ロドリゴ「私は心配している。信仰そのものよりも、信仰の印の方に彼らが価値を置くことに。だが、どうやって止められよう」
ロドリゴ「あなたの沈黙が恐ろしい。私は祈るが迷う。私は無に祈っているだけなのか?あなたは存在しないのか」
井上筑後守「貴様の栄光の代償は、キリシタンたちの苦しみだ」
ロドリゴ「主よ、キリストはどのようにしてこのような哀れな者を愛したのですか?この世のあらゆる場所に悪がある。悪は強く、美しさすらある。だがこの男には強さも美しさもない。悪と呼べるほどの価値もない」
2021-07-20 16:07:31
遠藤周作原作スコセッシ監督で映画「沈黙 サイレンス」は「神の沈黙」と「裏切り者への愛」いう永遠の巨大テーマに挑んでいる。
「裏切り者への愛」はキチジローが極めつけのみじめな演技で共感と感動を誘い、成功している。一方「神の沈黙」に対しては観客は答えのないままにそのまま置いて行かれるように見える。
しかしロドリゴが平穏に生涯を送る結末からするとそれが神の沈黙による愛かもしれないと考えさせられる。
またコンケスタドールのような宣教師を先頭にした侵略を避け得た日本と日本人として観ると違和感も頭をよぎった。
キリスト教を弾圧する江戸幕府の姿勢はスペインの宣教師を先頭にしたコンケスタドールを例に出すまでもなく正しかった。映画はこの視点、つまり当時の植民地支配の野望を宣教と一体化させていたという歴史観を中立に描いていない。
イギリス、オランダ、ポルトガルが日本における勢力争いにしのぎを削ることの愚かさ、日本支配の野望をくじくことの大事さが長崎奉行・井上筑後守の口を通して語られる。
長崎奉行・井上筑後守を演じるイッセー尾形の演技、特に口元の演技は秀逸で、セリフは立派だがどこか歪んだ人格をうまく表現している。脚本のセリフだけでは立派で中立に見えるが、演技で宣教師と江戸幕府の間に立ったきわどい中立さが簡単に崩れ去ることを改めて確認した。そしてスコセッシの差別的視点に限界を感じもした。
仮に長崎奉行・井上筑後守を演じるイッセー尾形や取り巻きの役人の演技が外国人の目からみても日本人から見ても納得のできる態度であれば映画のテーマの本質がもっと浮き彫りになって感動も深まったにちがいない。
遠藤周作の描く長崎奉行・井上筑後守は「余は切支丹を邪教とは、つゆ、考えたことはない」と述べているように江戸幕府の役人としては先見的な役人ではなかったか。原作を忠実に演出してもっと説得性のある作品にしてもらいたかった。
仏教に対しても差別的演出が見られる。ロドリゴが寺院に送られるが、僧侶の顔つきがいやらしく、露骨に差別的に表現されている。また読経シーンもこれまた極め付きの陰気臭い。(演出が日本や日本文化に差別的なのはこの映画に始まったわけではないが)
しかし神の裏切り者ペトロに対する愛という史実以来のキリスト教永遠のテーマを扱い、キチジローを通しての演出に成功している。
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」の声がドラマを最高に盛り上げて感動を誘う。
一方「神の沈黙」に対しては見るものを単に不安なままにおいていくようにも見えるがどうか。
「カラマーゾフの兄弟」大審問官 では覚悟した悪の大審問官に神は沈黙のうちにキスを与えることで沈黙の許しを与える。極めつけの漠然とした許しだ。(このことはまた別テーマで扱うべきもので数行で書ききれるものではない)
フェレイラもロドリゴも日本で暮らしていくことを「神の沈黙」として聴き取り、平穏に人生を終える。なるほどこれが遠藤周作の解釈した「神の沈黙」の声というものかと納得した。