まさおレポート

寂滅と常楽我浄

子供の頃に村の墓場に行くと多くの墓石に「寂滅」の文字や戒名に使われた寂の文字が目に入り、この字が嫌いであった。寂しい或いは滅するの何れもあまり仲良くなりたくない文字で、文字通り気分が滅入ってくる感じがした。ついで多少物事を考えるようになるころには、何故そんな人の好まない文字面の言葉が仏教の最高目標である涅槃を表すのかと疑問を持ったまま現在に至っている。

どうもこれは漢訳の際の文字の選択にあり、本来のサンスクリットの意味合いでは苦が消える平和な心の状態を意味するものであったのが、寂や滅の字を当てたためにいくばくかの日本人の心に一種の嫌悪感に近い感情を起こしてきたのではないかと思いついた。

これはメメント・モリと書かれて髑髏の絵がイコンとして描かれているのと近い。快楽や享楽はては食欲性欲なども否定して「常に死を思え」と呼びかけられているのと同じ効果をこの「寂滅」の2文字から感じてしまう。漢訳そのものには日本人が感じるような語感はなかったのかもしれないがよくわからない。

涅槃をあらわす他の言葉に「常楽我浄」がある。こちらの語感は楽しげである。この4文字の各々が現世の喜びも表現している。

輪廻転生は苦であり、そのサイクルから抜け出すことつまり解脱が涅槃であるとの説明も長い間疑問で納得できないものであった。輪廻双六の上りが涅槃であるならば、私などはその上りの過程が楽しいのであり、上がってしまえば2度とゲームに参加できないのはつまらない。

この疑問もこの寂滅と同義語だという「常楽我浄」で納得することができた。この3文字目の「我」は必要に応じて自由に涅槃と菩薩の間を行き来する意味だと言う。それなら双六の上がりっぱなしはなく、現世も来世も肯定的であり納得できる。

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