編集者より:以下は、小浜逸郎氏が、ご自身のブログ「ことばの闘い」にアップなさった夫婦同姓制度をめぐっての論考の転載です。同ブログで2015年12月18日と19日の2回に分けて連載されたものを、拙ブログでは一括して掲載します。小浜氏の、エロス論・家族論を根底に据えたフェミニズム批判は、1989年の『男がさばくアグネス論争』以来、常に論壇をリードしてきました(これはお世辞抜きです)。今回久しぶりに、そのフィールドでの氏の論考を目にすることになりましたが、やはり相変わらずの秀逸さが示されていると再認識いたしました。読者賢兄よ、とくとご覧あれ。
「同姓制度は合憲」判決について(小浜逸郎)
2015年12月16日、最高裁は、選択的夫婦別姓制度の設立を目指す人々が起こした、現行民法の夫婦同姓制度は違憲であるとの訴えに対して、その訴えを退け、夫婦同姓は合憲であるとの判断を下しました。
この問題は、二十年以上も前からフェミニストを含む一部の人たちによって提起されてきた問題ですが、今回の判決によって一応の決着を見たことになります。これについて、思うところを述べます。
じつは私は、比較的早い時期からこの問題に関する私見を発表してきました。いろいろな理由から、民法の夫婦同姓制度は維持すべきであるというのがその結論なので、この判決自体には同意するわけですが、このたびこれについて新たに書こうと思った本来の動機は、ちょっと別のところにあります。
しかしそれを書く前に、私がなぜ選択的別姓制度を採用すべきでないと考えるか、また、最近行われたNHKの世論調査の結果などを見てどう感じたかについて、ざっとまとめておきます。
Ⅰ.なぜ選択的夫婦別姓制度を採用すべきでないか
ふつう夫婦別姓論者に反対する人たちの多くは、これを採用すると家族が崩壊する危険があると反論します。しかし、こう反論しただけでは、いささか感情的で、性急の感が否めません。というのは、別姓論者は、表向きはあくまで多様な選択肢を求めているので、同姓をやめろと言っているわけではないからです。ためしに別姓の主張を法的に容認してみたら、じっさいには、これまでとほとんど変わらない可能性が大きいと私自身は思っています。なぜそう思うのか、これから述べます。
現行民法の規定では、男女どちらかの姓を選ぶことができるようになっています。つまり山田君と中村さんが結婚した場合、山田君が中村姓に変わってもかまわないわけです。それにもかかわらず、96%の女性が旧姓を捨てて夫側の姓を名乗るというのが現状です。
明治31年(1898年)に施行された戦前の旧民法では、婚姻が成立した場合には夫方の姓を名乗ると決められていました。家父長制度が確立した時代であり、女子に参政権も認められていなかった時代のことですから、まあ当然と言えば当然ですね。しかし戦後これが改められ(昭和22年、1947年)、どちらを名乗ってもいい、ただし一つに統一せよ、ということになったわけです。
現在は、旧民法成立から数えて約120年、新民法から数えて約70年経つわけですが、初めの50年間に妻が夫方の姓を名乗る慣習が定着し、その後、新憲法下で法的な男女平等が謳われました。すると、どちらの姓を選んでもよいことになってからすでに70年経過したのに、この慣習はほとんど少しも揺らがなかったことになります。そこには、法的なルールのような形式では表現されない日本独特の伝統的国民性のようなものが作用していたと考えるのが自然でしょう。形式的な男女平等を振りかざしても、歯が立たない所以です。
一般庶民が姓を名乗ることが定められたのが明治3年(1870年)ですが、じつは驚くべきことに、その6年後の明治9年の太政官指令では、夫婦別姓が確定されたのです。これは儒教的な「家」観念を適用しようとしたもので、事実、その伝統が生きている中国や韓国ではいまだに夫婦別姓です。しかしわが国ではこれは定着せず、たいていの妻は結婚すると夫方の姓を名乗るという慣習がすでに根づいていました。やむなく政府は20年後にこの慣習を法的にも認めることにしたわけです。
そうすると、夫婦同姓の歴史は、実質上、150年近く続いてきたことになります。別姓論者はよく、現在の同姓制度は押し付けられた古い家制度の名残だと言ってこれを排斥し、別姓がそれを打ち破る新しい考え方だと主張しますが、それは勘違いです。足利義政(生母は日野重子)と日野富子の例などを見ればわかるように、本当は別姓制度のほうが、儒教的「家」観念(出自を重んじる観念)を体現した古い考え方にもとづいているのです。
こうして、夫婦同姓の慣習は日本近代の黎明期に普通の庶民が選び、やがて生活のなかで定着させていったもので、すでに相当長く根強い歴史を閲してきたわけです。言い換えると、夫婦同姓は、すぐれて近代的な慣習なのであり、戦前の家父長制度下においては、それが過渡的な形であらわれていたと言えるでしょう。
ここで近代的な慣習とは、それが、新しく生じた夫婦を一体的なものとみなす思想を表現しているということです。そしてこの一体性の表現は、西洋とはまた違った、日本近代独特の良俗でもあるのです。
この慣習の根強さがある限り、選択的別姓制度などを導入しても、習慣の強さの方が勝つと私は睨んでいます。したがって、別姓を「新しい」進歩的な制度と考える別姓論者の主張も間違いなら、反対に、別姓制度が家族の絆を壊すと心配する保守派の危惧も、それだけではあまり確実な論拠とならないのです。
しかしそうすると、それならお前は選択的別姓制度に反対する理由はないじゃないかと反論されそうですね。たしかに夫婦関係だけに着目している限りは大して反対する理由はありません。しかし、夫婦の一体性を法的に象徴する同姓制度は、他のいろいろなこととの関係で考えると、やはり人倫を守るべき優れた防壁の一つであると考えられます。
一つは、子どもの問題です。別姓論者の多くに見られる傾向ですが、彼らは、大人である自分たち「個人」の権利ばかりを重んじて、子供の立場を軽視する傾向があります。すでに言われていることですが、母親または父親と自分とで姓が違うというのは、小さな子どもの心理を不安定にするでしょう。さらに複数の子どもがいる場合、兄弟姉妹で姓が違うというケースも考えられます。
これらは、彼らの周囲、保育園、幼稚園、学校などで、要らぬ混乱、心理的トラブルを生み出しかねません。幼い子どもは、もともと自分の家族を一体のものとしてとらえています。彼らにとって、帰るべき「おうち」の観念はとても大切であり、その「おうち」が一つの名前で統一されているということはごく当たり前のこととして受け入れられるでしょうが、もし「おうち」の名前が複数あってはっきりしなければ、彼らのアイデンティティを混乱させるでしょう。名前というものは、個人のアイデンティティにとって大切な意味を持ちます。
別姓論者は、旧姓が変わるとアイデンティティが崩れるなどと主張しますが、そういう彼らが、子どものアイデンティティの問題をしっかり考えてあげないのは不思議と言わざるを得ません。成人はすでに一定程度アイデンティティを確立しているので、むしろデリケートな配慮が必要とされるのは、子どものアイデンティティです。その意味で、今回の判決で、寺田逸郎最高裁長官が、補足意見のなかで子供視点での議論の深まりを求めているのは、わが国の慣習によく配慮を行き届かせた、きわめてニュアンスに富むものとして評価できます。
わが国の一般庶民が子どものアイデンティティを非常に大切にしている一つの証拠に、婚外子の出生を嫌う傾向が顕著であるというのがあります。次の二つのグラフをご覧ください。同じ先進国でも、日本は西洋と違って、子どもを正式に両親の子として認知してもらいたい(認知させたい)という要望がたいへん強いことがわかります。これは、世界に冠たる良俗であるとは言えないでしょうか。
もう一つは、先にも触れたように、別姓はむしろ儒教的「家」観念に基づく古い制度なので、一人娘または一人息子が結婚した場合、実家の親や親族のほうが婚家または夫婦に対して、別姓であることを理由に、その娘または息子の自家への帰属を主張しかねません。夫婦別姓は、そういう古い考え方の人を喜ばせる制度なのです。これは新たな親族間紛争の種になる可能性があります。
さらに、別姓を認めると、現在の戸籍制度の大改革が必要になります。役所の事務もきわめて面倒になるでしょう。そこまで煩雑なことをして、別姓などにする意味がいったいどこにあるのでしょうか。
別姓論者の言い分は、仕事の面で旧姓を使えないことの不利益の解消、形式的な男女平等論、それに先ほど挙げた、姓が個人のアイデンティティとして大切だという主張です。後の二つは論拠として薄弱であることはすでに述べました。最も重要な論拠ははじめのものですが、これは、今回の判決理由でも明記されている通り、企業や役所が通称使用を認めれば問題ありません。
現にこの20年の間に旧姓使用を認める上場企業は、18%から65%へと急上昇しています。また、公務員は本人の申し出があれば旧姓を使用することができますし、弁護士など多くの国家資格も、仕事上の通称使用を認めています(産経新聞12月17日付)。
結局、別姓論者の論拠は、ほぼ崩れ去ったと言ってもよいでしょう。
Ⅱ.別姓問題の世論調査は人々の心をつかんでいるか
さて、この判決が出た12月16日の夕刻、NHKラジオがこの問題を取り上げていました。早稲田大学法科大学院教授の何とか言う人が、この判決に対する不満を述べ立てていましたが、NHKは、公正中立を装いながら、なぜ判決支持者のゲストも呼ばないのか。例によって、得意の偏向企画です。
それはともかく、もっと大事なのは、NHKが夫婦別姓に賛成か反対かについて行った最近の世論調査の結果によると、反対51%、賛成49%で拮抗していると報じていた点です。世代別では、年長者に反対が多く、若い人には賛成が多かったとも。
この報道のどこが問題かと言うと、これは少しも「拮抗」を示しているのではないということです。というのは、「賛成」と答えた人の中には、「選択制なら一般的には容認してもいい」と考えて票を投じた人が少なからずいたに違いないからです。私は何年も前に、朝日新聞が「別姓賛成が反対を上回る」という見出しのもとに、狡猾な世論操作を行っているのを批判したことがありますので、そのことがよくわかるのです。
今回の場合は、賛成者の内情がよくわかりませんから、NHKも朝日と同じような世論操作を行っていたとは思いませんが、賛成者の中に、「制度としての選択制なら容認してもいい」と考えた人が多くいたことは確実に思われます。何を言いたいかと言うと、この人たち(特に未婚の若い人たち)が、「ではあなたは別姓を選びますか」と問われたら、おそらく「私は同姓にするでしょうね」とか、「うーん、ちょっと考えちゃいますね」とか答える人が大多数を占めるだろうということです。確信的に「私は別姓にします」という人などほとんどいないのではないでしょうか。また、そう答えた人でも、仮に結婚時に選択的別姓制度が許されていたとして、実際に結婚する段になれば、相手と相談しながら親の意向、周囲の目、子どもの問題など、いろいろなことを顧慮しなくてはなりませんから、本当に踏み切るかどうか怪しいものだと私は思っています。
つまり、一般的にある法制度を容認できるかどうかという問題と、自分がそれを選ぶかどうかという問題とはまったく別だということです。だから調査として公正を期すなら、法制度として否認するか容認するかを問うと同時に、「別姓が容認されていたらあなたの生き方としてどうするか」という問いを付け加えなければ意味がないのです。婚姻は当の両性の合意に基づいて成立するのですから。
ある問題提起に賛成か反対かを表明する時に、その問題がさしあたり自分の人生や生活に切実な影響を与えないなら、多くの人々は、冷静さや公正さを気取りたがって、深く考えもせずに無責任な一票を投ずるものです。
ところで、次のような話はよく聞くところです。好きになった相手の姓を名乗ることで、その人との一体感を実感できるし、また実家からの自立を確認できる。ああ、自分は人生の重要な一歩を踏み出したんだなあ、という感慨が得られる、と。つまりこの場合は、アイデンティティの変容が、かえって女性としての成熟へ向かっての歩みを意味するわけです。
こうしたところに、日本近代が定着させた独特な国民性があらわれているので、その国民性とは、エロスの結びつき、またそこから生まれてくる家族関係というものの重要性に対する深い感知力ではないかと思います。同姓制度は、日本近代が定着させた独特な国民性にもとづくと書きましたが、もしかすると、法的制度的表現としては現れなかったものの、この感知力の深さは、情緒を重んじるわが国の、ずっと古くからの伝統だったのかもしれません。そういえば、古代神話もイザナキ、イザナミの二柱の神による出産を国造りの重要なメタファーとしていますね。
こういう情緒的な感知力の部分に探りを入れずに、ただ一般的に「賛成か、反対か」と問うようなデジタル式世論調査の方法は、人々の心に迫りえていないというべきでしょう。
もともと別姓問題は、ごく少数の政治的意図を持った人たち(主としてフェミニスト)が主張して社会問題として提起されるに至ったもので、それまでは普通の人々(女性)はこんな問題にそれほど関心を持っていませんでした。いまでも大して持っていないでしょう。別姓論者たちは、日本の社会常識に簡単には受け入れられないと見るや、すぐに西洋の例などを持ち出して、マスコミや司法を動かし、問題を大げさに仕立て上げます。世論調査の結果は、そうして提起された「問題」に、ただ受動的に反応しただけだと言えます。別に西洋など見習う必要はなく(別の問題では見習う点ももちろんありますが)、特に問題がないなら、日本は日本なりの慣習を続ければよいのです。
Ⅲ.判決に反対した最高裁判事は、論理的におかしい
最後になりましたが、じつは今回、一番指摘したかったのは、この点です。
このたびの判決では、裁判官15人のうち、女性3人を含む5人が同姓制度合憲の判決に反対の立場を示し、3人の女性裁判官が反対意見を述べました。産経新聞12月17日付によりますと、その意見は次のようになっています。
一方、反対意見を述べた3人の女性裁判官は、婚姻した夫婦の96%が夫の姓を名乗る現状を問題視。「女性の社会的経済的立場の弱さなどがあり、意思決定の過程に現実的な不平等がある」と言及した。
これは司法判断として、論理的に間違っています。先にも述べたように、96%が夫の姓を名乗ることそのものは、憲法第24条の「婚姻は両性の合意のみに基づく」という規定に叶うものであって、それ自体、何ら「現実的な不平等」を表すものではありません。夫が妻に「俺の姓を名乗れ」と強要したものではないからです。両性の合意の結果、自然と(これまでの慣習によって)そうなっているのです。ですから、これは合憲以外の何ものでもありません。ちなみに私自身は、この24条は、憲法としては国民の私生活に踏み込んでいるという意味で、近代法の精神に適合せず、よって不要であると考えていますが。
違憲立法審査は、特定事案が違憲か合憲かをめぐって行われます。この裁判は、夫婦同姓制度(のみ)がその事案に当たるのであって、現実に何%が夫の姓を名乗っているか妻の姓を名乗っているかは司法判断として問題にならないはずです。当判決に反対したということは、とりもなおさずこの3人の裁判官は、同姓制度そのものを違憲と考えているということになります。
ところでその理由として、96%の現状を問題視してそこに女性の社会的経済的立場の弱さの存在を持ち出しているということは、違憲判断とは関係のない現状批判を行ったわけです。これは違憲立法審査権を著しく逸脱しています。
「女性の社会的経済的立場の弱さ」が、96%の現状に反映していることを証明するためには、現に「これこれの立場の弱さのために私たちは不本意にも夫の姓を名乗ることになった」という一定の声が存在するのでなくてはなりません。しかしそんな声が上がったことがあるでしょうか。現実社会に存在する「女性の社会的経済的立場の弱さ」(とは抽象的であいまいな表現ですが)と、大部分の女性が夫方の姓を名乗ることとの間には、論理的な因果関係は認められません。稼ぎや地位が夫より高くても、夫方の姓を名乗る女性はいくらでもいるからです。
ところで、ここから先は私の想像が混じりますが、こうした反対意見を述べる人たちは、たとえば先に国会を通過した安保法制に対しても反対意見を抱いているとみてまず間違いないでしょう。しかし、あの時、ほとんどの憲法学者は、安保法制(集団的自衛権の容認を含む)に対して違憲であるとの判断を下しました。私もあれは違憲であると思っていますが(だから憲法の方を変えるべきなのですが)、憲法学者・小林節氏がいみじくも述べたように、憲法学者は、現行憲法の条文と立法事案との間に齟齬がないかどうかを純学問的に判断するのみであって、現在の国政に関わる政治判断を含むものではないはずです(もっとも小林氏はかつて護憲派ではなかったと記憶しておりますが、いつの間に「節」を曲げたのか、その風見鶏的な姿勢には疑問を感じざるを得ません)。
しかし現実にはその判断は、背後に左翼思想を背負っているので、政治判断に大きな影響力を及ぼします。けれどもこれは司法の独立性の観点からは、あってはならないことなのです。
このたびの女性裁判官の反対意見は、司法の立場にありながら、そのあってはならないことをやっているのです。なぜならば、夫婦同姓制度が合憲か違憲かどうかを争う裁判に、論理的な脈絡のないあいまいな現状認識を持ち込んでいるからです。ここには、この裁判官たちが、当然の法理に従わず、特定のイデオロギー(フェミニズム・イデオロギー)に左右されている実態があらわです。彼女たちは、司法の独立性を貫いていないのです。今後、国民審査の機会が訪れた際に、この裁判官たちに×をつけることにしましょう。 (終わり)
「同姓制度は合憲」判決について(小浜逸郎)
2015年12月16日、最高裁は、選択的夫婦別姓制度の設立を目指す人々が起こした、現行民法の夫婦同姓制度は違憲であるとの訴えに対して、その訴えを退け、夫婦同姓は合憲であるとの判断を下しました。
この問題は、二十年以上も前からフェミニストを含む一部の人たちによって提起されてきた問題ですが、今回の判決によって一応の決着を見たことになります。これについて、思うところを述べます。
じつは私は、比較的早い時期からこの問題に関する私見を発表してきました。いろいろな理由から、民法の夫婦同姓制度は維持すべきであるというのがその結論なので、この判決自体には同意するわけですが、このたびこれについて新たに書こうと思った本来の動機は、ちょっと別のところにあります。
しかしそれを書く前に、私がなぜ選択的別姓制度を採用すべきでないと考えるか、また、最近行われたNHKの世論調査の結果などを見てどう感じたかについて、ざっとまとめておきます。
Ⅰ.なぜ選択的夫婦別姓制度を採用すべきでないか
ふつう夫婦別姓論者に反対する人たちの多くは、これを採用すると家族が崩壊する危険があると反論します。しかし、こう反論しただけでは、いささか感情的で、性急の感が否めません。というのは、別姓論者は、表向きはあくまで多様な選択肢を求めているので、同姓をやめろと言っているわけではないからです。ためしに別姓の主張を法的に容認してみたら、じっさいには、これまでとほとんど変わらない可能性が大きいと私自身は思っています。なぜそう思うのか、これから述べます。
現行民法の規定では、男女どちらかの姓を選ぶことができるようになっています。つまり山田君と中村さんが結婚した場合、山田君が中村姓に変わってもかまわないわけです。それにもかかわらず、96%の女性が旧姓を捨てて夫側の姓を名乗るというのが現状です。
明治31年(1898年)に施行された戦前の旧民法では、婚姻が成立した場合には夫方の姓を名乗ると決められていました。家父長制度が確立した時代であり、女子に参政権も認められていなかった時代のことですから、まあ当然と言えば当然ですね。しかし戦後これが改められ(昭和22年、1947年)、どちらを名乗ってもいい、ただし一つに統一せよ、ということになったわけです。
現在は、旧民法成立から数えて約120年、新民法から数えて約70年経つわけですが、初めの50年間に妻が夫方の姓を名乗る慣習が定着し、その後、新憲法下で法的な男女平等が謳われました。すると、どちらの姓を選んでもよいことになってからすでに70年経過したのに、この慣習はほとんど少しも揺らがなかったことになります。そこには、法的なルールのような形式では表現されない日本独特の伝統的国民性のようなものが作用していたと考えるのが自然でしょう。形式的な男女平等を振りかざしても、歯が立たない所以です。
一般庶民が姓を名乗ることが定められたのが明治3年(1870年)ですが、じつは驚くべきことに、その6年後の明治9年の太政官指令では、夫婦別姓が確定されたのです。これは儒教的な「家」観念を適用しようとしたもので、事実、その伝統が生きている中国や韓国ではいまだに夫婦別姓です。しかしわが国ではこれは定着せず、たいていの妻は結婚すると夫方の姓を名乗るという慣習がすでに根づいていました。やむなく政府は20年後にこの慣習を法的にも認めることにしたわけです。
そうすると、夫婦同姓の歴史は、実質上、150年近く続いてきたことになります。別姓論者はよく、現在の同姓制度は押し付けられた古い家制度の名残だと言ってこれを排斥し、別姓がそれを打ち破る新しい考え方だと主張しますが、それは勘違いです。足利義政(生母は日野重子)と日野富子の例などを見ればわかるように、本当は別姓制度のほうが、儒教的「家」観念(出自を重んじる観念)を体現した古い考え方にもとづいているのです。
こうして、夫婦同姓の慣習は日本近代の黎明期に普通の庶民が選び、やがて生活のなかで定着させていったもので、すでに相当長く根強い歴史を閲してきたわけです。言い換えると、夫婦同姓は、すぐれて近代的な慣習なのであり、戦前の家父長制度下においては、それが過渡的な形であらわれていたと言えるでしょう。
ここで近代的な慣習とは、それが、新しく生じた夫婦を一体的なものとみなす思想を表現しているということです。そしてこの一体性の表現は、西洋とはまた違った、日本近代独特の良俗でもあるのです。
この慣習の根強さがある限り、選択的別姓制度などを導入しても、習慣の強さの方が勝つと私は睨んでいます。したがって、別姓を「新しい」進歩的な制度と考える別姓論者の主張も間違いなら、反対に、別姓制度が家族の絆を壊すと心配する保守派の危惧も、それだけではあまり確実な論拠とならないのです。
しかしそうすると、それならお前は選択的別姓制度に反対する理由はないじゃないかと反論されそうですね。たしかに夫婦関係だけに着目している限りは大して反対する理由はありません。しかし、夫婦の一体性を法的に象徴する同姓制度は、他のいろいろなこととの関係で考えると、やはり人倫を守るべき優れた防壁の一つであると考えられます。
一つは、子どもの問題です。別姓論者の多くに見られる傾向ですが、彼らは、大人である自分たち「個人」の権利ばかりを重んじて、子供の立場を軽視する傾向があります。すでに言われていることですが、母親または父親と自分とで姓が違うというのは、小さな子どもの心理を不安定にするでしょう。さらに複数の子どもがいる場合、兄弟姉妹で姓が違うというケースも考えられます。
これらは、彼らの周囲、保育園、幼稚園、学校などで、要らぬ混乱、心理的トラブルを生み出しかねません。幼い子どもは、もともと自分の家族を一体のものとしてとらえています。彼らにとって、帰るべき「おうち」の観念はとても大切であり、その「おうち」が一つの名前で統一されているということはごく当たり前のこととして受け入れられるでしょうが、もし「おうち」の名前が複数あってはっきりしなければ、彼らのアイデンティティを混乱させるでしょう。名前というものは、個人のアイデンティティにとって大切な意味を持ちます。
別姓論者は、旧姓が変わるとアイデンティティが崩れるなどと主張しますが、そういう彼らが、子どものアイデンティティの問題をしっかり考えてあげないのは不思議と言わざるを得ません。成人はすでに一定程度アイデンティティを確立しているので、むしろデリケートな配慮が必要とされるのは、子どものアイデンティティです。その意味で、今回の判決で、寺田逸郎最高裁長官が、補足意見のなかで子供視点での議論の深まりを求めているのは、わが国の慣習によく配慮を行き届かせた、きわめてニュアンスに富むものとして評価できます。
わが国の一般庶民が子どものアイデンティティを非常に大切にしている一つの証拠に、婚外子の出生を嫌う傾向が顕著であるというのがあります。次の二つのグラフをご覧ください。同じ先進国でも、日本は西洋と違って、子どもを正式に両親の子として認知してもらいたい(認知させたい)という要望がたいへん強いことがわかります。これは、世界に冠たる良俗であるとは言えないでしょうか。
もう一つは、先にも触れたように、別姓はむしろ儒教的「家」観念に基づく古い制度なので、一人娘または一人息子が結婚した場合、実家の親や親族のほうが婚家または夫婦に対して、別姓であることを理由に、その娘または息子の自家への帰属を主張しかねません。夫婦別姓は、そういう古い考え方の人を喜ばせる制度なのです。これは新たな親族間紛争の種になる可能性があります。
さらに、別姓を認めると、現在の戸籍制度の大改革が必要になります。役所の事務もきわめて面倒になるでしょう。そこまで煩雑なことをして、別姓などにする意味がいったいどこにあるのでしょうか。
別姓論者の言い分は、仕事の面で旧姓を使えないことの不利益の解消、形式的な男女平等論、それに先ほど挙げた、姓が個人のアイデンティティとして大切だという主張です。後の二つは論拠として薄弱であることはすでに述べました。最も重要な論拠ははじめのものですが、これは、今回の判決理由でも明記されている通り、企業や役所が通称使用を認めれば問題ありません。
現にこの20年の間に旧姓使用を認める上場企業は、18%から65%へと急上昇しています。また、公務員は本人の申し出があれば旧姓を使用することができますし、弁護士など多くの国家資格も、仕事上の通称使用を認めています(産経新聞12月17日付)。
結局、別姓論者の論拠は、ほぼ崩れ去ったと言ってもよいでしょう。
Ⅱ.別姓問題の世論調査は人々の心をつかんでいるか
さて、この判決が出た12月16日の夕刻、NHKラジオがこの問題を取り上げていました。早稲田大学法科大学院教授の何とか言う人が、この判決に対する不満を述べ立てていましたが、NHKは、公正中立を装いながら、なぜ判決支持者のゲストも呼ばないのか。例によって、得意の偏向企画です。
それはともかく、もっと大事なのは、NHKが夫婦別姓に賛成か反対かについて行った最近の世論調査の結果によると、反対51%、賛成49%で拮抗していると報じていた点です。世代別では、年長者に反対が多く、若い人には賛成が多かったとも。
この報道のどこが問題かと言うと、これは少しも「拮抗」を示しているのではないということです。というのは、「賛成」と答えた人の中には、「選択制なら一般的には容認してもいい」と考えて票を投じた人が少なからずいたに違いないからです。私は何年も前に、朝日新聞が「別姓賛成が反対を上回る」という見出しのもとに、狡猾な世論操作を行っているのを批判したことがありますので、そのことがよくわかるのです。
今回の場合は、賛成者の内情がよくわかりませんから、NHKも朝日と同じような世論操作を行っていたとは思いませんが、賛成者の中に、「制度としての選択制なら容認してもいい」と考えた人が多くいたことは確実に思われます。何を言いたいかと言うと、この人たち(特に未婚の若い人たち)が、「ではあなたは別姓を選びますか」と問われたら、おそらく「私は同姓にするでしょうね」とか、「うーん、ちょっと考えちゃいますね」とか答える人が大多数を占めるだろうということです。確信的に「私は別姓にします」という人などほとんどいないのではないでしょうか。また、そう答えた人でも、仮に結婚時に選択的別姓制度が許されていたとして、実際に結婚する段になれば、相手と相談しながら親の意向、周囲の目、子どもの問題など、いろいろなことを顧慮しなくてはなりませんから、本当に踏み切るかどうか怪しいものだと私は思っています。
つまり、一般的にある法制度を容認できるかどうかという問題と、自分がそれを選ぶかどうかという問題とはまったく別だということです。だから調査として公正を期すなら、法制度として否認するか容認するかを問うと同時に、「別姓が容認されていたらあなたの生き方としてどうするか」という問いを付け加えなければ意味がないのです。婚姻は当の両性の合意に基づいて成立するのですから。
ある問題提起に賛成か反対かを表明する時に、その問題がさしあたり自分の人生や生活に切実な影響を与えないなら、多くの人々は、冷静さや公正さを気取りたがって、深く考えもせずに無責任な一票を投ずるものです。
ところで、次のような話はよく聞くところです。好きになった相手の姓を名乗ることで、その人との一体感を実感できるし、また実家からの自立を確認できる。ああ、自分は人生の重要な一歩を踏み出したんだなあ、という感慨が得られる、と。つまりこの場合は、アイデンティティの変容が、かえって女性としての成熟へ向かっての歩みを意味するわけです。
こうしたところに、日本近代が定着させた独特な国民性があらわれているので、その国民性とは、エロスの結びつき、またそこから生まれてくる家族関係というものの重要性に対する深い感知力ではないかと思います。同姓制度は、日本近代が定着させた独特な国民性にもとづくと書きましたが、もしかすると、法的制度的表現としては現れなかったものの、この感知力の深さは、情緒を重んじるわが国の、ずっと古くからの伝統だったのかもしれません。そういえば、古代神話もイザナキ、イザナミの二柱の神による出産を国造りの重要なメタファーとしていますね。
こういう情緒的な感知力の部分に探りを入れずに、ただ一般的に「賛成か、反対か」と問うようなデジタル式世論調査の方法は、人々の心に迫りえていないというべきでしょう。
もともと別姓問題は、ごく少数の政治的意図を持った人たち(主としてフェミニスト)が主張して社会問題として提起されるに至ったもので、それまでは普通の人々(女性)はこんな問題にそれほど関心を持っていませんでした。いまでも大して持っていないでしょう。別姓論者たちは、日本の社会常識に簡単には受け入れられないと見るや、すぐに西洋の例などを持ち出して、マスコミや司法を動かし、問題を大げさに仕立て上げます。世論調査の結果は、そうして提起された「問題」に、ただ受動的に反応しただけだと言えます。別に西洋など見習う必要はなく(別の問題では見習う点ももちろんありますが)、特に問題がないなら、日本は日本なりの慣習を続ければよいのです。
Ⅲ.判決に反対した最高裁判事は、論理的におかしい
最後になりましたが、じつは今回、一番指摘したかったのは、この点です。
このたびの判決では、裁判官15人のうち、女性3人を含む5人が同姓制度合憲の判決に反対の立場を示し、3人の女性裁判官が反対意見を述べました。産経新聞12月17日付によりますと、その意見は次のようになっています。
一方、反対意見を述べた3人の女性裁判官は、婚姻した夫婦の96%が夫の姓を名乗る現状を問題視。「女性の社会的経済的立場の弱さなどがあり、意思決定の過程に現実的な不平等がある」と言及した。
これは司法判断として、論理的に間違っています。先にも述べたように、96%が夫の姓を名乗ることそのものは、憲法第24条の「婚姻は両性の合意のみに基づく」という規定に叶うものであって、それ自体、何ら「現実的な不平等」を表すものではありません。夫が妻に「俺の姓を名乗れ」と強要したものではないからです。両性の合意の結果、自然と(これまでの慣習によって)そうなっているのです。ですから、これは合憲以外の何ものでもありません。ちなみに私自身は、この24条は、憲法としては国民の私生活に踏み込んでいるという意味で、近代法の精神に適合せず、よって不要であると考えていますが。
違憲立法審査は、特定事案が違憲か合憲かをめぐって行われます。この裁判は、夫婦同姓制度(のみ)がその事案に当たるのであって、現実に何%が夫の姓を名乗っているか妻の姓を名乗っているかは司法判断として問題にならないはずです。当判決に反対したということは、とりもなおさずこの3人の裁判官は、同姓制度そのものを違憲と考えているということになります。
ところでその理由として、96%の現状を問題視してそこに女性の社会的経済的立場の弱さの存在を持ち出しているということは、違憲判断とは関係のない現状批判を行ったわけです。これは違憲立法審査権を著しく逸脱しています。
「女性の社会的経済的立場の弱さ」が、96%の現状に反映していることを証明するためには、現に「これこれの立場の弱さのために私たちは不本意にも夫の姓を名乗ることになった」という一定の声が存在するのでなくてはなりません。しかしそんな声が上がったことがあるでしょうか。現実社会に存在する「女性の社会的経済的立場の弱さ」(とは抽象的であいまいな表現ですが)と、大部分の女性が夫方の姓を名乗ることとの間には、論理的な因果関係は認められません。稼ぎや地位が夫より高くても、夫方の姓を名乗る女性はいくらでもいるからです。
ところで、ここから先は私の想像が混じりますが、こうした反対意見を述べる人たちは、たとえば先に国会を通過した安保法制に対しても反対意見を抱いているとみてまず間違いないでしょう。しかし、あの時、ほとんどの憲法学者は、安保法制(集団的自衛権の容認を含む)に対して違憲であるとの判断を下しました。私もあれは違憲であると思っていますが(だから憲法の方を変えるべきなのですが)、憲法学者・小林節氏がいみじくも述べたように、憲法学者は、現行憲法の条文と立法事案との間に齟齬がないかどうかを純学問的に判断するのみであって、現在の国政に関わる政治判断を含むものではないはずです(もっとも小林氏はかつて護憲派ではなかったと記憶しておりますが、いつの間に「節」を曲げたのか、その風見鶏的な姿勢には疑問を感じざるを得ません)。
しかし現実にはその判断は、背後に左翼思想を背負っているので、政治判断に大きな影響力を及ぼします。けれどもこれは司法の独立性の観点からは、あってはならないことなのです。
このたびの女性裁判官の反対意見は、司法の立場にありながら、そのあってはならないことをやっているのです。なぜならば、夫婦同姓制度が合憲か違憲かどうかを争う裁判に、論理的な脈絡のないあいまいな現状認識を持ち込んでいるからです。ここには、この裁判官たちが、当然の法理に従わず、特定のイデオロギー(フェミニズム・イデオロギー)に左右されている実態があらわです。彼女たちは、司法の独立性を貫いていないのです。今後、国民審査の機会が訪れた際に、この裁判官たちに×をつけることにしましょう。 (終わり)