丸顔おばさんのブログ

すべての問題は「心」に通ず。
リンドウの花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」「正義」「誠実」

きびしくしないほうが幸せになるんだ

2022-05-11 00:29:48 | 心の解放シリーズ
なにげにYouTube動画を見ていて、見終わった後、その動画コメント欄を見ていて、
みなさん、ずいぶんときびしいんだなぁと感じた。
ワクチンを打って、大変な副反応に苦しんでいる方についての動画だった。
「あんなワクチンを打つとは、おろかだ」、みたいなコメントが多くて驚いた。

苦しんでいる方を見たあとに、そう言えるのかぁと。
その被害者の方もコメント欄を見るかもしれない。苦しんでいる人にそういう言葉を言えるのかぁと。

その言葉にはきっといろんな思いが込められているのだろう。
ワクチンの問題を発信するだけで、かなり弾圧されてきたから、みなさんかなり、うっぷんが溜まっているだろうからな。
また、接種の圧力を受けて大変な思いをした人も、そら見たことか、と言いたくなるのかもしれないな。


自分がその動画を見た感想としては、その方の苦しみや絶望や今後の不安や、やり場のない怒りなどを感じて、なんとか少しでも無難になることを祈らずにはいられなかった。

感想は人それぞれでOKだし、どんな考えもOKだし、発信するのもまた自由だ。

でも、それだけ他者に対して厳しいということは、自分自身に対しても厳しいってことなんだ。

人間は、他人に対する態度と自分に対する態度は、同じなんだ。

だから、きびしいコメントを書いた方は、きっと自分自身に対しても、「選択をまちがってはいけないんだ」と、つねに厳しく自分を律しているのだろうなと想像された。
こうして自分自身のことも縛っているだろう。
すると、過去の過ちで自分を責めたり否定したりダメなんだという自己否定が心の奥にあるだろう。
きびしいと、そうなっちゃう。

でもね、
自分の選択の結果、大変なことになったとしても、自分がその結果を経験する。
そういうふうに誰もが自分の選択の責任をとることとなるから、自由なんだ。
苦しむ選択をすれば自分が苦しむことで、責任をとる。
誰も肩代わりできない。

だから選択に関しては、おおらかでよいと思うんだ。

自分が選択したことの責任をとる以上は。
責任から逃げたり、人に押し付けるとトラブルになるのね。
でも自分が選択して、その責任をきちんととる限りは自由なの。
たとえその結果、死んだとしても。(ここがつらいところだ、本人よりも周りの人にとってかな)

すると、自分にも、他人にも、どんなでもいいんだよっておおらかになれると思うんだ。

それが「どんなでも受け入れる」「OKする」ということで、自己肯定感に繋がっていくと思うんだ。

だからそういう意味で、いわゆる「まちがった」選択でも、やりたいならやる自由が誰にでもある。それが、この恐ろしく自由な星、地球だ。

だから、そういう意味で、相手に対してはおおらかにいるのが正解だ。
自分に実害がなければ。
具体的な問題があれば、責任を見極めながら話合う必要があるけど。
おばさんの経験では、
相手がどうしようもなくダメでも「ま、それもあんたの自由だからね」と認めてあげると、相手もなんだかうれしそう。
そして勝手に経験して勝手に学んでいる。失敗もしているw
だから転んでも立ち上がる強さが人にはあるんだ。
とくに、自分のした選択であれば。周りが適切に相手の選択を尊重していれば。

逆に、相手の選択を否定して、変えさせようと、もっと言ってやらねばと思っていると、相手はホントにもっとダメになっていくってのがあるんだ。

そして、
他人を否定したり責める人は自分のことも責めてるんだ。

じつは自分を厳しく否定的に見ている。

正しい・まちがってるで、厳しい人、真面目な人は。

この状態のとき、心で感じていない。
頭で、思考で判断して、いい、悪いを決めている。
(それが冒頭のコメントだ。感じてないからきついことが言えるってのもあるだろう)

でも、そんなに心を殺してがんばって厳しくしても、
残念ながら、物事は、「いい悪い」「正しいかどうか」で決まっていくわけではないんだ。

自分が本当はどうしたいと思っているか、こっちが叶う
これを自分の「本当の目的」と呼ぼう。

頭では、「こうするべき、これが正しい」と思っていても、
本心では感情のレベルでやりたくなければ、「やりたくない」が叶っていく。
やらなくていい状況を自分自身がつくる。
この場合「やりたくない」ってのが自分の本心、「本当の目的」なわけだ。
本当は働きたくないけど、仕事行かなきゃとか。そういうの。

こういった、心とアタマの差が大きくなっていくと、マイナスの事態を起こして、問題を起こしてやらなくていい状況をつくるんだ。

例えばトラブルを起こしたり、病気になったり、、、

だから、感情のレベルで本当はどうしたいと思っているか、これが本当の目的で、こっちが叶う。

だから、正しい・まちがってるでジャッジして自分や他人を支配しでも、無駄だ。
本当の目的の方が叶うから。

そういう意味でも、思考が強すぎるのは危ないんだ。頭と心のギャップが大きくなる一方だから。

思考を止める、そして五感や自分の満足のほうを主にする。感情を主に感じている。リラックスして。(緊張してるとできないの)
こういうふうにしていると、だんだん頭と心のギャップが小さくなっていく。
このモードのほうが人生がプラスに、順調に幸せになっていくの。
感じることのなかに幸せがあるから。
そしてそれを叶えるためにどうしようか?って発想して、すこしずつ叶えて、形にしていく。
それなのに、心がどんどん感じられないようになっていってる私たちなんだ。

でも、そんなふうに夢を叶えている人もいる。
お料理動画を出している方で、すばらしい方をみかけた。
本当に料理が好きで、人に教えるのも、喜んでもらうのも、心からうれしいっていうのが伝わるの。
だからレシピもカンタンなんだけど、随所にプロのちょっとしたコツがちりばめられていてとても丁寧だ。
それも本人がつらくがんばっているのではなく、幸せで好きだからやっているのが伝わるんだ。
我慢して、他人との競争に勝って夢を叶えるっていうのとは全然違う。
そういう人も増えてきている。
同じYouTube動画でも、天国も地獄も、両方同時に存在しているのだなぁと思った。

おばさんは、健康にうるさいタチなので、味の素を使っているのが気になった。
それから野菜を10分くらい水につけて食感をシャキッとさせるというのがあったんだけど、栄養が逃げるってのもある。
そこも、心の栄養も大事だから、バランスでやってみてくださいねとお話していた。

そうなんだよ。バランス!心の栄養。なかなか深いではないか。。。

この世の物はすべて、100%いいとか100%悪いとか、そういうものは、たぶんない。

どう見ても毒にしか見えないものでも、それを必要として、それでバランスをとっている人もいる。

たばことか酒もそうだろう。甘い物とか。心のバランスと体のバランス。

なんでもバランスが崩れると問題が出てくる。

そう言う意味では、たとえ体にいいものをとっていても、バランスが崩れることはあるんだ。
おばさんは、菜食していたときに感じた。
菜食で気持ちがいい間はOKだけど、不調が出てきたら、ちょっと見直した方がいいってことだ。
だから絶対的にこれが正解というのは、ない。人それぞれ、体は違う。

あとデトックスも、重金属など出すことが大切といわれ、それはそのとおりなんだと思うけど、必要なミネラルまでもデトックスされてしまい不足することもある。

だからなんでも程なんだよなぁと最近、思う。
これは自分自身にしかわからない。自分の体感を感じてあげることでしかわからないだろう。

あぁ、絶対的な正しい・間違ってるはないって話だったね。
菜食でバランスを崩した人と、たばこ・酒をやっていてもバランスがとれていて元気な人、
いったい、どっちが正しいんですか?って話、する意味がないだろう?

だから絶対的な正しい・間違ってるなんて、人間の思考が作り出したまぼろしで、
ほんとうは、世界はもっとおおらかにできている。
自分にとって、どうか?どう感じるか?だけしかないだろう。
答えはひとそれぞれ違うはずだ。

ワクチンも、私自身はおそろしくて打てないけど、
他人にとってどうかは、人それぞれだ。
結果が悪かったとしても、心を守っていた可能性もある。
社会的立場を守ることを優先したかった、とか人それぞれだ。

これはご本人と本音のお話しなければ分からないことだけども、打って大変な状態であっても、その方の目的が叶っている場合もある。
そのおかげで、仕事をやめられる、家族にやっと甘えられる、理不尽な権力にノーを突きつける、など。
我慢をやめて、自分を愛することを始める必要があったのかもしれない。

日ごろから我慢をしない、自分を愛する、自分を優先していいんだ、それが相手を大事にすることに繋がるんだと分かっている人は、頭と心もギャップも小さいから、
こういう厳しい選択をそもそもする必要がなかったりするんだ。
ギャップが大きいほど、激しい人生になっていくんだ。激しいのが好きな人、やりたい人もいるし、それも自由だ。
だからもし、穏やかなのがお好みならば、我慢をやめていくってことなんだ。
ギャップを小さく小さく。なるべく頭と心を一致させて。
そのためには感情を感じて、頭より、こっちを主にしていったほうがいいんだ。

あるいは、亡くなられた方も、よくわからず亡くなってしまったかもしれない。
私自身、前世の記憶がうっすらとあるんだけど、あいつらの起こした戦争に兵士として参加して死んだ経験をしている。

あのときの私は、男としての責任を果たしたかったんだな。
(こういう思いで打つという選択をされた人も、たぶんいらっしゃるだろう)

でも、今だったら、あいつらの謀略に、みずから戦争に加わるなんて、断固しないだろう。
(それがみんなを幸せにしないことを、死んで、学んだのね。私は)

そしてあいつらのブログを書くということを、今、おばちゃんとして、やっているわけだ。

自分が、こういう学びの段階を経て、今があるらしいことを、なんとなくうっすら知っている。
そして、たぶん、みなさんもそうなんだろうと思っているの。
だから、どんな選択もバカだとは思えないの。

こんなふうに、死んだとしても続きがある。
死んだとしても、なんらかの目的が叶えるための段階なのかもしれないんだ。

人間が、最終的に支配からぬけて、対等な愛の関係を学ぶというのが目的であるのなら、
支配者の謀略の犠牲になる経験を選択したい魂もいるだろうと思う。
前世の私のように。

それは本人の感情に焦点をあてて、今までの経験や今かかえている問題などを見ると、そんな魂の目的までなんとなく見えることがある。

だから、バカとか正しいとかまちがってるとかではなく、人間はバカに見えたとしても深いんだ。

ワクチンに関して、いろいろな情報を教えてあげても、打ちたい人は打つという選択をして、そんな相手を見るのがつらかったというお話をたくさん聞いた。
私自身もそういう経験をした。

でも、こういった深い視点から見ると、たとえ死んだとしても、本人の選択というのは、深い意味があることがわかる。バカに見えたとしても。

そこが感じられると、自分にも人にもやさしくなれるんだ。

だってバカに見えても深いし、それで正解だし、OKだから。失敗しても。
自分の選択したことの責任をとれば、OKだから。
他人があれこれ口出ししてくるのは、他人が私の責任の範囲に入ってきてるわけだから、無視でいいし。

自分の選択ではなく、犯罪の被害に遭われた方なども、深い意識の視点から見ると、なにか、あるんだと思うんだ。
理不尽なことがいっぱいある。
本人より周りの人が苦しむ。
ワクチンもそうかもしれないんだけど、
人類の集合意識のなかに、まだまだ犠牲になるのがいいことなんだっていう思い込みがあるなと思うんだ。
すると犠牲になるという経験をして、「自分を犠牲にしても誰も幸せにならないんだ、問題は解決しないんだ」って納得したいのかもしれない。

(それでも少しでも犠牲を減らしたいから、「それは勘違いなのよ」とずっと言っている。支配者が戦争したいとき、こういう思い込み、危険だろう?)

こういう経験をしたい方は、あいつらの謀略に、今回の人生では気づかないという選択をされるかもしれない。
気づかないで従うという経験をしたいのかもしれない。

それは果たして、バカなのだろうか。

そして、そういった他人を責めている状態もまた、経験したいのかもしれない。
うすっぺらくジャッジして批判して、本当は深かったのか、とある日納得するときまで。

みんな、お互い様だ。

最後は、そんなふうにしてきた自分をも愛する、OKする。
相手もまたOKなんだってところに、いつかはみんな行きつくんだ。

あ、これを言ってしまったら、ネタバレか?

ま、経験して腑に落ちないと意味がないからなw



絶望してしまったときは

2022-04-14 22:28:09 | 心の解放シリーズ

“ワクチンを接種してから、体調が悪くてワクチン後遺症のようになってしまって
絶望してしまって、死んでしまいたい、”

そういう書き込みを見かける。

“接種して亡くなった方の遺族が医師に「ワクチンが原因か」と尋ねると医師は黙ってしまった。
でも帰るとき、車が見えなくなるまでいつまでも頭を下げていた。”

こんなツイートを見かけた。

遺族の方の行き場のない思い、お医者さんの自分を責めるお気持ち、自分でもよくわからないうちに亡くなられた方、
どの立場の人のお気持ちも、思うと、すべてつらい。

絶望。悲しみ。自分を責める思い、あるいは国や製薬会社を責める思い。

まず、これらは全部当然だ。

まず、自分の気持ちを「ダメなんだ」、「前を向かなきゃ」などと否定すると、よけいつらくなるんだ。

だから、腰を据えて覚悟を決めて、「当たり前なんだ」ってその感情を感じ切ってあげてください。

この自分の感情との向き合い方が、今後を決めると言っても過言ではないんだ。

とりあえず、どうしたらいいかはそれからだ。
まずは感情を感じてあげることが先決だ。それをしないでアタマだけで考えても、本当の行くべき道は見えてこないんだ。


私も10年くらい前、うつで動けなくなっちゃって、そのときは絶望した。
だって自分ではどうにもならないからな。医者も薬も治せない。
トイレに行くのもしんどい、家事もろくにできない。
心も憂鬱と絶望と、湧き上がってくる過去の恨みと痛みと、もう生きててもしょうがないと思ったことがある。

でも、10年経った今、すっかり元気なのね。治んないと思ってたのに。

あのときは、うつになったらもうおいまいだという人もいた。

でも本当におしまいかどうかはわからないのね。


ワクチンもそうだ。たしかに亡くなった方、体調不良に苦しむ方はたくさんいる。
でもそれが永遠かどうかはわからないのね。

それから私もブログに書くけれど、ワクチンに関するもろもろの暴露情報には、たくさんこわいものがある。
遺伝子が変えられてしまうのではというのもある。
でも、本当にそうなるかどうかは、誰にもわからないのね。
人によって起きていることが全然ちがうしね。
公開されたファイザーの文書には副作用リストがあって1291種類も書いてあったということなんだけど、これは、その数に驚くと同時に、
人によって何が起こるのか、あるいはなにも起こらないのか、
起きても軽度で済むのか、回復するのか、
全然わからないってことも示唆している気もする。

だから絶望というのも、こういった情報を思考で処理することで、いくらでも感情をつくるから、正確かどうかはわからない。
思考が感情をつくるということなんだ。
思考が暴走していれば、無限にマイナス感情がつくられてしまう。
その感情は、単に思考が作り出したもので、本当にそうなるか、どの程度正確か、自分に当てはまるのかまでは、わかんないんだ。
わりと一面的、平面的なんだ。思考の処理とは。
(思ってる以上にポンコツなの。思考は。でもそれが希望でもあるのね)

だから、意識して、思考を止めて、感情や五感を感じるってことが、すごく大事なの。

情報社会だからね、情報の海のなかでついつい思考にとらわれていってしまうんだ。
でも、もし、その情報の中に自分の問題を解決するのに繋がりそうなら利用しよう、くらいの取り方でも全然かまわないわけだ。

それなのに、わたしたちはそこから、未来をアタマで予測して、もうだめだという結論をはじき出し、絶望してしまったりする

でもそれは、思考が作り出した感情なのかもしれないと頭の片隅で思いつつ、
でもそう感じるのは当たり前なんだと、その感情は感じ切ってあげてほしいんだ。

私も日々いろいろ情報収集していると、やばい方向にむかっているなと感じて、絶望の気持ちになることもあるんだ。
そして自分がそんな情報を発信したところで、たかが知れているし、
街に出れば、そんなことなにも知らずにのんきな人たちばかりに見える。
それにまた絶望したりもするんだ。
でもこれもまた、思考のはじき出したもので、本当にそうかはわからないんだって気づくの。

このまま行くとヤバいだろうと思うのは、私が知り得た情報で、私のちっちゃな脳みそを駆使して分析すればそうかもしれないけど、もっと他の私からは見えない要因もいっぱいあるわけなんだ。
予想外のことが起きて、まったく違う方向へ行くなんてこともありえる。

だから未来はわかんないんだって気が付くの。


〈能動的か、受け身的か〉

自分から能動的に、感じたり、考えたり、よいと思うことをしてみたり、つまり行動したりするってことは、犠牲者意識から抜けるために大事だなって思うんだ。

でも絶望しているときは、そんな気にはとてもなれないものだ。

自分がうつだったころは、やっぱり「うつ」というくらいだから、犠牲者的な意識で、受け身の割合が多かったなと思う。
なにやってもムダなんだって気分。
情報の取り方も、不満をつのらせながらなんだけど、じゃあ具体的にそれに対して私はどうしよう?っていう発想はあまりなかった。

でも、私がえらかったのは、じっくりその「うつ」の感情と向き合ったところにあると、最近自分をほめてあげているんだ。
なんでも深掘りして研究するのが好きだから、自分のそんな精神状態もつらいんだけど、興味深くもあり、研究したくなっちゃうってのもあったのね。

するとね、「死にたいなら死んでもいいけど、死ぬのはいつでもできるから、もうちょっと待って、とりあえずできそうなことをちょっとしてみようかな」って気になったりしたの。

たぶん、「死にたいなら死んでもいいけど」っていうのがポイントで、
そんな感情を否定して、がんばらなきゃと思っていたら、そういう気持ち(できることをちょっとしてみようかなって気持ち)にはならなかったと思うんだ。

こうやってじっくり感じてOKしてあげると、ある日、すこしだけ、能動的にやってみようかな、行動してみようかなって気持ちが生まれるの。
だから自然にそうなるまでは、感じてあげる必要がある。
なにもしたくないなら、しない。休む。
休むことをOKすることもとっても大事だ。
いけないと思いながら休むか、堂々とOKして休むか。
ここも大きな違いを産む。つらいときほど、自分の感情と一致していることだ。

もしかしたら、今までちっとも自分の感情を見てあげてなくて、そういう機会を作っているのかもしれないんだ。自分の無意識が。
感じてあげることが愛だから。
自分への愛情不足から、こういう状態をつくったりもする。
病気やトラブルも、自分の心と向き合う必要から、自分自身が起こしていたりするんだ。意識の視点から見ると。
それが達成されると、治ったり、問題が解決の方向に向かったりするの。

だから深いんだ、起きていることは。頭で考えていることとは全然ちがったりする。
そうだとすると自分の感情との向き合いで、物理的なことも変わっちゃったりするわけから、希望があるわけだ。

だから、自分の苦しい気持ちを感じ切ってあげて、「とりあえずできそうなことをちょっとしてみようかな」って気持ちが自然にでてきたならば、
もう絶望の一番底からは抜けたってことなんだ。
ここで大事なのは、自然にそういう気持ちになるってことであって、ムリに「行動しなきゃ」「前向きにならなきゃ」ってやらないことだ。

わたしも、苦しい感情を否定して、見ないようにして、がんばらなきゃってやっていたら、ずっとうつ気分をかかえながら、ムリして生きることになってたと思うの。
なぜなら、感情は抑えていると、滞って、ずっと残ってしまうのね。
感情は目に見えないけれど、たしかにあって、エネルギーだから、水みたいに、きれいに環させることがコツなんだ。それには感じてあげるってことなんだ。

マイナスや苦しい感情も、否定しないで、見てあげるんだ。
今まで見て見ぬふりをしてきたならば、最初はこわいような、苦しいような気がするんだけど、やってみると、案外大丈夫なの。
すると、すこーしずつ、感情が循環をはじめて軽くなっていくの。

すごい昔のつらかった経験が思い出されたりもするんだ。それはそのときに抑えて、感じてあげなかった感情が、残っていて出てきたからなんだ。
自分への愛情不足だったところだから、よーく感じてあげてください。
これが癒しということなんだ。
だから自分で自分を癒すことがいくらでもできるんだ。

そして「自分を愛する(感情を感じる)、OKする」ってことが、じつはすべての問題解決なんだ。

ふだん思考で理性的に生きていて感情を感じるのが苦手だったり、あまりしない人は、こういう昔の感情が残っていて、今のトラブルの原因になっていたりもするんだ。

ここが解消されてくると、すこし、自分から能動的になにかしてみようかなって気分に、自然になるんだ。

だから、まずはそういうふうに心ができているから、今は絶望していたいなら、思いっきり絶望の気持ちを感じてあげてください。
それで大丈夫。
そしてどう見ても絶望にしか思えなくても、心にはこんな可能性や力があるんだってことをどこかで覚えておいてほしいんだ。

現在は、なんでもデジタルで、合理的にしようとする社会だから、人間がロボットみたいになってきている。買い物ひとつするにも、そうだ。
人間に会わなくても物が買える。
たまに店員さんがいても、その店員さんがロボットみたいであったりする。
わたしも気づくと感情を感じることを忘れて思考にかたよってしまうくらいだから、こんな感情の意味や働きをご存じなければ、みなさんそうなってしまうだろうと思う。
こんな状態で、絶望してしまうと、なおさら、抜け方がわからなくて迷子になってしまうと思うんだ。

だから思考が過剰だと、だんだん「今」にいられなくなっちゃうんだ。
(楽しくないのね、これだと)

「今、どうするか」、この選択で、未来も変わっちゃう。
過去も未来も変えることができないわけだ。
「今」しか変えたり選択したり、扱うことができないんだ。

だから、今、自分の感情に戻って、楽に、心地よくいるってことなんだ。

例えば、ワクチンやコロナで絶望していたら、それをちょっと置いといて
上記、書いたような自分の体が楽になる食べ方を研究して試してみたりしてみる。
で、めでたくツボにはまって、体が元気に快適になったとする。
そしたら、なんだか大丈夫かもしれないなって気になっていくと思うんだ。
実際そうなる可能性が高まると思うんだ。


感情を感じ切ってあげて、ちょっと楽になるためにどうしようって、発想が出てきたら、思いついたことを、できる範囲でちょっとやってみる

一気に解決なんて思わず、ちょっと楽になったらよしとする。
これを楽なペースで継続してやっていると、勝手に状況が変わっていくんだ。
年単位で見ると大きな変化のはずだ。
そして、自分だけでなく、社会や世の中もいろいろ起きてくる。
悪いことも起こるかもしれないけど、いいことも起きて、解決や楽になるための後押しとなるかもしれないんだ。

絶望してる気持ちを否定しちゃうと停滞するから、
否定しないで見てあげる
心の目を、自分の内に向けて。
目は外を見るようについているけど、くるっと内に向けるんだ。
こうして自分の心を見てあげるんだ。

お医者さんや医療関係者の方が、ご自分を責めて悔いて、苦しまれるかもしれないと思っていました。
でも自分ばかりを責めることが果たして適切かどうか?ということを書いた。

それも、そうお感じになるのなら、その感情もじっくり感じてあげてください。
ちょっと思考を止めて。
そのあとに、なにか見えてくるものがあるはずです。

自分の心が教えてくれます。
愛してあげる(=感じてあげる)とちゃんとこたえてくれるんだ。
心を無視していると、「こっちをみてくれよ!」とトラブルや問題を起こしたりするんだ。
だから自分の感情を見てあげると解決の方向に向かうの。

だから、なにが起きようとも、その状況の中で、こういうふうにいるということだよなって最近思います。

そういう覚悟が最近できてきた。

先人たちもそうだったみたい。

達人になると、
やはり戦時中で、ご自分も金持ちというわけではなかったんだけど、グルメと女性を愛し続け、耽美の世界を書き続けたのね。
戦時中の食べ物がない中で、牛肉にありつけて、妻と食して感激していたというエピソードを聞いたことがある。
殺伐とした時代に、こういう喜びを放棄しなかったこの人が私は好きだね。

たとえ戦時中であっても流されずにこうなるのね。

いろいろな思い込みが現実を作っているってお話

2022-04-02 21:15:57 | 心の解放シリーズ
先日の憲法審査会について書こうと思ったんだけど、
週末だし、リラックスして最近思ったことを書いてみたくなった。

最近、あいつらがとんでもない改憲をすすめようとしているから、
すっかり政治や憲法の話が多くなっちゃったからさ。
あいつらブログだからしょうがないんだけど、
堅い話ばっかりだとおばさんも疲れちゃうのね。


「全体主義」について、思う所があってね。
あいつらは全体主義、社会主義にしたいわけなんだけど、
つくづく、人々の思い込みがこれをアシストしてしまっているなぁって思ってね。


それから、朝起きたら突然、「衆愚政治」というワードが頭に浮かんだんだ。
それ、なんだっけ?昔、世界史で習ったような・・・?

それで気分のおもむくままに調べてみたら、けっこうおもしろかったの。


古代ギリシャのアテネでは、紀元前だったにもかかわらず、民主主義政治が行われていた。

〔世界史・古代ギリシア〕アテネの民主政 -オンライン無料塾「ターンナップ」-

内容まとめ:
最初は王政、貴族政治だったんだけど、だんだん貨幣経済になっていって平民が力をつけていった。
カネの力ともいえるけど、平民が国防でも力を発揮したりして、法律を整えたりして。
でも奴隷がいたのね~。
そして財産政治だったから、やっぱり金持ちが力を持っていたよね・・。
だから民主政治といってもなかなかの支配構造なわけだけど。(あれ?なんだか今と変わらない?)
すごいリーダーシップで貧しい人を率いて、貴族をやっつけて土地をみんなに分配した指導者(ペイシストラトスさん)ってのがあらわれるのね。
でもこれも、いいことしてくれたけど、独裁だったんだって。
そして、その子どもは暴君になっちゃって追放されちゃうの。
でもその後、本格的に貴族をやっつけて、ついに民主制になる。
国会みたいのもできて。最悪な独裁者は追放するシステムをつくったりして。
でもこれが裏目に出て、衆愚政治になっちゃうんだ。
だれでも抽選で官職につけるようにしちゃったから、能力がなくても役人になれちゃう。無知な大衆で政治が支配される。
そしてそのころアテネは戦争で負けて衰退しちゃう。
そしてデマゴゴス(「デマ」という言葉の由来)という、うまいこと言って民衆を煽る人が登場するんだ。
扇動政治家ともいう。
つまり、民衆がアホだから、うまいことを言えば世論をそっちに誘導することができる。
そういうのを利用して自分たちに都合のいい政治をするような局面になってしまった・・・。
そして崩壊、衰退へ。

あ~、まさか、今、これをやってるってこと?

あべちゃんは平和主義の理念はお嫌いのようだ。そうだろうな。この憲法が嫌いなんだもんな。
押し付け憲法というのも、ウソだし。

戦後、当時の日本政府はGHQに命じられて憲法改正の検討をしたんだけど、そこでまとめられたものはポツダム宣言に沿ったものとはいえず、天皇主権が残ったままの、明治憲法の一部修正だったんだって。
それで、マッカーサーはGHQ内で新しい日本国憲法の草案を作成し日本側に提示したんだって。その際、日本国内の研究者の間でもいろんな案が作られていて、ちゃんとそういうのを参考に作ったってさ。中でも鈴木安蔵氏が中心になってつくった「憲法草案要綱」が大きな影響を与えたと言われている。
(中略)
常識だって。
私もこの件をブログに書いたことがあり、他の研究者もそう言っていた。
あいつらは専門家の言うことをいっさい聞かないって、専門家が証言しているからなw

今の憲法はあの当時、国民の圧倒的な支持で受け入れられたそうだ。。。

こんなふうにちょっと調べればおばさんでもわかるウソを言って、民衆を扇動している。。。

あらあらそういうことか。おばさんは自分のひらめきが、ときにコワい。

肝心なことは報道しないもんだから、人々はよけいにだまされていってしまう。
これで民主主義だからと、多数決で決めると、、、
あらあらあらあらあら、やっぱ、デマゴゴスと衆愚政治なのか~?
デマゴークともいう)

それからポピュリズムの政治家もこれに入ると思うんだけど。
人々が喜ぶことをリップサービスで言って、支持を得る政治手法。
代表は、トランプやプーチンなど。
あ、ウクライナの大統領もたぶんそうだよね。元コメディアンの。
これだと、民衆の喜ぶことや正論を言いながら、独裁やるなんてこともできちゃうわけだ。KGBなんかでそのように訓練され、洗脳の手法を熟知した人間であるならばなおさら、こういう言行不一致ができちゃうわけだ。

そしてそれを陰謀論と光と闇プロパガンダで鼓舞する工作員。

反ワクチンと「あいつら」のお話でみなさんの支持を得てから、
突然「憲法改正推進!」と言い出す方もいらっしゃる。
これもその手法だろう。
民衆の喜ぶことや正論を言いながら、あいつらのお望みどおりの全体主義に扇動してるわけだから。(いわゆるガス抜きね)

上から下までこんな感じだ。

でもこれは、言ってることだけでなく、やってることを見ると分かる。

不正選挙を覆さず、民主主義を後退させ、ワクチン接種を推進。
戦争起こしたり。
言ってることとやっていることが、一致していないからな。

グレートリセットやるためにいったん今の社会を壊すわけだから、
うまいこと言って民衆を騙しながらやらないと、不満が爆発しちゃてできないから、世界的にこういう手法でやっているのだろう。
人口削減も・・・。

というわけで、こんなことに気づいたところで、けっこう孤独だ。
周りはみんな、そこまで深読みして世の中を見てはいないからな。

でも、こんなふうに、
自分の頭にふと浮かんだことは、なにかの意味があったりする。

知識なんて、あと付けだ。
直感や感じることは無意識からの声だから、そっちのほうが賢いんだ。人間は。
朝起きてすぐにひらめくなんてのも、寝起きは寝ぼけていて思考してないから、そういうのが顕在意識にあがってきやすいのだろう。

それが絶対正しいかどうかは分からないけど、
少なくとも今の自分にとってはなにか意味がある。
自分の無意識はつねに自分にメッセージを送ってくれている。
それは危険を教えてくれていることもあるし、いつも愛だ。
これに気づいてから、自分は孤独感やさびしさを感じなくなった。
多くの人はここをふだん無視して、あまり心を感じていない。
そして自分のそういう感覚をそこまで信じていない。
そういう状態だと、いっしょにいてもたくさん話しても、心が通じ合えないのだなとわかった。

それは生き方で自由だけど、
ここを無視していると、アタマと心が不一致で苦しくなって、
崩壊させることで、自分を苦しみから救ったり、リセットしたりする。

だから、心の声が聞けるようになって、活用できるようになると、もうそんなに崩壊までいかなくなるんだ。トラブルが未然に防げるようになるから。

心の声やひらめきをキャッチするには、あんまり思考しないでリラックスすることなんだ。
感情を感じたり、五感をじっくり味わったりすることなんだ。
ガリ勉したり、苦しく努力するより、こっちのほうが本質をはずさなくてすむ。
あいつらのペテンエビデンスなどに騙されずにすむ。
報道や工作員のスピンにもひっかからなくなる。
このモードだと、デマゴゴスのウソやポピュリズム政治家の戯言にも、違和感を感じやすくなり、自分で調べる流れになったり、気づく流れになったりする。

政治家、工作員の目的が、分断や争い、戦争をつくり出しながら666を実現していくことで一致していることも、実感として感じられるだろう。

そして、なにより自分が楽だし、自分を信じられて、自分が好きになっていく。
自分の心を抑えつけたり我慢したり否定する必要がないとわかってくるから。
むしろ心の声を聞いた方がうまくいくんだと分かるから。

だから勉強だけできてもダメなんだ。
むしろ思考が多すぎると、だまされてしまう。的外れになっていってしまう。
そんな教科書秀才が国を、社会を、国民を、家族をダメにしている。

でもこれも、思考や理性で、努力と根性でやるのがいいことなんだ、成功の近道なんだという思い込みが、競争に駆り立てている。
そのやり方しか知らない人もたくさんいる。

「親が、先生が、自分にガリ勉(死語?w)を強いたんだ」と被害者意識で語る人も多いけれど、自分自身にそういう思い込みがないか?

自分を救うには、そんな思い込みから解放してあげることだ。

それには、ガリ勉よりも、自分の直感や感情のほうが正しかったんだって経験をしていくことだ。

すると、自分に、今までいじめてごめんねと言ってあげて、自分と仲直りできるんだ。
そしたら自分が癒されてうれしくて、今まで苦しくてしょうがなかった方は涙が出るはずだ。
親の言うことなんて、どうでもよかったんだと気づいて、恨むことから抜けることになったりもする。

私も日々、気づいて自分と仲直りして、の連続だ。
あ、これもやめていいんだ、って。やめても大丈夫なんだって。

楽で、やさしいのが正解だ。
そうでないものは、たいていウソだ。

こうしてムダなことをやめていくと、(自分にとって)大事なことに集中する流れに勝手になる。
すると、能力があがったり、お金を稼ぐことにつながっていく。
自分を犠牲にして我慢して稼ぐというスタイルではなくて。

ふだん、「思考を止めて、感情を感じている」ってモードでいることの意味を知らないか、知ったとしてもこわかったり、うまくできなかったりする人がほとんどだろう。
大人になるとそうなっちゃう。
社会で厳しくまじめに生きている人ほどそうなっちゃう。
なんだか思考しないなんて、アホになった気がして。ぼーっとしてる感じがして。
こんなんで仕事ができるかよって。
さらに、いまやなんでもデジタル化されて、よけいに感情を感じることを忘れやすい社会だ。
ロボットみたいな人が増えている。

それでも職場でもどこでも、つねに感情を感じることを忘れないって意識することはできるはずだ。
すると「なにかおかしい」とか、違和感を感じて、トラブルを未然に回避する、とかいうことができるようになる。
このままいったら問題になるな、といち早くわかったりする。
それを職場で言っても採用されないかもしれないけれど、自分の意見として、言っておく。そして記録しておく。
すると、案の定何かが起きたとき、「私はあのとき言いました」と言えるのね。
責任を問われなくて済む。
(だんだん職場の人もマネするようになって組織がよくなる可能性もある)

だから思考だけで効率効率「~なければならない」とやるよりも、ずっと安全なんだ。つねに感情を感じているということは。
思考だけだと危機管理ができないんだ。
危機は、思考より、直感のほうが早く気づいていたりする。
あれ?って感じてから、なんでそう感じるのかな?とアタマで納得していく。
この順番だ。私はいつも。
だから感情は、貴重な情報なんだ。

きっとコロナワクチンの騒ぎで、こういう経験をされた方が多かったのではないだろうか?
よくわからないことだらけだったけど、自分の心の声に従って、よかったんだ」って。

こういう経験をして、だんだん頭だけでなく、感情や心がゆったり開くようになって、その力を活用できるようになっていく。だんだんそれが上手になっていく。

すると自信がつく。
文字通り、自分を信じられるようになるわけだ。
「あぁ、苦労して努力の末に成功したり願いが叶う」っていうのは、思い込みだったんだって気づくんだ。

もちろん必要に応じてアタマも使っていいし、努力というか、行動は必要だけど、
心を感じてから、やりたいからやるってする。
(思考を止めても必要な時、思考している。そのくらいが適切だ)
こっちのほうがうまくいくんだ。

すると、あいつらがやろうとしていること(全体主義)って、
個人の自由や人権を抑えつけて、
もちろん感情などは抑えて
全体のために我慢することだけど、
こんなことが必要で正しいんだって思いこまされて、
全国民で一斉にこれをやったら、「個人」が滅びるじゃないか。。
「個人」が滅びれば、その「個人」が属する「集団」(国とか社会とか家とか)も滅びるじゃないか。。。

と、当たり前のことに気づくだろう。
滅びる方向に一直線であることに気づくだろう。

アテネも戦争が続き、デマゴゴスが出てきて衆愚政治に陥った後、衰退してしまった。

結局、今も昔も、基本は変わらないのだろう。
個人の人生も、社会も、人々のこんな思い込みがつくってるんだ。

こういった思い込みから自分自身を解放できないと、全体主義がいいんだ、必要なんだと思ってしまう。

だから全体のために自分が犠牲になるなんてことはやめてくれとずっと書いてきたんだ。
それは、逆に全体にとって迷惑ですと。
それはあいつらの理不尽な支配をアシストし、滅びる方向へ導くことだからだ。

正しいか/まちがってるか、じゃないんだ。
自分がどう思い込んでいるかで、未来がどうなるかまで決まっちゃうの。
だからある意味、自由だ。自分が何を思いこむか、だから。

そんな圧倒的な自由のなかで、
楽や、自分を解放することを選択する人が、どのくらい増えるか?
未来はこれにかかっている。

あいつらがいてもいなくても、みんなの思い込みで決まっちゃうから、こっちのほうが大事なの。
あいつらも、それ分かってるから、「心理学なのだよ」とみずから手口を言っている

思い込みを外すというのは、自分を楽にしてあげることなんだ。解放してあげることなんだ。(あいつらは反対のことを教えるw)
最初はコワいんだ。その思い込みで長年自分を守ってきたわけだから。
でも、「なーんだ、これでも大丈夫なのね」と気づくと、だんだん心が楽に、幸せになっていく。

だから、苦労に耐えた末に幸せがあるっていうのも思い込みだ。(あいつらがそう教えたのw)
じつは、逆だ。苦労を選択したら、ずっと苦労だ。支配し、支配される人生になる。

自分が違和感感じる人、モノ、情報、場所からは離れていいんだ。それは今の自分にとっては必要ないってことなんだ。

楽を選択できると、楽に幸せになれるんだと、わかる。
その経験をしていくと、だんだんこれが強化されていく。
楽、あ、幸せって。
こっちの思い込みを増やしたいのね。思い込みっていうか、じっさいそうなるんだわ。

これだと勝手に能力も伸びていく。争いやマイナスから縁遠くなっていく。

今こうやって、みんなでいっしょに成長、進化しているところだ。
未熟なわたしたちだけど、まだ活用できていない力があるわけだ。

てことは、不要な思い込みに気づいて、やめて、
楽にできるようになって、トラブルに悩まなくなっていくと、
今まで気づいていなかった自分の力、能力が開いてくるんだ。
それは頭で考えてやらなくても、勝手にそうなる。
気づいたらやっているって感じだ。
だから楽しみにしてほしいんだ。希望はあるんだ。

ただ、みんなが少しずつ経験して気づいて腑に落としていくってことだから、
一気にいますぐ世の中をよくするなんてことは難しいかもしれないんだ。

以前は私も、はやくみんなが「あいつら」やご自分の思い込みに気が付かないと大変なことになると思っていたんだけど、
最近は私も含めてみんなが自分のペースで気が付きながら生きているんだってことが腑に落ちてきたの。

だから、民主主義というのは多数決だから、みんなの選択次第では、まずい社会に一時的になるかもしれないけど、
それならそれで受け入れながら、なんとか少しでも無難にしたり、逃げたりしようと思えたんだ。
デマゴゴスが支持され、国民の人権が制限される事態になったのなら、
それも必要な過程として起きているのかもしれないから、そこで自分はどうするか?だよなって。
そんな世界になったとしても、その状況のなかでの選択というものがあるはずだ。

今自分にできることをしたら、あとは自然にまかせるのが一番近道であったりする。
自分のできること以上に他人を変えようとすると、これは支配だから、あんまりうまくいかないのね。
私が思うことが相手にとって最善とは限らないのね。
遠回りして苦しむ経験がしたい方もいるんだわ。
それはバカとかじゃなく、本当に人それぞれ経験したいことがいろいろなんだわ。
ここも思考だけだとわからない部分なんだ。

実は私たちはまだまだ全体主義的な意識から抜けられていないと思うんだ。
私はこどものころから、学校も、家も全体主義的だなと思ってきた。

全体のために個人が我慢をする。規則を守れと。
あるいはお父さんが、お母さんが、家族のために自分を犠牲にする。

これが正しいことだと教えられ、そう生きてきた方が、
「緊急事態だから、人権を制限し、国民は協力しなければならない、義務だ」と国に言われたら、なんの疑いもなくそのとおりだと思って従うだろう。

でもこうういう意識が、逆に犠牲を増やし、社会全体も国も衰退させてしまうことだろう。

自由にやったら、問題が起きてダメなんだと思うのは、
自分と相手の責任が見えていないからだ。それでトラブルになっているだけだ。

自由だからと相手の領域にずかずか踏み込めば、トラブルになる。

単に離れたり
相手の選択を守ったうえで、自分の領域で自由にやっていると、トラブルにならない

戦争、個人のトラブルも、誰と誰の問題か?と見極めることだ。
そして当事者でない部外者がやたらと立ち入らないことだ。
問題解決に向けて助けてあげたいならば、
部外者は、当事者同士が向き合えるようにしてあげることだ。
それができないならば、部外者は距離を置くべきだ。
争いの当事者のどっちかについて、争いに加勢するのは一番ダメだ
争いに加勢しちゃ、泥沼化し、よけい悪くなる。争いに参加するメンバーが増えるだけだから。

「第〇次世界大戦」なんて言って、多くの国が戦争に加わっちゃうのは、まさにそういうことだろ?
人間がそのところに気づいてないから、扇動され、そういうことが起きたわけだ。(あいつらがそう仕向けているとはいえ)
今もまた、これをやりかけているように見える。

集団(国、職場、家)のために個人が犠牲になるしかないんだ、という勘違い。
他国といっしょに戦うことが必要なんだ、善なんだという勘違い。

責任が見極められないがための、
こういった思い込みが全体主義を後押しするだろう。

人々がこんな意識に絡めとられているいっぽうで、
自衛隊の方はさすがにもう少し現実的だ。
海外での活動において、武力行使できないとしていても、きわどい場面があるというお話↓

『賛成・反対を言う前の集団的自衛権入門』香田洋一 著 pより
例えば、日本以外の国の軍隊は、外国に派遣された際、自衛権(個別・集団の両方)が行使できるので、近くにいる自衛隊など他国軍隊が武力攻撃を受けたとき、必要な場合にはこれを守ることができます。
しかし、自衛隊の舞台がPKOや復興支援で外国に派遣される場合は、そもそも自衛権に基づく武力行使を想定していないので、外国軍隊のような活動は問題外です。また、対テロ支援の補給活動などPKO以外の海外派遣でも基本は同じです。
仮に個別的自衛権が認められたとしてもその範囲では、同じ目的で活動している他国の仲間が武力攻撃を受けても、これを守るために武器を使用することができません
目の前で他国の軍隊が攻撃され危険にさらされているときに、自分の部下に「撤退」を指示しなければならないケースもありえます。現場では予測不可能なことがいくらでも起こるので、ある行動が「個別的自衛権」の行使なのか「集団的自衛権」の行使になるのか、はっきりと線を引くことは容易ではありません。
第6章 より引用 (kindleってページ数が出ないんだね)

だから集団的自衛権を容認することを歓迎しているというお話をされているんだけど、そこはちょっと置いといて。

例えばホルムズ海峡の機雷除去など。
ここが封鎖されると日本もエネルギーが来なくなって困るということが、あのころ議論されていた。
2015/02/18

まず危険なところに行って活動するということは、
つねにそこから戦争になる可能性があるのではないだろうか?

現場では予測不可能なことがいくらでも起こるので、ある行動が「個別的自衛権」の行使なのか「集団的自衛権」の行使になるのか、はっきりと線を引くことは容易ではありません。
と、現場を熟知した軍人も、現場はそんなにきっちり理屈通りとはいかないことを示唆している。

てことは法がどうであろうと、危険なところに行って活動に参加すれば、
つねにうっかり戦争に巻き込まれる恐れは、あるのではないか?

憲法をこのように↓変えて、

改憲草案
( 国 防 軍 )
第 九 条 の 二
3 国 防 軍 は 、 第 一 項 に 規 定 す る 任 務 を 遂 行 す る た め の 活 動 の ほ か 、 法 律 の 定 め る と こ ろ に よ り 、 国 際 社 会 の 平 和 と 安 全 を 確 保 す る た め に 国 際 的 に 協 調 し て 行 わ れ る 活 動 及 び 公 の 秩 序 を 維 持 し 、 又 は 国 民 の 生 命 若 し く は 自 由 を 守 る た め の 活 動 を 行 う こ と が で き る

たびたびそういうところに行って活動したならば。
必要だから、国際平和のためだからという理由で、米軍と活動するようになったらば。
しかも武力行使できるように憲法を変えてしまったならば。
(あいつらは戦争したければマッチポンプや偽旗も起こすだろう)

日本にとっても必要だからという理由で、危ない所に行かなければと考えるか?

あるいは、
この“危険な状態”は、あるいは紛争は、誰と誰の問題か。
責任を見極めて、できる限り離れようとか、なにか他の方法を考えようという発想が出てくるか?


これを決めるのは最終的には日本の人々の意識だろう。


なし崩し的に改憲されて、何かが起きてしまってから、責任が見えていないと、どこまでも争いに入っていってしまう。
これに国民が、全体主義的な、自己犠牲の意識で同調したら、また第〇次世界大戦に行ってしまうだろうと思えてならない。

私は人々が問題の責任を見極めることを学んで、
不必要な戦いから離れたり降りたりできるようにならないと、憲法も守れないだろうとも思うんだ。
みずから全体主義の憲法改正を選択してしまうだろう。

最終的には、人々が自己犠牲はいらないんだと気づいて卒業していかないと、適切な憲法を自力で作ることもできないだろう

だって衆愚政治に陥っているようでは、適切な代表者を選んで国会におくることすらことすらできないのだから。
自らは安全なところにいて絶対戦わないで、国民に戦争を強いるような人を、代表に選び続けるだろう。

あ、その前に人材がいないという悩みがあるわけか・・・。

それも、政治も選挙もあいつらにのっとられているからともいえるけど、
人々の意識の底上げが必要であることを示唆しているとも思うんだ。

だからこんなふうに社会の現象と人の心はつねに連動している。

ここに向き合って気づいていくことが、じつは根本的な問題解決だと思うんだ。





望みの叶え方。「戦って勝たないと自分の望みが叶わない」っていうのは、じつは思い込みなの。

2022-02-24 08:09:56 | 心の解放シリーズ

「戦って勝たないと自分の望みが叶わない」って思い込みが、我々人類にはあると思うんだ。
でも望みの叶い方を細かく見ると、本当はそういうふうに叶っているわけではないんだ。

カンタンに言えば、ふだん自分が実感していることがカタチになっていくんだ。
戦って勝ち取っているのではなく。
これは個人の望みも、あいつら打倒などのみんなの集合意識の望みも、同じなんだ。

例えば敵・味方で戦って、恐怖を実感していると、その恐怖が現実にカタチになっちゃうんだ。

歴史上の激しく戦った人物は、武力や権力で一時的に勝っても、最終的には潰れて、一番戦わなかった人が残るんだわ。
織田信長も、いろんな説が言われているけど、意識の視点では、強くてもあんなふうに残虐に戦うってことを、ずっとやる続けるのはムリだわねと思える。
すると離脱する流れを作っていくもんなんだ。みずから。

前回、分断についてちょっと書いたけど、これに多くの人がハマる危険は、こういう集合意識が叶ってしまうことにもある。
敵・味方で戦って、恐怖を実感していると、その恐怖が現実にカタチになっちゃうから。最後、みんなで撃沈って結末になってしまう。
するとあいつらが喜ぶ。
そんなのイヤだろう?

そうではなく、ネットなども、戦いから離れて、自分の気持ちや考えが、ご理解いただける方に伝わればいいなぁと、自分のそんな実感を感じながらやっていると、

自分のそんな意識が広がっていくって感じ。
分かりあえる方と共鳴していくって感じ。
それがうれしいって気持ちだ。
これは感情のプラスの満足。幸せ。喜び。
この意識が広がっていく。伝わっていく。
これが一番強くて叶いやすいんだ。そして広がりやすいんだ。

どうしても攻撃されればそっちの方が刺激が強く感じるから、意識が囚われてしまうけれど、好意的な人もいっぱいいるわけだ。
そこを見た方がお得だ。
へんなやつは放置して、いい人だけを見てていいくらいだ。
工作員にも一言くらい自分の見解を言ってもいいとは思うけど、相手しすぎると、相手に発言の機会を与えてしまうからな。
あたしは自分のブログのコメント欄をそういう手合いのプロパガンダ拡散に利用されるのがイヤだからコメントを閉鎖したってのもあるんだ。
つきあう人は自分が選んでいいわけだから。

脳のどこを中心に使っているかによって、いろんな満足がある。

人と繋がってうれしいって実感は、感情を司る部分の満足だ。
ここが一番願いをかなえる部分だ。感情の実感ね。

知識ある人は、自分の知識を発信するとき、満足感を実感しているだろう。
これは左脳右脳の満足。
(マイナスに行くと、左脳は理屈で相手を責めるモードになる。
右脳は無気力、うつっぽくなる。)

戦っているときは、脳の脳幹という、よく爬虫類脳と言われてる部分をマイナスに使っている状態だ。
敵に遭遇して、戦うか逃げるかという反応をする部分だ。
動物が命を守るうえで、生き残るための一番原始的な部分だそうだ。
ここがプラスに使えているとスポーツなどが得意だったり、生命力あふれる、元気な行動力あふれる感じ。この満足もある。

でも、戦うと、ここをマイナスに使うことになるから、恐怖を実感しながら戦うこととなる。

どこの脳の満足もすばらしいけれど、戦ってしまうと、一気に感情の実感がマイナスになっちゃうわけ。これが叶っちゃうの。
でも、戦いからおりて、いろんな満足を感じながらやっていると、プラスが叶っていく。
これがコツなの。
実感がともなっていることがミソだ。
なにも行動しないでイメージだけで人と繋がっている妄想でも気持ちよくはなるけれど、これは右脳のつくり出したイメージだ。
本当は、他人がコワい、行動したくないと思っていれば、その思いが叶うだろう。
こっちが本当の実感だから。
それならそれでいいんだ。あたしは今人と関わりたくないんだ、こうやって自分を守りながら休みたいんだってOKしてそうしたらいいんだ。

それでしばらくして、少し行動したくなって、自分の気持ちを感じながら発信や行動をすると、心通じる方もいることがわかる。するとうれしいなぁと実感する。
このモードのときは、愛とか平和とか調和の願いだよね
戦って勝って、望みを叶えようとはしていないはずだ。

自分のそんな意識が広がっていくって感じ。
分かりあえる方と共鳴していくって感じ。
それがうれしいって気持ちだ。
これが感情がプラスの満足。幸せ。喜び。
この意識が広がっていく。伝わっていく。

これが形になっていく。戦ってるときの恐怖やしんどさはないはずだ。
だからそんなマイナスが叶うことはない。安全だ。
同じ主張をしていても、人それぞれ。意識がこんなにも真逆であったりするんだ。

こっちの戦ってない、満足を実感してるときは気持ちがいいんだ。幸せだし、うれしいんだ。
だから、どこまででもやれるのね。しんどくないから。楽しいから。

こうしてみんなで協力する流れが大きくなっていくと、どんどん掛け算で広がっていくの。
脳もリラックスするからいいアイディアも浮かぶし。視野も広くなるし。
それをみんなでやっていけばさらに発展していく。

今、分断に行きがちな人は、ここをご存じないだけなんだ。
もったいないのよ、せっかく才能があるのに。。。
必要ない人、才能ない人なんて一人もいないからね。
リラックスしてそのままでいてくださったほうが、みんなにとっても助かるのよ。
他人と戦って消耗するよりも。みんなもうれしいの。
あなたが平和でいてくれたほうが。
戦ってくれてありがとうとはならないんだ。
そういうわけで、
「戦って勝たないと自分の望みが叶わない」っていうのは勘違いなんだ。

相手を変えようとする、あるいは自分を束縛していく、これも戦いだ。

相手とも自分とも戦っている。
これは支配だし、もちろん分断も、生む。
相手がもう心に決めているのに、強引に言いすぎるとトラブルになる。
これは、相手の選択を認めていないから。
命に関わると思うと、どうしても強引になってしまうんだけど、言ってあげても相手が拒否しているならばムリなんだ。
今、世界中でこういうことが起きているな。
だから正論を言うよりも、相手と自分の責任の範囲を見極めることでチャンスが見えてくるんだ。

ちょっと練習してみようか。
ややこしいことになったり、もやもやする場面、トラブルが起きたときは、
必ずここでのテーマはなにか?と見る。

例えば、
テーマ:Aさんがワクチンを打つかどうか?
これは、Aさんが決めて、Aさんがその責任をとることだ。(Aさんが大人であれば)
これに対してBさんが正論言っていろいろ教えてあげても、Aさんが決めることだから、Aさんの選択を変えさせようとすることは支配となるので、Aさんは快になる
そういうふうに人の心ができているのね。よってトラブルになりやすいんだ。
Aさんが知りたがっていたらいいんだけど。
ここを感じとってあげることなんだ。相手の選択を。すこしずつ話をしながら。

今はもうすでに打ちたい人は打っているだろうから、みんな自分の選択を決めているはずだ。
この選択を無視したり否定することを言いすぎると、相手は嫌がったり、怒ったり、傷ついたりトラブルになる。(すると分断されていってしまうのね)
こんなとき、わたしなら、「自分は、打たないんだ、自然でいきたいの」と自分の選択を話すだけだ。
これは、安全だ。人の責任の範囲に入っていないから。ただ、自分の選択を話しているだけだから。
私の選択を聞いて、相手が何かを思うかもしれない。
相手がいろいろ聞いてきたり、知りたそうであれば、チャンスだ!
自分の知っていることを教えて差し上げる。
これが安全で平和でトラブル知らずの拡散の極意だ。

本来はこんなふうに情報を共有したり広めたりできる可能性があるとしても、
相手の選択を確認する前に、強引に言いすぎると、相手は嫌な気持ちになってしまのね。
話合える可能性をみずからつぶしてしまうこととなるの。


お次は、
テーマ:憲法を改正するかどうか
これは、日本の国民が決めて、その結果を経験することとなる、と言いたいけれど、
実際に内容を決めるのは、あいつらだろう
我々国民は、国民投票のときに、改正に賛成か反対か、これだけだろう。
なのに結果の責任をとるのは国民なわけだ。
だから、まず責任からしておかしいんだ。
しかし、実際には、2016年6月にイギリスで欧州連合(EU)離脱の国民投票が行われた際に指摘されたように、想定されていた結果と異なる方向に誘導されることも可能です。ヒトラーなど独裁者のために国民投票が活用されてきたことも忘れることはできません。
とくに現在の憲法改正手続のための法律(いわゆる国民投票法)には、最低投票率の定めがないため、万一、当日の悪天候などの影響で40%位の低い投票率だった場合も、過半数の20%の賛成で憲法改正が有効に成立する仕組みになっています。仮に有権者の5分の1の賛成で重大な憲法改正が実現してしまうことなどは、あってはならないことでしょう

だから、おばさんに言わせれば、政治の世界は責任がめちゃくちゃだ。
コロナもワクチンもそうだけど。
あいつらがなんでも強引に、国民をペテンにかけながらやっちゃう。
そのくせ責任はとらない。国民がその結果を味わわされる。

だから責任の観点から見れば、国民投票とかの憲法改正の制度からして問題だよねという話だ。内容はもっとダメだけど。
でも、グローバリストのあいつらが政治している時点で「国民のために」なんて視点がないわけだから、日本のためにちゃんとやるわけがないわけだ。
だから現状すべてに言えるけど、あいつらをパージしないと根本的な問題解決は見えてこないわけだ。

じゃあ、こんな状況だけど、

テーマ:憲法改正に賛成するか、反対するか?
これは一人ひとりが決めることだ。自分が決めていいことだ。
日本を愛する人も、心が日本人じゃない人も、売国奴も、改憲草案の中身を見たことない人も意見を決める権利がある。

だから自分の意見は大いに言った方がいいし、問題も言った方がいい。
でも相手の選択を変えさせようと強引になると、ワクチンと同じような状況にもなりかねない。
だから、おばさんは、こんな場合もワクチンのときと同じく、「あたしはこう思うけどね」と言う。
ワクチン強制されたらやだもん。人権なくなっちゃってさ。外国は今大変なことになってるし」と。まずはカンタンなとこから。
(最初からがんばって難しいこと言おうとすると、強引になりすぎるから)
これは安全だ。自分の選択(考え)を話しているだけだから。
相手は相手で自由だと認めていれば、相手の責任の範囲に入ってないから。
相手が知りたそうにのってきたら、チャンス!
いろいろ教えて差し上げればいい。


おばさんは、なんでもきわどいことは、「あたしはこう思うけどね~/あたしはこうするけどね~」と自分の選択だけを言って、相手の反応を確かめる。その反応でだいたいわかる。
相手が何も言ってこなかったら、言いたくないってことだ。
その話はしたくない、言ってほしくないって意味かもしれない。
それも相手の自由でOKなわけで、その場合はそれ以上言いすぎると相手の責任に入りすぎてしまうのでトラブルになる。

命かかってる思うとついつい強引にでも言ってあげたくなるんだけど、
相手がすでに選択を決めている場合は、言ってあげたとしてもムリなんだ。
受け入れられないんだ。
だから「自分が言ってあげていれば」と自分を責める必要はないんだ。
できるのは、自分の選択を話すことくらいだ。でもそのくらいのほうが手堅く平和に拡散できるんだ。
ブログも読みたくない人は読まないわけだから、押し付けなくて済むのね。
おばさんはそういう作戦で、やってます。

ネットでの発信も、
自分の気持ちや考えが、ご理解いただける方に伝わればいいなぁ。伝わってうれしいなぁという感覚てあれば、支配の感覚はいっさいない。
こっちのほうが共感を得て広がりやすい。
読んでて楽だから。気持ちがいいから。

わかんないヤツはバカだみたいに激しく書けば、同じ感覚の方には支持されるだろうけど、広くいろんな価値観の方に広めるのは難しいだろう。
いろんな感覚、考えの人がいるわけだから。

たぶん、世渡りのうまい人、のびのび活躍している人は、こういう相手の責任に入りすぎない感覚を持っているか、知っている。
親にそう育てられていると思う。それで自然に身についていると思われる。
するとトラブル少なく安全なので、自分の選択(やりたいこと)を伸ばしていきやすい。
トラブルが少ないから、順調に伸びていきやすい。
他人の選択を阻害しないかぎり、もっと好きにやっていいんだと、どんどん自由になっていく。
(くやしいけど、あいつらエリートに多い)

嫌がってる相手を無理に変えようとするのは、他人の選択を阻害してしまっている。すると分断工作員になってしまう。工作員でなくても。
(残念だけど、ふつうの良心ある、いい人に多い)

こういうことを知らないで戦っていると、同じような戦う人と潰し合っていくこととなる。

そして、一番戦わなかった人が生き残る。

正しい人やがんばっている人が勝つわけではないんだ。残念ながら。

この勘違いというか、思い込みが、過去、我々があいつらに勝てなかった一因でもあると思う。
「戦って勝たないと自分の望みが叶わない」っていう根深い思い込みがあったから。
あいつらは残酷で悪魔だけど、一般人よりはずーっと戦っていないの。
自分らは戦わないで、下々の者をお互いに戦わせる。
潰し合いをさせ、消耗させる。
そして自分たちは安全、安泰に富を増やす。
今まさにその仕上げか、崩壊かという段階。

だから、責任を見極めながら、自分の意見を発信し、理解しあえる人と繋がって協力する幸せを覚えた方は、もう大丈夫なの

あいつらから抜ける動きを自然にされていくことと思います。

単に、どういうふうに自分が思い込んでいるかで自分の言動が決まる
すると、その結果まで決まっちゃう。けっこう自動的に行っちゃう。

今、「戦って勝たないと自分の望みが叶わない」っていう長年にわたる人類共通の思い込みから、みんなでいっしょに抜けられるかどうか?ってところにいるのかもなぁって、ふと思いました。

改憲を言っている勢力のなかにも、
一見、戦わない感じの、上品な、耳障りのいいことを言うのが上手なチームも、ある
政府が暴走しても歯止めがきかないように変えようとしているのが問題なのに、このようなことをおっしゃっているのか。。。
てことで、じつは、あべちゃんの別動隊なわけだけど、

改憲推進の新政党のみなさん、ワクチン反対言って、みんなの支持を集めている。

改憲の危険をちゃんと言って、正論を言ってても、はげしくやりあって、戦って分断に走ると、こういったお上品な改憲推進派に負けちゃうわけ。
意識の視点から結果を推測すると、戦わない人が残るから。

こうなるのを狙って、改憲反対派に分断工作員を送り込んでなきゃいいんだけど。

刀振り回してる親父さんがそういうのの元締めをされているからさ。
そろそろ親父さん、改憲に向けて仕掛けてくるころじゃないかなぁってw
右翼だけど、左翼からも、工作員が行ったり来たりしている。
両刀もいっぱいいるし。一人二役とか。
だから右とか左じゃなくて、分断する方や、ガス抜き→誘導する激しめの方は、たいていDSに使われているということだ。


あ~そうですか。
資金豊富だもんな。分断工作員を送り込むことは、いくらでも可能だな。
あ、スレッドの中に刀おやじ・・・
おやじ、まさか・・・
改憲推進勢力には、反ワクチンのちょっと上品な人を配置して、
改憲反対派に分断工作員を配置、なんてことしてないよな?

おやじの手の内はおばさんけっこうわかっているつもりだ。
弟子に正論言わせて分断をつくって、マスコミに叩かせるってやつな。

ちょっと注意しておきます。

というわけなんで
「戦って勝たないと自分の望みが叶わない」って思い込みがあると、分断工作にも乗りやすいと思うんだ。

だから工作員でない普通の方は、
そういう手合いを必死に攻撃したり応戦したり脅したり牽制したりなんてことより、
責任を見極めながら、
楽にゆったり、自分の意見を発信し、理解しあえる人と繋がったほうが効率がいいだろう。
(やってるうちに、攻撃的な人とは縁遠くなっていく)

そのほうが頭の回転もよくなるからよい発信ができるだろう。
(恐怖や他人に縛られてると頭の回転も悪くなるの)

というお話でした。

だからおばさんは、トラブル知らずだ。
こういう法則で願いがかなったり、トラブルもまた起こることをふまえて、
他人を尊重しつつ、ちゃっかり自分言いたいことも言ってるから。
ネットも、日常も。

そしてがんばらない。
がんばることは、自分への支配だからなw

すると、元気になってしまう。。。

マイナスにエネルギーとられないから。トラブルに悩まないから。
そしてがんばらないからw

だからこんなに厚かましくいられるわけだ。

あいつらに、こんなにもめちゃくちゃやる自由があるんなら、
ふつうのおばちゃんがこのくらい厚かましいくらいがちょうどええやろと思っている。



他者の評価から自分を解放☆

2022-02-09 12:05:17 | 心の解放シリーズ
ブログランキングってものに一応参加しているんだけど、いままであまりじっくり見たことがなかったんだ。
よく見ると、INポイント、OUTポイント、注目記事ランキングとか、
いろんな切り口のランキングがあるんだね。

毎日ブログ編集画面を開くと、自分のブログが今何位かって出てきて、
「今日は4位か~」上がったなぁ。下がったなぁ。などとなんとなく見ていたんだけど、
このブログはOUTポイントが高いことがわかった。
OUTは、ランキングサイトからこのブログをクリックするとカウントされるヤツだと思うから、ランキングサイトで記事のタイトルをご覧になって訪れてくださる方が多いということかぁと思った。

たくさんの方に読んでいただき、ありがとうございます。
思いつくまま好き勝手書いているブログだけど、
こんなご時世なので、情報収集やいろんな危機の回避や、少しでも楽にいるためのお役に立てれば、こんなにうれしいことはありません。

なんでこんな話をしているかというと、
ランキングとか順位というものは、人さまの評価なんだよなぁと気づいた。

つまり他者の評価だ。

他者の目が、自分の心のなかでどういう位置づけか、どのくらいの割合を占めているか、っていうのが、
自分の心の幸せ、安定、能力向上に大きく関係しているということなんだ。

結論から言っちゃうと、他者の目、他者の評価は、気にしなくていいということなんだ。
それはじつにあいまいなもんだということなんだ。

ブログランキングだって、これだけいろんな切り口でランキングを出してくれていて、ある切り口では髙かったり、低かったり、いろいろだ。

他者の目から見た絶対的な評価なんてものは、じつはないんだ。

人の評価を、他の人間が本当の意味で決めるなんてことはできないんだ。
ただ、どう感じるか、好きか嫌いかくらいだ。

例えば文章であれば、読み手の読解力や好み、気分、知識によっても、評価は変わってくる。
どう読むかは読む人の自由だ。
そしてそれはあいまいで、ちょっとしたことで変わりやすい。

だから気にする意味があまりないということだ。
小説家の人も、ブロガーも、ツイッターやってる方も。

他人を気にしないレベルを高めて、自分にいる割合を増やすと、いろんないいことがあるんだ。
じつは、
ただ存在しているだけで、すでに役割を果たしている。だれもが。
だからなるべく自分そのまんまのほうが、より本来の役目を果たせる。
そのままでいるとき、自分の感情にいられるから。
それが周りにも愛であったり、癒しを与えていることになるんだ。
よーくわかっているんだよねぇ。
こどもや動物のほうが、この点はおりこうなんだ。
で、われわれもこの状態だと、ゆったり伸びていけるんだ♪

頭で考えて、立派になろうとか認められようとか、
社会(あいつら)が決めた価値感にあてはめてしまうと、本来の自分から離れていく。
これだと、支配にはまり、マイナスの形でお役目を果たすことになりかねない。

だから、
他者の評価=自分の価値だなんていう思い込みがあると、まず心が苦しくなる

そして、本来の自分の持ち味とか役目とかから離れていくから、なかなか能力を上げて発揮する方向へいけなかったりするから、よけい伸び悩み、苦しむ

そして、苦しいから、なんだかやめたくなっちゃうの。
こうして長く継続することができない。
感情を感じないで、思考だけで決めていると、そういうことになりがちだ。
(このとき、他人や親の意見に囚われていることが多い。)
でもそれも、自分の道から外れているから苦しいわけだから、自分の心が楽な方向にシフトできれば、そっちが正解なわけだ。

こういうこともあって、わたしはあえて、人の評価を気にせず、好き勝手マイペースでブログを書くようにしているんだ。
結果的にそのほうがよくなるし、継続できるから。

最初のころは、あいつらが大変なことしてるから、たとえ、妨害が来たとしても屈しないで書いてやるぜ!、なんて気合いを入れて思っていたけど、
最近は、いろんなことが気にならなくなってねぇ。
自分の感情、感覚、直感以外のものは、はかないんだと、やってみて分かったのね。
妨害コメント来たとしても、時間が経つとすぐでたらめと判明するしね。ほっといていいんだなぁって。


これは、音楽のコンクールとか、いろんなコンテストなどを見ていても思う。

だって、はっきり言って、ショパンコンクールなんて、出る人はみんなすごい天才だ。

だから全員すばらしいわけだ、出られるだけで。
演奏もまたすばらしいわけだ。全員。

それに、音楽にランキングをつける意味は、本当はないはずだ。

でも、やる。

なんていうか、本当は音楽にランキングなんて意味ないんだけど、
でも、表現や技術を切磋琢磨する場があるということに意味があるのかなぁ。

だから、おばさんの目から見ると、上位に来て、結果に満足している方は
みんな、他者の目を気にしていない、自分の感情と感覚にゆったりといる人だ。

この状態だと、誰もが天才なんだ。音楽に限らず。

逆に能力を発揮できなかったと悔しがっている方を見ていると、大舞台にのみこまれてしまったのだねと見える。
大舞台の耳の肥えた聴衆にのまれ、他者にとらわれすぎてしまったのだと見える。
緊張してしまっている状態は、この状態だな。
だから緊張を解くには、そんな他者の目から、自分の感覚、感情にシフトするということだ。

他者の目にとらわれた状態だと、天才でも能力を発揮できないということだ。

(だから音楽の競争というよりも、精神修行の場のように私には見えるんだw)

でもさ、他人の評価というものに、絶対的なもんなんて、なにひとつない。

例えば誰かから否定的な反応をされても、それはそいつの精神状態が変わると、変わっちゃうんだ。
だから、相手の内面の表現にすぎないんだ。

それに音楽だって、その時代の流行りっていうかトレンドがあって、
昔よいとされていた演奏法と、最近いいとされてる演奏法とちがうしな。
こんなふうに時代の気分によっても評価が変わる。

(今なんて、名医といわれている先生が、突然ヤブ医者になちゃうことも、起こるんじゃないでしょうか?w)

だから、自分の感情と感覚にゆったりといる。
他人がどう言おうと、どう思っていようと、もうその状態で、すでにすばらしいのは、上記ネコちゃんが教えてくれているとおりだ。
そのうえで、ゲーム感覚で他人の評価を楽しむ、くらいの感覚が、楽で適切なんじゃないかなって気がしてる。ふーん、あなたはそう感じるんだねってくらいの。

職場などでもそのくらいの感覚のほうがむしろ、いい仕事ができると思うんだ。

私はわりと否定的な親から否定的な反応をされながら育ったから、
自分自身を否定的にきびしく見てしまうところがあるんだ。これでもw
すると、他人も自分をそう見ているような気になるんだと気づいた。

でも、じっさいはそうじゃないんだとわかった。
他人は思ってるよりテキトーで、案外やさしいんだって。
それは自分が自分に厳しすぎるから、それよりは人はずっとやさしい。
もちろんへんな人もいるけど、平均するとそんな感じだ。
(他人は他人の人生に忙しいしな)

こうやって頭で気づいても、純粋無垢なこどものときから毎日否定的にやられたら、染みついちゃってるから、ときどきは出てくるの。否定や厳しさが。
そしたら、あぁ出てきているんだねと見てあげる。
気の済むまで感じてあげる。
そうしているとやがて、
「あぁ、そうか。
自分が自分を厳しく否定的な目で見ているから、
他人が自分をそう見てるような気がしたんだね。」
って、感じ切ってあげたあとに、冷静な目が出てきたりするの。

安心して、解放されていくの。
すると、どんどん楽しくなっていくの。
「なんだ、そのままで自由でいーんじゃない」って。

こうして親のマイナスの意識を受け継いでしまっていても、それも自分で癒せるんだ。

だから、今あいつらの走狗やってる人も、こんなふうなマイナス意識に囚われているのが明らかだから、そのうち癒されるといいねって思ってるの。
ほんとはそれが根本的な解決だから。
これから、あいつらから寝返る人も出てくると思われるしね。


それから、他者から自分を解放するには、心の仕組みを知っておくと便利だ。

心の中で
他人にとらわれている部分が多いと、相対的に、自分の感覚・感情を感じる部分が減る。

他人を忘れてるくらいだと、自分を感じている割合が多くなる。

こんなふうに
「自分:他人」の割合が決まる。

だから他人に囚われると、自分の能力が発揮されないのは当たり前なんだ。
相対的に、「自分」の割合が超少なくなっちゃうわけだから。

だから、他人を気にしないで、ぼーっと自分にいる人のほうが、
頭がよかったり、いいパフォーマンスしたりするもんなんだw

こどものとき、クラスにもそういうヤツがいた。
いつもぼーっとしてて鼻たれなんだけど、成績がいいやつ。

塾に通って、親や先生の期待にこたえようとがんばってる子より、
鼻たれのほうが成績がいいんだなぁと、
あんまり勉強しないけどおませさんだったおばさんは、横目で眺めていた。

これはこういうことだったんだとおばちゃんになった今思う。
こどものころから、人の意識とそいつの現実との関係に興味があったんだな、今思えば。


それから、思考しすぎると、他者が気になってしまうんだ。
そういうふうにできている。心が。

だから、左脳社会でみんなが思考暴走状態の現代は、他人と関わるのがきついという方が増えて、個人主義になっていくのは、当たり前だ。
(なんでもエビデンス、エビデンス言って争ってるだろう?エビデンスにもペテンが張り巡らされているとも知らず・・・)

思考を止めて、感情を感じるって意識してやると、他者から自分に戻れるんだ。
(ぼーっとしてて鼻たれだったあいつは、完全に自分にいるわけだ)
思考が多すぎると、他者に囚われる。

感情を感じる量を増やすと自分に帰れる

「自分:他人」とおんなじだな。「思考:感情」も。そして連動している。

だから、思考を止めて、自分を感じているってことなんだ。他人を見るのをやめて。

関連記事:

これも言うのはカンタンなんだけど、他者の目が気になってつらいと言う状態から抜けられないと、なかなかできないこともあるからな。

でも、他者の評価とは、じつにあいまいで、絶対的なものではないということが腑に落ちてわかると、あっさり楽になれたりする。
他者はテキトーで、自分が思ってるよりはやさしいんだと。(自分に厳しい人はとくに)

こんなふうに、自分を楽な状態にすることも、苦しい状態にすることも、自由自在なの。じつは。

意識して、自分の感情に戻らないと、どんどん他人と思考にとらわれていっちゃうの。
とくにこんなご時世。
同調圧力とか、箝口令とか、ヒトラー言うな、とか、すごくなってきちゃってるから、意識して、自分の感情に帰らないと、どんどん激しくきついところに引き込まれて行ってしまう。

でも抜けるのもカンタンってことだ。
少なくとも、意識のレベルでは。
でも意識が抜けられれば、自分だけは平和で安全でいられる。

そして、この心が自分の現実をつくっているわけだから。
だから大事だ。
みんなの心が社会もつくっているわけだ。これが集合意識というやつだ。


だから本当は本質的な問題の解決は、ここだと思っている。

あいつらを掃討できるかどうかもここにかかっている。

幸せになるのと逆のことを、みんなに教えている。

だからとりあえず、こんなシンプルな心の仕組みを知って
自分がどうしてそう感じるのか、そういう心境なのかってことに気づいてあげることだ。今が苦しいならば、逆をすればいいわけだ。

これが本当の打倒あいつらだと思っている。
だから「打倒」なんて言葉でいうけど、本当は、自分を楽にしてあげるってだけだ。
自由にしてあげるってことだ。

これが本質的な問題解決だ。


おりしも今は、これまでの社会の価値感が崩れつつある。

こんなときは、今までの価値感が崩れるから、他者の評価に囚われていた自分を解放するチャンスともいえる。

少し前は、社会でバリバリ働いているのがすばらしいみたいな価値観が主だった。

けど、いまや在宅ワークとか時短とか。
そのうちグレートリセットされてしまいそうだ。

だから、今、苦しい方、働けなくなってしまった方、引きこもりの方、
そんな価値観を手放していくチャンスだ。自分の感覚が正しかったんだ。

おばさんに言わせれば、あいつらの走狗がイキイキしていて、
清い方が苦しんでいる。
感じる心を持っているからこそ異常な社会ではきついと感じるわけだ。
そういうのを感じない人がご活躍で、人類を滅ぼす暴挙に出ていたりする。

変わりゆくなかで、なるべく楽に、自分に帰りながら、自分の道がみつかるはずだ。

単に、とらわれているから、苦しかっただけなんだ。

他者や世間の評価に。こんなの、まぼろしだ。



こうして心のエネルギーが回復すると、
自然に、自分はこれをしたい、と思って、気づいたらしているだろう。

こんなふうに全部、エネルギーの循環でできている。
感情というのは、つまりエネルギーだ。

これが他者にとらわると自分のエネルギーが枯渇していく。
(あいつらは人々からエネルギーを奪うプロだw。お金とも連動している)

これを自分に戻すってことだ。
そして、ゆったり感じる。するとエネルギーが循環する。

そのきれいな循環が愛ってことだ。

この循環を止めたり、マイナス方向に循環させてるのが支配だw

だから、あいつらが感情の乏しいロボット社会にしたいのも納得だ。
人間としての、エネルギー枯渇だからな。


体だってエネルギーの循環と考えると問題の解決が見えてくる。

栄養を入れたり出したり。エネルギーの循環がよくないと、具合が悪くなる。

これをとっても繊細に微細にバランスをとって、全身で細胞たちがやってくれている。

この細胞を人工的に変えてしまう、人工物を入れて出せないとなると、この微細なバランスがめちゃくちゃになってしまう。

なにか、人間は動物であり、生き物であるということを、忘れていませんかね?

おばさんは、年寄りの多い家で育ったので、昔の、自然に近かったころの人間の感覚を少しだけ知っている。
おばさんのひいおばあちゃんは、動物っぽいというか、自然に近い感じだった。
そしてかわいかった。
最後ぼけちゃったけど、そうなったらより自然そのものという感じで、いつも庭いじりをしていた。
かがんだとき、おしりがでちゃっても気にしないで、けっけっけと笑っていた。
お客さんが来ても、裸で玄関に出ちゃうの。

ずっと農家だったから、農業やめたあとも、お庭にいるのが彼女にとって自然だったんだな。病気せず、健康で長生きだった。
いつも、けっけっけと笑っていた。

日光浴して、自分の世界にいて、自然そのもので、おばあちゃんのエネルギーの循環はきっときれいだったのだと思われる。

こういう感じを知っているから、ごちゃごちゃ思考を暴走させて、
権力が、体と心を破壊する世になっても、帰るべきは、そこだろうと思えるんだ。



人工物を体から出すには解毒といわれているけど、これも食べ過ぎていると、
体が消化吸収に忙しく、排泄がおろそかになるという。

心のエネルギーが滞っていると、食も連動して、ムダに食べたくなっちゃったりするんだ。
やけ食いとか、拒食症とか、明らかに心と食欲は関係していそうだ。

だから、やっぱり体の問題解決も「心」がひな形なんだ。

感情のエネルギーの循環をよくしてあげることで、体もすっきりさせたくなったり、ちょうどいい食欲になったりするから不思議だ。

体の解毒についても、またまとめて書こうと思います。
みなさんがいろいろ発信してくれてるからな。