明治後期にわずかな時間、彗星のような光芒とともに夭逝した歌人が石川啄木であります。15,6歳のころから歌を詠み、19歳には結婚し、26歳には肺結核で亡くなって。奥さんの節子さんも翌年に肺結核で後を追いました。3人のお子さん、長男は生後間もなく死亡、啄木の長姉、二人の娘さんも、十代・二十代で亡くなるという、とても短命で気の毒なご一家だったんです。
短い歌人活動の中で後世に残る歌を残しました。歌集「一握の砂」の「我泣きぬれてカニとたわむる」から、「たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず」、ふるさと岩手をうたって「 ふるさとの山はありがたきかな」など、ワタシでさえ知っている有名な詩歌の大部分が彼の作になるのです。
もう一つ啄木でよく知られるのが酒好き・女遊びと借金であります。19歳で所帯を持ち、生まれてくる子供と妹までを養うという境遇でぽっと出の歌人に十分な収入があろうわけがありません。のみならず、20歳前後で、遊びたい盛りの早熟の若者です。文人歌人などに借金をしまくったらしいです。
そして生まれた名歌「はたらけど はたらけど猶(なお)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る」、歌だけからは若き歌人の懊悩と困窮が伝わってきますが、自業自得でもあったのです。身内が次々に早死にしたのも、ろくなものを食べさせず虚弱・栄養不足だったという報いなのだと思います。
啄木と違って、なんの才能も創作活動もなかったこの自分は、そこそこ働いて、すでに彼の2.5倍長生きしております。たいして自分の手を見つめるほど酷使もしませんでしたが、10年ほど前から発熱を伴う痛みが続き、湿布薬で指をぐるぐる巻きにしてPCのキーを叩く日々も長かったのです。以来、手首の痛み、漠然とした指の痛みやしびれ・こわばりが残ったまま今に至っております。
ブログ・書道・篆刻と室内に居れば休みなく手を動かしています。屋外ではメダカの世話、草取り、剪定・野菜・バラ・果樹の手入れにも自分の手指の働きなしには欠かせません。一たび蕎麦打ちをやれば1,2時間は両手を動かし続けであります。本当にこの年までなんとか五体満足、手も不自由がないというのはこの世に生み出してくれた親と自分の手への「感謝」以外の何物でもありません。
スマホを触り、調べもの・ゲーム・ヤフオクなど毎日数時間使用しますが、指が痛いので「タッチペン」が不可欠です。すぐどこかにまぎれたり落としたりして、いままで何百回となくそのタッチペン探しをしておりました。今はiPhoneにゴムをつけて結わいております。(笑)
篆刻に使う刀を「印刀・篆刻刀」と呼びます。毎日これとニードルを使って篆刻の「1日1彫」運動を継続し、毎日1,2時間彫っております。痛いなと思ったら、中指に「ペンだこ」が出来ておりました。高校生以来50年ぶりのペンだこです。
ワタシのような年齢の方たちの間では、特殊な作業・業務に従事している人を除いてこれだけ手指を酷使しているのは珍しかろうと思います。
クサイチゴ・バラなどのとげが刺さりますし、篆刻刀の手許が狂って指に刺すと深い傷になります。草取りや土いじりをすると指の表面が削れ指紋が無くなってきます。コロナのせいもあり、外仕事からなにから年中手洗いするので、濡れた状態と乾燥を繰り返しガサガサ、そのひび割れに、墨と朱肉が沁みこんでなかなかとれません。
ワタシ自身はものぐさですが、ワタシの手だけは働き者です。週一回にマッサージさんに来てもらい、全身をほぐしてもらいます。ハンドマッサージャーには毎晩手を入れます。だましだまし、なんとか労わって、もう少し頑張ってもらおうと思います。
ワタシもたまに自分の手をじっと見ます。あちこち傷だらけで絆創膏をはり、指の関節が節くれてきました。それが、ちょっとだけ誇らしいのであります。
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