丸顔おばさんのブログ

すべての問題は「心」に通ず。
リンドウの花言葉は「悲しんでいるあなたを愛する」「正義」「誠実」

価値について

2022-05-20 16:34:14 | 心の解放シリーズ

なんだか気分のままにとりとめもない話を書いてみたくなった。

昨日まではあれについてもこれについても書きたい、書かねば、と思っていたんだけど、
世の中がシビアになってくると、いつもおばさんは、あるときふと、そこから外れたくなるんだ。
いつもそうなの。
世の中の空気になじみたくないの。アウトローでいたいの。

パソコンを買い替えようと思ってるんだ。
いろいろ見ていてね、やっぱり安いやつは、中国から部品を持ってきて日本で組み立てて作られていることを知った。
まー、10万くらいでかなり高スペックのパソコンが買えて、よぶんなソフトが入っていないからシンプルでいいというお話も聞く。
でも、信用ならん国の部品だと、なに仕込んでるかこわいしなー、と、こんなブログ書いてるくらいだからw、こわくて買えないのね。

それで国産にしようと思ってるの。
高級なやつ、堅実なヤツ、いろいろ見ててね、
スペックもコスパも大事だけど、丁寧に作られているパソコンは見た目も美しくていいなーって。
口コミを調べると、10年くらい使えちゃいましたと、けっこう長く使えるようだ。

そうだよね。パソコンの買い替えも面倒くさいからねぇ。データうつしたり。

だから少しいいヤツを買って、長く大事に使おうかなと検討中なんだ。

毎日使うもんだから、自分のお気に入りのやつにしたほうが、毎日気分もいいわけだ♪

そんなふうにパソコンを選んでいて、ふと思ったんだけど
「なるべく高スペックで、美しいものがいい。なるべく安く」

なにか人間のことも、こんなふうに勝手に価値を決めているところ、ないか?って。他人のことも、自分のことも。

結婚相手を探すサイトとか、出会い系サイトとか、あるよな。やったことないけど。

いろんな条件を入れて、検索。。。年収とか。

人間は、機械じゃないからな、ふつうはこれだけで結婚とはならないんだろうけど。


人間のことを、パソコンみたいな価値観で選ぶ感覚のほうが強くなったら、行きつく先は・・・
2018.06.30

人間よりも、条件を満たしてくれるAIのほうがいいやとなるだろう。
そして、人間のほうが、ロボットに調教されていく。

人間がロボットっぽくなっちゃって、
ロボットはどんどん人間みたいになっていけば、
人間とロボットの境界があいまいになっていく。。。

こういう世界の到来が近いように思う。
いろんな問題があるけど、今日は心のお話。

昔、おばさんは小学校のときが幸せだった。
地元の小学校に通っていたんだけど、当然、勉強ができる子、できない子、それ以外にも本当にいろんな個性の友達がいた。ちびまる子ちゃんみたいな感じだった。

それが楽しかった。

高校生になると、高校は受験して決まるので、だいたい同じ学力の子同士が集まってくるわけだ。
おばさんはこんなキャラなのに、うっかり進学校に進んでしまってな、
1年生から大学受験の話ばかりで、なんだか学校が殺伐としていて、友達もこわかった。
だから学校がきらいになっちゃったの。自分が選んだ学校だったんだけど。

小学校の無邪気な時代にかえりたかった。
だから、高校生になってからも、小学校のときの友達と遊んでばかりいた。
そいつは、進学校ではなくのびのびした高校に進んでいたから、
その学校の友達もまたイキイキのびのびしていて楽しかった。
そして、そっちの学校の子たちがうらやましかった。
そっちのほうが、おばさんは気が合うらしかった。優等生よりも。
青春とは、本来こういうことだろうと思った。

優等生的な友達は、きっと心が窮屈だっただろう。
だから友人関係もどこか、殺伐とする。
自分に対する態度と他人に対する態度は、同じだからな。
自分を縛っている友達は、他人にも、きついわけだ。
これは高校生に限らず、ママ友や、親戚関係も、職場も、みんな同じだよな。


優等生的な友達はきっと、パソコンを選ぶときにみたいな価値観を、自分自身に当てはめていただろう。
そこがおばさんには、つらく感じてしまうんだ。
そうしたいなら、その方の自由なんだけど、「それじゃきみ、つらかろう」と。
そして私は自分自身にパソコン的価値観を当てはめるなんてことは、どう考えてもできないわけだ。
やってらんないわと。
今にして思えば、反抗とは、愛の裏返しだな。
相手が支配しているから、そうなるわけだ。
そういうのを強制されると、人は絶望してしまう。
思えばこどものときからそういうキャラだった。
おばさんになっても、そこは変わらないんだなぁ。
社会不適合といわれても、それでよかったと、今は思う。
ムーンショット計画なんかを見て、だんだんロボット的になっていく人々を見ていると。
おまえ、だいぶ人間臭くてよかったじゃないかwと、自分に言ってあげてるんだ。

自分はパソコンじゃなくて人間なわけだ。

優等生のやつらは今、どんな人生を送っているのだろうか。

パソコン選びみたいな価値観、
「高スペックで美しく、高品質でいなければならない」なんて、自分に課したら、いつか、こわれてしまうだろう。

自分がこわれるか、社会がこわれるか。どっちが先か。
こうなってきているように思う。
ソフトランディングを目指したい。

小学校のときの個性豊かな友達は、みんな自分そのものだった。
こどもだったからねぇ。純粋だ。
それをみんな学校で表現していたんだ。自分のペースで。
おばさんは、それに癒されていたんだな、きっと。
おばさん自身は、親がスパルタであったため、こどもなのに、無邪気にいられなかった面があったんだ。
だから、そういう純粋な、そのままでいてくれる友達が好きだったんだ。それでいいんだって。安心するのね。楽しいし。

そういう子たちが好きだった。
先生も一応、「宿題をしなければならない、忘れ物をしてはいけません」と言うけれど、言いつつも出来ない子を許容してくれていたから、教室も、どこかほっこりしていたんだろうな。

でも、大人になっていくにつれて、そうはいかなくなって、パソコン的価値観を植え付けられていく。
そして、そういう学校や職場を選んでいく。

でも本当は小学生みたいな自分が心の奥深くにはいる。
でも頭のほうは、パソコン的価値観を強いられ、自分でも強いるようになる。
このギャップが大きくなると、やがて崩壊してしまうと、先日書いた


じつは、小学生や動物だけでなく大人だって、あるがままの自分を大事にいたほうが、周りに貢献することとなるんだ。

むしろ、ダメなところもそのまま表現したほうが、他の人に対しても、きみもあるがままでいいんだよとOKしてあげることにつながる。
そういう人がいてくれたほうが、その場は居心地がよくなる。

私はこどものころ、親にもっと手抜きしてほしかった。
あなたのためにこんなに一生懸命やっていると言われるのが嫌だった。
幸せだった思い出は、雪の日にびしょぬれで帰って来た日に、お茶漬けたべて、そのまま母親とこたつで寝ちゃった日のことだ。
お母さんは、楽ちんでしあわせそうで、お茶漬けもおいしかったし、あったかくして幸せだった。
ところが祖父母と同居するようになってから、母親はすっかり変わってしまった。

でもこどもにとっては、このくらいゆるいほうがありがたいんだ。
ごはんなんて、だいたいで。

そして、じつはゆるいほうが、かえって発展するんだ。

なんでもきっちりカンペキで、仕事ができなければならない、美しくなければならない、なんていうのはウソだ。
それが完全に達成されたとき、逆に人間は、ほろびるだろう。

動物や赤ちゃんがかわいいのは、あるがままだからだ。
他人を気にして、こうしなければならないという邪念がない。
その姿に、人間たちは癒されているんだ。
それが愛だし、そっちのほうがカンペキなんだ。

そもそも人間とは、「全員でひとつの人体を形成している」んだって。
私を地獄の底から救ってくれた恩人が教えてくれた。
一人一人はひとつの細胞なんだそうだ。
心臓の細胞、髪の毛の細胞、目の細胞。。。それぞれがそれぞれの役目を果たしている。
全部必要だ。なくてはならない。大切だ。
しかし、例えば、髪の毛の細胞が、脳の細胞に憧れて、脳になりたがったとしても、それはムリなんだ。
今の社会は、全員が立派な脳の細胞になりましょうと言って、そういう価値観を植え付けている。ばかげている。全部脳の細胞になっちゃったら大変だ。そもそもなれないし。
髪の毛は髪の毛の細胞として、そのままで大切な役目を果たすことができるし、それが全体にとってありがたいことなんだ。
人間ひとりひとりもそのようになっている。そのままでいてくれ。
それが一番すばらしいし、全体にとってかけがえのない役目を果たす。
そういうわけで人間は宇宙なんだ。ひとりひとりが。そして全員で大きな宇宙を形成している。


だから、じつは、その状態のまま、大人になったほうが、結果的に自分の能力も高くなるし、お金も稼げるようになる。

なんと。最近の若い天才はつらいレッスンを受けていないことが判明。
おばさん以前、反田さんがテレビでお話しているのを拝見して、なんだか秋葉原にいるオタクのようにwピアノの弾き方の研究について語っておられて、すばらしいと感心した。ただ好きだから楽しいから追求していて、うれしいって気持ちなんだねと見てて気持ちがよかった。
こんなふうに苦しまないで、軽い意識でできるんだ。本当はw
最初から「好きでやりたいからできて当たり前」っていう意識があると、「練習する」という必要不可欠なプロセスまですっとばしてしまうんだね。
そういう学校にご縁でたどりついちゃうんだからすごいよね。


こういった天才に限らず、順調に平和的に活躍されてる方(競争や戦い、勝ち負けでのしあがった人ではなく)は、
みなさん自分の内で感じることをそのまま大切にしてこられた方が多いようだ。
研究者などは、それがないとできないよね。
自分独自の視点があって、それを育てていって初めて、発見や新しく生まれることがあるわけだ。

そうでないと、自分独自というのがなくなるわけだ。

社会が決めた価値感に合わせる人生になるわけだ。

社会が決めた価値感とは、あいつらが決めた価値感だ。。。。

あいつらにとって都合がいい価値感だ。。。

人口削減したいやつらにとって都合がいい価値感とは・・・

そう考えると、行きつく先がわかるはずだ。

こういう価値観から外れて、
自分の内で感じることを大切にしている状態というのは、
のんびり、ゆったりリラックスしていないと、ムリなんだ。
そこを忘れちゃうと、自分を感じることができなくなっていく。

せかせかしていると思考ばかりで効率ばかりを追い求めることとなる。
すると、感情を感じることができなくなっていくんだ。
感情を感じない、とは、自分がなくなっていくということだ。
テレビは人々をこういう方向へ誘導する装置だ。

思考ばかりの、あいつらの価値感にのっとられた生き方になっていく。
こうなると、いくら頭がよくても(高スペック)、あいつらのペテンや謀略に利用されていくこととなる。
パソコンのようにはいかないんだ、人間の場合は。。。

(再度引用)
「なるべく高スペックで、美しいものがいい。なるべく安く」
なにか人間のことも、こんなふうに勝手に価値を決めているところ、ないか?

それから、美しさについてだな。
女性は美しくなりたい。それは、そうだ。若返ればうれしいよな。
男性もそうだよね。

その一方で、判事たちは自身の経験も引き合いに出しながら、ハゲは女性よりも男性に多く見られると主張。ハゲという言葉が「性という保護されるべき特性」に関連するとみなしました。
さらに判事たちは過去の判例をもとに、「男性をハゲと呼ぶこと」と「女性に向かって胸の大きさについてコメントすること」を比較し、「私たちの判断では、この工場では労働者の言葉づかいが当たり前ではありましたが、キング氏は原告の容姿について個人的な発言を行い、一線を越えました」と述べています。


こういういじめも、
はげたら美しくない、胸が小さいのはダメなんだという、そんな価値観に、
双方が囚われて、否定的だから、こういうことが起きている。
言った人も、言われた人も自己肯定感が低いんだ。
自分自身のことも相手も否定している。
どちらか一方が自己肯定感が高いとこういうことは起きないんだ。

セクハラの定義なんかより、ここが根本的な問題だと思う。

「美魔女」と言葉が流行ったのも、その裏に、若く美しくないとダメという否定性が隠れていないか?

でも、自分が年取ってきて思うけど、見た目に過度に執着しているとき、苦しいし、ちょとつまんないと思うのだ。

で、外見さえステキになれば、自分は幸せだと思っていないだろうか?

愛を得られると思っていないだろうか?

本当にそうだろうか?

そういう状態の方はきっと、
自分がそのまま、あるがままでいることが、いかに周りに貢献するかを知らないのだ。
上記の小学校の友達や、雪の日の私のかーちゃんみたいに。
じつは、これが愛だ。自分を愛している状態だから、相手もうれしい、幸せってなるんだ。

こういう状態の人は、見た目なんて関係なく、なんだか、いとおしく感じる。

そして自分をOKできる人は、相手のこともOKできるから、いい関係を築ける。
だから結果、愛を得られるんだ。

見た目が素敵だから愛が得られるわけではないんだ。

心を感じてあげて、それをそのままOKできて初めて、自分を愛せるんだ。

自分を愛せないと、人も愛せないんだ。
人を愛さなければ、と思わなくていいんだ。
自分を愛しているとき、自動的に人も愛している状態になっているから。
こうなると、相手からも愛がかえってくる、となる。

だから、自分自身が自分の肉体や外見も含め、愛している人は、相手を容姿で否定的に見たり、いじめたりはまずしないんだ。心の仕組みからいって。


そして、
こんな心の状態が形になったのが、肉体や自分の現実や物やお金だから、
心を大切に感じていると、物質的なものも大事に思えるようになってきて、
大事に扱うようになってくる。
私自身が少しずつそうなってきた。
今まではパソコンも適当なものでよかったんだけど、
いい物を大事に使いたいなとなっていく。
するとだんだんお金や物の循環が豊かになっていく。
あまり節約をしなければとストイックにしすぎると、この循環が小さいものであれと自分に課していることだから、
味わって好きなものに適切にお金を使うことをOKしていくほうが、お金持ち体質になっていくみたいだ。(使いすぎちゃうとダメだけどね)
味わって好きなものにムリない範囲で使ってOKってしてあげることは、愛の循環ともいえるわけだ。

こうして心(愛)の循環と物質的なものは、つながっているんだ。

これだと髪の毛をはやす方法を偶然見つけたり、そうなる可能性も出てくる。
(本人が望んでいればね)

おばさんは、昨年、せっけんシャンプーに変えたら、それがよかったらしく、髪が増えましたw
(馬油でできたせっけんシャンプーが自分にはよかったようだ。乾燥しなくて。
どうやらシャンプーの化学物質にやられて髪が減ったんだなと思った。
老化もあるだろうけど、生きている以上、生活用品や食べ物から、恩恵と同時にマイナスも受け取るから、そういうのが蓄積されて起きていることも、あるんだね。)

なにか、特別すごいことをしなくても、
感情や五感と一致して、それをよーく感じてあげて、OKして、生えるといいな~くらいに軽く思っていると、
ある日、ツボにはまるものを見つけて、あっさり解決したりする。


反対に、
はげちゃったらダメなんだと否定している状態で、髪だけ、ふさふさになったとしても、心から幸せってなれないだろう。
また減っちゃったら、またダメだーと、否定から逃れられないから。

たぶん、未来は3D プリンターで肉体も自分の好きなように作れるようになるのではないか?

それで、うまく使って幸せなら、いいのかもしれないけど、
人によっては自己否定から逃れるように濫用してしまい、本当にロボットみたいになってしまうかもなって思ったんだ。


自分の感覚のお話をすると、
年と共に、肉体が年相応になっていくにつれて、いろんな執着がなくなる感じがある。

おばさんは、最近これを楽しんでいる。

若いときは体が元気だから、いろいろと、どん欲だ。
それはそれでいいんだろう。
四季みたいなもので、それぞれの時期のよさがある。同時に苦しさも、ある。
でも衰えてきたときに感じる感覚も、私は最近けっこう好きだ。
若いときには感じられなかったことが、わかったりする。
若いときにこだわっていたことが、どうでもよくなっている。
すると、若いときより自由な自分に気が付く。あ~楽だって。
若いときはあれこれこだわっていて苦しかったよなーって。


自分が他者を見ていても、そのときそのときの自分のいろんな感情や感覚を大事にしている人は、年を重ねてもステキだよなと思うんだ。
しわがあっても。白髪でも、ステキだなと感じる。

そんな相手を見てステキだなと思っているとき、
自分のことも同じく、けっこういいじゃんと好意的に見ている気がする。

だから不細工でもかわいいじゃないかwと自分のことを愛せるんだ。

(再度引用)
「なるべく高スペックで、美しいものがいい。なるべく安く」
なにか人間のことも、こんなふうに勝手に価値を決めているところ、ないか?

てことは、つまり、人間の場合は、そのときそのとき、自分のあるがままを、感情を感じて味わってOKして、愛していると、
どんなでも、そのままでいとおしく、価値があったんだってことに気が付くというわけだ。

そしたら物質面も、なんだかいい方向に整っていくという不思議まで起こす力があるってことだ。