三島由紀夫『春の雪』論
三島由紀夫の「春の雪」は彼のライフワーク『豊饒の海』4部作の第1作である。
三島がこの連作を書き始めたのは昭和41年。その4年後、かれは市ヶ谷自衛隊駐屯地に乗り込み自刃した。そのことを思えば、すでに三島はこの第1作の構想を考えた当初から、自らの死を念頭においていたであろう。この4部作はつねに「死」と「転生」を予言する。ここではまず、本書冒頭の日露戦役の記述を掲げよう。
〈学校で日露戦役の話が出たとき、松枝清顕は、もっとも親しい友だちの本多繁邦に、そのときのことをよくおぼえているかときいてみたが、繁邦の記憶もあいまいで、提灯行列を見に門まで連れて出られたことを、かすかにおぼえているだけであった。〉(『春の海』新潮文庫5頁)
〈家にもある日露戦役の写真集のうち、もっとも清顕の心にしみ入る写真は、明治三十七年六月二十六日の、「得利寺附近の戦死者の弔祭」と題する写真であった。セピアいろのインキで印刷されたその写真は、ほかの雑多な戦争写真とはまるでちがっている〉5~6頁)
第1作の主人公、松枝清顕は幕末、武人として奔走し、維新後、おそらく開明的顕官として国家に奉仕した祖父を「始祖」として戴く明治新貴族の後裔である。かれらの忠誠は祖父に集まり、国家ではない、まして、天皇にはない。しかし、それが松枝家にとっての負い目である。それゆえに、清顕は幼少時に羽林家廿八家の綾倉家に作法見習いに出される。それは田舎武家(薩摩)の、礼儀の知らない家風を羞じた所作であったであろう。しかし、これが、松枝家にとって、まさか、ほんとうに、わが家から、みやびな「おのこ」が生まれいずることになるとは、夢ゆめ想頭できなかった所業であった。その意味で、十三歳の清顕が新年賀会に、春日宮妃殿下の、お裾持ちをして躓いた光景は、松枝家の光栄を表し、不吉を予兆する。
〈春日宮妃は、お裾にまでふんだんに仏蘭西香水を染ませておいでだったから、その薫りは古くさく麝香の香を圧した。お廊下の途中で、清顕がちょっとつまずいて、お裾はそのために、瞬間ではあったが、一方へ強く引かれた。妃殿下はかすかにお首をめぐらして、少しも咎める気持はないというしるしの、やさしい含み笑いを、失態を演じた少年のほうへお向けになった。〉(13頁)
〈さて、父の松枝侯爵は、この賀宴でまのあたりにわが子を見、その華美な礼服に包まれたわが子の晴れの姿を眺めたときに、永年夢みていたことが、実現されたという喜びに涵った。それこそは、どんなに天皇を自邸へお迎えするほどの身分になろうと、侯爵の心を占めていた贋物の感じを、のこりなく癒やすものであった。そのわが子の姿に、侯爵は、宮廷と新貴族とのまったき親交のかたち、公卿的なものと武士的なものとの最終的な結合を見たのである。〉(14頁)
『豊饒の海』とは、つねに「公卿的なものと武士的なものとの最終的な結合」の、答えを求めつつ、答えのないドラマを展開する「物語」である。それは、だから、4部作のなかで、みやびからますらをぶりに転じ、卑猥で、空虚な物語に転生する。
三島はこの荘厳にして寒々しい景色を、清顕と綾倉聡子の夢物語から始める。
この不思議を縷々語りたい。
*****
綾倉聡子の家は「藤家蹴鞠の祖」に源を発し、和歌と蹴鞠の家として知られる公卿家である。
〈松枝侯爵は、自分の家系に欠けている雅びにあこがれ、せめて次代に、大貴族らしい優雅を与えようとし、父の賛同を得て、幼いころの清顕を綾倉家へ預けたのであった。そこで清顕は堂上家の家風に染まり、二つ年上の聡子に可愛がられ、学校へ上るまでは、清顕の唯一の姉弟(きょうだい)、唯一の友は聡子になった。〉(『春の海』新潮文庫29~30頁)
〈綾倉伯爵は京訛のとれない、まことに温柔な人柄で、幼ない清顕に和歌を教え、書を教えた。綾倉家では今も王朝時代そのままの双六盤で夜永を遊び、勝者には皇后御下賜の打物の菓子などが与えられた。〉(同30頁)
天孫降臨以来、つねに天皇家の傍らにあって、雅びを保守する家柄の綾倉家に訓育を施された清顕は、明治新貴族である自らの家に帰ると孤独であり、不吉な存在ですらあると思った。松枝家にとって、自分とは何者か。
〈彼はすでに自分を、一族の岩乗(がんじょう)な指に刺った、毒のある小さな棘のようなものだと感じていた。それというのも、彼は優雅を学んだからだ。つい五十年前までは素朴で剛健で貧しかった地方武士の家が、わずかの間に大をなし、清顕の生い立ちと共にはじめてその家系に優雅の一片がしのび込もうとすると、もともと優雅に免疫になっている堂上家とはちがって、たちまち迅速な没落の兆を示しはじめるだろうことを、彼は蟻が洪水を予知するように感じていた。〉(同20~21頁)
「公卿的なものと武士的なものとの最終的な結合」として現れた自分を「優雅の棘」「一種の精妙な毒」と感じる清顕には、「今は、何事も興味がないのだ」
果たしてそうであろうか?
清顕には独りだけの友人、いや親友がいた。本多繁邦である。
〈本多は年よりも老けた、目鼻立ちも尋常すぎて、むしろ勿体ぶってみえる風貌を持ち、法律学に興味を持ち、ふだんは人に示さない鋭い直観の力を内に隠していた。そしてその表面にあらわれるところでは、官能的なものは片鱗もなかったけれど、時あってずっと奥処(おくが)で、火の燃えさかって薪の鳴っている音がきこえるような感じを人に与えた。〉(同18頁)
本多は大審院判事を父に持つ厳格な家庭の子弟。父はドイツで法律を学んだ人である。そしてそういう明治人に、ありがちな、自分では国粋的に生きている積りが、実はドイツ流を範例と仰ぐ人生を身につけてしまったひとである。そこには松枝家と対極的な生活があった。
〈本多繁邦はよく松枝侯爵家と自分の家を比較して、面白く思うことがあった。あの家では西洋流の生活をして、家のなかにある舶来物は数しれなかったが、家風は意外に旧弊であり、この家は生活そのものは日本的でいて、精神に西洋風なところが多分にあった。〉(同74頁)
清顕は「無防備で官能的な行動」に憧れる。これに対し、本多は「人生の当初はやくも軒下に隠れる」保身を身に着けた人間であった。外見も気質も似通っているところのないふたりであったが、「もしかすると清顕と本多は、同じ根から出た植物の、まったく別のあらわれとしての花と葉であったかもしれない。」(同18頁)
下司の勘繰りをここで働かせれば、所詮、ふたりは近代の明治成功者の子弟に過ぎず、何ら誇るべき家系を持たぬ、ただの「成り上がり者」「俗物」の子倅である。そしてこの根無し草の負い目を意識するとしないと、ここからふたりは共有した別の人格として生まれ出たことが『豊饒の海』4部作全体のテーマを占める。それは「貴種」として転生する「行動者」と、それを捜し求める「観察者」が交錯して、けっして「合一」しないテーマである。
本多にとっていかなるときも、「友情」を名目に清顕の心の中に入ってゆかないこと。これがふたりの約束であった。
〈場合によったら、友の死苦をさえ看過せねばならぬということ。とりわけそれが、隠すことによって優雅になりえている特別の死苦ならば。〉(同44頁)
〈清顕の目が、こういうとき、一種切実な懇願を湛えてくるのが、本多は好きでさえあった。すべてをそのあいまいな、美しい岸辺で止めておいてくれ、と望んでいるその眼差。……この冷たい破裂しそうな状態のなかで、友情を取引にした情けない対峙において、はじめて清顕は懇願者になり、本多は審美的な見物人になる。これこそ二人が暗黙にのぞんでいる状態であり、人が二人の友情と名付けているものの実質だった。〉(同44頁)
〈旗のように風のためだけに生きる。自分にとってただ一つの真実だと思われるもの、とめどもない、無意味な、死ぬと思えば活き返り、衰えると見れば熾(おこ)り、方向もなければ帰結もない「感情」のためだけに生きること。〉(同21頁)
「その無益さが、いわば自分の生まれてきた意味だ」と思われた清顕が、思わぬ隙から聡子に懸想することで「無防備で官能的な行動」に目覚める。「今は、何事も興味がない」筈の清顕が行動を起こすことで、『豊饒の海』第1作の『春の雪』はようやく始まる。
*本人のご申し出により、続編は他日を期したいとのことです。(2013・12・21 記す)
三島由紀夫の「春の雪」は彼のライフワーク『豊饒の海』4部作の第1作である。
三島がこの連作を書き始めたのは昭和41年。その4年後、かれは市ヶ谷自衛隊駐屯地に乗り込み自刃した。そのことを思えば、すでに三島はこの第1作の構想を考えた当初から、自らの死を念頭においていたであろう。この4部作はつねに「死」と「転生」を予言する。ここではまず、本書冒頭の日露戦役の記述を掲げよう。
〈学校で日露戦役の話が出たとき、松枝清顕は、もっとも親しい友だちの本多繁邦に、そのときのことをよくおぼえているかときいてみたが、繁邦の記憶もあいまいで、提灯行列を見に門まで連れて出られたことを、かすかにおぼえているだけであった。〉(『春の海』新潮文庫5頁)
〈家にもある日露戦役の写真集のうち、もっとも清顕の心にしみ入る写真は、明治三十七年六月二十六日の、「得利寺附近の戦死者の弔祭」と題する写真であった。セピアいろのインキで印刷されたその写真は、ほかの雑多な戦争写真とはまるでちがっている〉5~6頁)
第1作の主人公、松枝清顕は幕末、武人として奔走し、維新後、おそらく開明的顕官として国家に奉仕した祖父を「始祖」として戴く明治新貴族の後裔である。かれらの忠誠は祖父に集まり、国家ではない、まして、天皇にはない。しかし、それが松枝家にとっての負い目である。それゆえに、清顕は幼少時に羽林家廿八家の綾倉家に作法見習いに出される。それは田舎武家(薩摩)の、礼儀の知らない家風を羞じた所作であったであろう。しかし、これが、松枝家にとって、まさか、ほんとうに、わが家から、みやびな「おのこ」が生まれいずることになるとは、夢ゆめ想頭できなかった所業であった。その意味で、十三歳の清顕が新年賀会に、春日宮妃殿下の、お裾持ちをして躓いた光景は、松枝家の光栄を表し、不吉を予兆する。
〈春日宮妃は、お裾にまでふんだんに仏蘭西香水を染ませておいでだったから、その薫りは古くさく麝香の香を圧した。お廊下の途中で、清顕がちょっとつまずいて、お裾はそのために、瞬間ではあったが、一方へ強く引かれた。妃殿下はかすかにお首をめぐらして、少しも咎める気持はないというしるしの、やさしい含み笑いを、失態を演じた少年のほうへお向けになった。〉(13頁)
〈さて、父の松枝侯爵は、この賀宴でまのあたりにわが子を見、その華美な礼服に包まれたわが子の晴れの姿を眺めたときに、永年夢みていたことが、実現されたという喜びに涵った。それこそは、どんなに天皇を自邸へお迎えするほどの身分になろうと、侯爵の心を占めていた贋物の感じを、のこりなく癒やすものであった。そのわが子の姿に、侯爵は、宮廷と新貴族とのまったき親交のかたち、公卿的なものと武士的なものとの最終的な結合を見たのである。〉(14頁)
『豊饒の海』とは、つねに「公卿的なものと武士的なものとの最終的な結合」の、答えを求めつつ、答えのないドラマを展開する「物語」である。それは、だから、4部作のなかで、みやびからますらをぶりに転じ、卑猥で、空虚な物語に転生する。
三島はこの荘厳にして寒々しい景色を、清顕と綾倉聡子の夢物語から始める。
この不思議を縷々語りたい。
*****
綾倉聡子の家は「藤家蹴鞠の祖」に源を発し、和歌と蹴鞠の家として知られる公卿家である。
〈松枝侯爵は、自分の家系に欠けている雅びにあこがれ、せめて次代に、大貴族らしい優雅を与えようとし、父の賛同を得て、幼いころの清顕を綾倉家へ預けたのであった。そこで清顕は堂上家の家風に染まり、二つ年上の聡子に可愛がられ、学校へ上るまでは、清顕の唯一の姉弟(きょうだい)、唯一の友は聡子になった。〉(『春の海』新潮文庫29~30頁)
〈綾倉伯爵は京訛のとれない、まことに温柔な人柄で、幼ない清顕に和歌を教え、書を教えた。綾倉家では今も王朝時代そのままの双六盤で夜永を遊び、勝者には皇后御下賜の打物の菓子などが与えられた。〉(同30頁)
天孫降臨以来、つねに天皇家の傍らにあって、雅びを保守する家柄の綾倉家に訓育を施された清顕は、明治新貴族である自らの家に帰ると孤独であり、不吉な存在ですらあると思った。松枝家にとって、自分とは何者か。
〈彼はすでに自分を、一族の岩乗(がんじょう)な指に刺った、毒のある小さな棘のようなものだと感じていた。それというのも、彼は優雅を学んだからだ。つい五十年前までは素朴で剛健で貧しかった地方武士の家が、わずかの間に大をなし、清顕の生い立ちと共にはじめてその家系に優雅の一片がしのび込もうとすると、もともと優雅に免疫になっている堂上家とはちがって、たちまち迅速な没落の兆を示しはじめるだろうことを、彼は蟻が洪水を予知するように感じていた。〉(同20~21頁)
「公卿的なものと武士的なものとの最終的な結合」として現れた自分を「優雅の棘」「一種の精妙な毒」と感じる清顕には、「今は、何事も興味がないのだ」
果たしてそうであろうか?
清顕には独りだけの友人、いや親友がいた。本多繁邦である。
〈本多は年よりも老けた、目鼻立ちも尋常すぎて、むしろ勿体ぶってみえる風貌を持ち、法律学に興味を持ち、ふだんは人に示さない鋭い直観の力を内に隠していた。そしてその表面にあらわれるところでは、官能的なものは片鱗もなかったけれど、時あってずっと奥処(おくが)で、火の燃えさかって薪の鳴っている音がきこえるような感じを人に与えた。〉(同18頁)
本多は大審院判事を父に持つ厳格な家庭の子弟。父はドイツで法律を学んだ人である。そしてそういう明治人に、ありがちな、自分では国粋的に生きている積りが、実はドイツ流を範例と仰ぐ人生を身につけてしまったひとである。そこには松枝家と対極的な生活があった。
〈本多繁邦はよく松枝侯爵家と自分の家を比較して、面白く思うことがあった。あの家では西洋流の生活をして、家のなかにある舶来物は数しれなかったが、家風は意外に旧弊であり、この家は生活そのものは日本的でいて、精神に西洋風なところが多分にあった。〉(同74頁)
清顕は「無防備で官能的な行動」に憧れる。これに対し、本多は「人生の当初はやくも軒下に隠れる」保身を身に着けた人間であった。外見も気質も似通っているところのないふたりであったが、「もしかすると清顕と本多は、同じ根から出た植物の、まったく別のあらわれとしての花と葉であったかもしれない。」(同18頁)
下司の勘繰りをここで働かせれば、所詮、ふたりは近代の明治成功者の子弟に過ぎず、何ら誇るべき家系を持たぬ、ただの「成り上がり者」「俗物」の子倅である。そしてこの根無し草の負い目を意識するとしないと、ここからふたりは共有した別の人格として生まれ出たことが『豊饒の海』4部作全体のテーマを占める。それは「貴種」として転生する「行動者」と、それを捜し求める「観察者」が交錯して、けっして「合一」しないテーマである。
本多にとっていかなるときも、「友情」を名目に清顕の心の中に入ってゆかないこと。これがふたりの約束であった。
〈場合によったら、友の死苦をさえ看過せねばならぬということ。とりわけそれが、隠すことによって優雅になりえている特別の死苦ならば。〉(同44頁)
〈清顕の目が、こういうとき、一種切実な懇願を湛えてくるのが、本多は好きでさえあった。すべてをそのあいまいな、美しい岸辺で止めておいてくれ、と望んでいるその眼差。……この冷たい破裂しそうな状態のなかで、友情を取引にした情けない対峙において、はじめて清顕は懇願者になり、本多は審美的な見物人になる。これこそ二人が暗黙にのぞんでいる状態であり、人が二人の友情と名付けているものの実質だった。〉(同44頁)
〈旗のように風のためだけに生きる。自分にとってただ一つの真実だと思われるもの、とめどもない、無意味な、死ぬと思えば活き返り、衰えると見れば熾(おこ)り、方向もなければ帰結もない「感情」のためだけに生きること。〉(同21頁)
「その無益さが、いわば自分の生まれてきた意味だ」と思われた清顕が、思わぬ隙から聡子に懸想することで「無防備で官能的な行動」に目覚める。「今は、何事も興味がない」筈の清顕が行動を起こすことで、『豊饒の海』第1作の『春の雪』はようやく始まる。
*本人のご申し出により、続編は他日を期したいとのことです。(2013・12・21 記す)
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