ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

幻の都市計画

2008年06月05日 | ニュース・現実評論

NHKに「そのとき歴史は動いた」という番組がある。6月4日 (水) に放映されたの番組のタイトルは「人を衛(まも)る都市をめざして ~後藤新平・帝都復興の時~」というのもので、日清戦争後の台湾統治や関東大震災後の東京復興に力を尽くした後藤新平が取り上げられていた。

 

もともと後藤新平は医師として生涯を歩み始めたが、とくに内務省衛生局に勤務したことから、日本の医療行政に深くかかわるようになったようである。とくに日清戦争後の帰還兵の検疫業務に卓越した行政手腕を見せ、それを台湾総督となった児玉源太郎に見込まれたところから、1898年(明治31年)3月台湾総督府民政長官として赴任することになった。ここから、都市経営や植民地行政に深くかかわり始めたようである。このときに後藤新平たちがかかわった台湾統治行政の恩恵は、今日に至るまで台湾人、日本人にも及んでいる。

 

そして、東京市長時代には、壮大な都市計画の策定にも取り組んだらしい。その後関東大震災が起きてからも、後藤新平は震災後の東京市の復興にも内務大臣兼帝都復興院総裁として陣頭指揮を執った。帝都復興計画についてはいくつかの計画案の変遷があったらしいが、もともとの復興原案となったといわれる「甲案」によると72メートル幅の幹線道路が計画され、また、隅田川には壮大な親水公園(隅田公園)が計画されていたという。

 

しかし、彼の原案は当時の多くの政治家や大衆からも理解されず、支持も得られなかった。そして、彼は多くの妥協を強いられ、財界からの反対もあって、当初の計画は縮小せざるを得なくなった。もし当時の財界人や政治家たち、行政担当者に優れた先見性と決断があったなら、そして、それを支持する大衆に相応の見識があったなら、今日の東京の交通渋滞や超過密と家屋や家賃などの不動産関連価格の高騰が、ここまでひどく都民を苦しめるものにならなかっただろう。

 

もし後藤新平の原案がそのまま実行されていれば、その後今日に至るまで東京都民の享受しうる幸福は計り知れないものになっていただろう。持ちたい者は先見性ある先祖である。それでもまだ、後藤新平たちがいたからこそ、そしてまた、曲がりなりにも彼の弟子たちによって受け継がれ実行された区画整理などによって、今日の東京もその最悪の事態を回避できているといえるのかも知れない。

 

それにしても、やはり感慨深いのは、明治という時代の産んだ人物の偉大とスケールの大きさだろうか。後藤新平という逸材を見出した陸軍参謀長の児玉源太郎もそうなら、後藤新平が1906年、南満洲鉄道初代総裁に就任して満洲経営に乗り出したときにも、後藤新平は中村是公や新渡戸稲造などの台湾時代の人材を多く起用して、優れた都市計画を実行している。そうした功績は、ただに東京のみならず、中国の大連や台湾などにも今日に至るまでかけがえのない恩恵として残されている。驚くべきは明治という時代が産んだこれら日本人の群像である。

 

ちなみに、後藤新平の後を次いで後に満鉄総裁になった中村是公は夏目漱石の親友であり、彼の招待を受けて満州を訪れた漱石は、「満韓ところどころ」という文章を残している。しかし、残念ながら、そうした逸材の働きにもかかわらず、当時の政治家や大衆の倫理感覚や見識、能力には、今日に至るまで大して進歩も見られないようである。返す返す悔やまれることではある。後藤新平の遺言のような言葉を、今も彼の記念館のサイトで聴くことが出来る。

地方自治にも深い見識を示していた後藤はその精神を、「自助、共助、公助」というモットーにも示している。

 

後藤新平の声
http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/voice.html

 

 


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