春季特別寺宝展(2024.3.14-4.15)開催中の本法寺へ。
堀川通に面した入口は地味で、入りづらい。どうやら、小川通に面した入口が正門らしい。
写真の右手に市の説明板がある。
雨に打たれて少し読みづらいが、山号は叡昌山、1436年日親上人が開山した、とある。受付で入手した説明文から、当時は「弘通所」といい、東洞院綾小路にあったらしい。破却後、四条高倉で再建、再破却の後、三条万里小路で復興、法華法難によって堺へ避難、一条戻橋近辺で再興、秀吉による寺地移転で現在地へ、という経緯を辿っている。
上の写真は、仁王門を入って振り返って撮影したもの。気持ちのいい風が吹く日、満開の桜の花びらが風に乗って降ってきた。
本堂前の桜も満開。
多宝塔の姿は美しい。
唐門の奥は書院と収蔵庫で、右手前にあるのは開山堂。撮影場所は、本堂前である。
本堂の左手前に「光悦翁手植之松」と「畫聖等伯像」がある。この銅像は、等伯が七尾から京へのぼる様子をうつしたものらしい。
本堂を西南から撮影したもの。本堂西を通ると方丈の拝観入り口がある。
中央に見えるのは光悦垣。下の写真は、垣の間から撮影したもの。立派な建物である。
受付を済ませ、建物内に入って屏風絵やお庭を拝観。お庭は撮影できる。
唐門の前に広がるのは、「十(つなし)の庭」。9個の石と、見る人の心にある石を併せ「十の庭」である。妙蓮寺の「16羅漢の庭」と同じ考え方。なお。「十」を「つなし」と読ませるのは、「ひとつ、ふたつ……ここのつ」と数えるのに、「十=とお」であって「つ」がつかない、という意味らしい。ここは、巴の庭の修復時(1972年)に作庭されたとのこと。50年を超えるだけあって、松も苔も時の蓄積を感じさせる。
宝物館からさらに奥に進むと、光悦垣があり、その向こうに「巴の庭」が広がる。
上の写真左に小さく見えている花手水。
洋花は少し不つり合いか。「巴の築山」が三つあるから「巴の庭」と名づけられたそうだが、その形はよく分からない。蓮池の形は面白い。
巴の庭のすぐ手前に「光悦の蹲踞」がある。もともとは巴の庭の一角を占めていたが、渡廊下の新設などで庭が縮小されたか?それともつくばいと燈籠を移動させたのか?
書院に隣接して宝物館があり、通常ならレプリカ展示の等伯筆「佛涅槃図」が、この期間特別に展示されている。これが見たかった。
10m×6mもの大作。釈迦入滅を悲しむ天上の神仏、僧侶や在家の人々、動物たちが、月夜の沙羅双樹のもとに描かれている。象が描かれた部分に見覚えがある。馬の顔つきや、猿の毛並みがすばらしい。描表装(表装部分はお弟子さんの筆)の美しい作品である。ここでは、詳しく解説してくださる方もいて、どう見ればいいか、よくわかる。等伯自身が描きこまれていると言われること、早逝した息子の供養のために描いて本法寺に奉献したこと、「自雪舟五世長谷川藤原等伯」とサインされていること。「藤原」の意味はよくわからないのだが。2階からは上部を見ることができ、満足度が高かった。
また、その2階には等伯の「波龍図」屏風もあり、これがとても良い。水墨画の龍は力強い筆致で、まさに今、海に下りて波立った一瞬を切り取ったかのようだ。想像上の生き物なのに、この生き生きとした絵。等伯のサインは入っていないから真筆かどうか議論はあるだろうが、誰の絵でも、いいものはいい。
また、開山堂では尾之屋宝永堂の切絵展が開催されていた。本法寺所蔵の国宝や伽藍を題材とした切絵も多く、かっこいい。外国人に特に受けがよさそうだ。
方丈の北側にもごく小さい門がある。小川通に面した東の仁王門と、この北門には、寺宝展の看板が置かれていた。
堀川通沿いの西の門には、南行きの車から見えるように車道近くに大きな看板が出ていた。門の近くに上と同じ看板があれば、通りかかった歩行者にもわかりやすいのに、と思う。
最後に、寺紋について。五七桐と五三桐の両方が見られた。正式には五七桐らしいが、格が高すぎて遠慮して五三桐を使うようになった、という話もある。法衣には五七桐があしらわれている、とのこと。