ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

いわゆる格差問題

2007年03月19日 | ニュース・現実評論

日本の民主主義  ①いわゆる格差問題

ハイテクなどハードの面ではかなりの水準を実現できているようでも、公務員制度や教育や政治の仕組みとか、情報公開や文書管理など民主主義などのソフト面ではまだまだ後進国並みに不合理で非効率な無理無駄なところが多いと思われる日本。そうした日本の民主主義でとくに問題と思われる点や気づいたことなども記録してゆきたいと思います。

それにしても「民主主義」とはすでに手垢に塗れきった言葉で、だから、この言葉に込める思いは人それぞれ千差万別かもしれないけれど、それでも、やはり民主主義についての正しい概念の確立は決定的に重要だと思います。議論の中から正しい認識が生まれてくればと思います。

日本の社会で最近になって格差問題などがよく取り上げられます。
鉄鋼業や自動車産業など、一部の産業においては、強い国際競争力を発揮していまますが、一方では、たとえば、半導体などではかっては圧倒的な国際的シェアを誇っていたのに、今では韓国や台湾などにその地位を奪われて見る影もない産業もあります。ただ、エルピーダが日本の半導体の業界の復活をかけて奮闘しているようですが。

しかし、携帯電話やNTTなどの通信情報産業のように、国際市場に出遅れ日本の国内市場のみに安住していたために、海外の企業に比較して国際競争力を失ってしまっているハイテク産業分野も少なくないようです。

これらの事実が意味しているのは、市場経済の中では、国境の垣根はきわめて低くなっており競争も厳しく、そこでは、今日どんなに隆盛を極めているように見える産業であっても、ひとたび自己満足に陥ったり慢心したりすれば、たちどころにその地位を失ってしまう厳しい現実のあることでしょう。

この事実が示しているように、今日のような市場経済が国際化した現状では、日本の労働者の賃金なども、中国、インドなどの新興諸国の労働者の低賃金と競争してゆかなければならず、また、企業も国際競争力を勝ち抜いてゆくために、人件費の削減なども余儀なくされる場合も多いということでしょう。その結果として、労働者、勤労者の実質賃金が低下し、その結果として、労働者や勤労者間においても、賃金格差が広がってゆくことになっている。この所得格差が、さらに生活格差、教育格差その他に連なってゆく。これがいわゆる格差問題の背景なのでしょう。

したがって、今日の市場経済下では、アダムスミスの自由放任論にしたがって、なんらの政策的な配慮を行なわなければ、「持てる者と持たざる者」との間の格差はますます広がってゆくのでしょう。だから、産業政策や納税政策の運用によって、この自然発生的な格差拡大に何とか歯止めをかけることは、政治的にも必要なことなのでしょう。

何よりも、格差が固定化されることによって、貧困が受け継がれて経済的な階層や階級が固定化することになれば、希望を失った者の犯罪や腐敗が蔓延する社会になりかねません。そのためには、何よりも技術革新による生産性の向上によって、国際競争力を維持してゆくべきであって、経営者には労働者の低賃金に頼るといった発想を転換してゆく意識が必要だと思います。

しかし、それにしてもここで混同されるべきではないと思われるのは、一般論としては、「格差」の生じるのは、それ自体としては「悪ではない」ということだと思います。なぜ、こんなことをあらためて言うのかというと、かって共産主義の夢がまだ見られていた時代に、いわゆる「資本主義」が、一種の道徳的な批判のスローガンとして叫ばれたことがあったからです。

それと同じように、今日では「格差」が、道徳的な批判感情の尺度として叫ばれている傾向が生まれつつあるように思われます。「格差を無くせ」ということが、悪くすると、先のトヨタ自動車の元会長の奥田碩氏の語ったように「嫉妬と羨望の経済」となって、お互いの足の引っ張り合いの経済になりかねません。個人の働きや努力や勤勉の結果として能力に差異が生じ、その結果として経済的にも格差が生まれるのは当然でしょう。そうでなければ「悪平等」になってしまいます。いわゆる社会主義諸国が崩壊したのも、彼らの平等が、嫉妬の平等であり、それが結局は貧乏の平等になって、社会も経済も崩壊してしまったのだと思います。

だから、格差自体は決して「悪」ではない。大切なことはその格差を地位や身分として世代に相続されたり固定化させないことでしょう。教育や職業訓練における機会平等や、相続税制などを通じての所得の再配分を通じて、階級間や階層間の流動化をはかることのできるように対策を講じてゆく必要があります。そうした社会では、たとえ社会の内部に一定の格差が存在したとしても、国民の間に正義や道徳の感情は損なわれることなく、生き生きとした明るい社会が実現できるのではないでしょうか。イギリスなどではすでに、この理想をかなり実現しえているようです。

 


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