えくぼ

ごいっしょにおしゃべりしましょう。

ホームレスだった美輪明宏

2016-01-15 09:24:34 | 歌う

          ! ホームレスだった美輪明宏 !

 ▼ 高1の冬でしたのね3か月、美輪明宏はホームレスだった  松井多絵子

 1月13日の朝、わたしは旅先の浜松コンコルドホテルで読売朝刊を広げて驚いた。「ホームレスから銀巴里へ」。80歳になっても黄髪でロングドレス、この人には性別も年齢もない、ふしぎなな人である。きびしい芸能界を半世紀以上も生き延びてきたのだ。本当に人間だろうか。わたしは10階の窓から浜松城を見下ろしつつ次のような記事を読んだ。

 「衣料品などを扱っていた父の事業が傾き、長崎の実家が破産したのは、声楽高校1年の冬でした。学費も下宿代も払えなくなって、退学。路頭に迷い、東京・新宿駅で3か月ほどホームレス生活を送りました」。 以上は冒頭の段落である。今から六十数年も前、地下道には戦災で焼け出されて行き場のない人々がまだ住み着いていた。泊る場所を探し、歩き疲れた美輪明宏は自分の将来が恐ろしくなった。 「バラ色の人生」の歌で知られているシャンソン歌手の、エディット・ピアフもどん底からスターになったのだ。「生きるためには何でもやろう」と。

 美輪は米軍キャンプ回り、アクセサリー屋の店員、キャバレーのドアボーイにもなった。早稲田の喫茶店での前座の口がかかり宝塚の橘薫と知り合い、銀座の新しいキャバレー♦銀巴里を紹介される。「銀巴里」は1951年創業、日本初のシャンソン喫茶に。90年の閉店まで美輪の他に、金子由香利、加藤登紀子らが活躍。ここのステージに美輪は時々立ちながら、進駐軍のキャンプ回り、タンゴやラテン、バレエ、スペイン舞踊も習った。もし彼の実家が繁盛していたら、未だ若い黄髪の女装の美輪明は存在していないだろう。

          美輪明宏は多くの語録でも知られている。

 ♦ 「何かしてあげる」と自分勝手な愛情lを押し付けるのは自分がかわいいだけ。

 ♦ 花は優しい。見るひとを慰めて何も見返りを求めない。

 ♦ 財産、知性、知名度、不完全な女ほど男に対する要求が多い。

 ♦ 恋愛がうまくいかない時にはいい仕事がくるもの。

 ♦ 幸せを全部手に入れようとしたら命と引き換え。

 

      美輪明宏さま   あなたも幸せを全部手に入れようとなさらないでね。

                      1月15日 少しシアワセな松井多絵子