じないんだ。

卑屈に従うか、戦うか。

これ以外の、パターンを知って、できるところでちょっと試してみるってことなんだ。

それは、戦いから降りて
自分の心を感じながら、相手にまっすぐ向き合うってことなんだ。
(これだけで勝つ場合もある)
その状態で、心を感じながら話すと、相手が攻撃してやろうとしている場合、うしろめたさを感じて、ひるむんだ。
そしてさっさと離れることなんだ。

戦いに応じちゃうと、


どこまでも反応しあって、くっつきながら戦うこととなる。


戦ってる人はいつまでも相手にくっついているんだ。心理的に。

嫌いなんだから離れればいいのに、くやしい感情は残るから、離れられないのね。

こういうのが年齢を重ねていくと、化石のようになってしまい、人格の一部みたいになってしまうんだ。

でも、順調に成功してわりと幸せに生きている人は、そんなふうに他人にとらわれてはいないんだ。

自分の意思で、他人とさっぱり離れて戦わないでいられる人は、
人にくっつかないから、支配関係に陥りにくい。
じっくり時間をかけて自分の意思を豊かにしていって、息の長い活躍ができる。

これが本当の自立だ。


これも自分を守れるようになると、そんな他人を忘れていられる。
すると自分の気持ちや意思やしたいことに集中し、エネルギーを注入できるということなんだ。

そうなるとそんな他人はもう眼中にないわけだ。
自分に忙しくて幸せだから。


エネルギーがすごい人、意思がすごい人。ロックンロール。

2022-05-26 17:51:40 | 心の解放シリーズ
おばさんは、やんちゃな人を見るのがけっこう好きなんだ。
それは、自分がぜったいにできないことをしてくれているから、
まぶしく見える、気持ちがいいってのがあると思う。
その表現に拍手を送りたくなるw

COMPLEX RAMBLING MAN  TOUR'89

このころの無敵の二人がまぶしい。
まだ日本が元気だった時代。。。

COMPLEX TOUR 1989 _ Inkstick芝浦

最後、観客にダイブしちゃうの、アツいね!

年を重ねても、ご活躍されている。震災の時、コンビ復活したのね。

東日本大震災 被災地復興支援 [ BE MY BABY ]


ほていさんは、アッキーと、アレだけどな。。。

芸能人はみんなあいつらさ、ということがけっこう有名になってきたけど、
そんななかでも意識に着目してみると、興味深い。

あいつらに縛られて大変そうな人、
あいつらとうまくやって甘い汁を吸っている人、
うまく世渡りしているように見える人、
わりと自由に活躍されている人、
ほんとうにいろいろだ。

芸能人だけでなく、一般人もそうだろう。

こんなふうに
人によって違いがあるのは、どうしてなのか。

吉川さんは、「おれはこうしたい」っていう、自分の「意思」にまっすぐな気がしてね、
Wikipediaを見て、おばさん納得した次第だ。

以下、Wikipediaより引用。
幼少期の吉川は千葉真一と倉田保昭の大ファンで[11]、彼らの活躍に憧れを抱いていた[12]。

ここが意思のスタートだな。かっこいい人が好き。
ちっちゃいころから、男らしさの表現が好き。

府中町立府中小学校出身[注 1]。修道中学校を経て修道高等学校2年時に中退[10][14]。
中学校の時から水球の選手となり、修道高校時代には世界ジュニア水球選手権大会の日本代表、2年連続全日本高校最優秀選手に選ばれ、最年少日本代表としてイタリア・エジプト遠征にも参加した[15][16][17][18][19]。

そうだ。吉川さんといえば、肩幅だからなw
水球で鍛えた強靭な肉体、これも、本人は意図して水球に励んでいたわけではないんだろうけど、彼のパフォーマンスには不可欠な要素だ。

水球で鍛えた逆三角形の体型が男子トイレのマークに似ていたため、学生時代のあだ名は、「便所マーク」、短縮して「便所」だった[90]。人が大勢いる所で、友人から「便所ー!」と大声で呼ばれ、恥ずかしい思いをしたとデビュー当時の歌番組で話したことがある。

人には、自分のこれまでの経験、持ってるもの、すべてを統合して現実を創造する力があるんだ。

広島では名の知られた進学校である修道中学校を受験した理由は、「制服の袖の部分に1本の白線があり、それがカッコよかったから」と述べている[19]。

かっこよさに対する感性がすごいからな。
学校も、制服のかっこよさで選んでしまう。
そういえば、おばさんも制服がかわいい学校に行きたかったもんな。制服がダサい学校は、いやだから、選択肢になかったもんなw
重要さ、3年も着るんだもん。

合格したものの授業についていけず、いきなり落ちこぼれたとメディアでも語っている。しかも、いざ入学するとその1本の白線で修道中学校の生徒だと判ってしまい、悪いことができなかったため嫌いになってしまった。

うん。わたしも学校に入ってから、やんなっちゃったくちです。

渡辺プロ所属[編集]
同じ水泳部だった酒井麿に誘われ[20]、ロックバンド(EIGHT CITY'S FISH BAND(八つの街の魚) / 通称:はまちバンド)に加入[21][22]。
男女混合7人(男子5人、女子2人)のバンド形態で、オリジナル曲は4曲と少なかったが地元を中心に自主コンサートを行い、コンテストにも出場した。
吉川の歌唱力、ルックス、パフォーマンスは求心力があり、郵便貯金ホールや広島見真講堂で行うライブはアマチュアバンドながらいつも大盛況であった[23]。

もう高校生あたりから、勝手にやりたいことをやって活躍してしまう。

ここが、おばさんとは違う。
おばさんは、学校や友達がやんなっちゃうと、うじうじして、いじけて引きこもってしまうくちだ。
せいぜい地元の友達とつるんでちょっと遊ぶくらいで。

高校2年生の時に佐野元春のコンサートを見てカルチャーショックを受け、大学進学を取り止めて音楽一本に絞って勝負する決意を固めた[17][24]。

大学行かないと将来やばいかな、とかそういうことは考えない。
打算がない。そのときの自分の「こうしたい」って気持ちで決める。
これが、一貫しているのね、だから見ていて気持ちがいいんだな。
そして、これが吉川さんのかっこよさの源だと私は思った。
じっさいにそうやって自分を表現して、成功していくからな。

「音楽の世界でビッグスターになる」とその後のサクセスストーリーを考えた吉川は「まずはスカウトされること」と考えたが、

あ、一応彼なりに、作戦は考えていたのかw

アマチュアバンドで有名になっていたとはいえ地方都市の一角(吉川曰く「田舎」)でのことであり、そうそうスカウトされる筈も無い

そして、現実を知る。そのあとがまたステキなんだわ、

シビれを切らして自ら渡辺プロダクションに「広島にスゴい奴がいる、見に来ないと一生悔いを残す」と手紙を書いて送りつけた[10][15][17][25][注 2]。

こういう行動に出る。この「シビレを切らして」っていうのも、どうやら吉川さんの特徴のようだ。
男らしいなw

なお、なぜナベプロかといえば「沢田研二、アン・ルイスなどが当時所属していたのがナベプロで、ここがいいな」と言い(吉川の回想)、他のプロダクションは知らなかった

あんまりごちゃごちゃ考えたり、調べたりは、しない。
フィーリングと勢いでやってしまう。
そして最終的には成功してしまう。
いや、「成功させるに決まってるだろ」、たぶんそういうお気持ちだと推察する。

渡辺プロの関係者が、高松の松本明子を見に行った帰りに、本当に会いに来て、その後の数度のオーディションを経て、プロダクションと正式に契約を交わした[15][注 3]。

自信まんまんで、強気だから、相手も興味を持つ。
弱気で否定的な自信のなさがあると、その時点で相手もスルーしてしまうと思うんだ。

そして会ってみると、才能もありそうだ、見込みアリと判断するわけだ。
この実力もちっちゃいころから好きだったことを、本人があんまりごちゃごちゃ考えずにやってきた成果でもあるわけだ。
たぶんご本人はやりたいことやってただけって感じだろうな。

てことは、打算で、将来のために役立つからとやるよりも、気持ちに忠実にやりたいことをやってハッスルしているほうが、現実にカタチになりやすいということだ。

じつは、自分の無意識は、全部知っている。
自分の可能性、今回人生でやりたいこと、だいたい死ぬまでにどういう計画でいくか、など。
そして時期が来ると、「やりたい」という気持ちにさせる。
だから感情とは、無意識からの声、メッセージなので、感情を主に叶えていくほうが、スムーズにいく。

感情を抑えて頭で考えて決めていると、計画からはずれるので、マイナスのことを起こして軌道修正させられる。自分自身に。

そういうわけで勉強だけの人よりも、こういうタイプのほうが世の中をうまくわたっていける。それには、こういった意味があるんだ。

自分が「したい、だからする、できた、うれしい」っていうのをやっていくと意思がどんどん育っていくんだ。

なのに、親があれこれ否定したり、
直接こどもを否定しなくても、他者に対しても自分に対しても否定的だと、こどもにも伝染しちゃう。
自分が「したい、だからする、できた、うれしい」、っていうのが、自立への道だとすると、そうしちゃいけないような気持ちになるのね。

親の否定的な意識が伝染し、
親子でマイナスの関わり(たいてい支配)をしていると、
「これやっちゃいけないのかな?こんなのバカみたいなのかな?」
っていつも人の評価や人目を気にするようにもなる。
するとのびのびと自分自身でいられなくなっていく。
自分の力の発揮にしかたがわからなくなっていく。

学校でも自分自身でいられない、他人ばかり気にして、自分の意思が持てなくなって弱くなる。
するといじめられやすくもなると思うの。

じつは、私の親が否定的なの。両親そろって。
私自身は大人になってそれが自分の意識のひな型になっていることに気づいて、ずっと書き換える作業をしてきたんだ。

でも私の妹弟は、いろいろなのね。

そのままでいたい者、少しずつ書き換えたい者、
いずれにしても時が来ないとそういうことに向き合う気にならないからな。

だから現在したくない気持ちなのも全部意味があって、適切な時期が来たら、そうしようと思うから、自然でいいんだなぁと最近納得している。


そういう視点で見ると、吉川さんは生まれたときから、私のようにマイナスからスタートしていない。
小さいころから一貫しているところを見ると。
きっとマイナス意識が少ない状態でお生まれになっているのかなと。
親御さんもわりと肯定的だったのではないかな?と想像する。
(私自身は前世からのマイナスの続きがあって、そういう親のところに生まれたんだなと最近納得した)

お父さんは、少し、きびしかったようだけど、
お父上に言われたことも、彼の今後の活躍のひな型になっているのではないかと思った

しかし、教師、両親や周囲から芸能界入りを猛反対された[27]。
特に父親からは「芸能界ってのは猿まわしだ。お前は東京で猿になるのか」と言われたが、「いつか自分で動いてやる」と決意を表明して説き伏せた[28]。

お父さんは、芸能界の現実をご存じだったんだな。
お父さんも京都で大部屋俳優をされていたことがあると書いてある。
だから、知ってたのだろうな。芸能人とあいつらとのつながりを。

こんなふうに親を否定し、越えるということが、必要であったりする。
男の子はそういう時があるもんだ聞いたことがあるけど、じつはおばさんも、それを経て今がある。
おばさんは、女だけど、男らしいとよく言われる。
吉川氏は肩幅すごいけど、おばさんは、なで肩や。なで肩ロックンロールだ。
あれ、これ、天国でぜったいこういうこと言ってるねw
内田裕也が「吉川のヤローが挨拶に来やがらねェ」と吉川の楽屋に乗り込もうとしたら、ビートたけしが「アイツは強いから止めといたら」と内田を止めた
ロックンロール断念の瞬間だな。
よかったな、たけしさんが止めてくれてw

いつか自分で動いてやる」と親を説き伏せているから、
最初は芸能事務所のお世話になるけれど、いつか自立してやるって最初から思っていたと推察される。

えらい人にくっついて、気に入られて、引き上げてもらおう、のし上がろうとは思っていなかったわけだな。

ここが、ミソだな。

そして、お父さんの言葉から、芸能人の多くは猿回しのサルにされてしまうことも知っていた。

大学進学を断念することを惜しむ声も多かった(世界ジュニア水球選手権大会の日本代表、2年連続全日本高校最優秀選手に選ばれた実績もあり、水球の推薦で慶應義塾大学に特待生として入学できる道が開かれていたため)[要出典]。

水球でも相当にすごかったわけだ。やりたいとなると、そのエネルギーと、叶えてしまう力がすごいわけだ。

事務所側はデビューは高校を卒業してからと考えていたが、吉川本人が「今すぐにでも」と強い意志を示したため、高校3年に進級する直前に中退して上京することになった

すごいな。学校なんてどうでもいい。いますぐにでもやりたくてたまらない。

勢い勇んで上京したものの、吉川以外にもスカウトを受けて事務所のある東京に呼ばれた若者が大勢おり、スクールメイツと歌やダンスを練習する日々が暫く続いた[27]。
上京すればすぐに(1983年6月)ギターの弾き語りでソロデビュー出来るものと[23] 思っていたが叶わず、いつまでたってもデビューさせてくれないことに業を煮やし社長室に行き社長に直談判したところ、その勝気で怖いもの知らずな度胸を渡辺晋社長に気に入られ、デビューへの運びとなった[29]。
実際に渡辺プロは吉川を「10年に1度の逸材」と高く評価しており、凋落していたナベプロの起死回生のため、社長自らが音頭をとってデビューのためのプロジェクト・チームを編成するほどの力の入れようだった

やっぱ、これが彼の行動パターンだな。
思い通りにならない現実は、ふつうの人と同じく、ある。
そこでしびれをきらして、行動に出る!

しかも社長だから、偉い人だからといって遠慮や物怖じしない。

偉い人であっても、人としては対等なんだ。
そういう意識だと対等に交渉できる。自分の希望が言える。

えらい人だからって自分を下に置いちゃだめなのね。
あるいは弱い立場の人に居丈高になってみたり。
こんなふうになりがちな方は、まだ支配から抜けられていない感覚だということだ。

対等に捉えていた方が、自分の希望も言えるんだ。これだとあんまりこわくないのね。言っていいのは当然なんだって。無理強いさえしなければ。
言ってみて交渉するのは自由だもんって。

そして対等に関われた方が、結果的に偉い人からも気に入られるはずだ。
心が通じる、話合える、かわいいヤツだと感じるだろう。
卑屈にへーこらするやつは、腹に一物あるかもしれないけど、こいつはそういうのがないって。
そして、吉川さんもどうやら社長とそんないい関係になったようだ。

シビレをきらして直談判に来たヤツは、じっさいに才能も実力も度胸などの精神力もあるとなれば、事務所としては使わない手はないよね。こうしてデビューしたわけだ。

これは自信がなかったり自分を否定していたり、意思を打ち消す思考ばかりしていると、できないんだ。

こんな意思が現実をつくっている。
思考ではなくて。

だから吉川氏は自力でデビューされたんだなと思った。
恵まれた肉体や才能もまた、彼の肯定的な意識がこれを育て、作り上げたわけだ。
それを周囲に認めさせ、道を切り開いたのもご自身だ。
全部、ご自分の意思の力、意識が肯定的だったからこそできたんだなぁと思った。

意思は、感情から生まれる。
そして上記のとおり、感情は無意識からのメッセージだ。
「したい」なら「やるのは今やで」っていうメッセージだ。
だから思考より、感情を主にしているほうが、最短距離で夢が叶いやすい。

それも心が楽で肯定的であればあるほど、あまり苦労しないで、最短距離で叶うようだ。
最近の若い天才を見ていてそう感じる。

自分の意識が現実化するならば、心にはプラスもマイナスもあるわけで、
マイナスが叶うと大変なわけだ。
プラスに叶えるには、日ごろから自分のマイナスの感情も否定しないで見て、感じてあげることだ。
そうやってマイナス感情も見てOKしてあげると、マイナスの感情も循環をはじめて、きれいに楽になっていく。いやされていく。

たぶん吉川さんは、自分の表現が好きでたまらないから、その幸せや満足感で心のエネルギーの循環がすごいんじゃないだろうか?と想像する。
エネルギッシュだ。
多少、殴り合いのけんかをいても、あんまり後ひかず、さっぱりしてそうだ。
だからほていさんとも震災のときに再結成しようということになったんだろう。
方向性の違いからケンカして、活動休止になったそうだけど。

なで肩のおばさんにはそこまでのエネルギーはないので、
自分の心を感じてあげることで感情のエネルギーを循環させるんだ。
それでも循環すれば、人は元気になるんだ。

きっと女性エネルギー的だな。
吉川さんは男性エネルギーだな。

でも性別にかかわらず、みんな、どちらもあって、バランスときれいに循環していることが大事だ。

そして、マイナス感情にならないような人との関わり方を覚えると鬼に金棒だ。
ちょっとずつやってみて、こっちのほうが楽だな~とわかればしめたものだ。

すると安心して、人と関われるから、自分の自由度も高くなる。

そうすると、トラブルにならないわけだから、恐れなども少なくなっていく。
恐れがあるから、みんな自分の気持ちに、意思に、忠実に自由に行動できないわけだ。

自分の意思をしっかり感じられるようになるには、

いやなことは、しなくていい。
いやなところにいかなくていい。
いやな仕事をわざわざ選ぶ必要がない。
つかれたら休んでいい。

ってすることだ。

ネットなら、不快なものは見なくていい。
それは自分には不要だということだ。

いやな人、場所から離れて、距離を置いて、自分の意思で、マイペースでいる。
それだけなんだ。

激しく戦う人は、人との距離が近いし、我慢する。
(ここから相手の変態度などもなんとなくわかるんだw)
これだと一度成功したとしても、
トラブルに見舞われたり、他人との支配関係に苦しんだり、短命に終わるケースが多い。才能も伸ばせない。

自分の意思で、他人とさっぱり離れて戦わないでいられる人は、
人にくっつかないから、支配関係に陥りにくい。
じっくり時間をかけて自分の意思を豊かにしていって、息の長い活躍ができる。
これが本当の自立だ。

現在は、多くの人がまだ人とくっついている。
人との心の距離が近いんだ。依存したり戦ったりしている。
だから現実世界もネット上も、あんまり気持ちよくないんだ。

でも、気持ちよくなければそこから離れるだけでいいんだ。
たぶんそれは、相手が支配やなにかを仕掛けている。
それを自分がキャッチしている。
そこで相手を攻撃してしまうと、それはあいつらの手下によるワナかもしれないしな。

そういうところから離れて、
自分の意見を発信していくだけで、それに賛同した人が、ご自分の考えとしてまた発信していく。
こうしてみんながやりたいようにやることが、ゆるやかな協力となって、すこしずついい方向に進化していくんだ。

こんなふうに、不快なところ、人と離れて、いやなことをしない、とするだけでも、
だんだん自分の意思が育ってくる。
さっぱりさばさば、軽くいられる。
気持ちよく、自分の行きたい方向に行ける。

そして、結果的に、多くの人にプラスに貢献することになる。

本当はカンタンなんだ。


多くの人を観察していると、
やっぱり感情から来る素直な意思の扱いに熟達している人が順調に成功しているなぁと思う。

我慢したり戦ってると、他人を気にしているから、相対的に、自分の意思がなくなっていくので、
まずは少しずつできるところから、それをやめていくことなんだ。

だからビジネスも自分が好きでこだわっていることで成功している人のほうが長く続くだろう。

損得で、国の方針などに合わせてビジネスを作るより。
これだと国が方針を変えたら、衰退するわけだからな。
国の方針にあってるときはいい思いができるけれど、
永遠に国の方針にふりまわされるわけだ。

だからおばさんは損得だけで話をする人があまり好きではない。退屈してしまう。
損得だけならば、これからはAIが正確に教えてくれるだろう。

人間だからな。わたしたちは。

そういうわけで、高校を卒業してから上京しようなどという思考がつゆほどもない、自分の情熱だけでつきすすむ若かりしころの吉川さんがまぶしく感じた。

そういう方は、トークのときも愛想笑いなどはあまりしない。

complex 夜のヒットスタジオ

自分がおもしろければ笑うけど、自分を感じながら話している。

Bzも、トークのときいっさい笑わないのよ、とタモリさんが言っていたな。
それは、たぶんつねに自分のペースで自分のハートにいるからだと思われる。

自分を感じている。そこから音楽を創造している。

本当の天才はそういう感じだ。

上記動画のトークを見て、ほていさんは、わりと空気を読むタイプではないか?と感じた。
そのタイプは、察してくれて、やさしいかもしれないけど、
自分の意思という点では、ちょっと弱くなる。
なぜなら、空気を読むと、他人のほうにエネルギーがとられるからだ。

そして、空気読むタイプは我慢する。
他人のために自分はちょっと我慢するってことだからな。
どうしても自分の意思が弱くなる。

これが高じて、他人が中心になってしまい、
心のなかで、他人が占める割合が多くなり、自分を感じる割合が減ると、
意思も弱くなっていき、他人にとらわれていく。
こうなるとけっこう苦しい。

あいつらのワナにもはまっていく。

そうなると自分の意思がなくなっていくから、才能が伸びにくい状態だ。
これはアーティストにとっては致命的だと思うんだな。
「事件はある意味、ケガの功名だったと思う。作詞に1カ月かかることもあったのに、事件後は4時間かからなくなった」

曲作りに苦労していたのは、シャブのせいだけではないのではないか?と思った。
事件に行きつくまでの、彼のパターンがあったはずだ。

RAMBLING MAN / COMPLEX 歌詞より
※走り出さなきゃ始まらない 
そんなペ-スじゃ意味がない 
YOU'RE JUST A RAMBLING MAN 
やりたいようにやれよ※ 

△たかがおまえの事なんて 
世の中誰も知りやしない 
YOU'RE JUST A RAMBLING MAN 
思い知らせてやれよ△

歌詞も吉川氏がお作りになっているのね。

若いときに作った歌詞だ。

当時の素直なご自分の思いを、歌詞にされたんだな。名曲だ。

有言実行で歌詞のとおりに生きてらっしゃるから気持ちがいいんだな。

いろいろケンカしたりやんちゃしたりしても、「おれはこうする」っていうのにまっすぐだ。
おまえもそうしていいんやで、できるんやでと言ってくれている。

詳細なやり方は、おばさんが説明しといたからなw

吉川さんご自身はたぶん無意識に、こどものときからこうできていたんだろうからな。


ところで、広島のご出身で、被爆2世とWikipediaにある。

原爆を落とされたときは、地獄だったはずだ。

阿鼻叫喚だったにちがいなく、この世の終わりだと誰もが思っただろう。
今も苦しんでいる人がいる。

それでも人は滅びない。

そこからこういうエネルギッシュな、肯定的なエネルギーがすごい方が生まれる。

いま、ワクチン、農薬、ウイルス、電波、放射能。。。

問題なく元気いっぱいでいることが当たり前ではなくなりつつある。

こんなに元気いっぱいの男らしいキャラの方はめっきり減った。

人間は滅びるのか?と思っている方も多いだろう。

でもわたしは、そうならないと思っているんだ。

人間のほうにも生き延びるしたたかさ、害を避ける知恵と本能がある。

だから私は、いやなところや、しょうもない戦いから離れて、
自分の感情から来る、本当の意思と力を取り戻したならば、
人間は元気になると思っているんだ。

それを吉川氏が証明してくれているような気がした。

価値について

2022-05-20 16:34:14 | 心の解放シリーズ

なんだか気分のままにとりとめもない話を書いてみたくなった。

昨日まではあれについてもこれについても書きたい、書かねば、と思っていたんだけど、
世の中がシビアになってくると、いつもおばさんは、あるときふと、そこから外れたくなるんだ。
いつもそうなの。
世の中の空気になじみたくないの。アウトローでいたいの。

パソコンを買い替えようと思ってるんだ。
いろいろ見ていてね、やっぱり安いやつは、中国から部品を持ってきて日本で組み立てて作られていることを知った。
まー、10万くらいでかなり高スペックのパソコンが買えて、よぶんなソフトが入っていないからシンプルでいいというお話も聞く。
でも、信用ならん国の部品だと、なに仕込んでるかこわいしなー、と、こんなブログ書いてるくらいだからw、こわくて買えないのね。

それで国産にしようと思ってるの。
高級なやつ、堅実なヤツ、いろいろ見ててね、
スペックもコスパも大事だけど、丁寧に作られているパソコンは見た目も美しくていいなーって。
口コミを調べると、10年くらい使えちゃいましたと、けっこう長く使えるようだ。

そうだよね。パソコンの買い替えも面倒くさいからねぇ。データうつしたり。

だから少しいいヤツを買って、長く大事に使おうかなと検討中なんだ。

毎日使うもんだから、自分のお気に入りのやつにしたほうが、毎日気分もいいわけだ♪

そんなふうにパソコンを選んでいて、ふと思ったんだけど
「なるべく高スペックで、美しいものがいい。なるべく安く」

なにか人間のことも、こんなふうに勝手に価値を決めているところ、ないか?って。他人のことも、自分のことも。

結婚相手を探すサイトとか、出会い系サイトとか、あるよな。やったことないけど。

いろんな条件を入れて、検索。。。年収とか。

人間は、機械じゃないからな、ふつうはこれだけで結婚とはならないんだろうけど。


人間のことを、パソコンみたいな価値観で選ぶ感覚のほうが強くなったら、行きつく先は・・・
2018.06.30

人間よりも、条件を満たしてくれるAIのほうがいいやとなるだろう。
そして、人間のほうが、ロボットに調教されていく。

人間がロボットっぽくなっちゃって、
ロボットはどんどん人間みたいになっていけば、
人間とロボットの境界があいまいになっていく。。。

こういう世界の到来が近いように思う。
いろんな問題があるけど、今日は心のお話。

昔、おばさんは小学校のときが幸せだった。
地元の小学校に通っていたんだけど、当然、勉強ができる子、できない子、それ以外にも本当にいろんな個性の友達がいた。ちびまる子ちゃんみたいな感じだった。

それが楽しかった。

高校生になると、高校は受験して決まるので、だいたい同じ学力の子同士が集まってくるわけだ。
おばさんはこんなキャラなのに、うっかり進学校に進んでしまってな、
1年生から大学受験の話ばかりで、なんだか学校が殺伐としていて、友達もこわかった。
だから学校がきらいになっちゃったの。自分が選んだ学校だったんだけど。

小学校の無邪気な時代にかえりたかった。
だから、高校生になってからも、小学校のときの友達と遊んでばかりいた。
そいつは、進学校ではなくのびのびした高校に進んでいたから、
その学校の友達もまたイキイキのびのびしていて楽しかった。
そして、そっちの学校の子たちがうらやましかった。
そっちのほうが、おばさんは気が合うらしかった。優等生よりも。
青春とは、本来こういうことだろうと思った。

優等生的な友達は、きっと心が窮屈だっただろう。
だから友人関係もどこか、殺伐とする。
自分に対する態度と他人に対する態度は、同じだからな。
自分を縛っている友達は、他人にも、きついわけだ。
これは高校生に限らず、ママ友や、親戚関係も、職場も、みんな同じだよな。


優等生的な友達はきっと、パソコンを選ぶときにみたいな価値観を、自分自身に当てはめていただろう。
そこがおばさんには、つらく感じてしまうんだ。
そうしたいなら、その方の自由なんだけど、「それじゃきみ、つらかろう」と。
そして私は自分自身にパソコン的価値観を当てはめるなんてことは、どう考えてもできないわけだ。
やってらんないわと。
今にして思えば、反抗とは、愛の裏返しだな。
相手が支配しているから、そうなるわけだ。
そういうのを強制されると、人は絶望してしまう。
思えばこどものときからそういうキャラだった。
おばさんになっても、そこは変わらないんだなぁ。
社会不適合といわれても、それでよかったと、今は思う。
ムーンショット計画なんかを見て、だんだんロボット的になっていく人々を見ていると。
おまえ、だいぶ人間臭くてよかったじゃないかwと、自分に言ってあげてるんだ。

自分はパソコンじゃなくて人間なわけだ。

優等生のやつらは今、どんな人生を送っているのだろうか。

パソコン選びみたいな価値観、
「高スペックで美しく、高品質でいなければならない」なんて、自分に課したら、いつか、こわれてしまうだろう。

自分がこわれるか、社会がこわれるか。どっちが先か。
こうなってきているように思う。
ソフトランディングを目指したい。

小学校のときの個性豊かな友達は、みんな自分そのものだった。
こどもだったからねぇ。純粋だ。
それをみんな学校で表現していたんだ。自分のペースで。
おばさんは、それに癒されていたんだな、きっと。
おばさん自身は、親がスパルタであったため、こどもなのに、無邪気にいられなかった面があったんだ。
だから、そういう純粋な、そのままでいてくれる友達が好きだったんだ。それでいいんだって。安心するのね。楽しいし。

そういう子たちが好きだった。
先生も一応、「宿題をしなければならない、忘れ物をしてはいけません」と言うけれど、言いつつも出来ない子を許容してくれていたから、教室も、どこかほっこりしていたんだろうな。

でも、大人になっていくにつれて、そうはいかなくなって、パソコン的価値観を植え付けられていく。
そして、そういう学校や職場を選んでいく。

でも本当は小学生みたいな自分が心の奥深くにはいる。
でも頭のほうは、パソコン的価値観を強いられ、自分でも強いるようになる。
このギャップが大きくなると、やがて崩壊してしまうと、先日書いた


じつは、小学生や動物だけでなく大人だって、あるがままの自分を大事にいたほうが、周りに貢献することとなるんだ。

むしろ、ダメなところもそのまま表現したほうが、他の人に対しても、きみもあるがままでいいんだよとOKしてあげることにつながる。
そういう人がいてくれたほうが、その場は居心地がよくなる。

私はこどものころ、親にもっと手抜きしてほしかった。
あなたのためにこんなに一生懸命やっていると言われるのが嫌だった。
幸せだった思い出は、雪の日にびしょぬれで帰って来た日に、お茶漬けたべて、そのまま母親とこたつで寝ちゃった日のことだ。
お母さんは、楽ちんでしあわせそうで、お茶漬けもおいしかったし、あったかくして幸せだった。
ところが祖父母と同居するようになってから、母親はすっかり変わってしまった。

でもこどもにとっては、このくらいゆるいほうがありがたいんだ。
ごはんなんて、だいたいで。

そして、じつはゆるいほうが、かえって発展するんだ。

なんでもきっちりカンペキで、仕事ができなければならない、美しくなければならない、なんていうのはウソだ。
それが完全に達成されたとき、逆に人間は、ほろびるだろう。

動物や赤ちゃんがかわいいのは、あるがままだからだ。
他人を気にして、こうしなければならないという邪念がない。
その姿に、人間たちは癒されているんだ。
それが愛だし、そっちのほうがカンペキなんだ。

そもそも人間とは、「全員でひとつの人体を形成している」んだって。
私を地獄の底から救ってくれた恩人が教えてくれた。
一人一人はひとつの細胞なんだそうだ。
心臓の細胞、髪の毛の細胞、目の細胞。。。それぞれがそれぞれの役目を果たしている。
全部必要だ。なくてはならない。大切だ。
しかし、例えば、髪の毛の細胞が、脳の細胞に憧れて、脳になりたがったとしても、それはムリなんだ。
今の社会は、全員が立派な脳の細胞になりましょうと言って、そういう価値観を植え付けている。ばかげている。全部脳の細胞になっちゃったら大変だ。そもそもなれないし。
髪の毛は髪の毛の細胞として、そのままで大切な役目を果たすことができるし、それが全体にとってありがたいことなんだ。
人間ひとりひとりもそのようになっている。そのままでいてくれ。
それが一番すばらしいし、全体にとってかけがえのない役目を果たす。
そういうわけで人間は宇宙なんだ。ひとりひとりが。そして全員で大きな宇宙を形成している。


だから、じつは、その状態のまま、大人になったほうが、結果的に自分の能力も高くなるし、お金も稼げるようになる。

なんと。最近の若い天才はつらいレッスンを受けていないことが判明。
おばさん以前、反田さんがテレビでお話しているのを拝見して、なんだか秋葉原にいるオタクのようにwピアノの弾き方の研究について語っておられて、すばらしいと感心した。ただ好きだから楽しいから追求していて、うれしいって気持ちなんだねと見てて気持ちがよかった。
こんなふうに苦しまないで、軽い意識でできるんだ。本当はw
最初から「好きでやりたいからできて当たり前」っていう意識があると、「練習する」という必要不可欠なプロセスまですっとばしてしまうんだね。
そういう学校にご縁でたどりついちゃうんだからすごいよね。


こういった天才に限らず、順調に平和的に活躍されてる方(競争や戦い、勝ち負けでのしあがった人ではなく)は、
みなさん自分の内で感じることをそのまま大切にしてこられた方が多いようだ。
研究者などは、それがないとできないよね。
自分独自の視点があって、それを育てていって初めて、発見や新しく生まれることがあるわけだ。

そうでないと、自分独自というのがなくなるわけだ。

社会が決めた価値感に合わせる人生になるわけだ。

社会が決めた価値感とは、あいつらが決めた価値感だ。。。。

あいつらにとって都合がいい価値感だ。。。

人口削減したいやつらにとって都合がいい価値感とは・・・

そう考えると、行きつく先がわかるはずだ。

こういう価値観から外れて、
自分の内で感じることを大切にしている状態というのは、
のんびり、ゆったりリラックスしていないと、ムリなんだ。
そこを忘れちゃうと、自分を感じることができなくなっていく。

せかせかしていると思考ばかりで効率ばかりを追い求めることとなる。
すると、感情を感じることができなくなっていくんだ。
感情を感じない、とは、自分がなくなっていくということだ。
テレビは人々をこういう方向へ誘導する装置だ。

思考ばかりの、あいつらの価値感にのっとられた生き方になっていく。
こうなると、いくら頭がよくても(高スペック)、あいつらのペテンや謀略に利用されていくこととなる。
パソコンのようにはいかないんだ、人間の場合は。。。

(再度引用)
「なるべく高スペックで、美しいものがいい。なるべく安く」
なにか人間のことも、こんなふうに勝手に価値を決めているところ、ないか?

それから、美しさについてだな。
女性は美しくなりたい。それは、そうだ。若返ればうれしいよな。
男性もそうだよね。

その一方で、判事たちは自身の経験も引き合いに出しながら、ハゲは女性よりも男性に多く見られると主張。ハゲという言葉が「性という保護されるべき特性」に関連するとみなしました。
さらに判事たちは過去の判例をもとに、「男性をハゲと呼ぶこと」と「女性に向かって胸の大きさについてコメントすること」を比較し、「私たちの判断では、この工場では労働者の言葉づかいが当たり前ではありましたが、キング氏は原告の容姿について個人的な発言を行い、一線を越えました」と述べています。


こういういじめも、
はげたら美しくない、胸が小さいのはダメなんだという、そんな価値観に、
双方が囚われて、否定的だから、こういうことが起きている。
言った人も、言われた人も自己肯定感が低いんだ。
自分自身のことも相手も否定している。
どちらか一方が自己肯定感が高いとこういうことは起きないんだ。

セクハラの定義なんかより、ここが根本的な問題だと思う。

「美魔女」と言葉が流行ったのも、その裏に、若く美しくないとダメという否定性が隠れていないか?

でも、自分が年取ってきて思うけど、見た目に過度に執着しているとき、苦しいし、ちょとつまんないと思うのだ。

で、外見さえステキになれば、自分は幸せだと思っていないだろうか?

愛を得られると思っていないだろうか?

本当にそうだろうか?

そういう状態の方はきっと、
自分がそのまま、あるがままでいることが、いかに周りに貢献するかを知らないのだ。
上記の小学校の友達や、雪の日の私のかーちゃんみたいに。
じつは、これが愛だ。自分を愛している状態だから、相手もうれしい、幸せってなるんだ。

こういう状態の人は、見た目なんて関係なく、なんだか、いとおしく感じる。

そして自分をOKできる人は、相手のこともOKできるから、いい関係を築ける。
だから結果、愛を得られるんだ。

見た目が素敵だから愛が得られるわけではないんだ。

心を感じてあげて、それをそのままOKできて初めて、自分を愛せるんだ。

自分を愛せないと、人も愛せないんだ。
人を愛さなければ、と思わなくていいんだ。
自分を愛しているとき、自動的に人も愛している状態になっているから。
こうなると、相手からも愛がかえってくる、となる。

だから、自分自身が自分の肉体や外見も含め、愛している人は、相手を容姿で否定的に見たり、いじめたりはまずしないんだ。心の仕組みからいって。


そして、
こんな心の状態が形になったのが、肉体や自分の現実や物やお金だから、
心を大切に感じていると、物質的なものも大事に思えるようになってきて、
大事に扱うようになってくる。
私自身が少しずつそうなってきた。
今まではパソコンも適当なものでよかったんだけど、
いい物を大事に使いたいなとなっていく。
するとだんだんお金や物の循環が豊かになっていく。
あまり節約をしなければとストイックにしすぎると、この循環が小さいものであれと自分に課していることだから、
味わって好きなものに適切にお金を使うことをOKしていくほうが、お金持ち体質になっていくみたいだ。(使いすぎちゃうとダメだけどね)
味わって好きなものにムリない範囲で使ってOKってしてあげることは、愛の循環ともいえるわけだ。

こうして心(愛)の循環と物質的なものは、つながっているんだ。

これだと髪の毛をはやす方法を偶然見つけたり、そうなる可能性も出てくる。
(本人が望んでいればね)

おばさんは、昨年、せっけんシャンプーに変えたら、それがよかったらしく、髪が増えましたw
(馬油でできたせっけんシャンプーが自分にはよかったようだ。乾燥しなくて。
どうやらシャンプーの化学物質にやられて髪が減ったんだなと思った。
老化もあるだろうけど、生きている以上、生活用品や食べ物から、恩恵と同時にマイナスも受け取るから、そういうのが蓄積されて起きていることも、あるんだね。)

なにか、特別すごいことをしなくても、
感情や五感と一致して、それをよーく感じてあげて、OKして、生えるといいな~くらいに軽く思っていると、
ある日、ツボにはまるものを見つけて、あっさり解決したりする。


反対に、
はげちゃったらダメなんだと否定している状態で、髪だけ、ふさふさになったとしても、心から幸せってなれないだろう。
また減っちゃったら、またダメだーと、否定から逃れられないから。

たぶん、未来は3D プリンターで肉体も自分の好きなように作れるようになるのではないか?

それで、うまく使って幸せなら、いいのかもしれないけど、
人によっては自己否定から逃れるように濫用してしまい、本当にロボットみたいになってしまうかもなって思ったんだ。


自分の感覚のお話をすると、
年と共に、肉体が年相応になっていくにつれて、いろんな執着がなくなる感じがある。

おばさんは、最近これを楽しんでいる。

若いときは体が元気だから、いろいろと、どん欲だ。
それはそれでいいんだろう。
四季みたいなもので、それぞれの時期のよさがある。同時に苦しさも、ある。
でも衰えてきたときに感じる感覚も、私は最近けっこう好きだ。
若いときには感じられなかったことが、わかったりする。
若いときにこだわっていたことが、どうでもよくなっている。
すると、若いときより自由な自分に気が付く。あ~楽だって。
若いときはあれこれこだわっていて苦しかったよなーって。


自分が他者を見ていても、そのときそのときの自分のいろんな感情や感覚を大事にしている人は、年を重ねてもステキだよなと思うんだ。
しわがあっても。白髪でも、ステキだなと感じる。

そんな相手を見てステキだなと思っているとき、
自分のことも同じく、けっこういいじゃんと好意的に見ている気がする。

だから不細工でもかわいいじゃないかwと自分のことを愛せるんだ。

(再度引用)
「なるべく高スペックで、美しいものがいい。なるべく安く」
なにか人間のことも、こんなふうに勝手に価値を決めているところ、ないか?

てことは、つまり、人間の場合は、そのときそのとき、自分のあるがままを、感情を感じて味わってOKして、愛していると、
どんなでも、そのままでいとおしく、価値があったんだってことに気が付くというわけだ。

そしたら物質面も、なんだかいい方向に整っていくという不思議まで起こす力があるってことだ。